〜鳴神の太刀〜 ゴブリンスレイヤー フロムイミテイシヨン 作:Jack O'Clock
1-1:雷光/Arrival
からころ、ころから、からころりん。
そうです。
今日も今日とて神々は卓を囲い、
やれ、出目がいいとか悪いとか。一、足りたとか足りないとか。一喜一憂、阿鼻叫喚。阿鼻や叫喚とはいったいなんのことでしょう。どこかの神様が拵えた
なんといったって、神様ですからね。ちょこっと世界を創ったり広げたりするなんて、あっという間に……とは、いきませんが。何週間か何ヶ月か、それとも何年か。それくらいの時間があれば、できてしまいます。
始まりは
そんなふうにあちらこちらの神様が、あちらこちらをいじくっているものですから、すべてを把握するなんてとても、とても。創った本人たちでさえ、ひょっとしたら色々と忘れていたりして。だからこそ、常に新鮮な喜びがあるのかもしれませんが。
……おや。また何か、新しいことが始まるようですよ。
《幻想》の神様が、分厚い本を抱えてやってきました。どこからともつかない月の光にずっと照らされている、不思議な本です。何事かと、ほかの神々の注目が集まります。ひとしきり顔ぶれを眺めてから、《幻想》は喜色満面、叫びました。
サプリメントを持ってきたよ!
おおっ、と歓声が上がります。だって
見せて見せてと《真実》が。早く早くと《時》が。後ろのほうで静かに微笑んでいるのは、はて。あちらの
何はともあれ。《幻想》だってもちろん中身が気になって仕方がありませんから、勿体つけるのもそこそこに、表紙を開きました。
やがて、神々は新たな冒険譚を綴り始めるでしょう。私たちのよく知っている(知っていますよね?)ものとは、どこかがちょっぴり違う世界の物語。《
土と草。まず、それだった。
次いで男は、自身がうつ伏せに倒れていることを知った。軋む体をなんとか起こし、呻きながら立ち上がる。傍らに散らばる炭化した木片を、素足が蹴った。
「ここ、は」
先の呻きと区別のつかないようなひび割れた音が、渇いた喉から吐き出された。虚ろな瞳を巡らせれば、斜陽に染まるどこかの森の中だった。どこか。少なくとも、元いた土地ではない。樹木の色形が、風の運ぶ匂いが、遠く聞こえる
「……俺は」
生きている。身の丈
「生きている、のか。何、ゆえに」
何より大切な
「生き存えて、しまった」
彼は苦心して立たせた体から力を放り出し、両の膝を突いた。
多くの兵が死んだ。彼の言葉に従って。多くの将が死んだ。彼のことを信頼して。積み上がる屍を前に、尋常の術では勝てぬと悟った。それゆえに狂った薬師の口車に乗り、禁忌にすら手を染めた。変若水の調べ、不死の験し。多くの民が死んだ。彼の顔さえ知らぬままに。多くの民が死んだ。死に切れぬままに、心だけが。なのに、男は生きている。
"有死之榮、無生之辱"
すなわち、誉高き死はあれど、恥に塗れて生きることなし。そんな文言の書かれた
腰の後ろに手をやれば、そこには命を預ける業物が一振り。躊躇なく鞘を払い、刃長
義に背き誠に悖り、仁を捨て礼を欠き、忠義を捧ぐべき祖国すら失った。武士の名誉は九分九厘損なわれ、最後の一片、勇あるのみ。かくなる上は、腹を切って果てるほかに道はなし。辞世の句もなく介錯も望めないが、そんな贅沢な考えがちらとでもよぎったことさえ、彼は恥じた。
刀身を掴む。死闘を経てなお鋭さを失わぬ刃が、主人の指に噛みつき血を啜った。ゆっくりと、持ち上げていく。
「さらば」
誰に対してか。何に対してか。口を衝いた別れの言葉は、彼自身にさえその意図を理解できぬうちに、森のざわめきに吸い込まれていった。
「い、や、誰、誰か、助けて、助け、助けて!」
