・3月15日 19:47 大阪府大阪市中央区天満橋 うどん屋 「あしやん」
「それじゃあ、同期3人の再会を祝してー!」
「「「乾杯!!!」」」
緑川の音頭で、四人掛けのテーブルに腰掛けた進藤と斉田の3人は、ビールがなみなみと注がれた大ジョッキを勢いよく重ね合わせた。
「くあー!」
「やっぱたまらんわ〜!」
「この瞬間のために生きてるようなモンだ」
三者三様、口々にビールを含んだ吐息を満載させて、五臓六腑に染み渡った歓喜の声を吐露する。
「や〜、やっぱアレやな。ここで飲むんが一番やな!」
早速ふた口目を口に含んだ進藤が、なおも黄金の液体がもたらす作用に身体を震わせながら言った。
「やっぱりなあ緑川、お前がチョイスしたトコなんかよりも、オレらの原点!ここで飲むのが一番だよってな!」
斉田が隣席の緑川の肩を叩く。時世的にともすればセクハラになりかねないが、当の緑川は苦笑いして頷き、ビールを一気にあおる。
「ごめんねぇ〜、偉くなっちゃうとどうしてもああいうところに行っちゃうんだあ」
斉田を真似して緑川もグイッとジョッキを空かす。
会話の内容にあった通りだった。斉田が関西を拠点に活動を始めたことで、緑川と進藤が斉田を招き、同期3人組の会合を設けることになった。
その際、緑川は会社の業務で利用回数が多い、梅田近辺のシティホテル内にある高級中華料理の店で執り行うつもりだった。ところが、良くも悪くも形式ばった画一的で丁寧すぎるサービスは、ある程度年齢を重ねたとはいえ同期の会合にしては、やや不釣り合いで合った。やがて数皿の料理と数本の高級紹興酒を平らげたところで、他所へ行こう!ということになったのだ。
そこでここ。うどん屋「あしやん」である。KGI損保同期の中でも特に仲の良かった3人が、現在の観点ではスパルタパワハラな新入社員研修を終えた後、川向かいにあるKGグループ本社からここへたどり着き、ジョッキいっぱいに注がれた生ビールを浴びるほど飲みながら鬱憤を晴らしたことがきっかけで、晴れてKGI損保入社後も3人で頻繁に訪れる先となっていた。
ただ・・・断っておくが、うどん屋「あしやん」はうどん屋である。ビールサーバーとタンクを置いているとはいえ、居酒屋ではないのだが・・・。
「まったく!久々に来た思ったらお前ら、相も変わらず飲兵衛やないかい!ちぃーっとも成長してへんな!」
憎まれ口を叩きながらも、頼まれる前にビールジョッキを3つ持ってくるのは、主人である芦屋である。先代が存命の頃から緑川たち3人とは付き合いがあり、当時から底なしとも言える3人の飲みっぷりに振り回されているというわけだ。
「エエか、うちはうどん屋や!居酒屋あらへんで!」
もう何万回と耳にしたツッコミだったが、3人はお構いなしに3杯目をオーダーする。
「エエやないの大将。なんだか大将の元気な顔見たら酒進むんや」
「ホント、あたしもせっかく本社勤務になったのに、全然来れなかったから」
「杏奈ちゃん、あんた出世しよったんやろ。そらこんなしがないうどん屋来てるどこじゃないがな」
そう言いながら、芦屋は頼まれてもないのに天ぷらを揚げ始めた。お互い、気心の知れたもので、ビールのつまみに天ぷらを数種類あげて出すのが恒例になっている。もちろん伝票にも記載されるため、「頼んでへんのにぼったくりや!」と進藤に突っ込まれるまでが様式美となっている。
「それにしても」
そう斉田が声を上げた。
「大将、怒らないで欲しいんだけど、一頃に比べて、その、お客さんいないんじゃないか?」
いくら遠慮のない間柄とはいえ、斉田は言葉を濁しながらも訊いた。
「いや、公ちゃん言う通りや。馴染みさんもめっきり減りよったし、一見のお客さんもあんまし入って来なへんのや」
うどん屋「あしやん」は天満橋といって、大阪市内でも「キタ」と呼ばれる梅田エリアに程近い。周辺はビジネス街であり、これまでは昼夜それなりのお客が店を訪れていたはずなのだが・・・。
「まあ、アレやなあ。首都壊滅騒ぎで、大手企業といえど日本国民の所得は減る一方や。ウチのうどんかて、世界的な原材料価格高騰と極端な円安でにっちもさっちもいかん。値上げしたところで、今となれば外食のうどんかて高級食材や。かといって、インバンドいうんか?外国人がいくところは梅田やミナミの観光地や。こんな中途半端な場所まで来るのはよっぽどの物好きやでぇ」
