ふ・れ・ん・ど・い・な・い・っ!   作:ボルケシェッツェ

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5/15 改稿、修正作業


vertigo

 この世は退屈───全く是。世界はつまらない。

 

 

 

 

 

 

 義弟(おとうと)の汗は塩辛くて、酸いというよりは苦かった。長い接吻を終えて物寂しさを覚えた口に、彼のにわかに日焼けした肌を含む度、わたしは母の乳房に吸い付く稚児のような無心に返った。

 

 自分に甘噛みの癖があることは、義弟と行為を重ねていくうちに知った。

 最初は今よりもプラトニックなセックスだったはずなのに、いつの間にか彼との行為には熱に浮かされたような愛撫が付きものになっていて、それを始めたのは彼ではなくわたしの方だった。彼とわたしの間では、いつも彼の方が受け身だった。けれどもわたしはあんまり踏み込んだ行為を───あたかも想い人同士であるような───しないように意識していたから、ふと快楽の余韻から解放されたとき、舌の上を流れる独特の苦みに戸惑った。

 

 行為の最中はなるべく強く食まないように気を付けているけれど、達するときだけは加減が効かなくなる。激しい抽挿の終わり際、わたしの体が彼の上で波打って力むと、その拍子にか細い犬歯が彼の肌に食い込んで、楕円の形に歯型を作る。

 

 あふれる唾液には時々突き刺すような血の味が混じった。わたしが食いついている間、彼の肌は濡れそぼって粟立ち続ける。それが果てた快楽によるものなのか、わたしの突き立てる痛みによるものなのかを聞いたことはない。だが、わたしが首筋から口を離したときに見せる、得も言われぬ恍惚に歪んだ柳眉を眺めていると、とてつもない征服感に満たされる。それが心地よくて、わたしは彼の肌に顔を埋めるのがやめられないでいる。

 

 わたしが彼を傷つけてしまうのと反対に、義弟は行為が終わると必ずわたしを抱き留めた。

 迸る快感の波がゆっくりと引いていくのを感じながら、脱力してしなだれかかるわたしの背に片手を回し、そっと頭を撫でる。そのあやすような手付きが、マーキングを済ませたわたしを労っているみたいに思えて少し恥ずかしかった。

 

 でも拒みはしない。

 わたしが享受するのはあくまで彼のやり場のない慈しみだとは知っていれど、瑞々しい大きな掌は素直に気持ちが良かった。暫く為されるがままにしていると眠気を催してきて、両親が帰ってくるまではしばしば義弟の腕の中で過ごした。

 

 恋慕では、ない。情愛の類でもない。

 強いて言うなら、憂さ晴らし。それがわたしたちの関係に相応しい言葉だった。なにも崇高なものでもなければ、褒められた繋がりでもない。どちらかといえば、連れ子同士の(しとね)には背徳が潜んでいた。

 わたしたちは禁忌を犯すことに酔っていた。

 そういう年頃と、短い文字列に押し込めてしまうのは簡単だ。義理の姉弟でのセックスも、口先に紫煙をくもらせることも、酒精を味わうことも、気まぐれに授業をサボるのも、他人とは違うと信じて孤独を噛み締めるのも。

 

 そういう、胸の奥に燻る野火の如き感情を、強大な社会へのちっぽけな叛逆なのだと決め付けて言葉に飾りがちなのは、わたしだけじゃない。それらをセピア色に染め上げて、そこにあった匂いや手触りを忘れてしまった大人たちも同じ。

 過ぎ去ってしまった時間をあらゆる寂寞と紐付けては、ショーケースにしまい込んで、あどけない子供には高値で売りつけようとする、そんな笑い話にしてしまうのはいとも容易い。

 

 わたしはそれを醜いと思う。だって人間はそれ程小綺麗な生き物ではないし、ましてや哀れな怪物でもないのだ。等身大の生き方、とか宣うエッセイ作家もきらいだ。人間は所詮主観でしか生きられない。自分を客観視できる人間というのは、思い上がり過ぎて目が内向きになった人々の傲慢の顕れ。少なくとも今のわたしは、そう信じて疑わない。