ざわめきと呼ぶには、その声はいささか明瞭にすぎた。女の声だ。若い、あるいは幼いと言ってもいい。男は黄泉路の旅支度をする手を止めた。再び立ち上がり、今度は刀の柄をしっかりと握る。いくつかの足音と叫び声が、急速に近づきつつあった。
「はっ、はっ、あ、ああっ!」
息も絶え絶え、涙でろくに前も見えていない少女が、足を縺れさせそうになりながら走り込んできた。年の頃は十三、四か。痩せた体を必死に動かし、黒髪を振り乱して、
「GROBROB!」
「BROGOG!」
「GOBOR!」
それはおおむね人型をしていた。それは少女よりも背格好が小さかった。それはくすんだ緑の肌をしていた。それは言葉とも鳴き声ともつかぬ音を汚らしい唾液と共に撒き散らしていた。それは粗雑な棍棒や石斧で武装していた。
それは、怪物だった。
「餓鬼……?」
いつか目にした絵巻物を想起し、やはり己はすでに地獄に落ちていたのかと男は戸惑う。いや正しくは餓鬼は地獄の住人ではなかったような、とも。
なんであれ。彼に戸惑いあれど、迷いはなく。体は自然と動いていた。
「ひうっ!?」
刃物を持った半裸の大男が眼前にいたらどうするか。悲鳴を上げて回れ右が模範解答だとしても、怪物たちが背後に迫る少女にはそれすら困難で、踵を返す代わりに立ち竦んだ。恐怖のあまりギュッと目をつぶった彼女のそばを、男は駆け抜けていく。
「GROOBG!」
では怪物どもはどうするか。驚きはしたが、邪魔が入ったことへの憤りが勝る。武器を構え、返り討ちだと跳びかかった。
まったくもって、愚かだった。
「ふっ!」
片手打ちにて首を一閃、返す刃で後続にも同じ死に様を与えた。打突の勢いは凄まじく、払うまでもなく血糊が刀身から散っていく。筋力技量、間合いにほか諸々。数以外のすべてにおいて、男が圧倒的に上だった。
「GRRRO!?」
頼りの数すらも失って、遅れていた最後の一体はようやくやるべきことに気がついた。回れ右だ。その判断もまた遅れているが。男は納刀すると背負っていた大弓に左手を伸ばし、右手は腰に差した
「存外にたやすい。おい、娘」
「あっ……ぃ」
恐る恐る、といった様子で少女は振り返った。横たわる骸には、さほど大きな反応は示さない。いまだ滲む視界の中で、下緒を手繰り弓を背に戻した男の姿は、翼を生やしたようにも見えた。
「大事ないか」
「平気……です。ありがと、ございました」
「よし。して、こやつらはなんだ」
無残に転がる怪物たちを見下ろし、男は顎に手を置こうとした。指先の感触で、髭を剃る暇もなかったことを思い出し、わずかに顔をしかめる。
「
「
耳馴染みのない語感に首を傾げる。彼はそこで、眦を拭った少女の容貌に南蛮人の特徴を認めた。己はいかなるわけか異国に流れ着いたのか、ならばゴブリンとは異国の物怪どもか。などと考えを巡らせたものの、事ここに至ってはすべて詮なきことと結論づけ、目線を外した。
「まあ、よい。ではさらばだ、娘」
今度こそ、別れを告げて歩きだす。為すべきことなきゆえに、為さねばならぬことがあるのだ。
「あ、ま、待って、待ってください!」
驚いた。言葉を発した本人が、だ。このままいかせてはならないと、なぜかそう思い、口を開いていた。彼女がいずれかの神に仕える者ではない以上、天より
男は背を向けたまま、だが足は止めた。
「その、えっと、えっと……」
声をかけたはいいが、当然そのあとに窮する。彼女の決して豊富とは言えない人生経験の中に、こんな状況に即した教訓が、都合よく書き記されているものだろうか。
「こ、これ、どうぞ」
何が正答なのかは不明なまま、それでも行動することを選んだ。ポケットに入っていた小さな布の包みを開き、不恰好な焼き菓子を差し出したのだ。
男は逡巡した。
「いらない、ですか」
「いや、貰おう」
今にもまた泣きだしそうな表情をしていなければ、断ることもできたかもしれないが。彼はいくつか重ねられたそれを一つ摘み、口に運んだ。
