〜鳴神の太刀〜 ゴブリンスレイヤー フロムイミテイシヨン   作:Jack O'Clock

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3-6:女王の首飾り/My Favorite Things

 

 いつからそこに人が住み始めたのかは、定かではない。

 

 港街と内陸とのあいだに横たわる連峰の真下。入り組んだ通路を内包する外壁部と、広大な空洞に建物が立ち並ぶ都市部からなる、地下遺跡群(テレイン)。荒廃しながらも原形をとどめていたこの迷宮(ダンジョン)に目をつけた盗賊たちが、隠れ家として利用するようになり、崩れていない玄室に戦利品を隠したり木材を持ち込んで扉を拵えてみたり。彼らと取り引きを行う故買屋(フェンス)情報屋(リサーチャー)が集まってきたり。それが、隠し街と呼称される領域の成り立ちだ。

 

 隠し街は港街とはあくまで別の街であり、地上の民のほとんどは存在すら知らない。が、実は緩やかな同盟関係が結ばれており、それに関わる人間や彼らの連絡員が街の境界を跨ぐこともある。

 

 たとえば海上交易の利権に目がくらんでやってくる、礼儀を弁えない外様商人が、優しい忠告に耳を貸さず港街の和を乱す振る舞いを繰り返すとき。

 

 たとえば潜伏する海賊の捜索を冒険者に依頼したうえで、捜査対象が地下に潜んでいる場合に備えた別働隊が必要なとき。

 

 この街の住人は、そういった事態に求められる技能の持ち主たちなのだ。

 

 街は今、常以上の静けさに支配されていた。点在する松明に熱はなく、住人たちはきっと、上の街の喧騒に紛れ込んでいることだろう。避難させられているのだ。これから行われる戦いから。

 

「えぇと、この通路を右に曲がって……」

 

 廃都の奥に看板を掲げる酒場が一軒。迷い猫亭の扉の隙間からは、光が漏れていた。店内で卓に地図を広げている女神官は、道順を記憶に押し込もうと四苦八苦しているところだ。頭に方位磁針が埋め込まれているような男と行動を共にするからといって、憶えなくてよいなどということはあるまい。万が一はぐれたらどうするのか。

 

「それからここは行き止まりで、次を左、ですね」

 

 女神官よりも経験浅い女商人は、より緊張感を滲ませている。引き続き協働させてほしいと申し出た際には妖精弓手に前にも増して猛反対されており、それを退けてまでこの場に立っているからには、足を引っ張るわけにはいかないのだ。

 

「そう緊張するなよ、お嬢ちゃんたち」

 

 浮かぶ表情は真剣を通り越して深刻の色相だ。見かねた鼠義賊が、気さくな調子で声をかけた。

 

「俺の経験から言えば、こんなビズほど実際には肩透かしのミルクランさ。普段どおりにやればそれでいいぜ、チャマー」

「は、はい……?」

 

 勇気づけようとしてくれているらしいことは伝わったものの、何やら耳慣れない単語がちらほら。二人は並んで小首を傾げた。

 

「こんな仕事ほど肩透かしの簡単なもの、だそうだ。それとチャマーとは、お友達という意味だ」

 

 内心を察したらしいゴブリンスレイヤーが注釈を挟む。するとそれが、娘たちよりも鼠義賊のほうの興味を招いた。

 

「お? ひょっとして、あんたも兼業なのか?」

「いや。俺は仕掛人(ランナー)ではない。少しばかし縁があるだけだ」

 

 仕掛人。大都会の影を走る者(シャドウランナー)。ギルドに属さず、表沙汰にできない依頼をこなす非合法の冒険者、または冒険屋。ときに正規の冒険者が密かに副業とすることもあれば、逆もある。鼠盗賊もその類であり、活動の割合としては半々といった辺りだ。

 

 彼らの存在に関しては女商人も噂くらいは耳にしたことがあり、女神官も昨日聞かされていたのだが、具体的にどのような職種なのかはよくわかっていない。知るべきことなのかどうかさえも。

 

「少し、か。そうも言っていられんところに踏み入っているかもしれんぞ、お前」

 

 帳台のそばに置かれた大樽に片膝を抱えて腰かけた山猫女将が、悪戯っぽく笑ってゴブリンスレイヤーのベルトを指差した。

 

「あの禿馬から護符(アミュレット)を受け取っただろう」

「ああ。これか」

 

 雑嚢のそばに括りつけてある、小さな木彫りの鼠。地下墓地での騒動の際に馬人の盗賊から礼として渡された品だ。南の街にいくなら役立つはず、と言われたので持ち込んでいたのだ。

 

「そいつには、一部の獣人にしか嗅ぎ分けられない匂いが染みついている。この匂いを漂わせているやつは、何者だろうと我々の同胞と見なされるという、符牒だ。そうでなければ、余所者のお前の策に乗ったりはしない」

「なるほど。しかし、やはりあの男は仕掛人だったか」

 

 あの馬脚盗賊が仕掛人の隠語(ストリートスラング)を口走っていたのを、ゴブリンスレイヤーは聞き逃していなかった。これといって問いたださなかったのは、彼が他人の素性を詮索する質ではないためだ。

 

「元仕掛人だ。冒険者になるときに廃業したよ。縁が切れたわけでもないが。それにしても、まさかあいつがな」

 

 一方、山猫女将が彼に向けたのは好奇に満ちた視線だった。頭の軽い男なら何かを勘違いしそうな。女神官はなぜかちょっぴりモヤモヤとした気持ちになった。

 

「お前はどうだ? これもまた縁だ。こちらの仕事を試してみる気があるなら、相談に乗ってやるぞ?」

「遠慮しておく」

 

 重たい鉄兜を左右に振って、妖婦の誘惑をすげなく拒絶する。女神官はなぜかちょっぴりホッとした。

 

「理由は」

「俺は、ゴブリンスレイヤーだ」

「……んん?」

 

 返答になっていない返答に、山猫女将は硬直でもって困惑の意思表示とした。女神官は苦笑した。

 

「ゴブリンスレイヤー、小鬼殺し、ねぇ。こんなこと言いたかねぇがよ、あんた本当に頭目やれんのか?」

 

 苦笑では済まされないと、離れた席に座っていた犬人(カニス)の精霊使いが胡乱な目を向けた。犬そのものの顔貌には、不信感が張りついている。

 

「いくら銀等級でも、新米向けの依頼ばっか積み上げた雑魚狩り屋に、命は預けられねぇぞ」

 

 この犬人霊媒は鼠義賊の一党の構成員であり、同じく冒険者との兼業だ。つまり、首に提げた鋼鉄の認識票が表している実績は、実態の半分ほどでしかないということ。であれば、彼が認識票に置く信の重さも推測できよう。

 

「この期に及んで、そんなことを。実力が不確かなのはそちらも」

 

 気分はよくないもののもう慣れてしまっている女神官は静観を選んだが、女商人は違った。恩人が侮蔑を受けた。それだけでならず者紛いの男に食ってかかるだけの度胸と若さが、彼女にはある。

 

「待て」

 

 とはいえ、庇うはずだった当人に制止されては黙るしかない。撫然とした様子から、少し引き離して宥めたほうがよいかと友人の袖を掴もうとした女神官は、しかしゴブリンスレイヤーの雰囲気がいつもと異なっていることに気づいて思わず動きを止めた。

 

「……やれるだけのことはやったし、やる。それで勝てるかどうかは、わからんが」

「おい」

「わからんが。俺はそうやって六年、生き残ってきた。依頼人を守りながら、百匹を超えるゴブリンを迎え討ったときも。ゴブリンを率いていた……巨人を相手にしたときも。小鬼英雄(ゴブリンチャンピオン)も、小鬼の王(ゴブリンロード)も、小鬼聖騎士(ゴブリンパラディン)も。自分の持っているものと……一党や、知人の、力」

 

 淡々と、事実を述べるだけ。彼は己のしてきたことを誇りになど思ったことはないし、誇り方も知らない。それでも、歯切れ悪くとも。

 

「ありったけを叩き込んで、すべて殺してきた。今回も、そうするだけだ」

 

 ゴブリンスレイヤーは、一党の頭目として。啖呵を切ってみせたのだ。

 

「ハハハ、すげぇなあんた、大物だ。あぁ、嫌味じゃないぜ」

 

 すると、窓の外を眺めながら葉巻を吹かしていた大男が手を打った。犬人霊媒と同じ白い毛並みの、熊人(ウルス)の戦士だ。

 

「気を悪くしないでくれよ。そいつはちょいと、あんたを試したくなったのさ。ビビりだからな」

「うっせ、慎重派だっつーの。……とにかく、俺は口先だけの莫迦とも鉄火場で突っ張れねぇ莫迦とも仕事すんのは御免だが、あんたはどっちでもなかった」

 

 声音を和らげた犬人霊媒は、彼なりの親しみを込めて笑顔を作った。

 

「今日はあんたが頭目だ。喜んでいいんだぜ、なんせこの俺様の信用(クレジット)を得たんだかんよ」

「口先だけの莫迦」

「聞こえてんぞ熊ァ!」

 

 犬人が顎突き出すのを、熊人が片手でいなす。いつの間にか空気は弛緩していた。

 

 祖母と食事にいくときでさえ善後策(バックアップ)を用意して、裏取りを怠るな。

 

 ゴブリンスレイヤーは頭の片隅で埃を被っていた、仕掛人の警句を思い出していた。おそらく、彼に関する情報などすでに調べはついているはずだ。疑わない者は長生きできない。仕掛人の世界とはそういうもので、つまり今のやり取りはそういうことだ。

 

「ゴブリンスレイヤーさん……?」

「問題ない。今、解決した」

 

 黙りこくっているのを不思議がって兜の庇を覗き込んでくる女神官から、それとなく顔を背けた。慣れないことをして時間差で恥じ入る程度の人間味くらいは、彼も持ち合わせている。

 

「やはり、貴方は銀等級にふさわしい方です」

「ふふっ、そうですよね」

 

 感銘を受けたらしい女商人が目の中に星を住まわせているのが、余計に羞恥心を煽る。我がことのように胸を張る女神官の姿も、見事な追い討ちであった。

 