いつもの調子で話す芦屋だったが、やはり経営は深刻なのだろう。表情の翳りが物語っていた。
「ま、あれやな。嘆いてもしゃあない。気持ちだけは明るくいかなアカンな!」
そのフレーズは、緑川たち3人が新人の頃から繰り返されてきたものだ。自分自身奮い立たせるように放ったが、過酷な社会人1年目を過ごす3人にとって、貴重な激励となっていたことを思い出した。
「・・・そうだね」
少ししんみりした空気をかき消すように、緑川はジョッキの中身を一気飲みした。斉田と進藤も続けてジョッキを空にすると、またおかわりを頼んだ。当時のことを思い出して飲み干したビールはほろ苦く、また暖かいものだった。
「どれ、テレビでもつけよか」
気分を変えるように、芦屋は帳場の上にしつけられたテレビにリモコンを向けた。
「なんやあ、また香港でデモ騒ぎかいな」
さらなるビールのお代わりに応じながら、芦屋はぼやいた。
「何やら、中国共産党もごっつい調子乗ってるみたいやしなあ」
「そりゃそうやろ。実際はともかく、ゴジラもギドラもワテら作った爆弾でいてもうたりましたーって、エラい喧伝しとるやろ。アメリカはあの通りやし、世界の覇権握ったつもりでおりよるで、ホンマ」
「ははーん、ほんでいよいよ香港と台湾をエエ加減自分とこのモンにしたろ、ちゅう話かいな。ほんな、好き勝手話されんしネットもようけ出来んような体制化に組み入れられるのなんかまっぴらやな!」
画面に映し出される、香港の大通りを大勢で練り歩き、シュプレヒコールを上げる光景を見て、芦屋と進藤が話す。大阪人同士気が合うのか、昔からよく2人でテレビにツッコミを入れながら床屋談義に華を咲かすのも、ここを訪れた風物詩である。
「ねえ進ちゃん、そういえば、ウチの香港支社を閉鎖するかって話、進展あった?」
テレビに映し出される大勢のデモ隊と、背後の摩天楼を見ていた緑川が、思い出したように進藤へ訊いた。
「んああ?どうやろな・・・まださすがに支社業務への影響は出てないんとちゃうか?」
「でもさ、何年か前の香港雨傘革命だっけ?あのときも予想以上にデモが過激化したせいで、支社の営業停止したことあったじゃない。現地邦人企業を中心に安全確保が確認されるまで業務を停止したところも多かったし。こないだの役員会議でも議題に上がってたじゃん?」
「んー、まあ、様子見やろなあ。本国の日本がこんな状態やし、かまってられんみたいなトコあるんちゃうか?」
グビグビとビールを飲み干すと、芦屋が持ってきたお代わりに口をつける進藤。
「話変わるけど」
同期とはいえ、退職した身である斉田はKGI損保内部の話題には乗り切れない。それまで口をへの字に曲げていたが、空気を変えるように切り出した。
「ゴジラもギドラも、本当に死んだと思うか?」
二人どちらともなく訊いてくる斉田。急に何を・・・そんなふうに目をパチクリさせながら、斉田を凝視する。
「そ、そらあ、二匹ともあれほど頑丈な身体やさかい、爆弾程度でいてまうとは・・・いや、中国が使ったあの爆弾・・・何やったかな、シンライだか何ちゅうかだが・・・ともかく、放射能出さず核兵器並の威力やったかな?さすがに、無傷ちゅうワケやあらへんちゃうか?」
「うーん・・・それに、あれ以来2年近くになるのに、あれっきり姿を現してないもんねえ」
「それもそうやしなあ・・・。だが、再編中の自衛隊も、アメリカ傘下のあの軍産企業・・・NEVERいうたか?前にも増して兵器充実させとるっちゅう話やろ。もしかして国は、ゴジラもギドラもまだ生きとるちゅう情報でもつかんどるんちゃうか?ほいで、なんや?オレら国民にはそれらの情報が秘匿されとんのとちゃうか?」
「進ちゃん、それは週刊誌の読みすぎ。でもなあ・・・」
思案の表情を浮かべる緑川を見た斉田が、顔を覗き込みするように首をかがめた。
「なあ、緑川。一昨年ゴジラとギドラの無双ぶりを見たオレたちからすりゃあ、どんなに強力な爆弾だろうが、ゴジラもギドラもくたばるとは思えねえよなあ?」