「んぐ、げほっ!」
「ああっ、ごめんなさいごめんなさい、まずかったですか!?」
やはり泣きだしそうになる少女を手で制しながら、男はなんとか菓子を飲み下した。
「喉が、ひどく渇いていた、ゆえ。咽せてしまっただけだ。案ずるな、うまい」
味は薄く、辺りに漂うゴブリンの血の臭いが煩わしかったが、それでも世辞ではなかった。彼には、まともな食べ物などひどく久々なように思われたのだ。
「それならお酒、だよね。村に帰れば……あっ」
何事か呟いていた少女だったが、ハッとして周囲を見回すと、この世の終わりのような面持ちになった。
「どうした」
「帰り道、わかんない……」
森の奥に入ってはならない。そう父親から言いつけられていたし、ずっとそれに従ってきた。ただどうしてか今日はいつもより好奇心の強い日だった。彼女は、冒険がしてみたくなったのだ。その結果がこれだ。またまた泣きそうになるのも無理からぬこと。
「方角は」
鼻をすすりながら、少女はかぶりを振った。
「どうしたものか」
放っておく気にはなれなかった。もっとも彼自身、先頃この地で目覚めたばかり。早くも手詰まりの感に苛まれ、天を仰ぐ。すると、木々の狭間から一筋の煙が見えた。
「む」
根元に少女の住む村があるとして、黒々としたそれを煮炊きの煙と見紛うほど、彼は呑気ではなかった。火の手が上がっているのだ。
「……ゴブリン……!」
「何? ゴブリンがどうした」
少女も黒煙に目を留めたが、見る間に青ざめていく彼女の想像は、男のものとはいささか異なっていた。
「聞いたんです。ゴブリンはすごく弱い、から。たくさん集まって、それで、悪い事するって」
「このような
「わっ!?」
この場に置いてもいけぬと、男は少女を小脇に抱えて走りだした。人攫いめいた様相だが、顔が進行方向を向くようにするくらいには気を遣っている。少女は反射的に身をよじったが、すぐにおとなしくなった。落とさないように焼き菓子を胸元に掻き寄せる様は、何かに祈っているようでもあった。
日はいよいよ陰り、宵闇が彼らを追い立てる。やがて人の時間は終わりを告げ、怪物たちの夜がやってくるのだ。
さすがに帰りが遅すぎる。突然の雷鳴をきっかけに、不安が彼の内から溢れ出していた。
手入れだけは欠かしていない古びた長剣と盾、それに鎖帷子の重さが、戦場を離れて久しい肉体にのしかかる。
自分などよりよほど賢いし、聞き分けのいい子だからと油断していた。子供のことはよくわからないと、放任主義を気取って諦めていたツケが回ってきたのか。いつもどおり少し進んだ辺りで遊んでくるだけだろうと、森に入る彼女を見送ったことを、彼は後悔していた。
だから、こうして迎えにいくのだ。完全装備とは大袈裟な、と笑われるだけなら、それに越したことはないのだから。彼は娘の笑顔を思い浮かべようとして、うまくいかなかった。笑いかけられたことがあったかどうかさえ、判然としない。
竈の残り火を移した
「なんだ!?」
答えは自らやってきた。欲望と悪意をともがらにして。
「BRBOG!」
「畜生が、ゴブリンかよ!」
ここが村外れだからか、二体だけだ。戦士はまず短剣持ちの肩口を袈裟懸けに裂き、武器を取り落とした隙に腹を薙いだ。はらわたも落とし、間もなく命も落とすだろう。続く棍棒の振り下ろしは盾で
ゴブリンは弱い。腕力も知恵も悪童のそれと大差ない。最弱の怪物という評価もむべなるかな。とはいえ武装した悪童が三、四人もいれば、大人一人殺すぐらいのことはできる。それがもし三十や四十ならどうなるか。答えは火を見るより明らかであり、あまつさえ現実に火は見えていた。
「クソッ、どうすりゃいい」
ここですぐさま森に走ったとしよう。辺境の開拓村にしてはそれなりの規模ではあるが、住民の自衛力などたかが知れている。