「残念ながら楽しいお喋りの時間はここまでだ金髪のお嬢ちゃんたち(ブロンディーズ)。お客さんだぜ」

 

 そのとき、廃都の黒い景観の中に光が瞬くのを白熊戦士が認めた。遮光機(シャッター)つきの角灯を用いた発光信号だ。偵察と連絡の任に就いている酒場の女給たちが、来訪者の接近を知らせているのだ。

 

「数は、四十」

「えっ、そんなに?」

「ついでに妙な、でかい木箱を乗せた荷車が三つ、と。ハハ、まったく勘弁してほしいよな」

 

 早くも臆病風と踊り始めた鼠義賊に、白熊戦士は軽妙な態度を崩さず応じた。

 

 予想どおりの展開だった。港街の戦力を沖合いに誘い出しておいて、空き巣を狙わないわけがない。なんとなれば、公女の身柄さえ手中にしてしまえば海賊たちの勝利なのだから。そこで、彼らの出番と相成ったのだ。

 

「準備はできているな。作戦(ミッション)開始。目標は護衛対象(ホスト)の安全確保と敵部隊の全滅。子供(ジューヴ)目当ての変態どもを生かして帰すな」

 

 山猫女将の号令一下、仕掛人たちが動きだす。

 

「それじゃ、いくとするか。あんまり気は進まねぇが、美人の頼みは最優先さ」

「ま、俺に任せとけ。あんたらには楽させてやるわ」

 

 白い二人が扉をくぐる。もう一人はどうした。

 

「普段どおり、普段どおり、普段どおりやれば大丈夫、大丈夫。なあ、あんたらもそう思うだろ?」

「お前もいけ!」

「はいぃ! すいません女将さぁん!」

 

 物理的に尻を蹴飛ばされた鼠義賊も、騒々しくあとを追った。ゴブリンスレイヤーもそれに続く。

 

「俺たちも出るぞ」

「はいっ」

 

 声の揃った娘たちは、顔を見合わせて微笑んだ。隣に友、目の前には頼れる男の背中。戦場に赴くに、一切の怯懦なし。追従灯に火を入れて、闇を掻き分け出撃する。照らし切れない暗黒の、その彼方に敵はいた。

 

 街に繋がるいくつかの坑道の一つを通り抜けてやってきた、黒衣の集団。明かりも持たずに進む彼らは、頭から伸びた触角をしきりに動かして周囲の地形を探っている。蟻人の刺客たちだ。

 

「散れ」

 

 隊長が短く発すると、部隊は複数の班に分かれて外壁の開口部から侵入していった。内部構造については潜伏中に網羅している。防衛のための戦力がごく少数であることも把握済みだ。だからといってなんの被害もなく遂行できるなどと楽観はしていないが、最終的に目的を果たせるならば多少の犠牲は厭わない。蟻人とは生来そんな種族だ。

 

 と、いうのはなんとも甘い考えだった。

 

「う、なんの音——ぐあっ!?」

 

 足を置いた床石がわずかに沈み、起動したのは罠矢(トリックボルト)。近距離なら鎧すら貫通するのが弩という武器だ。軽装の刺客はひとたまりもなく、自分の心臓が作る血溜まりの中に斃れ伏した。

 

「罠か。注意を」

 

 直近で見ていた彼はあくまで冷静に警戒度を上方修正し、数十秒後に不自然な床を発見した。当然に避けて通り、その脇の感圧板(プレッシャープレート)に気づかず矢を受けて死んだ。

 

 ()()のではないか。

 

 この遺跡の造りは以前探索した地下墓地と同じ様式のようだと鉱人道士が気づいたとき、ゴブリンスレイヤーはそう見当をつけた。果たして、あったのだ。同種の罠が。作動させるための魔力の流れこそ絶たれてはいたが、機構そのものに損傷はなく、ならば足りない部分を単純な仕掛けで補ってやればよいだけだ。

 

「床に気を配れ」

 

 後続に呼びかけた彼は、道を塞ぐ瓦礫がたいした量ではないと判断して撤去を行い、押さえるものを失った縄つきの大石に潰された。罠矢ばかりでは芸がない。蜥蜴僧侶と侍が協力すれば、重量物に高さという武器を与えるのもたやすいことだ。

 

「こちらは通れん。向こうだ」

 

 指揮を引き継いだ者は迂回路を辿り、薄い木材の上に床石を敷き直して偽装された奈落に吸い込まれていった。罠の設置場所については、暗視持ちの斥候役として妖精弓手が助言したのだ。上の森人ですら発見困難なように隠蔽されては、簡単には見破れまい。もっとも彼女の目方では、こんな落とし穴(ピット)など機能しないだろうが。

 

「またか……なら、そこだ」

 

 苛立ちも隠さず隘路を早足に進行するこの男は、天井から吊り振られた釘だらけの角材に、人生最後の接吻をすることとなった。造船所の廃材が街の敵を誅するとは、この上ない有効活用だった。

 

 壁に設けられた覗き穴から機を窺っていた兎人の女給は、自身の挙げた戦果に満足すると速やかに移動していく。転換機(スイッチ)を踏むのが自分でなくとも、罠は容赦なく発動するものだ。

 

「えぇい、なんなんだここは!」

 

 死の罠の地下迷宮(デストラップ・ダンジョン)へようこそ。

 

 熱烈な歓迎に揉まれた刺客たちは、一番先行していた班が外壁を突破する頃にはすでに、兵力を四割近く喪失していた。

 

「やっと、着いた」

「油断するな、先は長い」

 

 本当に長かった。目抜き通りなどという気の利いたものはなく、待ち受けるのは細く込み入った路地、路地、路地。迷宮はまだまだこれからだ。

 

「あぁぁっ、しまった、こんな玩具に!」

 

 また一人、絡め取られた。建物の屋根から垂らされた吊り上げ縄(スネアトラップ)にかかったのだ。

 

「早く縄を切れ、これ以上頭数を減らすのはまずい」

「わかって、いる……!」

 

 天地逆さの吊るされた男(ハングドマン)に同胞の視線が集まる。生者は死者よりも目を引くものだ。しかも彼自身は罠からの脱出に意識が向いている。なんと迂闊な、固まって立ち止まるとは。

 

「《運命握る犬の導師(ホーチンイクワ)、街路の影に叡智を示せ》」

 

 そんな隙を、仕掛人の前で晒すとは。自らを触媒とした犬人霊媒の《使役(コントロール・スピリット)》によって像を結ぶのは、彼の守護精霊(トーテム)たる犬の精霊だ。跳びかかる獰猛な野獣(サベージ・ビースト)に驚きはしたものの、野良犬めいたみすぼらしい姿に蟻人たちは拍子抜け。その瞬間、彼らはまとめて吹き飛ばされた。咆哮と共に放たれた不可視の《力球(パワーボール)》が、外骨格を打ち砕いたのだ。

 

「どんなもんじゃい! 犬を見縊ったやつは早死にすんだよ」

「あいつが術者か」

「やべっ」

 

 勝ち誇る犬人霊媒に、難を逃れた敵が殺到する。精霊を連れて逃げだせば追ってくる追ってくる、危機探知も疎かなままに。

 

「うりゃぁぁあ!」

 

 高位に待機していた鼠義賊が跳び下り、殿(しんがり)を務めていた男を炎紋剣で叩き斬った。振り返って応戦を試みた者は、鳩尾へのカチ上げ突きで即死だ。

 

「うわ重い重いどけどかしてくれ!」

 

 そこまではよかったが、死体に覆い被される形となりもがく様はどうにも格好がつかないし、敵が待ってくれたりもしない。

 

「何やってんだ阿呆、さっさといくぞ」

 

 反攻せんとした生き残りを精霊に喰い殺させ、犬人霊媒は仲間を救出した。戦闘音を聞きつけたほかの敵が近づいていることを、彼らの鋭敏な聴覚はすでに察知している。どうやら早急に邪魔者を排除するつもりらしい。この場にとどまっている時間はなかった。

 

「いたぞ」

「逃すな」

 

 駆け足で角を曲がって細い階段を上る。背後に迫る殺意に、二人はしてやったりとほくそ笑んだ。脇道に入ればこのとおり、追手は転がってくるいくつもの樽とご対面だ。逆走しても間に合わない。巻き込まれた蟻人たちは階段を転げ落ち、割れた樽の中身を浴びることになった。

 

「遠慮なく飲んでくれ。俺は糖酒より麦酒(エール)のほうが好みなんでな」

 

 階段上に姿を見せた白熊戦士が、どこまでも呑気に無慈悲に告げる。

 

「あばよ、酔っ払い」

 

 放り込まれた葉巻は《火球(ファイアボール)》の一撃にも似て、酒浸りの犠牲者を猛火に包んだ。

 

「莫迦にしてくれる……!」

 

 燃え移る前に離れた一人が、短剣を構えて挑みかかった。獣人の中でも近接戦闘においては最強格と目される熊人に。正面から。単独で。

 

「おいおい、そいつは濡れ衣だぜ」

 

 白熊戦士の右手には、独特の形状の剣が携えられていた。短めかつ幅の広い剣身に、梯子を連想させるような柄が繋がっている。横木の部分を握ることで、刃が拳の延長上にくる造りだ。拳刃(ジャマダハル)という名のこの武器は使用者の筋力を活かしやすく、熟練者であれば竜の鱗すら貫くという。

 

「端から莫迦だろ、お前ら」

 

 ただ真っ直ぐに、突き出す。剣どころか肘まで埋まった腕を引き抜くと、風穴の空いた死体は火の中に葬られた。

 

「ちょろいもんだな」

「ああ、俺たちの敵じゃないぜ」

「こんぐらいなら、俺様の出る幕でもなかったかもな」

 

 余裕の一人と調子に乗る二人、三人の仕掛人は再び走りだした。もう近場に敵はいない。次はあの冒険者たちの助勢に向かうべきか、それとも別の区画か。少し耳をそばだててみよう。

 

「今のを見たか」

「調べるぞ」

 

