〜鳴神の太刀〜 ゴブリンスレイヤー フロムイミテイシヨン 作:Jack O'Clock
「ごめんなさい!」
「皆さんに確認も取らずに、差し出がましいことを」
自信と威勢は食堂に置いてきた。今の彼女は、お節介を焼いたはいいがやっぱり余計なお世話だったのではないかと時間が経つにつれてなんだか不安になってきた、一人の娘にすぎない。
「いや。助かった」
「お力添えなくば、あの梟人の御仁を頷かせるまでにどれほど時を要していたことか。立て板に水の商売口上、お見事にございまする」
「利に聡く、機を見るに敏。商人になったっつうのは聞いとったが、お前さんもういっぱしのもんだの」
「そんな、私はまだ——きゃっ!?」
照れ臭さのあまり目を逸らしたところへ、側背に忍び寄った妖精弓手が跳びついた。顔を向ければ間近に迫るまばゆい容色。吐息にくすぐられた頬が火勢を増すのは不可抗力だ。
「でもさ、どうせなら私のこともちゃんと紹介してほしかったなー、なんて。銀等級はオルクボルグだけじゃないんだから」
「いえそれは、そういう方向に持っていってしまうと都合が悪くて、ですね」
「じゃあ全員認識票を見せろ、って言われたら困っちゃいますもんね」
ノリの軽さに気づく余裕もない女商人の真面目な弁解を、女神官は苦笑しつつ補足した。一党には鋼鉄と白磁もいるのだ。下位の冒険者では心証をよくする手伝いは難しい。
「あ、そっか。ごめんごめん。……それよりも」
等級の差も疑問そのものも、彼女にとっては些細なことだったのだろう。すぐに切り替え立ち位置もくるりと入れ替え女商人の正面に移り、妖精弓手は人懐っこい笑みを浮かべた。
「久しぶり、でいいのよね。元気してた?」
「はい、お久しぶりです。おかげさまで、頑張れています」
約半年だ。駆けだしの冒険者であった女商人が雪山に巣喰うゴブリンどもに挑み、敗れ。仲間を、尊厳を、家宝を失い。ゴブリンスレイヤーたちの手を取って立ち上がり、報復といくばくかの奪還を果たしてから、半年足らず。年の近いほうと離れているほう、友となった二人の同性とは文通にて近況を伝え合っていたが、こうして再会するのは初めてのことだ。
「よかったです。お手紙はいただいてましたけれど、やっぱり直接お会いできると安心ですね」
「そう……ですね。本当に、そう思います」
会えぬ者を思えばこそ、会えることの得がたさが身に沁みる。彼女の眦に光る雫に、友人たちは気づかぬふりをした。
「でも、どうしてここに? 最近は水の街と都をいったりきたり、だって書いてありましたけれど」
「ご挨拶、ですよ。この街の商会とは、私が商いを始めてすぐに声をかけていただいてからのおつき合いでして」
目元をさっと拭い、女商人は答えた。商人と言っても、家柄はあっても個人的な実績は何もない若輩だ。冒険者への援助に重点を置くことを標榜しているのが商会の代表たる鯱の琴線に触れたのだとは、彼女には知る由もないが、なんにせよ大店からの商談はありがたい話だった。
「あれこれ立て込んでいてまだこちらからお伺いしたことがありませんでしたので、ひと月ほど前から
卸しの遅れから街で何かが起きていることは察していたものの、何が、まではわからず。さらに先方から迎えを寄越すとの申し出を受けている以上は、おいそれと
「そらツイとらんかったのう。しかも一枚噛んじまったからにゃ、帰るに帰れんだろ」
「となると、無事家路につけるか否かは拙僧らの働き如何に懸かっておる、と。これは責任重大ですな」
「やることは変わらん。探して、踏み込む」
「しかして斬る。常どおりよな」
困った事態ではある。しかしどうだろう、頼れる知己がいるならば。……知己?