「おい、かかってきやがれゴブリン! 後悔させてやるぜ!」
妻子を庇う農夫に四又の鋤を向けていたゴブリンは、
「ああ、あんた……」
「そいつを拾え。死にたくなけりゃあ、戦うしかねぇんだ」
「わ、わかった……ありがとよ。よしやるぞ、ゴブリンなんて怖くない、怖くない!」
腰が引けていた。仕事道具を握り締める手が震えているのは、力んでいるせいばかりではないだろう。戦士からすれば、それで十分だった。
襲撃が始まったばかりの今なら、村人たちと協力すれば勝ち目があるかもしれない。村の安全を確保したのち、娘の捜索を手伝ってもらえばいい。打算といえば、打算なのだろうが。英雄気取りの向こう見ずよりは、よほど賢明な判断だった。
「怪物狩りは専門外なのだが、な!」
巨漢の猟師の薪割り斧が、軽い頭蓋を真っ二つにした。見事な一撃だったが、食い込んだ斧頭を抜くのに手間取ってしまう。その様を嘲笑いながら襲いかかる別の個体を、戦士の盾が跳ね飛ばした。
「今だ、やれ!」
「う、うおわあぁぁ!」
乾坤一擲の突撃を敢行した農夫は盛大に転倒したが、繰り出された鋤の先端はゴブリンの顔面を捉えていた。賽の目は彼に味方したのだ。
「やった、俺はやった!」
「いいぞ、その調子だ。おい、あんたもまだいけるよな」
「ああ。ゴブリンだらけだ、休んでいられん」
ゴブリンは殺せる。
「武器を持て! やつらを殺せ! 家族を守れ! 村を守れ!」
「おおぉぉぉッ!」
剣を掲げ、鬨の声高らかに。続々と戦列に加わる村人たちの先頭に立つ戦士の姿は、詩に歌われる英雄のごとく。柄にもない、と当人としては不本意だったが、やむなしと割り切った。
そして彼は、英雄とてたった一本の無粋な横矢で死ぬことも知っている。
「うっ!? 弓兵だ、気をつけろ!」
肩を揺らす衝撃と鈍い痛みに声を漏らすも、
「間に合わねぇか……!」
と言っても、やはり射程は強みだ。接近を試みる戦士は二の矢の阻止は不可能と見るや、盾を引き上げた。
「BRGRGRG!」
真っ直ぐ向かってくる相手などいい的だと、弦を引こうとした射手の側頭を石ころが打った。怯み、喚き、投石の主を探そうとしたところで鳩尾を長剣が抉る。そこから顎まで斬り開かれ、無粋の代償を払い終えた。
「助かった。やるな、坊主」
「お、俺は長男だからな、家を守るんだ。ゴブリンくらい、どってことないさ!」
小さな体を精一杯大きく見せるように胸を張る少年。彼が察知したときにはもう、その身は影に入っていた。
「退がれッ!」
容赦なく振り下ろされた
「なんなんだよ、こいつは」
ゴブリンに
「厄介な野郎だぜ」
拮抗を破り、仕切り直す。防御などしていてはいずれ保たなくなると判断し、戦士は痺れの残る左手を盾から離した。両手で保持した剣を顔の右側に引き寄せ、相手に突きつけるようにして構える。
「HUURG!」
技も何もない力任せの兜割り。それは実際に兜を割ってみせるだろうし、人の頭も砕くだろう。守りを捨てた戦士は即座に
「う、おおッ!」
否、あえて踏み込む。逆袈裟斬りでもって、棍棒の軌道をこじ開けた。さらに肉薄し、心の臓を突き上げる。宙に浮いた巨体を地面に叩きつけ、完全にとどめを刺した。
「はっ、はぁ、どうだ。ナメるなよ、ゴブリンめ」
剣を杖に数秒、息を整える。そのはずが、彼は息を呑んだ。
「HUGBBR」
「HRRUG」
ホブゴブリンがもう二体、加えて通常のゴブリンもいまだ数多く。戦士たちは半包囲されつつあった。
「……ハハハハハ」
追い込まれると笑うしかなくなるという話は本当だったと、彼は学んだ。決意、覚悟、奮戦。誰も彼もが人事を尽くしてもなお、悲劇を覆すことは能わず。
だが、
「HGU!?」