 建物の前を通り過ぎようとした刺客の一団が、窓の中を横切っていく光に足を止めた。覗いてみても光源は見当たらない。捨て置くわけにもいかず、彼らは入口に見張りを立てて音もなく突入した。室内は奥まった構造で、神代の石卓と誰かが持ち込んだ木椅子が倒れていた。

 

「——。——?」

 

 敵影なし。最奥を調べていた男は伝えようとして顎を開き、その声は音にならない。慌てて振り返った彼の触角が感知したのは仲間たちの亡骸と、不気味な甲冑だった。

 

「——!」

 

 遺言すら許されぬ喉笛に小剣を押し込み、ゴブリンスレイヤーはそのまま得物を手放した。椅子の下に配置しておいた新たな剣を拾い上げ、背を向けている見張りも同様に忍び殺しつつ外へ。

 

「五つ。片づいたぞ」

 

 戦いとも呼べぬ掃除を終えて声を発すると、隣の建物に隠れていた女神官と女商人が合流し、さらに囮にした追従灯が戻ってきた。

 

「ゴブリンスレイヤーさん、大丈夫でしたか?」

「ああ、やはりこの角灯は買って正解だった。ゴブリンにも有効だろう」

 

 奇跡の影響下での待ち伏せ(アンブッシュ)。獣人たちのように夜目が利かなくとも障害物の位置は憶えればよく、至近距離なら相手の輪郭くらいは見える。隠形に長けた者と《沈黙(サイレンス)》の組み合わせは、やはり凶悪の一言であった。

 

「あの、彼女はそういうことを心配しているのではないと思いますよ」

「そうか。そうだな。術もうまく働いてくれた」

「そ、そういうことでもないんですけれど……でも、ありがとうございます」

 

 貴方の身を案じているのだと改めて表明するのも何やら面映ゆく、女神官は賛辞を素直に受け取ることにした。単に役に立てて嬉しいというのもある。皆が夜遅くまで戦支度に勤しんでいるあいだ、祈祷による精神の摩耗を回復させるために眠っていたものだから、なおさらだ。

 

「そちらは問題なかったか」

「はい、誰にも気づかれてはいません」

 

 同じく十分な休息を取った女商人は、攻撃に集中するために前がかりに動かざるをえない頭目に代わり、女神官の直掩に当たっている。今のところは特に剣を振るべき状況は訪れておらず、いささか手持ち無沙汰な様子ではあったが。あとで重要な役目が待っているので、体力を温存しておけるに越したことはない。

 

「よし、では次だ」

 

 状況がまだ己の掌に収まっていることを確認し、ゴブリンスレイヤーは計画を進めていく。

 

 公女の安全を確保するには何が最善か。

 

 まず街から脱出させるという案は、ほかならぬ公女自身によって固辞された。

 

 領地に危機が迫るときに我先にと逃げだす者に、為政者たる資格はない。

 

 彼女は気丈にもそのように言ってのけた。そうでなくとも護衛を引き連れて移動すれば居場所を教えているようなものであり、逆に小勢で密かにとなると気取られた際の対処が難しい。街のどこかに身を隠すにしても、同様の問題がつきまとう。

 

 ならば堂々と迎え討てるだけの戦力を集中運用するか。海上に兵の大半を割いている状況でそんなことをすれば、街そのものの防備が破綻するだろう。ゆえに逃げも隠れもせず、万端整え少数精鋭で要撃する。

 

 偶然か宿命か、それは実に冒険者向きの盤面(セットアップ)だった。

 

 遺跡を拠点に選んだのは、ここがもっとも防衛に適した環境だったため。敵が公女の所在を掴んでいるのは、探りを入れられる前にこちらから情報を流して油断を誘ったため。いざ攻め入ってくれば、大量の罠と阻塞で侵入経路を限定しつつさらなる死地へと引きずり込み、兵力を漸減させる。

 

 罠を踏んだ誰かの絶叫がこだまする。無音のうちに息絶えた骸が積み重なる。祈りと詠唱。鉄と炎。

 

 たった一つの冴えたやり方など知らない男のたった一つ勝ち筋は、ただ一つの出し惜しみもない、前言違えぬありったけだった。

 

「手こずった」

「すぐにこいつを出すぞ」

 

 そうして戦いの趨勢が防衛側に傾いていくさなか、辛くも罠を掻いくぐり、遅れていた一団が廃都に到達した。件の木箱を運ぶ者たちだ。彼らが荷物の蓋を開けると、窮屈そうに手脚を折り畳んでいた巨大蟷螂(ジャイアント・マンティス)が一斉に飛び立った。

 

クソッタレ(ドレック)、飛び越えてく気か! 空気を読みやがれよ!」

 

 体長三メートルほどもある蟲が頭上で翅を震わせていれば、離れていようがいやでも気づく。吐き捨てた白熊戦士は拳刃を鞘に収め、新たな敵を追跡すべく両手足で石畳を蹴った。巨大蟷螂の飛行能力はさほど高くないらしく、滑空と着地を繰り返すような飛び方ではあったが、獣人の足でも追いつけるかどうかは微妙な速度だ。後ろの仲間を気にしている暇もない。

 

「ちょ、待っ、前衛が術士を置いてくんじゃねぇ!」

「ひえぇ、一匹こっちくるぞ!」

 

 肉壁がいなくなったら困る。大急ぎで白熊戦士に続こうとしたあとの二人の行手を、一対の大鎌が遮った。

 

「なんとかしてくれ早く術術術!」

「わーってるっての!」

 

 臆せず挑む精霊犬が吼え猛り、《力球》が撃ち放たれる。が、使役者の焦りが伝染したのか狙いが狂い、片眼片腕を捥ぎ取るにとどまった。

 

「やべっ、仕留め損ねた。撤退する」

「はぁ!?」

 

 その成果から目を背けるように方向転換した犬人霊媒は、迷わず逃げを打った。精霊とて、そう立て続けに術を使えるわけではないのだ。数歩で追いついた鼠義賊共々、できるだけ細い路地を選んで走り抜ける。これなら手出しできまい、と思いきや上から鎌が伸びてきた。

 

「う、わぁっ!」

 

 間一髪、炎紋剣がこれを防ぎ、身代わりとなって弾き飛ばされた。

 

「もう駄目だ、無理だぜこんなの!」

「黙れ走れ急げ!」

 

 距離を置いて集中する時間を稼がなければ、精霊に指示を送ることすらままならぬ。しかし建物の合間を縫って必死に逃げ続けるも、巨大蟷螂は執拗に追いかけてくる。万事休すか。そんなとき、彼らの眼前に一人姿を見せたのはこの男。

 

「あっ、ゴブリンスレイヤー! 助けてくれ!」

「おいあんた戦士だろ、前に出ろよ前に!」

「ああ」

 

 犬人霊媒に催促されるまでもない。ゴブリンスレイヤーは松明片手に平然として巨大蟷螂と向かい合うと、雑嚢から取り出した何かを進路上に投げ割った。

 

 それは卵だった。正確には、卵だったものだ。貼り合わされた殻の中身は香辛料や、すり潰した長虫などの刺激物の混合物。ゴブリンスレイヤー謹製の催涙擲弾(ライオット・グレネード)である。しかも、虫除けの作用のある薄荷(ハッカ)を刻んで加えた改良型だ。

 

 砕けた殻と共に粉末が散って舞えば、吸い込んだ巨大蟷螂はたちまちのうちに悶え、のたうち回る。効果は抜群だ。

 

「ぎゃー!? 薄荷臭ぇ!」

 

 鼠人にも抜群だ。離れていても漂ってくる匂いだけで、顔をしかめて後ずさってしまう。蟲以外にも有効なこともあるようだ、いずれゴブリンにも試してみよう。投げた本人はそんなことを考えていた。

 

「っしゃ、貰った!」

 

 対照的になんともなさそうな犬人霊媒が追撃に移り、今度こそ命中した《力球》が巨大蟷螂を四散させた。先ほどまでの慌てぶりを忘れ去り、自信に満ちた表情を決めている。

 

「やっぱり俺が最強かー」

「右だ莫迦!」

 

 浮かれ切った呪文使いなど、狙わない理由がない。建物の陰から襲いかかる刺客。その武器持つ手を、小さな矢が射止めた。怯んだところで側頭部に小剣が打ち刺さる。

 

「吹き矢か。巧いものだ」

「ま、まぁな……ふぅ……散々な目に遭った……」

 

 投擲した剣を回収したゴブリンスレイヤーは、咄嗟の射撃を成功させた鼠義賊を静かに賞嘆しつつ、酒場の方角へ視線を向けた。彼女たちは、間に合ってくれただろうか。

 

「《いと慈悲深き地母神よ、が弱き我らを、どうか大地の御力でお守りください》!」

 

 最終防衛線である大階段にて待ち受けていた女神官は、地の底からでも届くようにと声を張り上げていた。《聖壁》に激突した巨大蟷螂が、階段下の広場へ墜落していく。そこに敵勢の生存者たちが集結し、()()()()()()と音を鳴らしながら向かってきた。

 

「今です!」

「《トニトルス(雷電)……オリエンス(発生)……ヤクタ(投射)》!」

 

 閃光が女商人の凜とした横顔を照らす。巨大蟷螂を直撃し貫いた《稲妻》は水浸しの広場に落ちると拡散し、地に足つけた者たちの全身を突き上げた。悲鳴も掻き消す雷鳴がやむと、生命の焼き切れた形跡が白い煙となり、惨状を覆い隠すように立ち込める。全滅だ。

 

「本当に、あの人から教わったとおりに」

 

 雷は、水を伝わり広く散る。

 

 侍から授けられた知恵だった。しかしながら、何をどうすればそんなことを知りうるのやら。雷雨の日に魚釣りでもしていたのか。彼女の疑問に答えは出ず、近づいてくる足音によって中断させられた。

 

「おお、こいつは……。楽に終われるか、願ったりだ」

「死んだふりなどされては敵わん。確実に息の根を止めるぞ」

 

 残る一体の巨大蟷螂を単騎で撃破した白熊戦士と、ゴブリンスレイヤーたちだ。ゴブリン退治のときと同じように始末をつけにかかる様に、女神官は見ないほうがよいと友人に促した。