「……あの、それで。そちらのお侍さんは新しいお仲間、なのですよね」
そろそろ気になってきたので、女商人はこの場で唯一初対面の男と向き合った。詩の中でしか知らない存在、侍。先日受け取った手紙からは、やはり詩の主役めいた剛毅にして真率な人物であるらしいと読み取れたが、いざ目の前にしてみると威圧感のある風貌のせいもあって意識が張り詰めてしまう。
「ああ、そうだ。よしなに頼む」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
折目正しい武士の一礼に、負けず劣らずの丁寧な一礼で返す。
友人の友人もまた友人たりうるとは限らないが、彼とはよい関係が築けるかもしれない。そう結論づけた女商人は貴種の性か職業病か、つい品定めしてしまう自身の癖を恥じつつも、相好を緩めた。
「失礼します、冒険者の皆様」
すると、一段落つくのを待っていたかのようなタイミングで扉を叩く音が四つ、控えめに響いた。巻きまとめられた羊皮紙を両手で持ち、博士を伴って歩み入る小公女の様は、やはり礼法に則ったものだった。
「街の地図をご用意いたしました。どうぞ、お役立てください」
「なんと、公女殿下御自らとは。かたじけない」
「いえ、お坊様。公爵家の者として、街のために働いてくださる皆様を支援するのは当然のことです。お気になさらず」
亡き公爵夫妻の一粒種、当主跡取りとしてふさわしい教育を受けている才媛なのだ。幼くとも、彼女の立ち居振る舞いは堂々としつつも奥ゆかしく、貴人の手本とするに差し支えない。
「ご期待に添えるよう、励むことだ。我々に恥をかかせるな」
対照的に、博士は変わらず呑んでかかる。主からのたしなめの目配せにも動じない面の皮は、巌のごときいかめしさを崩さぬままだった。
「現在、船舶の入出港規制と海上封鎖の準備を進めている。古老の脱出を防ぐためだが、あまり長くは持たせられん」
そしてここにはいない鯱は、足止めを喰らう羽目になった外国商船との折衝に奔走している。商売の心配をしている場合なのか。場合なのだ。街の安全は守られたが経済は守れなかった、では意味がない。
「もっとも、あの男がわざわざ
つまるところ。事の行末は、冒険者たちに委ねられたのだ。
「わかった。早速取りかかろう」
ではまず何から取りかかるのかといえば、情報収集をおいてほかにあるまい。
街の地形を確認した一行は、三組に分かれて行動を開始した。海賊による襲撃への懸念はあるものの、固まっていては効率が悪い。むしろ向こうからやってくるならこの上ない手がかりになる、と考えられるだけの度胸が彼らにはあった。
「この樽はどちらに置けばよろしいですかな」
「こっちだこっち。いやぁ、さすが蜥蜴人は力強ぇな」
港の東側。港湾機能の一時停止に伴い仕事も停止、とはいかない船乗りたちを手伝い、蜥蜴僧侶は荷運びに精を出していた。
他種族、とりわけ只人から見ると蜥蜴人の容姿は恐ろしげに映るものであり、大抵は警戒される。怪物めいていると言われても竜を目指す身には褒め言葉、実際に混沌の勢力に与して暴れている同族も少なからずいるので反論する気も起きないが。人に声をかけただけで衛視を呼ばれる事案を経験している彼としては、認識票の説得力に頼んで相互理解の努力を怠る、という選択肢はありえないのだ。とはいえ、無用な心配だっただろうか。
「兄さん次、これいいかい」
「お任せあれ」
闇人がのんびり昼食を取れる街だ。蜥蜴人くらい、住民たちはどうとも思わないらしい。
「それにしても。海賊に脅かされておるにしては、皆あまり堪えた様子がないように見受けられるが」
それゆえこうして世間話もできる。
「そりゃな。海に出るってのはそんだけで命懸けだからよ、俺らも待ってる家族も、けっこう腹ぁ括ってるとこがあんのさ。そうそうビビんねぇし、海賊上がりの先輩がたなんかは逆に燃えてきちまってるぐらいだ」