ホブゴブリンが死んだ。胸から刃を生やし、打ち倒されて即死した。先ほど戦士が仕留めた個体と似た最期ではあるが、込められた威力の桁が違う。大地が爆ぜ、土煙が立ち込めるほどだ。その中心にいる何者かへと、もう一体が鶴嘴を振り抜いた。武器が柄だけになるのを目の当たりにしたホブゴブリンは、それが一瞬あとの己の似姿だと、ついぞ思い至ることはなかった。
「お父、さん、お父さん!」
その場に集う者たち、ゴブリンも含めた全員が唖然とするなか。戦士のもとに走り寄る黒髪の少女は誰あろう、彼の娘だった。
「お前……! よかった、無事だったか!」
「うん。助けてもらった、から。あの人に」
吟遊詩人曰く。その手に細く流麗なる湾刀あり。盗賊山賊撫で斬りに。巨人に魔神、何するものぞ。卓越した剣士、なれど騎士にあらず。ときに神秘の術放ち、されど魔術師にはあらず。かの
「侍、さん」
男は、侍は。こうして
「よい娘だ、守ってやれ」
肩越しに一言だけ。すぐに向き直り、敵陣を睥睨する。両足を前後に開き、刀を脇に引き、切先は正面に。左手は、峰の上に漂わせておく。奇矯な構えだった。
「ああ……ああ! おいどこかに、ん、いや。俺のそばを、離れるなよ」
「うん、わかった」
娘を背に隠し、戦士は立つ。彼だけではない。ほかの村人たちもまた、ゴブリンなどに負けるものかと戦意を取り戻しつつあった。風向きが変わったのだ。
「貴様らを見ていると、
前へ。
「一匹たりとも、生かしてはおけぬ」
疾駆する。衝突する両軍、先陣はもちろん侍だ。迎え討つゴブリンは一太刀で二つ首を刎ね、頭を断って三つ、胴体を輪切りにして四つ、刺し通して五つ。
「GRGRRB!」
「ふん」
飛来する弓矢を三本、羽虫のように打ち払い、足首を刈らんとする手鎌を跳び越えた。自らの身長ほどの高さに達した侍の姿は、ゴブリンの低い視点では追いきれない。地に縫い留められ絶命するまでのわずかな猶予は、疑問をいだくことに費やされた。
刀身が埋まったのを好機と躍りかかった隻眼の一体を、燃え盛る家屋に蹴り込み、侍は弓に矢を番える。鳴弦は三つ、断末魔の絶叫はなく、代わりに骨肉の砕ける音が三度あった。
大太刀が、大弓が。長剣が、鋤が、斧が。ゴブリンを殺す、ゴブリンを殺す、ゴブリンを殺す! 襲撃者たちは獲物に堕ち、となれば当然、逃げ惑う者もいる。その頭上。
「GRBG! GRR? BG——!」
何かが降ってきた。いや
へたな民家など見下ろせるほどの肥え太った巨躯に短い脚、対照的に長い腕。牙の蠢く頭部には黄色い三つ眼が不気味に光り、また羊角が弧を描いている。丸めた背中には、およそ飛行には適さないと思える小さな蝙蝠羽があった。それはまさしく悪魔、
「DEEEEAAM!」
その手足だけでも人のごときには恐るべき凶器となろうに、一対の大斧で武装してさえいた。こんな手合いに、誰が挑みかかれるというのか。
「あれが
無論、侍だ。刀を鞘に戻し、弓を大きく引く。限界まで力を蓄え放たれた矢は角に亀裂を生じ、相手を大きく仰け反らせた。眼に当てるつもりだったが、防御されたのだ。これは生半にはいかぬと、侍は警戒を強めた。
「DAEAAA!」
激昂と共に羽ばたいたデーモンは物理法則を無視した挙動で浮揚し、やはり物理法則を無視した急加速でもって突進する。剛力、などという次元ではない猛打に、侍は刃を合わせた。続けて右、左と絶え間なく繰り出される攻撃を巧みに捌き、合間に手指を斬り刻んでいく。デーモンの生命力たるや真っ当な生物の比ではなく、少々の傷はすぐに塞がるはずが、再生が追いついていない。切創が深すぎるのだ。ジリ貧を嫌ったか、半歩退がったデーモンは体を捻り、竜巻じみた回転連撃で擦り潰しにかかった。
「膂力に頼るか、莫迦め」
その膂力こそが最大の暴威であると証明すべく、次々に大斧が叩き込まれる。侍はこれをことごとく弾き、一歩も引かない。対するデーモンは徐々に太刀筋が乱れ始めていたが、ここで止まれるわけもなく。主導権がどちらにあるかは明白だった。