 

 それから間もなくのことだ。暗黒にいだかれた廃都に勝鬨が、響かなかったのは。

 

「……三十九?」

 

 各々の戦果に女給たちの報告、この場に転がる死体。合計は、ゴブリンスレイヤーの口にした数字で間違いなかった。あと一人。不意に訪れた静寂のなか、酒瓶の割れる音がいやに大きく聞こえた。

 

「いつの間に……!」

 

 失態を呪う頭目を先頭に階段を駆け上がり、獣人たちが彼を追い越していく。酒場の扉を蹴破り、室内に飛び込むとそこには。

 

「遅かったな」

 

 額から血を流して昏倒する蟻人と、瓶の首を手にしたままそれを見下ろす店主の姿があった。

 

「女将さん無事だよな、あの子は」

「そりゃ無事に決まってんだろ」

「女将さんいるもんな」

 

 安堵の息を漏らす熊犬鼠。目の前の女性への心配は微塵もないらしい。

 

「お前らにはあとで山ほど説教がある。楽しみにしておくんだな」

「やっべ」

 

 三人の態度が気に食わなかったのか、山猫女将は恐怖の宣告を下した。口は災いの元とは、まったくよく言ったものである。

 

「その前にこいつを縛り上げて倉庫に放り込んでおけ。どうも海賊どもとは違う匂いがする。あの梟ジジィに引き渡せば、小遣い稼ぎにはなるだろう」

 

 唯々諾々と従い刺客を運んでいく仕掛人たちと、手早く床に散らばった破片の掃除を始める女給たち。どうにも締まらないが。

 

「作戦完了だ。ご苦労だった」

 

 彼らは、勝利したのだ。

 

「やった……やりました!」

「はい。誰も欠けることなく」

 

 娘二人が喜びを分かち合う。対して頭目は兜の奥で悔しげに呻いた。

 

「だが、不手際があった。すまん」

「構わん。四、五人は抜けてくると思っていた。一人なら、まあ及第点だ」

 

 それはつまり四、五人なら問題なく対処できたということか。店内にも罠を張ろうとして却下された理由の一端を、ゴブリンスレイヤーは悟った。彼女のいる場所こそが、最終防衛線だったのだ。

 

「ほら、もう出てきていいぞ」

 

 一仕事終えた山猫女将は先刻まで椅子代わりにしていた大樽に近寄り、軽くノックした。すると内側から蓋が持ち上がり、公女がおっかなびっくり顔を覗かせた。

 

「手を」

「ありがとうございます」

 

 丁寧に引っ張られ、外に出る。目をしばたかせるのは丸灯がまぶしいのか、暗闇が眠気を誘ったのか。そんな少女らしさはすぐ引っ込める。

 

「皆様、お手数おかけしました。重ね重ね、お礼申し上げます」

 

 粛然と腰を折る様からは、幼さも刺客に狙われていたことへの怯えも感ぜられない。さすがは自分も船に乗って皆を応援したいと息巻いて、博士を果てしなく困らせただけのことはある、年齢に似合わぬ豪胆ぶりだった。少なくとも、そう取り繕うだけの気概があった。

 

「あとは海の連中が帰ってくるのを待つばかりだな」

 

 ざわめく内心を見透かした山猫女将の肉球に頭を撫でられて、公女の頬はようやく緩んだのだった。

 

「……いまさら言うことでも、ないのだが」

「はい?」

 

 おもむろに首を巡らせたゴブリンスレイヤーは、女神官と目線を合わせた。

 

「お前も、あちらに参加したかったのではないか。海は初めてだと、言っていたろう」

 

 本当にいまさらだった。この男の気の遣い方が不器用なのは重々承知しているので、彼女も指摘することはしないが。それに、思い返せば今回は特に何くれと新しい経験をさせようとしてくれていたではないか。不満などあろうはずもない。

 

「また、次の冒険の機会に。生きていれば、きっと次はありますから」

 

 公女に椅子を薦めて談笑し始める女商人を目で追いながら、聞こえないように、言い聞かせるように、彼女はささやいた。

 

「そうだな。海にゴブリンが出るかもしれん。海ゴブリン……小鬼船団(ゴブリンフリート)……小鬼海賊(ゴブリンパイレーツ)……?」

 

 なんかもう台無しである。女神官とて、こればかりは不満だった。おぞましい想像の世界に旅立ってしまったゴブリンスレイヤーを連れ戻すべく、やや大袈裟に錫杖を揺り鳴らす。

 

「と、とにかく! 今は皆さんの無事をお祈りしましょう」

 

 もう一度、大地の底から天上へ、さらに沖へ。祈りよ届けと、彼女は静かに言祝いだ。

 

「慈悲深き地母神よ、どうかその御手にて、地を離れし者たちをお導きください……」

 

 

 

§

 

 

 

 しかし地母神の加護も、海洋までは及ばぬというのか。

 

 海賊討伐船団は、苦戦を強いられていた。

 

「またくるぞ!」

「取舵ー! 回避しろ!」

 

 巨大蜂の群れが、傷ついた海兵隊の船を包囲していた。落とす石が払底しつつあるのか、彼らは尾針を用いた接近戦に移行している。帆に多少穴を空けられた程度なら帆走に支障はなく、また攻撃には重要な索具を選んで破壊するほどの精密さもない。

 

 危険なのは船員たちだ。

 

「誰か、薬を……!」

「ここで倒れるな、中に——うぐっ、あぁぁ!?」

 

 毒に苦しむ仲間を助けようとした水夫が、背中から刺し攫われて海に投げ込まれた。解毒にせよ止血にせよ、船に積まれている物資には限りがあり、人手も足りていない。

 

「羽蟲ごときに、こうまで掻き乱されるとは」

 

 損耗に歯止めをかけようと飛翔した博士は、鳥脚で大曲剣を操り、単身で敵の一群を抑え込んでいた。一太刀ごとに敵を屠り、されど数的不利はいかんともしがたく。

 

「BEEEB!」

「しまっ、た……!」

 

 翼に針が突き刺さる。すぐさま振り払うも、姿勢を維持できずに高度を落としていく。海面に、ではなく船板に不時着して転がり、帆柱に衝突してなんとか停止した。

 

「く、やはり、私ではこの程度か」

「おい、しっかりせい!」

 

 彼を助け起こしたのは、鉱人道士だった。ここは、自由への先駆け号の甲板だ。

 

「毒、が」

「ほれ解毒剤(アンチドーテ)あっぞ、自分で飲めっか」

 

 痙攣する手で小瓶を受け取って飲み干す。冒険者ギルド製の魔法の薬水(ポーション)は値段こそ張るが、相応の効き目はあるようだ。呼吸が整うまでの数秒を、博士はそんなことを考えて過ごした。

 

「助かった。報酬に色をつけよう」

「そらいい、ますます死ねんくなったわ」

「おい、すまねぇがまた修理頼む!」

「ほいきた!」

 

 鉱人道士は大工道具片手に船内に走り込んでいった。落石が途絶えても、敵船からは大弩の矢が飛んでくる。鉱人たるもの槌を持てば玄人裸足、応急修理で大忙しだ。

 

「数が、多すぎ!」

「野伏殿!」

 

 無論、こちらも暇ではない。空襲に抵抗する妖精弓手の頭を下げさせ、蜥蜴僧侶は間近に迫った毒針を鷲掴んで敵の体を船縁に叩きつけた。この弓兵には防空戦闘に集中させたいところではあったが、敵に脅威認定されたのか、妨害が激しく中断させられてしまう。

 

「BEBEEE」

「QIIU!」

 

 素通しとなった編隊から逃れるために、虎鯨は深く潜水せざるをえなくなった。巨大蜂はごく短時間なら水中でも生存できるらしく、半端な深度では急降下で突っ込んでくるのだ。

 

「GIRIRIII」

「あいつがくるぞ、逃げろ!」

「駄目だ操舵手がやられた! 誰か代われ!」

 

 こうなれば、大鎧熊蟲を抑えるものはない。手近な船に照準を定め放射された水流は、直撃こそしなかったものの船尾を掠り、舵を破壊した。これで、まともに行動できるのは鯱と博士の船、二隻ばかりだ。

 

「なんだよ、これ、なぶり殺しじゃねぇかよ!」

「やっぱり俺たちじゃ、昔の親方たちみたいにはやれないのか……」

 

 船団の大多数はいまだ暴風雨に弄ばれている。海賊は数に任せて押し包む。上にも下にも蟲が蠢く。古老と相対する二人はこちらを助けることなどできず、こちらから掩護することもままならぬ。

 

 誰かが、戦局を変えねばならなかった。

 

「……え」

 

 ()()に真っ先に反応したのが妖精弓手だったのは、必然だったと言うべきか。なぜならそれは音だったから。それは事のほか近くから聞こえてきたから。

 

 それは、リュートの音色だった。

 

 

 

 嵐の檻が我らを囚え 奇蟲の獄吏が我らを苛む

 

 自由は何処(いずこ) 自由は何処 波間に投げた問いが沈む

 

 答えを返す我らが先達 大洋を貫く彼らの航跡 

 

 自由はそこに 自由はそこに 波間の先へ迷わず進め

 

 彼らを見よ 背中を追え 故郷を守りし彼らに続け

 

 風が吹く 背中を押す 故郷よりきたる風はやまぬ

 

 我ら先駆け 海原を駆け 羅針盤すら想いのままに

 

 気ままな風を束ねて前へ 黄金の時代へいざゆかん

 

 

 

 彼は、悲鳴を上げるために船に乗ったわけではなかった。

 

 彼は、目をつむって縮こまっているために船に乗ったわけではなかった。

 

 語り伝えるために。目撃者となるために。その一意でここにいる。

 

 だから歌う。言葉の刃で武装して。

 

 これこそが、吟遊詩人(バード)の戦いなのだ。

 

「歌……?」

 

 船上を満たす死と破壊の音を越えて、歌声は響き渡る。魔法のように、奇跡のように。未完の英雄譚が、海の勇士たちの心を吹き抜けていった。

 

 彼らは気づく。

 

 これは、俺たちの歌だ。ここは、歴史だ。ここが、伝説だ。俺たちこそが、英雄だ!