酔っているのか、据わるような目つきになる斉田。言い知れぬ雰囲気に、良い感じにアルコールが作用していた緑川の思考は妙に醒めた。ふいに斉田はスマホを手に取った。
「お、ちょっとすまん」
そう言うと店の外に出て電話をしてきたようなのだが、ややあって戻ってくると、
「悪い、用事ができたから先に失礼するわ。ごめんな」
そう言って千円札をいくばくか置き、「悪ぃ、じゃあな」と去ってしまった。
「ねえ進ちゃん、公ちゃんてなんか変わったよね」
「おお、そうか?」
「だってさ、彼万年金欠病患者だったじゃない。別に気にしてないけど、たまに飲んでもあたしたちにおねだりするくらい貧乏だったのにさ」
「んー、まあ、なんや仕事でも増えたんちゃうか。それにしても、妙に思わせぶりなんはオレも気になったなあ」
ともあれ、斉田は自分が飲んだ分以上のビール代を払っている。いつかまた飲む際にお返ししようということになり、二人はさらにおかわりを頼んだ。
・同日 19:12 中華人民共和国 広東省 冷抗鎮県 愛荷区
※日本より1時間時差があることに留意
「おい、そろそろだと思うが、どの辺だ?」
広東省消防局冷抗鎮分屯所に所属する消防士、栄馬順は、消防車両のハンドルを握る部下の永蘇壮に尋ねた。
「もう10分頃だと思います」
若くまじめな永は、まともに街灯もなく舗装もロクにされていない道路まっすぐ前を注視しながら、ハキハキと答える。
20分ほど前だった。近くにある安西区で起きた山林火災を消し止め、分所へ戻ろうとしていたところ、再び火災発生の一報があった。帰り際であったが、通報箇所が分所よりも近かったため、栄の車両がそのまま向かうことになった。この車両は貯水タンクを携えた放水車ではなく、車両にポンプが備わったポンプ車両であるが、水利さえ確保できればある程度消火活動が可能だ。よしんば火災の規模が大きかったとしても、初期消火くらいは役に立つ。
2年前に中国人民解放軍陸上部隊から消防局へ移った栄はもともと香港に隣接している深圳市出身ということもあり、省都である広州市から北東へ70キロほど離れたこの辺りの地理には未だ不案内だ。新入隊員ながら地元出身の永らに運転を任せ、自身は年長者として現場指揮判断をする立場にある。
「今回通報あったこの、紅番区っていうのか?あまり耳慣れない地名だが、どんなところなんだ?」
栄は相変わらずまっすぐ前を凝視する永に訊いた。
「貧困窟です」
事もなげに答える永に、栄は納得したように頷いた。
「するとバラックの並びか・・・火の移りが早いだろう、急ぐぞ」
急激な経済成長を遂げた中国では、国家を挙げて成功を讃える陰で、経済的に困窮し上昇する地価や物価に耐えきれず都市部を捨てて、山間部の寒村や過疎地域に移り住んで貧しい暮らしをする人々が少なくない。そうした人々が集まり暮らす地帯を貧困窟と呼ぶ。
中国では移住の自由がなく、これらの行為は違法ではあるが、処罰しようにもそれだけの人民を収容する刑務所や拘置所はない。従って事実上黙認状態なのだが、時たま党の上層部や政治委員の来訪がある際など、デモンストレーション的に人民武装警察や解放軍を動員してこうした違法集落を取り締まることがある。
だが違法とはいえ、火災となれば無視はできない。それに栄たちは消防が仕事だ。違反者を取り締まるのは公安や人民武装警察の役割なのだ。
ものが焼ける臭いがしてきた。ここまで臭ってくるとは、どうやら規模はやや大きな火災のようだ。木材が焦げる濃密な臭いに加え、ほのかにだが薫ってくる臭いに、栄は違和感を覚えた。そこをつんざく、搭載している無線の通知音。栄は無線のマイクを手に取った。
「こちら車両072」
『片だが』
驚いたことに、栄たちが所属する分屯所の所長だった。一瞬唖然としたが、気を取り直して無線機に耳を傾ける。
「どうしましたか?」
『お前たち、紅番区の貧困窟へ出動してるな?』
「はい、通報を受けましたので」
『紅番区への出動はとりやめる。引き返すんだ』
言葉に詰まった栄は、永と顔を見合わせた。
「どういうことです?」
自身の職務からかけ離れた上席の指示に、栄の言葉尻には怒気がこもった。