「はぁッ!」
押し返されたのはデーモンの方だ。たまらず飛びすさり、高く上昇する。先ほど以上の速度でもって、轢殺する魂胆だ。
「甘い」
広げた両翼を矢が穿つ。風を打ち揚力を得るためのものでなくとも、何かしら飛行するための機能を担う部位には違いない。散々喧嘩を売った物理法則の見えざる手に捕らえられ、デーモンは錐揉みしながら高度を落としていく。そんな死に体でも剣戟に応じようとしているのだからたいしたものだが、この侍を前にしては悪足掻きにすらならない。
「NNAANEEEOO!?」
墜落寸前、両者が交差すると、巨大な左手が宙を舞った。傷口から噴き出すおびただしい鮮血の中で、デーモンは溺れるようにのたうち回る。ややあって、体勢を立て直した彼の前には、侍が息一つ乱さずに佇んでいた。
「その血の量で動くか。さて、幾たび斬れば死ぬものか」
「MDEEAAA!」
苦戦している。気圧されている。たった一人の侍に。その事実から逃れるように、デーモンは吶喊した。捨て鉢同然の無策な攻勢だ。この一騎討ち、もはや勝負は見えた。本当に、一騎討ちであれば。
「何……!?」
侍の左腋の下辺りに、矢が浅く突き立った。粗製の品だ。鎖帷子でも装備していれば防げた程度の。それでも生身の肌には確かな痛痒があり、思わず矢道を辿った視線は、ゴブリンの隻眼とぶつかった。気が逸れたのだ。
「ぐうっ!」
刀を盾にできたのは、幸運ではなく技量ゆえ。吹き飛び、家屋を貫通し、地面を跳ね、侍はそこでようやく止まった。総身が痛む。息が苦しい。ということは、生きている。
「まだ、だ」
侍と呼ばれたのだ。戦に敗れ、侍う先を失った牢人にすぎない彼が。あの少女は、言葉の意味を正しく理解してなどいない。それでも侍と、そう呼ばれたのだ。
一宿なくとも一飯の恩義あり。義を語る資格なき身であっても、侍とは御恩に報いる者なれば、このまま死ぬわけにはいかぬ。為すべきことが、あるのだ。
動けるか。少なくとも四肢は揃っている。立てる。
得物はあるか。刀はどこかへ消えている。弓はある。支障なし。
矢はあるか。靫をまさぐる手は空を泳いだ。致し方なしと、自身に刺さったままだった矢をむんずと掴み、眉一つ動かさずに引き抜く。矢はある。戦える。
では勝算はあるか。侍はそれを夜空に求めた。赤と緑の
「巴の、雷」
空ではなくただ一人を見据え、デーモンが歩み迫りくる。憤怒して、歓喜して、怨敵に引導を渡さんと斧を振り被る。全力を込めた薙ぎ払い、侍はこれを跳躍にて躱した。
「見せてやろう!」
宙空で弓引けば、渦雲よりこぼれ落ちた黄金の輝きが矢に宿る。解き放たれたそれはまさに一条の雷光となって、轟音伴い飛翔した。
「DAEEENN!?」
肉が爛れる皮が裂ける心臓が鷲掴まれる。痙攣するデーモンの右手から斧が滑り落ち、一歩、二歩と後ずさる。そこで、踏みとどまった。渾身の一射は、手首から先のない左腕に阻まれたのだ。まともな矢であれば、狙い違わず喉笛まで貫けたかもしれない。あるいは、侍が万全の状態であれば。
「うぐ、あ」
体にうまく力が入らず、呼吸は浅く速い。あの矢には、毒が塗られていたのだ。同じ矢を受けたデーモンはどうかといえば、瀕死ながらも持ち直し始めている。効かないのか量が不足なのか、いずれにせよ影響は皆無だった。
骰子の目が一足りた、足りない。そうして生まれるわずかな差が、勝敗を、生死を分ける。要するに、運がよかったのだ。
つまり——繰り返しとなるが。時間は稼げた。
「こっち、見なさい!」
言われて振り向いた三つ眼、うち二つが射抜かれた。笹葉のような長耳の麗人が、外套と翡翠の髪をなびかせて家から家へ跳び渡り、空中から矢を放ったのだ。文字どおり目を奪われたデーモンは、低く馳せる小さな者に気づかない。