 

「……まだ、ここからだ」

「船は浮かんでる」

「俺たちは生きてる」

「まだ、戦える!」

 

 声援(バフ)を受けた水夫たちが、総身に活力を蘇らせる。たかが歌で何を莫迦な、などと嗤うなかれ。うまい糖酒と陽気な船歌があれば、船乗りは無敵なのだから。

 

「誰か旗を掲げろ! 文章は」

「わかってらぁ、皆まで言うな!」

 

 場違いなほど鮮やかな旗が、主帆柱を並んで登る。

 

『我らが女王に首飾りを贈れ』

 

 それはかつての戦争で用いられた合言葉だった。意味するところは、"勝利して生還せよ"。

 

「いくぞお前ら!」

「首飾りを贈れ! 首飾りを贈れ!」

 

 生きて帰るべく、前へ。たとえ死せども、その死が仲間を生かすと信じて。海賊も蟲の群勢も魔の嵐も、彼らを止めることなどできはしない。猛々しい雄叫びが詩の旋律に編み込まれた、この大合奏(セッション)はもはや彼らのものだ。

 

「ふははははは! やはり戦はこうでなくては!」

 

 愉快痛快呵々大笑、そのくせ落ち着いた眼差しで、戦闘民族たる蜥蜴僧侶は戦場を俯瞰した。

 

「野伏殿はあの使徒を守ることに専念してくだされ。あれが斃されれば進退窮まるは必定」

「でも、船はどうするの。こっちにもけっこうな大群がきてるけど」

「何、高く飛ぶなり小出しに攻めてくるなりされれば難儀なれど、一塊で寄せてくるのならばしめたもの。やりようはありまする」

「じゃ、任せた!」

 

 やれると言う。ではやってもらおう、自分は自分の役目を果たせばよい。妖精弓手は信頼だけを置いて離れていく。受け取った男は船首楼に立ち、大きく息を吸い込んだ。

 

「《偉大なりし暴君竜(バォロン)よ、白亜の園に君臨せし、その威光を借り受ける》!」

 

 歌に乗せて轟いたのは《竜吼(ドラゴンロアー)》だ。竜とは最強にして最恐の生物であり、弱肉強食は自然の摂理。巨大といえど所詮は羽蟲、蜂がこれに挑めるわけもなし。

 

「BEEEE!?」

「BBBBEB!?」

 

 群れは乱れに乱れて逃げ惑い、同族とぶつかったり海に墜ちたりした挙句、術の効果範囲外にいたものまで巻き込んでの大混乱を引き起こした。

 

「ああいうのやるなら先に言ってほしいわねー」

 

 咆哮にちょっと驚いてしまった妖精弓手が、ぼやきを一つ。味方に影響を与えることはないとはいえ、いきなり後ろで使われると耳と心臓に悪い。あの吟遊詩人はよく歌い続けられるものだ。彼女は感心した。

 

「QUIIII!」

「BEEEBEE」

「おおっと、これ以上、勝手は許さないから!」

 

 再び浮上した虎鯨を標的にした巨大蜂の群れが、片端から撃墜されていく。邪魔が入らないのならこちらのものだ。かてて加えて、一度に襲来する数も比較的少ない。何しろこれまでに相当数が木芽鏃の餌食となっている。戦力が尽きつつあるのだ。

 

「もう面倒臭ぇ、あのクソ鯨を殺せー!」

「ひゃはっ、いい的だぜ!」

 

 だが船は別だ。ここで埒を明けるつもりか、急接近する小型船が一隻。岩塊じみた熊蟲に体当たりを繰り返している虎鯨はすでに傷だらけだ。大弩の斉射でさらなる痛痒(ダメージ)を受ければ、あの巨体でも命に関わる。

 

「やらせるかよ。全員しがみつけ!」

 

 待ったをかけたのは女王の騎乗槍号だった。速やかに回頭、敵船目がけて疾駆する。

 

「駄目だ駄目だ、面舵! いったん距離を——」

「鈍間がすぎるな」

 

 諦めて退散しようとした海賊船の船尾楼に、羽根が舞い落ちた。低空を横切った博士が、船長と操舵手と、舵輪までもまとめて大曲剣の錆にしたのだ。

 

「この老害が、よくも」

「私に構っている場合か」

 

 逆上する海賊たちの剣からスルリと逃れ飛び、猛禽は狩りの成就を予言する。

 

「よい的だぞ、貴様ら」

 

 舵を取る術を失った船に、迫りくる騎乗槍(ランス)の穂先。誰かが真っ先に海に飛び込んだ。賢明な判断だった。

 

「ブチ込めー!」

「安心しな、痛いのは最初だけだ!」

 

 衝角突撃(ラミング)。船首下方、水面下に据えつけられた衝角(ラム)を用いた、もっとも古く強力な対船攻撃手段だ。ガレオンの大質量を乗せたその一撃は無防備な左舷(ひだりげん)船腹を食い破り、なおも止まらず船体を真っ二つに断裂させた。

 

「行き足が止まりかけてやがる、今のうちにやっちまうぞ」

 

 大技の代金として支払った速力を取り戻す前に、別の海賊船が動きだす。それも複数だ。手数が足りていない。たった二隻で対処できるものか。

 

 であれば、数を増やせばよい。

 

「帆が破けようが帆柱が折れようが構うもんか! とにかく船を走らせろ!」

「彼らに続けー!」

「首飾りを贈れ!」

 

 歌を聞くには遠くとも、旗は彼らにも見えていた。強引に嵐を脱した軍船が、続々と戦列に参加していく。海賊とは集団戦闘の練度が違う。舳先を並べて陣形を組み直せば、その様は移動する要塞のごとし。蟲一匹通しはしない。

 

「いい、歌だ」

 

 音楽と信号、仲間たちの鬨の声。船だけでなく海上を漂う木片や蜂の死骸すら足場にして跳び交う、高速の剣戟のさなかにあって、それらは確かに鯱のもとにも届いていた。

 

「そろそろ、決着をつけさせてもらおう」

 

 この男の青い肌は敏感に、戦場を覆う空気の変化を読み取っていた。ここが潮目だ。どのみち、長引かせるのは得策ではない。

 

 闇人の身体的特性は、おおむね森人と同様だ。全身の筋肉が精密かつ効率的に連動することで卓抜した巧緻性と瞬発力を両立している反面、作りが繊細すぎて持久力に乏しい。

 

 そこへきて、《加速》だ。この術は肉体の消耗をも加速させる。彼はすでに、息が上がり始めているのだ。

 

「気が合うじゃねぇか、相棒!」

 

 対する古老は一見するに疲弊した素振りはないものの、威勢のわりに決定打を欠いていた。太刀筋に粗が目立ちつつある。剣を交える鯱には手応えからそれがわかった。

 

「錆びたな、貴様」

 

 打ち合っては離れ合う膠着状態から、鯱が押し、古老が退がる展開へ。このまま足場にできるもののないところまで追いやってしまえば。

 

「BEEEE」

「何っ!?」

 

 そう考えたのは、古老も同じだった。巨大蜂の脚に掴まって高所へ退避し、攻撃を空振ったことで体勢の乱れた鯱に別の蜂を群がらせる。

 

「この、程度で!」

 

 おかげで、踏み台ができた。まだ射程内だ。敵の体を蹴り、射落とさんと放たれた太矢をよけつつ、より高く自身を跳ね上げる。追いつく。

 

「《カエルム()……テッラ()……ノドゥス(結束)》」

 

 斬り裂いたのは、蜂の体だけだった。

 

 《加速》を解除した古老が新たに唱えた呪文は、《跳躍(ジョウント)》だった。空間を越境する、零時間移動の魔術だ。

 

「獲った!」

 

 掻き消えた彼の姿は、鯱の上方にあった。無理矢理に身をよじってかざした銃剣が、振り下ろされた鉤剣の片割れを防いだが、もう一方は脇腹に埋まっていた。もつれ合いながら、二人は海中に没する。

 

 王手(チェック)だ。古老の指先が、弩に矢を番えるべくうごめいた。鉄砲は水に浸かれば撃てなくなる。彼が弩を好む理由がこれだ。

 

 鯱の武器は銃剣と奇跡。剣は鍔迫り合って動かせない。声を発さず念だけで祝祷を行うこともできるが、猶予はない。使徒の助力も間に合うまい。王手は詰み(チェックメイト)となったか。

 

 結果を語る前に、繰り返そう。銃剣だ。銃と、剣だ。

 

「悪いが、譲れないな」

 

 なぜ、喋れる。古老の疑問への回答は、刃を支える鯱の()()と、そこに光る指輪と、剣を分離(パージ)した騎筒を構える右手だった。

 

 どうせこちらでは使う機会もないからと、ゴブリンスレイヤーに貸し渡されていた水中呼吸の指輪。これが生み出す空気の膜が、鉄砲を海水から保護していた。

 

 撃発、射出。大口径弾が標的の頭部を爆砕する。残された胴体は水底に引きずり込まれていき、ほどなくして溶けるように霧消した。

 

「やはり分身だった、か……ぐ、う」

 

 傷口に栓をしていた鉤剣も消え失せ、鮮血があふれ出す。一緒に抜けていきそうになる意識を歯を食い縛って繋ぎ止め、鯱は海面を睨んだ。

 

 本体は、この向こうにいる。旗船の上に。侍と、殺し合っている。

 

「ギィ……!」

 

 分身が撃破されたことを感知した古老は、苦々しげに顎を鳴らした。苛立ちの原因はそれだけではない。

 

「俺は、敗れぬ……こたびこそは、敗れられぬ」

 

 うわ言のように、というにはあまりに力強く発して、侍は大太刀を振るった。脳裏にチラつく幻影は、雪降る城下町、暖かな港街、童の微笑み、その陰り。

 

「クソッ!」

 

 この男は、なんだ。あの焼き抉られた肩を見ろ。剣を扱えるはずがない。それがどうだ、むしろ技の冴えが増しているではないか。攻めあぐねているうちに《火与》の効果も切れて今や防戦一方、後ずさる古老の前で、侍は腰を落として刀を右脇に構えた。

