・3月7日 7:05 シンガポール ブンケン地区
昨夜しこたま酒をかっくらったはずなのに、強い朝の日差しで意識が覚醒してしまった。
近藤悟は咳払いをして喉にからみついた痰を取り払うと、サッシを開放してすっかり見慣れたマリーナベイサンズ、そしてシンガポールフライヤーを仰ぎ見た。強烈な陽射しは近藤の瞳孔を限りなく萎め、思わず目を背けてしまう。だがこれで、完全に夢の世界から戻ってきた。
昨日半端になっていたワイルドターキーは、まだ瓶に半分ほど残っている。近藤はグラスにロックアイスを入れ、割るものもなしに喉へ流し込んだ。熱い感触が喉から食道を駆け抜け、胃に流れ落ちるのがわかった。
かまわず二杯目を口に駆けつけさせ、ソファにどっかりと腰を下ろした。すると昨日のアルコール残滓が脳裏を強烈に刺激し、鈍い痛みが脳天を楯突く。大きく息を吐き出すと、グラスいっぱいにワイルドターキーのおかわりを注ぎ込む。
アルコールの作用と適度な二日酔いで身体が熱ってくるのがわかる。もう少ししたらシャワーでも浴びて汗を流し、朝の食事でも摂りにいこう。近くのホーカー(大衆屋台市場)にするか、向かいのラッフルズホテルでモーニングと洒落込むか、あるいは、飲みすぎて外へ出るのも億劫になり、結局Uberでチキンライスとラクサでも頼むことにするか・・・。
だが脳内で空腹と相談しようとしても、結局さっきまでみていた夢の中身へと意識が戻っていってしまう。これは酒ごときでは振り払えないと判断した近藤は、苛立ち気味にグラスをテーブルに置くと、シャツとパンツを脱いでシャワーを浴びることにした。
『いつ、逢える?』
昨夜、数ヶ月ぶりに緑川杏奈から来たメールは、わずか7文字だけだった。その7文字を送信するのに、どれほどの躊躇と葛藤があったのか、近藤は感じ取れた。
そのメールを受けて、一気に日本のこと・・・もっといえば本来の仕事のこと、そして緑川のことが気になってしまった。毎日酒と睡眠、時折女性遊びといった怠情な生活で紛らわせようとしていた、そして避けようとしていた現実から、強引にも引き戻された。
シャンプーの泡を洗い流しても、しばらくの間近藤は俯いて、ただただシャワーの水が頭皮を叩き、顔や身体を伝っていくのもかまわず、項垂れるようにして目を閉じた。
3年前だった。東京・汐留に上陸しカマキラス、そしてガイガンと争うゴジラの様子をすべて動画に収め、自身のYouTubeチャンネルにアップしたところ、瞬く間に再生回数が3億回を突破した。その後出現したギドラとゴジラが浜名湖で激突するところも、遠巻きながら撮影したところ、合わせて20億回越えの再生回数を弾き出すことができた。
広告収入は10億円を上回り、これまでせいぜいが月5万円程度のYouTube広告収入とさまざまな媒体に寄稿した原稿料暮らしの貧乏ジャーナリスト生活から一変した。その後も日本、そして世界各国が立て続けに出現する怪獣の恐怖に怯え、日常生活が崩壊する中でも月にして数千万円の広告収入が継続して得られるようになった。
だが・・・億万長者になった途端、言い寄ってくる連中が引を切らなくなったのも事実だった。金の成る木と見たのだろう、国内外の有名無名YouTuberからひっきりなしにコラボ動画依頼が舞い込むようになった。はたまた、街中、あるいは自宅付近で突然凸され、ムリやりコーラを飲まされそうになったこともある。
そのほか、有象無象の出版社から取材要請・・・中には、取材後掲載料を支払えとのたまう悪質な企業もあり、すっかり近藤は辟易してしまった。
そのようにすっかり著名人となった弊害だろう、あるときから近藤は、おかまいなしに突撃してくるYouTuberやストーカーのような輩とは異なる連中が、自身の後をつけてきているのを察知していた。おそらくは・・・とも思っていたのだが、極秘裏に会っていた、緑川杏奈との逢瀬のときにはっきりした。鮮烈なスクープ記事で有名な、あの週刊誌だった。