「なるほど。その豪胆ぶり、感服いたしまする。海賊上がりといえば、あの鯱と呼ばわれておる闇人の御仁も元は、海賊であったとか」
「おうよ、鯱の兄貴はすげぇ海賊だったんだぜ。十一年前の戦争じゃ、砂漠の国の軍船を嘘みてぇな数、沈めちまったんだ! いやまあ、そんときゃ俺まだガキだったから聞いただけだけどな?」
興奮した様子でまくし立てる若い水夫の表情は、ちょうど冒険者に憧れる少年のものに似ていた。
「それによ、海賊やめてからもすげぇんだ。商会はあっという間にでかくなったし、公女様を助けて、その、まつ……まつり……」
「
「そうそれ、政な。政にも関わってんだ。あの人についてけば街はどんどんよくなってく。今回の騒動だって、きっとなんとかしてくれるさ」
只人から畏敬を注がれる闇人。只人の治める街で執政に携わる闇人。よほどの
「頼もしい限りですな。ところで、この箱はどこまで運ぶので?」
「いっけね、通り過ぎた!」
などという具合に、歓談は続く。わけだが、その間彼の相方はどうしているのだろうか。視点を変えてみることにしよう。少し離れて港の東端。槌の音絶えぬそこは造船所だ。
『美しくも厳しい海に』
『乗り越えてゆける船に』
『それを生み出す匠たちに』
作業場の隅に配置された円卓を挟み、二人の鉱人は三度、
「忙しいとこ悪ぃな、兄弟」
杯の中身は一息で七割減。鉱人語から共通語に戻して、鉱人道士は雫と謝罪で髭を濡らした。
形式上必要な場面を除いて、鉱人は自分たちの住処以外で鉱人語を使いたがらず、固有名詞すらわざわざ共通語の言い回しに置き換える。耳障りな発音を恥じて秘しているのだ、と森人は宣う。それを彼らの前で口走った日には自分の顎の砕ける音を聞かされることになるだろうし、鉱人道士と差し向かう男にはすでにそれくらいのことは実行していそうな凄みがあった。
「前置きはいらん。何が知りたい、兄弟」
百五十は上だろうな。
「ここんとこ客に海賊がおったかどうか、教えちゃくれんか。海賊かもしれんやつら、でもいい」
普段の剽軽さを封じ、仲間たちが聞いたこともないほど真剣な声音で問う。徳利持参で訪ねた理由は、これだ。
船は消耗品。波と風と雨に、海賊ならば戦闘による損傷も加わる。荒くれ者とて我が家を蔑ろにするはずはなく、修理なり新造なりで船大工の世話になっている可能性は多分にあり、その線を辿ろうという心算だった。
「知らん。うちの仕事は船を造る、船を直す。そんだけだ。客が船を何に使おうが、興味はねぇ」
まあそうくるよな。鉱人道士はそう観念した。戦士の家系で術師などやっていたり上の森人と一党を組んでいたりする彼は、同族の中でも割合とはみ出し者の部類であり、本来なら鉱人とは頑固一徹の同義語だ。それも職人ともなれば。
「つうたかて、よう。見たとこ
「小賢しい口を利くな、小僧。海賊どもの相手は海兵隊か、てめぇら冒険者の仕事だろうが。連中がカチ込んでくるんでもなけりゃあ、こっちにゃ関係のねぇ話だ。わかったらとっとと去ね」
杯を干し、裏返して卓に叩きつける。酒席は早々に打ち切りらしい。
「しゃあねぇ、そうさせてもらわぁ。邪魔したの」
同じく杯を空にすると、鉱人道士は処置なしと尻を上げた。
「ついでに街からも出ていきやがれ。余所者があんま首突っ込むもんじゃねぇぞ」
棟梁はつまらなげに鼻を鳴らすと、修理中の船が並ぶ
「そら、できん相談よ」
「あん?」
そこへ予想外に返事があった。鉱人道士が立ち止まって首を巡らせている。
「いっぺん受けた仕事を、そうそう投げ出せるもんかい。そうだろ、兄弟」
「……生意気な野郎だ」
「叔父貴にもよう言われたわい」
片手を上げて離れていく彼は、いつもの調子に戻っていた。
一方その頃、街の西では。
この辺りは地盤が隆起しており、主要な地区よりもかなり高くなっている。山側が畑、海側が牧場。岬の農場に足を運んでいるのは、ゴブリンスレイヤーと女神官だ。