 

 そこからは、まさに怒涛の猛襲だった。

 

「おぉッ……!」

 

 逆袈裟、刃を返し片手打ち、低く跳んで回転斬り、着地する前にもう一振り、足をつけて横薙ぎ、攻撃の拍を早めての袈裟がけ。

 

 息つく暇など与えはしない。弾けども弾けども止められはしない。斬撃の瀑布、剣閃の舞。

 

 これぞ侍の会得せし奥義が一つ。浮舟渡りである。

 

「くたばり、損ないが!」

 

 捌き切れず、苦し紛れに突きつけた弩が叩き割られた。続けて、体を回して繰り出される下段払い。これを跳ね越え、古老は対手の肩を蹴って大きく退がった。

 

「ぬうっ!」

 

 侍は衝撃と激痛をこらえられず転倒した。さすがの彼も、すぐには起き上がれない。

 

「ゲホッ、ゲホッゲホッ! っく、はぁ」

 

 しかし古老もまた、体勢を崩して血反吐を吐いていた。

 

 自分の複製を遠隔操作するという、人に生来備わっていない機能をもたらすがために、脳に瞳を得るなどとも形容される《分身》。異能の代償は、二人分の消耗が術者の心身に蓄積すること。そこに《加速》をかけ、さらに本体との同時行動。鎮痛剤でごまかすにも限度がある。おしなべて短命な種族である蟲人のうちにあって、異常なほどの齢を重ねてきた古老の肉体は、もう壊れかけているのだ。

 

 こんなはずではなかった。

 

 掠奪を繰り返して拿捕した船があっても、乗り込む人員が不足した。後援者(パトロン)から引き出せたのは暗殺集団と武器弾薬、それと大筒を搭載した軍船一隻まで。だから《天候》で敵の連携を断絶させ、数の差が露呈する白兵戦を極力避け、とある筋から入手した薬で洗脳した蟲を利用して戦力の穴埋めを試みた。そうしたうえで鯱を釣り出し、分身に道連れにさせる。そのつもりだった。

 

 旗船への冒険者の侵入を許し、破壊工作を受けたせいで手下を逃がさねばならなくなり、侍相手に片手間で一騎討ちを演じる羽目になった。これによって鯱との戦闘に集中できなくなり、切り札となる魔術も使えないまま分身を亡失した。それどころか、今や自身の命すら危うい。

 

 そもそも、この海戦自体が不本意なのだ。本来の計略ではもっと街に接近し、(おか)に伏せていた兵と時宜を合わせて攻め入り、公女を拐かして交渉に持ち込む流れだった。その用意は昨日、冒険者たちに台無しにされた。

 

「冒険者……冒険者。冒険者、冒険者、冒険者ァ!」

 

 己と街との因縁とはなんの関わりもない部外者の分際で、よくも。憤怒の焦熱が、灰になりかけている古老の生命の薪木を、再び燃え上がらせた。

 

「《セメル(一時)……キトー(俊敏)……オッフェーロ(付与)》!」

 

 《加速》。足もとに落ちていた、手下の持ち物だった舶刀を二本拾い上げ、四刀にその速度を纏わせて跳びかかる。もう分身のために見当識を分割する必要もない。これが、正真正銘の全力だ。

 

「なん、と……!」

 

 ようやく立て直した侍を襲ったのは一撃、いや四連撃離脱の波状攻撃。反撃どころか受け太刀も満足にできず、交差するごとに装甲が削り取られていく。

 

「俺たちは、自由だ! 自由になるんだ! 生も、死も! 誰にも奪わせねぇ!」

 

 交差するごとに、互いの死が近づいてくる。砕け散りそうな体を気力だけで駆動させながら、古老はまだ焼け残っていた思考力の欠片を酷使し、算段を組み立てていた。

 

 鯱の性情は熟知している。あの男は引かない。必ずこの船に乗り込んでくる。それまでに侍を仕留められればよし。さもなくば二対一、この体は耐えられない。だからそのときは、切り札を投入する。まとめてやるには最適だ。

 

「殺す」

 

 頭を使うのもここまでだ。あとは殺すだけ。絶対に殺す。どう足掻こうと殺す。古老は感情のまま船板を軋ませ、本能のまま剣を操った。あまりに疾く、四つ腕を超えて六臂の阿修羅のごとく。

 

「捉え、られぬか」

 

 研ぎ澄まされた怒りと殺意の塊を前に、侍はかろうじて耐え忍んでいた。あの敏捷に攻防一体の四刀、つけ入る隙など見当たらない。いっそ雷を招来して回避も防御もねじ伏せてくれようか。いまだ表面に水気を残した具足が、その選択肢を拒絶する。海水の導電性の高さなど彼の知るところではなかったが、鉄鎧を帯びている時点でどのみち論外、制御不能となった雷で自滅するだけだ。

 

「ならば」

 

 ここで彼は、あろうことか刀を鞘に納めた。代わりに手にしたのは大弓だ。敵の凶刃は籠手の一部を犠牲にして凌ぎ、弦を引く。肩を負傷している現状では威力も精度も十全でなく、放たれた矢は船上の装飾となるのみ。

 

「当たらねぇと言っただろうが」

 

 躱しては、射かける。射かけては、躱す。《加速》を使う以前と変わらず一射たりとも命中せず、また躱すといっても躱し切れているわけではない。解体されていく防具の裏からは、鮮血が流れだしていた。

 

「数を重ねればどうにかなるとでも!」

 

 矢が尽きるのが先か、力尽きるのが先か。古老は今度こそとどめを刺さんとして、足に力を込めた。

 

「ああ、そうだ」

 

 その右足が、沈んだ。

 

「重ねれば、崩せる」

 

 大矢でなくとも万全でなくとも、侍の弓はなお強力。突き立った幾本もの矢が甲板にヒビを走らせ、飛蝗人の脚力が思い切り踏み抜いたのだ。

 

 侍はすでに弓を背負い、刀の柄に指をかけている。それを見て古老は直感した。次の一挙動は、脱出のために費やしてはならないと。あれは、なんとしても止めなくてはならないのだと。

 

「喰らえ!」

 

 ありふれたかけ声は注意を引くためだ。左右から挟み込むように投射した一対の鉤剣は、ただの牽制だ。一度嵌まった手にもう一度かかる愚鈍でもあるまい。弾くはずだ。弾けば、止まる。仕切り直すのはそれからでよい。

 

 侍は、これを、弾かなかった。

 

「はぁ、あぁッ……!」

 

 侍には、剣の習い先が二人いた。一人は彼が師と呼ぶ、異端の技を遣う外来の武芸者。もう一人は、彼に剣の基礎を仕込んだ祖父だ。

 

 抜いたと思ったときには対手はもう斬られており、斬られたと思ったときには二の太刀を浴びている。祖父は、まさしく剣聖だった。

 

 いつの日か追いつき追い越せと望んだ、祖父の背中が。

 

 今日この日の、類稀な強者との血戦が。

 

 そして、あの日穿たれた傷痕を疼かせる、宿敵との戦いの記憶が。

 

 侍の刃を、新たな位階へと押し上げる。

 

 深く。低く。踏み込み、投じられた剣の下を掻いくぐる。直前に放った矢のあとを追って、ただ一歩で間合いを詰めた。阻むのは舶刀二振り。

 

 ——遅い。

 

「ッつあァァ!」

 

 居合一閃、電光石火。阿修羅の腕をも斬り落とす。

 

「ぐっ……《カエルム()……テッラ()……》」

 

 剣もなく弩もなくとも、彼はまだ戦闘能力を失ってはいない。古老は腹の底からせり上がってくる苦悶の声から、力ある言葉を削り出した。

 

 それも、遅い。

 

「させぬ」

 

 侍の左手が首を掴み締め、呪文の最後の一節を握り潰したのだ。

 

「うおォ!」

 

 片手で引きずり上げた相手の体を振り回し、主人のもとへと帰ってきた鉤剣に対する盾とする。そのまま甲板へ打ちつけ突き破り、浸水の進む船内へ自分ごと叩き落とした。

 

「かはっ!」

 

 拘束を解かれた気道に反射的に空気を送り込んだ古老の、暗くなりつつあった視野に明度が戻る。彼の複眼すべてが、両逆手で振り上げられた大太刀の白刃を映していた。

 

「終いだ」

 

 心の臓を狙い、刺し通す。刀を手繰り戻した侍の前で、破滅的な量の血液が大輪の花を咲かせた。

 

「はっ、はぁ、はぁ」

 

 弾みでよろめいて数歩退がり、彼は片膝を折った。火傷と出血で、こちらも限界だ。残心すらままならぬ。

 

「……そう、か。この辺りが、俺の……ゲホッ、ガフッ!」

 

 だが古老は瀕死ながらも、まだ息があった。蟲人は、内臓の位置も只人とは異なるというのか。

 

「まあ、殺しているんだ。殺されも……するさ」

 

 喉を突くべきだった。己の詰めの甘さに歯噛みする侍は刀を杖にして立ち上がり、古老はそれより先に末期(まつご)の呼気を吐き出した。

 

「《ウェントス()……ルーメン()……リベロ(解放)》」

 

 呪詛と共に。

 

「おのれ——!」

 

 収束する光耀。解き放たれる疾風。よりにもよって術者を中心として発動された《核撃(フュージョンブラスト)》が、侍の眼前で爆裂した。

 

 それは船を半ば以上呑み込み、大筒の装薬を誘爆させた。砲弾が四方八方へと弾け飛び、周囲の海賊船や近づきつつあった討伐船団の船を打ち据える。

 

「うわぁぁぁっ、なんだ、何が起きた!」

「敵船が吹っ飛んだぞ!」

 

 自由への先駆け号も例外ではなく、後帆柱(ミズンマスト)が半壊させられた。

 

 そんななか、船上の妖精弓手は、自らを取り巻くすべての音が遠ざかる感覚に襲われていた。なぜなら、たった今木端微塵になった船には、彼が。

 

「そんな……カラドタングゥゥゥ!」

「呼んだか」

「うぇいっ!?」

 

 いた。わりと近くに。鯱の肩を借りて、立っていた。

 