「《仕事だ仕事だ、
短躯ながらも恰幅のよい、白髭の老爺と思しき男が詠う。振り撒いた砂は無数の礫に変じ、標的を滅多打った。
「MOAAND!」
逆上とは言うが、頭に上る血ももう乏しいのか、デーモンはいくらか冷静になっていた。射手と術師は邪魔くさいが、それよりもまず目の前の侍を。武器を拾う手間さえ惜しいと、徒手のまま殴りかかる。次の瞬間、彼は己の指が折れる音を聞いた。
「《いと慈悲深き地母神よ、か弱き我らを、どうか大地の御力でお守りください》」
侍の後方、金髪の少女が錫杖を瀟と鳴らす。その真摯な祈祷に応えた神が霊験を賜い、聖なる光の壁が彼らを守ったのだ。敵対者には不可視となるこの守護に拳を打ちつけたデーモンは、骨が肘を突き破る憂き目に遭っていた。激痛と反動に耐えきれず、跪く。
「迂闊なり! 往生せよ!」
緑の鱗持つ二足の蜥蜴がこの機を逃すまいと、何かの牙を研ぎ磨いたものらしい曲剣を振るった。立ち上がろうと体重を預けた足の腱を切断され、デーモンは膝立ちの格好となる。
「DEANAMMMDOO!」
暴れ狂い追撃を拒むも、体幹が崩れ、あえなく倒れ込む。片腕でかろうじて体を支え、デーモンは見た。人一人の目方など軽く上回るであろう、超重量の大斧を肩に担いだ、侍を。
「う、お、おおッ、オオォォォ!」
叩いて、潰す。幾人もの血肉を貪ってきた斧は、主の脳髄を最後の晩餐として、その役目を終えたのだ。
「貴様とて、一たびは横矢に救われたのだ」
侍もさすがに力尽き、ばったりと地に伏せた。意識は朦朧としていたが、死の気配は感じていなかった。
「卑怯、とは……言うまいな」
彼は、ここに、生きている。
そのゴブリンもまた、まだ生きて、走っていた。隻眼で後ろを見やれば、村はもう遠い。
やってやった。あの男、今頃はデカブツに叩き潰されてるぞ。火の中に蹴り飛ばすなんて酷いことをしたのだから、殺されて当然だ。襲撃には失敗したが、自分は健在だし、最高だ。ねぐらに帰り、傷を癒し、群れを率いてまた襲えばいい。そうだ、今度は自分が長になるのだ。死んだ間抜けどもと違って、賢く立ち回って生き延びた自分ならきっとうまくやれる。あんなでかいだけのやつよりも、ずっとうまく。
など、と。ゴブリンの思考など皆このようなものだ。自分が中心で、自分のおかげで、他人のせい。残虐で悪知恵ばかり働き、欲望に忠実で、そのくせ危なくなればすぐに保身に流れる。
ゆえにこれは、当然の帰結と言えよう。
「逃げられるとでも思ったか」
男がいた。周りに散乱しているのは、ゴブリンの死骸だ。彼は安っぽい鉄兜を被っていた。ゴブリンの奇襲に備えるためだ。要所に金属をあしらった革鎧は血が跳ね、そうでない箇所ももれなく薄汚れている。ゴブリンに金臭さを気取られないようにするためだ。物の具の隙間から覗くのは目の細かい鎖帷子。ゴブリンの毒矢や毒短剣から身を守るためのものだ。左腕には持ち手のない小型の円盾を括りつけてある。ゴブリンの巣の中で松明を握るためだ。右手には折れて半分ほどの長さになった直剣。ゴブリンから奪ったものだ。
ゴブリンの考えを読める者がゴブリンと戦うための装備でゴブリンの武器を携えゴブリンの返り血を浴びゴブリンと対峙している。これから何が起こるかなど、それこそゴブリンの頭脳でも予想はつく。
「ゴブリンどもは、皆殺しだ」
◆雷角◆
異郷の侍が佩く大太刀。かの地の刀匠の手になる業物。磁鉄で鍛えられた刀身は硬さと粘り強さを併せ持ち、折れず曲がらず、また鋭い。
彼は元服以来、ずっとこの刀と共にあった。いつか師の高みへ上り詰めんと、ただひたすらに修練に明け暮れた。大切な、思い出だ。
刻まれた銘は、"雷角"。
その切先、神なる竜の角のごとくあれ。