「あれが羊なんですか? 絵で見た羊はもっとこう、モコモコって」
「毛を刈るとああなる」
西の街の近辺では牧羊は行われていないため、女神官が羊を見るのは初めてだった。本格的な夏に備えて涼やかな姿になった羊の群れは、少女の期待を裏切ったことなど露知らず、のんべんたらりと草を食んでいる。
「あの羊飼いに話を聞こう」
のんびりする気は一切ないゴブリンスレイヤーはズカズカと真っ直ぐに、ではなく羊を驚かせないように注意して近寄っていく。彼は一党の
「……いや。やってみるか?」
「えっ、と、はい。やってみます」
「そうか」
戸惑いつつも、足を止めるのは一瞬だった。ゴブリンスレイヤーを追い越して前に出る。以前の彼女であればこうも即断はできなかった。魔術師の少年との口論に端を発する、自身が臨時の頭目を務めた冒険はまだ記憶に新しい。結果はともかく過程は自慢できるものではなかったが、得るものはあった。依頼人との交渉に当たった経験はその一つだ。
「あの、すみません」
「んむおっ!?」
先端が大きく湾曲した特徴的な杖を地面に突き、羊を見守るうちに船を漕ぎ始めていた初老の羊飼いは、ビクリと体を震わせて足もとの犬を驚かせた。
「なんだい、お嬢ちゃん」
「冒険者のお仕事で、ちょっとお話を伺いたいんですけれど、よろしいですか?」
認識票を示す。一般人からの冒険者への信用度合いは、白磁では話にならず、黒曜でも少し怪しい、といったところ。では鋼鉄ならどうか。微妙だが、足りない分は礼節と愛嬌と地母神の威光が補ってくれる。
「ああ、いいよ」
「ありがとうございます!」
快諾を受け、顔を綻ばせる女神官に釣られて羊飼いも自然と破顔した。犬に監視されている後方の不審者については、ひとまず置いておくことにしたようだ。
「それじゃあ、ん……」
では直截に、という先輩の影響下にある思考に自ら待ったをかける。農民にいきなり海賊の話題を振っても困らせるだけではなかろうか。それに、すでに衛視の手が入ったあとだ。質問のしかたには気をつけるべきだろう。
「最近何か、変わったことは起きませんでしたか」
漠然としたところから、絞っていく。相手の抱えている情報が当人の中で海賊と紐づけされていない可能性も考慮すると、これがもっとも取りこぼしの少ない方法だと思われた。
「変わったことといったら、そうだねぇ。ちょっと前の雷かな」
「雷、ですか。何かおかしなところが?」
「うん。海のほうがやけにビカビカしてるなと思ったら、沖から稲光が、流れ星みたいに空を横切ったんだよ」
海から山へ、指差して記憶をなぞる。確かに変わったことだ。依頼と関係があるかは不明ながらも。
「あれは悪い兆しだったのかもしれないねぇ。その頃から海賊に襲われる船が増えたって聞くし、牧場からは羊がたまにいなくなるし」
「ゴブリンか?」
少なくとも、この男が無関係な方向に突き進もうとしていることだけは間違いない。羊飼いは後ずさり、女神官は遠くを見詰め、犬は吠えた。
「かもしれませんけど、ゴブリンスレイヤーさん。今は」
「わかっている」
迫る海賊の脅威、街の有力者たちからの依頼。優先せねばならない事柄がなんであるかなど、説明するまでもなく。
「少し確認するだけだ」
それはそれとして、ゴブリン殺すべし。ゴブリンスレイヤーのゴブリンスレイヤーたる所以である。
「本当に、仕方のない人ですね」
女神官も重々承知でこの男の仲間をやっているので、諦めは早い。一歩引いて譲り、代わりにゴブリンスレイヤーが被害状況や痕跡の有無を事細かに尋ねていった。
「では調べさせてもらうが、構わんか」
「もちろん。わざわざすまないね」
「いや。俺の務めだ」
初めは面喰らっていた羊飼いも、どうやら助けてくれるらしいとわかって協力的な姿勢を見せた。どこだろうとゴブリンとは弱者の天敵であり、それを退治する者はもっとも身近な英雄なのだ。