「なん、えっ、どう、どうやって!?」

「フ、フフ。()()の生還、というやつ、だ」

 

 冗談めかして言った鯱は緊張の糸が切れたのか、その場に倒れ込んだ。支えようとした侍も同様だ。

 

「って、酷い怪我じゃない! ねえ! 治療お願い!」

「直ちに!」

 

 走り寄ってきた蜥蜴僧侶が、二人の容態を改める。まず侍は、傷の数こそ多いものの急所は外れている。いや外したのかと、彼の技量のほどに感嘆した。

 

 鯱のほうはというと、こちらは肝をやられている。放っておけば失血死もありえたが、出血はすでに収まっていた。この男、鉄砲用の火の秘薬を使って傷口を焼き固めたのだ。止血の代わりに傷自体は悪化してしまう、荒療治どころではない乱暴極まる処置ではあったものの、その急場凌ぎの甲斐あって一命を取り留めたわけだ。

 

「ふぅむ、これならば」

 

 蜥蜴僧侶は患者たちのそばに趺坐し、祝詞を詠んだ。

 

「《傷つきなおも美しい蛇發女怪竜(ゴルゴス)よ、その身の癒しをこの手に宿せ》」

 

 《治癒(リフレッシュ)》、その恩恵を分散させての範囲回復だ。効果量は落ちるが、別々に施術する余力がないのだ。二人とも重傷の中でも比較的マシな部類の重傷だったのは、幸いだった。

 

「感謝する、御坊。それで、戦況は」

 

 腹に手をやりながら身を起こした鯱が尋ねると、蜥蜴僧侶は長首で海上を示した。

 

「ご覧のとおりに」

 

 戦域を囲う嵐は、急速に勢力を弱めつつあった。元より魔術による強引な天気の改竄、いつまでも維持されるものではない。

 

 次々と嵐から抜け出した軍船が、逆に嵐に逃げ込もうとする海賊たちを追い立てる。形勢が逆転しかけていたときに旗船が爆沈したことで、勝敗は決定づけられたのだ。

 

 歌い終えた吟遊詩人が、水夫たちから称賛されている。空には蜂の羽音もなし。あとは。

 

「GIRRRI」

 

 この大鎧熊蟲をどうするかだ。

 

「……戦う意志は、もはや持たぬと見えるが」

 

 大矢を手にした侍の所感は、ある意味では正しかった。船からも虎鯨からも関心を失い、どこかへ泳ぎ去ろうとしているようだ。

 

 どこへ。鯱は気づく。

 

「面舵一杯! あの蟲を追え! あれは、街に向かっている!」

 

 にわかに、今一度、水夫たちが慌ただしく動きだした。虎鯨も攻撃を再開する。

 

「GIRIRRR」

 

 されど一顧だにせず、大鎧熊蟲は遠い陸地だけを目指して進んでいく。古老の怨念に憑かれでもしたかのように。あれほどの巨体に上陸を許せば、ただ這い歩むだけで街は壊滅するだろう。

 

 阻止せねばならない。なんとしても。

 

「おう雷光のに、船長さん。戻っとったか。んで、こらぁ……」

 

 そのとき、甲板に上がってきた鉱人道士が辺りを見回し、状況を察してニヤリと笑った。

 

「船長さん。ちくと、使徒を呼んじゃくれんかの。あー、船一隻分ぐれぇあいだを空けて、こっち寄せてくんろ」

「構わないが。何か策が?」

「モチ。儂ゃ今回、風精を口説いただけだかんの。ここいらでいっちょ大仕事、とっときを披露したらぁ」

 

 彼が鞄をまさぐり引っ張り出したのは、古代文字がびっしりと刻み込まれた、謎の金属板だった。船縁に近づき、傷だらけの虎鯨を見やりながら文字をなぞる。

 

「《戦だ出会えい護精(スプリガン)。百折不撓の(つわもの)一人、隊伍に加えちゃくれまいか》!」

 

 右手で金属板を掲げ、左手は服の内側に隠し路銀として縫いつけてあった藍玉(アクアマリン)をむしり取った。躊躇なく海に投じると、石は水面に落ちることなく光の球へと変じ、虎鯨を包み込んで膨張していく。

 

 やがて、光が弾けて消える。するとそこには。

 

「QUIAAAA!」

 

 五倍もの体積を得た虎鯨がいた。

 

「おお、おお、これぞまさしく大怪獣! 惜しむらくは鱗がないことか! 術師殿いつの間に、かような術を会得なされたので?」

「あん地下墓地のあとよ。デカブツ相手にすんのに使えそうな手ぇ用意しとったほうがいいかと思うての」

 

 興奮しきりの蜥蜴僧侶。彼の反応に気をよくした鉱人道士は、ご満悦で白髭をしごいた。

 

「さあさ、船長さんよう。あとんこたぁ、頼んだぞい」

「ああ。最後の仕上げといこう」

 

 鯱が念ずる。虎鯨が応じる。《巨大(ビッグ)》を受けた体は、戦場においては集中攻撃の餌食にされてしまう。これまでは使いたくとも使えない術だったが、もはや彼の邪魔をする者はいない。海洋の頂点捕食者、かの伝説の大渦獣(レビヤタン)さながらに威風堂々、獲物の真前に立ちはだかった。

 

 対峙してみれば、大鎧熊蟲が小さく思えるほど。ああ、開かれた顎門の恐ろしさたるや。生え揃う牙の一つ一つに、侍の射る大矢すら及びもつかぬ殺傷力を秘めているのだ。

 

 それが、閉ざされ。噛んで、砕く。

 

「QUIIIAA!」

 

 喰い千切った頭部を天高く放り捨て、虎鯨は勝鬨を響かせる。ゆっくりと沈みゆく死骸は、海底に消えていった。

 

「……すげぇ。すげぇ!」

「見たか!? 見たよな!」

「当たり前だろ!」

 

 蟲の頭が海に飛び込む音を呼び水に、大壮観(スペクタクル)に圧倒されていた船員たちは我に返って歓声を上げた。

 

「大活躍じゃない。鉱人もたまには役に立つのね」

「なぁにがたまには、だよ。儂がおらんかったらお前さん、百万回は死んどるわ」

 

 軽口を交わす森人と鉱人。健闘を讃え合う蜥蜴人と闇人。歌う虎鯨。水夫たちの笑顔。

 

「紙が足りなくなりそうだ」

 

 嬉々として筆を走らせる吟遊詩人は、ふと手を止めて視線をさまよわせた。

 

 あの侍はどこだ?

 

「う、ぼぁぁ……」

 

 船尾楼から海を見下ろす彼は。まあ。うん。

 

『船酔いに苦しむ侍』

 

 その一文をしっかり二本線で消して、優しい詩人はたった今目にした光景を、心の奥に封じたのだった。

 

 

 

§

 

 

 

 港街の命運を賭けた戦いは、街の勝利をもって幕を下ろした。

 

 帰投を果たし、合流した冒険者たちは公賓として迎えられ、祝勝会に招かれる運びとなった。もちろん女商人も一緒だ。

 

 生きて帰った同志たちと乾杯を。帰らぬ者には献杯を。そこに冒険者と通ずるものがあるのは、必然と言えよう。航海を冒険と呼ばずしてなんと呼ぶ。船乗りもまた、冒険に生きる者なのだ。

 

 ちなみに余談となるが、迷い猫亭の面々は公女直々の招待を丁重に辞退し、代わりに連絡手段を教えていた。再会せぬことを願うと、言葉を添えて。

 

 かくして、場面は薄暮の近づく公爵邸へと移る。

 

 夕焼けから宵闇へ、海が塗り替えられていく。ゴブリンスレイヤーたちが集められたバルコニーからは、その様子がよく見えた。

 

「ほんとに平気?」

「大事ない」

 

 薄暗くとも、森人の前で顔色の白さを隠すことなどできはしない。鉱人道士に繕ってもらった着物の袖をそよ風に泳がせ、侍は多少は生気の戻った顔に薄笑いを作った。

 

 激しい戦闘やその他で憔悴した彼は観念して船室で横になった、と思いきや刀の分解清掃(オーバーホール)を始め、気が済むとやっと仮眠に入った。港に到着しても目を覚まさなかったのでそのまま交易神の寺院に搬送され、改めて手当てを受けることに。起きたのはついさっきだ。体調は、見た目ほど悪くはない。

 

「あ、そういえば……お侍さん。雷と水について、知恵を授けてくださってありがとうございました。おかげさまで、うまくいきました」

「よい。俺もお主の教えに助けられた。礼を言う」

 

 魔術師と一戦交えるなら、いかにして詠唱を妨害するかが肝要だ。仮に発声に頼らず術を発動する手段を用意していたとしても、中断させられてしまえば集中を練り直す必要に迫られる。そこで手番を一つ浪費するわけだ。

 

 女商人の助言は、確かに侍の糧となったのだ。

 

「皆様。お待たせしてしまい、申し訳ありません。間もなく準備が整います」

 

 そうやって彼らが雑談に興じていると、白い本繻子(サテン)のドレスに着替えた公女が、バルコニーに歩み出てきた。供をする二人、博士は軍服、鯱も正装だ。

 

「あの、私たち、普通の格好で大丈夫でしょうか」

 

 女神官は憂慮する。元々礼服を着ていた女商人はいいとして、冒険者たちは旅装のままだ。いや、彼女自身は神官衣が正装なので問題はないが。

 

「ご心配なく。種族であれ服飾であれ、何も咎めないのがこの街の流儀ですので」

「それは一安心ですなぁ。拙僧、只人の礼装など着せられても尻尾が収まらぬゆえ」

「つうたかて、よう。かみきり丸の鎧は、ほんとにいいんか?」

 

 問題は主にこの完全防備(フルアーマー)野郎である。

 

「ちゃんと磨いてきた。万が一ゴブリンが」

「はい、そこまでねーオルクボルグ。今日はもうゴブリン禁止。せっかく珍しくあいつらの顔を見ないまま終われそうなんだから、余計なこと言わないでよね」

「わかった」

 

 などというやり取りを見て、公女はくすくすと笑っていた。楽しげなので衣装はこのままで、よし。

 