『上からの命令だ。紅番区への火災は、陸軍の広東省駐屯部隊が対応中。我々の出る幕ではない』
「そんな・・・もう軍が出動してるんですか・・・というか、現場は間もなくです。ここへ来て引き返すなど・・・」
『言っただろう、上からの命令だ!』
栄の一番嫌いな言葉だった。そして、自身が所属している分屯所の上席は、片を含めよくこの単語を口にする。
「上ってどこですか?」
案の定、片は押し黙った。消防も、以前所属していた軍もそうだが、この国は上からのお達しには思考停止してしまいがちだ。そうした状況に陥るたびに、栄は上席に突っかかっていた。そうしたことが重なり、軍を離れざるを得なくなった事もたしかなのだが、栄が忠実なのはあくまで職務であり、不透明な『上』とやらの理不尽な命令ではない。
「・・・とにかく、もうすぐ現場が見えてきます。軍が動いていようが、我々は現場でできることをしますよ」
何か怒鳴ってきた無線を乱暴に置くと、噴飯やる方なしとばかりに栄は背もたれに身体を押し付けた。若く真面目な永は、要らぬ反骨精神に自分を巻き込まないでくれと言わんばかりに不安げな顔を向けてくる。
だが栄がこうした言動を取るのは反骨精神だけが理由だけではなかった。先ほどから感じているが、焼ける臭いがおかしいのだ。明らかに石油、もしくはそれに準ずる可燃性物質が炎上する臭いがしてくるのだ。貧困窟の石油暖房機から出火したとしても、鼻腔で感じるほど薫ることはないはずだ。暗い未舗装道路の先に、やがて赤々と昇る火の粉と、大木のような黒煙が幾筋も見えてきた。
「あそこは盆地状になっていて、この坂を登りきればくだりです」
永の解説に、ならば高所からの放水が有効だと思案していたが、より一層焼ける臭いが強くなった。栄は確信を持った。
「・・・これは、ナパームじゃないか」
つぶやくと同時に、車両は坂の頂に至った。すり鉢状になっている盆地は、広範囲にわたって燃え盛っていた。ただどこかの火災が火元になった、といった様子ではない。焼夷兵器を用いて一斉に着火、爆発状に火炎が拡がったとしか思えない燃え広がり方をしていたのだ。
そしてこの臭い・・・栄は、軍にいたときの演習で広西チワン族自治区にて行われた、空爆からの退避訓練を思い起こした。あのときは広大な山砂漠に、空軍がナパーム弾を投下して広範囲を焼き、その近くで火炎と黒煙から如何にして身を守り、空の敵から逃れるかという演習だった。間違いない、この集落はナパームによって「人為的に」焼かれているのだ・・・。
眼下の火災に勝る勢いで、栄は激しい怒りを激らせた。いったい、どこの誰・・・もとい、どこの部隊がこんな残虐非道なマネをしやがったというのだ・・・!
「おい、お前ら!」
立ち昇る黒煙の向こうから、誰かが声をあげてきた。呆然と眼下の猛火を眺めていた永が弾かれたように身体を硬直させた。すると、野戦服の上から防火蓑をまとった陸軍の兵士が数人やってきた。
ここへやってきた栄たちを咎める目的があるのは、連中の声色から明らかだった。だが栄は相手の反応を待つまでもなく、先頭をやってきた兵士につかみかかり、その身体を軽く浮かせた。左手の爪がいくつか引っ張られて剥がれたような気もしたが、まるで気に留めなかった。
「貴様らぁ・・・これはなんだ!?」
そう怒鳴る栄を、仲間の兵士が引き剥がすも、なおも食ってかからんとする栄。掴み上げられむせ込んでいるヤツの階級章が首元から見えた。少尉の位だった。以前なら栄よりも階級が上で上官にあたるが、除隊したいまなら関係ない。
「何が目的でナパームを使った!?住人たちはどうしたぁ!!」
そう怒声を張り上げる栄。すると何人かの兵士が目を伏せた。栄の発した言葉のどこかに、後ろめたさがあるかの如く・・・。
「クソ・・・ふざけるな!貴様らそれでも解放軍兵士かあ!!守るべき人民になんてマネをしやがったんだ!!」
すでに栄の拳が振り上げられていた。いくら同じ公僕とはいえ、消防局と人民解放軍では格が違う。そこを察知した永と、目の前の少尉についてきた若い兵士が、必死に栄の腕を押さえにかかった。
「やめてください!」
永の叫ぶような嘆願で栄はいささかばかり冷静さを取り戻しはしたが、それでも、食いしばる歯茎から血が滲むほどの怒りを露わにし続ける栄。