「でも、ゴブリンがいそうな山はちょっと遠いですし、どこを調べるんですか?」
「こっちだ」
悩む素振りもなく、ゴブリンスレイヤーは海へと歩いていった。兜を左右に往復させて地面の状態を改めつつ、ときにしゃがみ込み、掌を這わせる。
「アテが外れた」
「ゴブリンの足跡はありませんでしたか」
「ああ。これはゴブリンのものではない」
そこかしこに残された蹄の跡の中に、不自然な途絶え方をしているものを認めた。近くにはやけに接地面積の少ない、爪痕にも似た足跡が二人分。土の沈み具合と歩幅から、只人を基準とすると体重はやや軽く、体格は上回っていると推察できる。
「おそらく、蟲人だ」
「じゃあ、さっきの……!?」
「そこまではわからん。ただの家畜泥棒という可能性のほうが、海賊の仕業と考えるよりは筋が通る。だがどちらにせよ、あの羊飼いにとっては頭痛の種だろう」
年かさの農夫の姿に何か思うところでもあったのか。ゴブリンスレイヤーにはたとえこれが寄り道であったとしても、そこそこにして切り上げるつもりはまったくないようだ。
迷わず足跡を辿って、グラつく柵を越える。あとで修繕を勧めておこうと頭の片隅に書き留めつつ、崖に近づいた。覗き下ろしてみるも目に入るのは、波に洗われる大小いくつもの岩礁ばかり。
「ここを下りたんでしょうか。羊を、捕まえたまま?」
「蟲人の鉤爪の力を低く見積もらなければ、そうなる」
十把一絡げに蟲人と呼称されてはいるが、その内訳、細かな種別は多岐にわたる。壁面や天井を自在に歩き回る者もいるのだ、只人の常識に囚われていては読み違えることになろう。
「回り込む手間が惜しい。杭と鉤縄を」
「はい。"出かけるときは忘れずに"と」
一方の只人は、種族的没個性を道具で補う術に長けている。まず杭を二本、小槌で地面にしっかりと打ち込む。なぜ二本なのか解説はいるまい。謳い文句に従い用意してきた冒険者ツール付属の鉤縄を結えつけ、引っ張って支点の強度を確認。障りなし。
「これも、やっぱりやってみたほうがいいでしょうか……!」
「そうだが、今はやめておけ。落ちれば死ぬぞ」
制止されるより先に、岩に激突する未来を思い浮かべてしまっていた女神官は、安堵した様子で賛同した。
「は、はいっ、失礼します!」
落ち着いた心拍数を別の要因で再上昇させつつ、無骨な鎧にしっかりとしがみつく。華奢な娘とはいえ人一人、負荷をかけての
「いや、そうではなくてな」
ところが、彼は女神官をやんわりと押し戻した。
「言い方が悪かった。
「え……え?」
困惑を余所に縄を細い肢体へぐるりぐるり。痛くないように加減と工夫をしつつも、錫杖ごとしっかりと縛っておく。特に自由を奪うような結び方はしていないが、はたから見れば人攫いだ。
「よし。縄を掴め」
「はい」
「後ろ歩きだ」
「は、い」
「ふちから身を乗り出せ。足を壁につけろ」
「はいぃ……」
ゴブリンスレイヤーが握る縄を繰り出すのに合わせ、慎重に歩み下りていく。空と牧草と先達の姿が遠ざかり、忍び寄ってくるのは怯懦の念。やってみたほうが、などと発言したことを後悔しそうになり、それからこれも冒険と思い直して気合を入れる。一歩一歩確実に、足を動かしていかなくては。
やがて、女神官は空を蹴った。
「あ、れ。ゴブリンスレイヤーさん! 足が、つきません!」
「落ち着け、動くな。あとはこちらで下ろす。真下は岩場だ、滑らないようにしろ」
言われるまま、足がかりを探るのをやめて縄に身を任せる。間もなく靴底が岩肌を捉え、女神官はようやく人心地つくことができた。すると、自分が下りてきた崖を観察する余裕も表れる。
「洞窟だ」
抉り込むように穿たれた暗い海蝕洞が、先ほどの落とし穴の正体だった。
「縄をほどけ」
「あっ、そうでした」