緑川とは、ギドラが南洋海上から名古屋を中心とした東海地方を襲った際、知り合ったことが付き合いをするきっかけとなった。
ゴジラとギドラが浜松市から浜名湖を荒らし周り、遠州灘へ消えるまでの間、行動を共にした。部下を喪い消沈した彼女を、近藤はごく自然に抱擁したのだ。
そこからは、大人の関係となった。彼女が自身を逢瀬を重ねるごとに元来の気丈さを取り戻していく様子は、金の匂いを嗅ぎつけたハイエナたちに悩まされていた近藤の癒しとなった。それでも、お互い立場がある身だ。それに、時折緑川が見せる不安定さも気になっていた。
ごく当たり前のように、恋人同士の逢瀬を済ませて、当時まだ存在していた東京・池袋のホテルを出た際に、2人の記者に詰め寄られた。
狼狽する緑川を見て、近藤は「後日こちらから取材に応じる。今日のところは勘弁してくれ」と記者に告げ、動揺が収まらない緑川を大阪へ送ると、週刊誌の本社を訪ねた。
そこで、「自分がキャバクラや風俗遊びに没頭していることを記事にして良いこと」を条件に、緑川の存在は記事にしないよう取引を持ちかけた。週刊誌側はその取引を呑んだ。
翌週には、近藤の評判が激しく毀損することとなった。それはかまわない。本来事実ではないことであるし、緑川を保護する目的も果たせた。この記事が出されたことで、ハイエナたちの動きも幾分かおとなしくなったこともある(相変わらず突撃系YouTuberはまとわりついてきたが)。
だが、自身の行為は、真実を著しく曲げることであった。そしてそれは、「いつ何時も真実を世に解き放つ」ことを信条としていた近藤のジャーナリスト魂の根幹を、激しく揺さぶることとなった。
以降、緑川に会うことはなくなった。空気を察した緑川から、連絡がくることはなかった。だが、揺れ動く彼女の精神がアルコールに逃避することは、容易に想像できた。近藤も同じだった。
そんなときだった。ジャーナリスト仲間の稲村友紀から、「すごいとくダネがある」という相談を持ちかけられたのは。
紆余曲折あり、近藤は稲村が文字通り命をかけて守り抜いた原稿を持って、日本を離れることになった。元より稲村は、日本の大物国粋主義者で、国家を裏で操っているとされる大澤蔵三郎のエージェントを務めており、その縁で近藤も大澤に謁見する機会は多かった。
日本を離れニューギニアに潜伏したのも、大澤の手配によるものだった。ほとぼりが冷め、ニューギニアのグミピ長老から「最後の希望と災いの影」なるものの調査を依頼されていたことで、日本へ戻ろうとした矢先、再び出現したゴジラとギドラにより南関東は崩壊。
物理的に帰るべき地を失ったこと、そして何より、事実上の日本崩壊を受け、かねてからブレていた自身の魂が完全に折れたことで、近藤は帰国を断念。数十億円に達した豊富な資産を元手に、大澤の助力を得てシンガポールへ移住。以降は、適当に資産運用をしながらこうして自堕落の日々を送ることに決めた。
昨年の10月に、とある仕事をこなした上で日本へ一時帰国した以外は、特にすることもない日々。数年ぶりに緑川と逢瀬を重ねたが、それすらもいまの近藤には虚しさを募らせるばかりだった。
そこへ、緑川からのメールである。まるで、「あなたはいつまで、そうして腰砕けになったまま燻ってるの?」と問われているようだった。そして示し合わせたかのように、もう一人、近藤へ連絡をよこしてきた人物がいる。
斉田公吉。去年緑川と別れたあと、図々しくも声をかけてきた、あのイケすかない興信所の所長だ。
「お久しぶり。近藤さん、ぜひ日本へ戻ってきてほしい。いま日本の若者たちがどのような立場に置かれているのか、あなた自身の声で真実を発信してほしい」