「・・・お前ら、出動の命令は出ているのか?」
どうにか息を整えた少尉が訊いてきた。
「通報があったんだよ!」
「このあたりはこの貧民窟以外、住居はないと聞いていたが・・・人民たちに携帯電話が行き渡るというのも考えものか」
そうつぶやく少尉は、栄よりもやや年上の40くらいに見えた。
「おい、質問に答えろよ。なんだってこんなこと・・・」
そう言いかけた栄だったが、そこでようやく周囲の様子に気がついた。すり鉢状になっているこの盆地の外周に、装甲車や軍用トラックがけっこうな数、立ち並んで
いたのだ。
これは・・・この数は、ただの演習や訓練などではない。コイツら、「実戦として」この」集落を焼き払ったのだ。
怒りが込み上げ続けるも、栄は冷静に思考を巡らせた。是非はともかく、軍が実力を行使して「人民ごと」村を焼き払うとなれば・・・。
「まさか、未知の疫病でも生じたというのか・・・」
そうつぶやいた栄。だが少尉はそれに答えなかった。
「いいから、ここから失せろ。黙って去るなら、オレたちはお前らに銃口を向けることはしない」
如何にも忌々しそうに、少尉は吐き捨てる。
「いや・・・疫病なら化学防護車が出てくるはずだ。そうではない、とすれば・・・」
なおも思案を駆け巡らせる栄。いい加減に堪忍袋の尾が切れかけているのか、少尉は周囲の兵士に「さっさとコイツを摘み出せ!」と怒鳴った。
「それとも・・・香港か?共産党支配への反発を強める香港への牽制・・・いや、にしても・・・」
興奮と困惑のあまり、思ったことがそのまま口をついてしまう。いよいよ兵士に肩をつかまれたとき、銃声がした。それも1度や2度ではない。栄も永も、兵士たちも音がした方をに顔を向けた。西側の頂に鎮座している装甲車のあたりから、銃声と発砲する際のフラッシュが見える。だがどこへ向けて撃っているのか。
そうしているうちに、今度は悲鳴が紅い夜空に響いた。続いて、聞いたこともないような甲高い、啼き声・・・。
「まだいやがったのか!」
そう叫ぶ少尉。かたわらの兵士たちは栄と永から手を放し、携えていた08式歩兵槍(人民解放軍制式の突撃銃)に手をかけた。
「おい、なんだっていうんだいったい?」
さっぱり状況が飲み込めない。栄は少尉を捕まえてそう訊くが、ホルスターからノリンコの自動拳銃を抜いた少尉に「さっさと去れ!」と怒鳴られた。火災の近くという割には、妙に冷たい風が流れ出した。
「状況を教えてくれ!」
栄がそう怒鳴ったと同時だった。頭上で何かが空を切ったかと思うと、一刃の強い風と共に、永の身体が、空を舞った。
「ぎええええええええ!」
まるで獣のような永の絶叫が、炎に照らされた夜空に響き渡る。永の姿はすっかり見えなくなった。いつの間にか、あちこちで銃声がするようになっていた。
また、熱い空気を裂くように何かが頭上を滑空した。今度は弾けるような音がして、さっきまで自分を押さえていた若い兵士が倒れ込んできた。まるで引きちぎられたように首から上がなくなっており、噴水のような血が地面と栄に降り注いだ。
「うわあ!うわあああ!」
すっかり動転した隣の兵士が、叫びながら銃を乱射する。そのうち数発が地面から空を薙ぎ、射線上にいた別の兵士は哀れ弾丸をまともに喰らい、仰向けに倒れ込んだ。
兵士はそのまま空へ向けて発砲していたが、フルオートで発射していたために1分も経たず弾が切れた。慌てて別な弾倉に交換しようとするが、手から滑って地面に落ちてしまう。拾おうと身をかがめた兵士に、何かが襲いかかった。
いったいどこから来たというのか、闇を突き抜けるように兵士を薙ぎ倒し、兵士の苦悶に満ちた叫びが上がった。炎の光に少しばかり照らされたそれは・・・人間より少し大きな、茶色い・・・鳥だった。
そこへ、少尉が拳銃を放った。人間のものではない叫びが短く聞こえ、少尉は片手で無線機に怒鳴った。
「鳥だ!鳥が・・・」
一閃。
少尉の顔面に黄色い光が走った。顔の右半分が「綺麗に」切り落とされ、そこに別の鳥が舞い降りた。
もはやこの世のものと言えぬ光景に慄然と立ち尽くしていた栄。左のこめかみに、鋭い何かが喰い込んだのがわかった。