忘れていた! 慌てて結び目を外し、その場からゆっくりと数歩離れる。それを見届けたゴブリンスレイヤーが縄を手繰って壁を蹴り、飛ぶように降下してくるのを目の当たりにして、女神官は己の未熟を痛感するのだった。
「よくやった」
「……やれて、ました?」
「ああ」
「えへへ」
情緒の乱高下が止まらない。そんな己の言動の威力を一顧だにもせず、ゴブリンスレイヤーは周辺の地形に視線を走らせた。
「岩礁が遮蔽物になっている。海側から、この洞窟を見つけるのは難しいだろう」
隠れ家にはもってこいだ。これは、当たりを引いたのかもしれない。
「偵察するぞ。松明を……いや、あれを試すか」
「わかりました、準備します」
引き続き、女神官の鞄の中身がお役立ち。取り出だしたるは、一見なんの変哲もない小型の
「
呪文の無駄遣い、ではない。彼女に魔術の心得などなく、どこかの魔女の発声を真似して
その浮遊機構が、虚空から現出した人ならぬ白骨の奇手が取っ手を握って持ち上げる、という不気味極まる有様でさえなければ完璧だった。もしもゴブリンの巣窟に囚われた村娘が、揺れ近づく灯火に希望を見出したとき、視界に入るのがこれだったならどうなるか。きっと悲鳴を上げる。少なくとも渡されたその日の夜に自室で試行した女神官は叫んだし、ついでに錫杖を引っ掴んで思い切りブン殴りもした。おかげで頑丈さも実証された。
「問題なく機能しているな」
「……そうですね」
問題は見てくれを気にするとか一緒に選ぼうとか事前に説明しておくとか、そういった発想のないこの男の感性だと、女神官は切に思う。破損してしまった先代を補填するために貴重な
「では、いくぞ」
そうとも知らず満足げに頷くゴブリンスレイヤーの前に、追従灯を移動させる。右手だけの案内人に先頭を任せ、二人は岩窟の中へと踏み入っていった。海水に浸かった足場に注意を払い、それ以上に闇の先へ気を配る。潮騒は徐々に小さくなり、耳朶を打つのは水音混じりの足音だけになっていく。
「人の手が入っているな」
足音が乾いたものになり、さらに柔らかさを含むものになる頃には、周囲の外観は岩から土へと変容していた。自然にできた構造ではないと、無数の洞窟に潜ってきた経験が告げている。
「ちょっと、明かりを絞りましょうか」
「頼む」
火が細くなり、必要最低限の輝度に。光を殺し音を殺し、気配を殺す。壁伝いに進む道は右手側、つまり街の方向へと曲線を描き、徐々に幅を増していく。やがて地面に映る影絵、向かい合う只人と蟲人のそれを見咎め、ゴブリンスレイヤーは無言のまま兜の横に拳を掲げた。足を止めて聞き耳を立ててみれば、漏れているのが影だけではないとわかる。
「おい、合図はまだか。また餌が足りなくなるぞ」
「
「そいつは、あれに言え」
反響の度合いが、この先の空間にそれなりの広さがあることを教えてくれる。声質からして、不平がちなほうが蟲人か。愚痴が続く。唐突に奥から怒鳴り声、足音。誰かが走ってくる。
「ひぇっ、なんだこい——うわ!? 無理だ、離脱、離脱ー!」
何やらすごく、情けない声を上げながら。いくつもの物音を引き連れて。よりにもよって、侵入者たちの隠れているほうへと走ってくる。
「……面倒なことになった」
ゴブリンスレイヤーが腰の小剣に手を這わせると、女神官もそれに合わせて錫杖を強く握り締めた。
ところで、これは本当に都邑の冒険と呼べるのだろうか。彼女の疑問を解消するだけの猶予は、もはや残されていなかった。
◆奇手の追従灯◆
由来の知れぬ魔法の角灯。その製造法は失われて久しい。
定められた文句を唱えると火が灯り、浮遊しながら使用者に追従する。挙動を意のままに操ることもでき、応用次第で単なる照明器具以上の価値を示すだろう。
暗闇で光を得ながら両手を空けておける角灯は便利だが、動きの邪魔になることもあり、また衝撃に弱い。それを煩わしく思うのなら、こうした道具を用意するとよい。