そんなメールが、昨晩遅く入ってきた。
自分の魂が、ゆらゆらとカゲロウのように沸き立ち、そしてゆらめくのを感じた。そこから、しこたま酒をかっくらった。
だがどれほど酔おうとしても、かえって意識が覚醒するばかりだった。
冷水を浴びた身体は、かえって火照り出した。さっきあおったワイルドターキーの作用もあるのだろう。
近藤はタオルで全身を激しく弄りながら、パンツ姿でソファに腰を下ろした。またロックアイスをグラスに放り込み、ワイルドターキーを一気飲みする。そこで口と鼻を押さえて空気を遮断し、気化したアルコールを体内に巡らせようとした。
大学生のときだ。バカな同級生たちの間で流行った飲み方だ。こうすることで、一気に酔いが回るのだ。おかげで仲間の半数が卒倒し、救急車を数台呼んでこっぴどく叱られたのも、今となっては良き思い出だ。
だがそれすらも、近藤の意識をまどろませることはできなかった。さらに目一杯グラスへ茶色い液体を流し込み、グイッと呑み込む。
もはや、自身の葛藤も迷いも打ち消す何かが、近藤の身体の中心にそそり立った気がした。やめてくれ、もう少し迷う時間を用意してくれ・・・酒の力を借りて必死に叫んでも、近藤の魂はガンとして受け付けないのだ。
中のアイスが溶け切っていないグラスを割れんばかりに握り締めると、近藤は壁に向かって思いっきり投げつけた。派手にグラスが砕け散るのもかまわず、近藤は激しい息遣いを整え、怒りに満ちた顔を、忌々しいばかりの朝日に向けた。
・同時刻 中華人民共和国 広東省広州市従北区 悌面村
※シンガポールと時差はない。
「このドラ亭主が!」
心地よい眠りは、鬼嫁である楊頌理のダミ声と殴打で見事妨げられた。
いきなり頭を殴りつけられたことにムッとしたものの、楊天如は言い返すことも抗議することもせず、固い床に敷いた南京虫だらけのゴザから身を起こした。楊の家庭は中国の夫婦関係において、極めて典型的な「妻管厳」なのである。
注・妻管厳・・・かかあ天下
「何してくれてんだい、金の成る木が逃げちまったじゃないかい!」
鬼嫁の罵声に、頭をかくフリをしながら耳を塞ぐ楊。
(おかしいな、しっかり檻に囲っているハズなんだが・・・)
そう心の中でボヤきながら、楊はボロ家のわきにある小屋へ入った。そこで、錆びているとはいえ人間の指ほどはある鉄で形取られた檻が、見事両断されているのを目にした。
「どうすんのさ!卵なんてあと3つだよ!せっっかくの春節だってのに商売上がったりじゃないかいい!!」
ヒステリックに叫ぶ鬼嫁を無視して、楊は檻を確認した。
おかしいのだ。
錆びて崩れたのではない。何か鋭利なもので切断されたような・・・そしてその断面は、汚らしい青錆にまみれた檻に相応しくない、ごく美しい断面であった。何せ、鏡のように楊の寝ぼけ顔を映し出すくらいなのだから。
3ヶ月ほど前だった。
ここで屋台を営む楊の元に、闇市の商人である于が訪ねてきた。
「珠海で昨日上がったものだ。何かの卵らしいんだが・・・楊、買ってくれはしないか?」
卵、というには、いささか大仰だった。パイナップルの倍近いその大きさは、まるでゴツゴツした岩のように膨れ上がっている。
「コイツのどこが卵だよ。どっかの鉱山から持ってきた岩なんじゃないのか?」
そう悪態をついた楊だったが、于は顰めっ面になって否定した。
「何やら、南洋の島でたくさん孵化してたらしくてな、肉付きのよい鳥が何羽も生まれたって話なんだ。なあ頼むよ楊。先週、ドブネズミを100匹納品してやっただろ?」
そう言われれば、無碍に断ることもできない。
「オレがコイツを300元で仕入れたから、安くしといてやる350元でどうだ?」
「むうう・・・わかった」