「だが無礼講とはいかんぞ。私は事後処理のためここを離れるが、くれぐれもお嬢様に失礼のないように」

 

 咳払いをした博士が、冒険者たちに釘を刺す。すると、公女が何か悪戯を思いついたような表情を浮かべた。母親に少し似てきたかと、鯱は暖かに見守っていた。

 

「博士。貴方にも、祝勝会に参加していただきます」

「それは、しかし」

「お仕事は明日にしましょう。そのあとは、しばらく休暇を取るのです。理由はおわかりですね?」

「……御意に」

 

 二代に渡り仕える、偏屈ながらも忠義に厚い老臣へ、有無を言わさぬ労いであった。これがもっとうまく飴と鞭を駆使するようになるとますます母親に近くなるな、と鯱は期待に若干の恐怖を溶かし入れて見守っていた。

 

「お嬢。日没だ」

「そうですね。皆様、どうぞ後ろを、港のほうをご覧ください」

 

 そんな鯱に促され、公女は賓客たちを伴って手すりへと身を寄せた。

 

「この街の最高の宝物を、お見せします」

 

 夜の帳が陸海を等しく黒に染める。港湾の中心にそびえる灯台に、火が灯された。

 

 この街の灯台は、過去に一度破壊されている。

 

 十一年前。北方から湧き出した"死"の瘴気によって王国全土が厄災に見舞われた折、混乱に乗じて砂漠の国の軍勢がこの街に攻め込んだ。その際、"死"への対処に国力を傾けていた当時の王は早々に山を崩して街道を寸断し、街を切り捨てた。

 

 街を拠点とする私掠船団は公爵のもと団結して外敵を迎え討ったが、物量差に押され、港への揚陸を許してしまう。公爵自身を含む多大な殉死者と引き換えにいったんは撃退に成功したものの、撤退する敵軍は停泊する船や港湾設備にも損害を与えていった。

 

 指導者を失い、港は荒れ果て、物資も戦力も枯渇しつつあった。敵は近海を取り囲んで逃げ道を塞ぎ、再攻撃の準備を進めていた。

 

 滅亡の波が押し寄せてくる。絶望が人々を支配しようとしていたとき、旗手を継いだのが公爵夫人だった。

 

 寡婦の装いのまま船に乗り、海へ。博士や、ためらいなく追従した船長こと鯱と共に敵陣に突き進んでいく彼女を、誰もが諦念をいだいて見送った。夫のあとを追うつもりなのだろう、と。

 

 だが、彼女は帰ってきた。船ごと掠奪した物資を手土産にして。

 

 夜の迫る頃だった。港にまだ比較的小さかった虎鯨が顔を出し、彼の鳴き声が公爵夫人たちの帰還を街に知らせた。船乗りたちは驚き、慌てた。灯台は壊れたままだ。桟橋も多くは破損しており、このまま着港させるのは危険だった。

 

 そこで彼らは、停泊する自分たちの船に篝火台を立てた。燃やす木端ならいくらでもあった。港に直接設置しなかったのは、船乗りの意地がそうさせたのか。迷わないように、できるだけ明るくなるように。残存するすべての船が灯台となった。

 

 歓喜をもって出迎えられた公爵夫人は、しかし港に踵を下ろすことはしなかった。勝利するまで陸には上がらぬと宣言し、船にとどまったのだ。

 

 気高く、厳しく、何者にも屈することはない。味方からは海の女王と称され、敵からは告死精と恐れられる。出港のたび、彼女に従う船が増えていった。帰港のたび、彼女を待つ灯火が増えていった。

 

 港湾に居並ぶ船がことごとく、燦然と闇を照らす。弧を描く光の列は、高台から見下ろせばまるで輝石のようで。

 

 だから、誰かがこう呼んだ。

 

「女王の首飾り」

 

 冒険者たちの眼下に、それはあった。公爵夫人と仲間たちが、ついに勝利を手にした証。再建された灯台、軍船、商船に漁船までもが、玉光を放っていた。

 

「お母様が、そして皆様が守ってくださった、宝物です」

 

 そのすべての煌めきが凝縮された、何より美しい宝石が一粒、公女の潤んだ瞳からこぼれ落ちた。

 

「わぁ……うわぁ……!」

 

 女神官は、言葉もなく見入っていた。彼女だけではない。皆、溜息なりうなり声なり、意味をなさない音を漏らすばかりだ。

 

「……守れた、のか。俺は」

 

 少しして、侍はごく静かにつぶやいた。気づいた妖精弓手が目にした彼の面相は、今までになく柔和だった。

 

「これが、冒険よ。悪くないでしょ?」

 

 ゴブリン退治以外の、まともな冒険に彼を連れ出すことができたのは、これが初めてだ。冒険者の道に誘った張本人として、先輩は満足げだった。

 

「まこと、よいものだ。水軍どもに挑み、宝を勝ち取った。挑戦と、達成か」

「発見は?」

「……俺は、船が不得手だとわかった」

「ぷふふっ」

 

 この男、こんな冗談が言えたのか。それとも本気か。妖精弓手はしばらく肩を震わせていた。

 

「さて、そろそろ室内に戻るとしよう。今日の主役たちを、皆が待っている」

 

 頃合いを見計らって、鯱が宝箱の蓋を閉じる。戦利品の確認が済んだなら、次は宴の時間だ。

 

「だとよ、かみきり丸。今度ばっかしは逃さんぞ。潰れっちまうまで飲ませちゃるかんの!」

 

 肩に手を回す、には背丈が足りない鉱人道士は、ゴブリンスレイヤーの脇腹を肘で小突いた。すると。

 

「ああ。たまにはつき合うという、約束だ。それに」

 

 逡巡から言葉を区切り。

 

「仲間、との時間も、大事にしなくては駄目だと。()()()に言われたしな」

 

 なんて続けた彼の調子が、まるで親の言いつけを素直に守る子供のようで、事情を知る者たちは思わず吹き出してしまうのだった。

 

「だっはっはっは! ほうかほうか、さしものかみきり丸も、嫁さんにゃ敵わんか!」

「違う」

 

 否定の句は笑い声に押し流され、彼はもう何かを言い返すのは諦めた。

 

「そうだ、せっかくだから乾杯の音頭もやってもらいましょ!」

「ほほう、それは妙案ですな」

「同感だ。こちらからもぜひ要望したい」

 

 閃いた! と妖精弓手が指を鳴らせば(鳴らなかった)、割合とノリのよい蜥蜴僧侶が顎を上下させる。ついでに主催側の許可も下りた。

 

「……俺がか」

「適任だと思いますよ」

 

 女商人も同調。ゴブリンスレイヤーは助けを求めて女神官を見た。

 

「何事も経験、やってみるべきです!」

 

 侍を見る。

 

「これも(かしら)の務め」

 

 孤立無援であった。

 

「……わかった」

 

 それきり、彼は黙ってしまった。口上を考えているのだろう。必死に。真面目に。

 

「こら、今夜は特別うまい酒が飲めそうだわい。のう雷光の、お前さんとはいっぺん勝負してみたいと思うとったんだが、どだ?」

 

 上機嫌でほどよく軽くなった太鼓腹をさすりつつ、鉱人道士は空気の杯を傾けた。鉱人に飲み比べを挑むなど、素手で獣を狩ることにも匹敵する無謀だ。さりとて侍も只人の枠を外れた大酒豪(ワク)。これはよもやがあるやもしれぬ。

 

「すまぬが、今宵は飲まぬつもりだ」

 

 ところが、驚くべきことに。侍は首を横に振った。

 

()席の続きを、と約したゆえな。それに、舌が回らなくなっては困る」

 

 しゃがみ込んで目線の高さを合わせ、彼は公女に微笑みかけた。

 

「茶請けは、蹴鞠好きの武士の話でよいか」

「はい。憶えていてくださったのですね」

 

 あの場においてはふさわしからぬという自覚のある、わがままな頼みだった。もうそれを恥じる理由はない。今は、公女は少女でよいのだ。

 

「じゃあさじゃあさ、私もお茶菓子出したげる。聞いたことない? 森人の焼き菓子」

「あの、叙事詩に語られる、秘密の製法で作られるお菓子ですね」

「そうそれ。とーってもおいしいんだから。カラドタングにもあげるわ。食べたことないでしょ?」

「うむ。楽しみにしておこう」

 

 少女は今夜、生まれて初めて夜更かしをする。侍の口から紡がれる異国の物語に胸を躍らせ。見たことのない菓子を頬張り。鉱人道士と船大工の棟梁の飲み比べを応援し。最新作を完成させた吟遊詩人の歌声に聞き惚れて。

 

 夢のようなひとときは、やがて本当の夢に変わる。母のぬくもりを感じながら舟を漕ぐ少女は、まばゆい明日へと旅立っていったのだ。




◆《巨大》◆

 護精の加護を求める精霊術。

 同意を得た生物を身につけているものごと一時的に巨大化させ、相応の筋力と強靭さ、重量を与える。ただし細かな動作や回避行動は難しくなるため、使いどころを見極める必要がある。

 護精は精霊たちの財宝を守る峻厳な番人であり、しかるべき対価を払えぬ者に力を貸すことはない。

 御利益に期待するなら、御寄進を惜しまぬことだ。






◆派生攻撃・追い斬り◆

 矢を射たあとに、前方に大きく踏み込む居合を放つ、侍の見出だした新たな戦技。

 飛び道具を打ち、追い、瞬く間に距離を詰め、斬る。それは元来、彼の流派に属するものではない、忍びの技だ。

 あらゆる流派を貪欲に、無心に飲み込んでいく。これもまた一つの、異端の剣の形であろう。






◆冒険の記憶・舞風の章◆

 侍の心中に息づく、冒険の記憶。すべてを失った男の、ありえないはずだった新たな思い出。

 出立の朝、吟遊詩人も馬車に同乗させることになった。出来上がったばかりの歌を、一刻も早く世に送り出したいのだと。

 南の街を舞台とした武勲詩は人々を大いに楽しませ、その中で侍の活躍もまた、広く知られることとなる。

 竜骨砕きの異名と共に。

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