楊は現金が入ったザルからいくばくかの赤い紙幣をつかむと、于に渡した。
※于は「どうせ引き取り手もないだろうから」と、珠海から持ってきたこの卵をタダでもらった。350元丸儲けである。
楊の屋台は主に羊肉の串焼きとされるものを販売している。
実際は羊肉など、採算に合わないので使うことはない。于のような商人から、トカゲや鹿、イノシシ、そしてときにはネズミを買い入れ、それらを誰にも見つからないように「こっそり」調理し、羊の血で満たされた壺に数時間漬け置きした後、すっかり羊の風味がついたそれらを羊肉として焼いて売るのである。
技術も学もない楊のような者にとって、気軽に始められる商売だ。
ときにはよくわからない鳥を使うこともあり、楊はこの得体の知れぬ卵を自宅傍の小屋に放置していた。
ひと月ほど経った頃だった。ここのところ鹿やトカゲの肉が入らず、どうやってネズミを買い上げるか苦心していた頃、小屋から音がした。
見ると、岩のように固い殻を破り、三角形の頭をした鳥が粘液まみれの顔を覗かせていた。
しばらく様子を見ていると、その鳥は殻を破って出てきた。羽毛がなく、始めから翼がある鳥なんぞ見たことがない。
すでに中型犬ほどのその鳥は、近寄る楊に対して激しく威嚇してきた。驚いた楊は近くにあった鍬で、鳥の頭を叩いた。三角頭に横一文字、パックリと傷を作った鳥はややするとおとなしくなり、地面に項垂れた。
とりあえず、これだけあればしばらく肉には困らないだろう。楊は近所のゴミ処理場(などと書けば聞こえが良いが、実際は人口1500万人の広州人が捨てたゴミをただ山積みにして、自然に還るまで野積みにしておくだけの場所である)へ赴き、鼻がひん曲がるような悪臭に耐えて、青錆だらけの檻をかっぱらってきた。
驚くべきことに、その鳥は頭の傷こそ残っているものの意識を取り戻し、キャーキャーと鳴いていた。
ひとまず檻に入れ、明日の朝一番で羊処理場へ行って羊の血を用意するべく、そのときは早めに床についた。
翌朝、今日と同じように鬼嫁に文字通り叩き起こされた。小屋へいくと、例の鳥の足元に卵が3つ。しかもうちひとつは殻が割れて、ドブネズミ程度の雛が産まれていた。ただしその雛も、すでに形が完成されていたのだが。
早速雛を包丁で両断し、いつも通り羊の血に浸けて「羊肉」として販売した。昼を迎える頃にはもう2つ卵を産んでいて、先の卵からは雛が孵っていた。
それからは笑いが止まらなかった。何せ、商人から材料を買い付けることなく、タダで肉が手に入る。産んでは孵り、楊が捕殺する。そして「羊肉」として焼いて売る。
商人の于は、簡単に稼げる先を失って途方に暮れた。むしろ、捕殺した鳥の肉を于に売りつけてもオツリがくるくらい、産めよ増やせよが成功していた。
こいつが人間だったら、急激な人口減少に悩む習主席もさぞかしお喜びになるだろうな・・・などとテレビのニュースを観ながら思ったものだ。
最初の鳥・・・頭に傷を作った鳥は、エサを与えなくともどんどん卵を産んだ。日に日に、少しずつ大きくなっていくような気もするが、金の成る木、打ち出の小槌。ただひたすら、与えず恩恵を被る日々が続いた。
そういえば昨日、コイツの啼き声がひときわ大きかった。さすがに飢餓に耐えかねたのだろう、産んだ雛を片っ端から食い荒らしていた。
大事な商品を喰われてはかなわぬ。楊は棍棒で、死なない程度に殴りつけた。そういえば、いつの間にかこの鳥、自分と同じくらい大きくなっていた。
そして、どうやら眠っている間に、逃げてしまったようだ。
「こんな安物の檻なんか使うからだよ!この甲斐性無しが!」
真っ二つになった檻を前にして怒鳴りつけてくる鬼嫁。
「うるせえ!ガタガタ抜かすと、お前を鳥に喰わすぞ!」
とは、口が裂けても言えない楊であった。