 

 だからわたしは、心の底に溜まった泥濘を掻き出す儀式に、あまりに情緒的な名前をつけることは望まない。なのでそう、この感情にせめて名付けるとすれば、それは依存であるべきだ。

 わたしは、義弟に依存していた。

 

義姉(ねえ)さん」

 

 彼がわたしをそう呼ぶようになったのは初めて肌を重ねた夜からだった。それまでは互いを呼ぶことさえなかったし、下の名前すらあやふやだった。今はシンジ(真嗣)という名を知っているし、彼もわたしがアヤカ(朱夏)だと分かっている。わざわざ名指しで呼ぶ機会は滅多にないが、彼の名を発するときに取るべき舌の形は、彼を表すクオリアにしかと刻まれていた。

 

 前頭葉に拡がる波紋。彼の匂い、彼の味、ぬくもり、手触り、形、声、眼差し、そして名前。わたしが知り得る彼の全て。そこにわたしが介在している時間が、今一番の幸福だった。わたしの歯形が、唾液が、痛みが、ずっと彼の首筋に刻まれていればいいのに。彼を食むたび、そう切に願う。

 愛じゃない。愛着だ。

 

「お昼にしようよ。もう、一時半だ。流石に腹が減ったろ・・・・・・」

 

 意識が旋回する。

 行為が終わって、部屋は気だるい吐息に満ちていた。新たに刻み付けた窪みの感触を味わっていたわたしを制すると、彼は耳元で囁いた。しなやかな顎の向こうの淡褐色の瞳を見上げる。彼は逃げるように目を逸して、わたしの乱れた髪を耳に掛けて調える。

 

 胸に張り付いて微睡むわたしをひっぺがしたいのだろう。世間に喘ぎ声が届かない程度に開けられた窓からそよぐ風は爽やかだったが、五月の陽射しは意外に容赦がない。互いが触れている箇所からじっとりと汗ばんできている。

 

「あなたが何か、作ってくれるの?」

「さあ、そうだな。焼き飯くらいならできると思うけど。どう?」

「なんでも。文句は言わないわ・・・・・・」

 

 言い終わらないうちに義弟はシャワーを浴びに立ち上がり、わたしは湿気に重くなったベッドの上に取り残された。去っていく体温の代わりにシーツを抱き締めると、義弟と陽だまりの香りがした。なんとなく、両者の匂いは似ている気がする。わたしと同じで、日の下よりは雨垂れする石の隙間が似合うような人間性をしている割におかしな話だが。

 

 頭上では、そよ風と戯れるカーテンが揺蕩い、光の筋を侵している。純白のレースがあしらわれた生地は彼の趣味とは思えなかったが、母親の選んだものだろうか。

 義母の控えめなセンスは嫌いじゃない。白地のシンプルさと、ワンポイントの装飾を好む所は実母と通うものがあるが、拗らせた少女趣味を滲ませていたあれに比べれば随分と趣味がいい。

 派手な紋様の入った食器に絨毯、果てはドレス。何から何まで色素が薄く、一点だけに色がある。何もかもがひらひらと薄っぺらで、希薄で、それなのに必要以上に重たくて、歪なベクトルを有したエネルギーを持て余している。わたしの実母はそういう女だった。

 

 ただ。所々塗装が剥げ、木目が覗いていた安楽椅子───。

 そこに座っているときの母だけは、なんの忌憚も抱かずに見つめることができた。幼いわたしを胎に抱いて微笑む母は正しくわたしの中の母性の象徴だった。淡い日光の束に、ワンピースとドレープカーテンと、母の座る安楽椅子。手の中には刺繍されかけたハンカチーフや、解された毛糸があって、皆一様に穏やかなリズムで揺れていた。

 

 それ以外の母は、なるべく思い出したくない。さながらわたしのものを奪い取ったみたいにひけらかされる激情の記憶が、他の思い出まで塗りつぶしてしまいそうになるから。妻として母として死に腐って尚もあの女は、わたしの心を影で覆い尽くすことを厭わない。

 美しい母を、女として憧憬すら湧き上がるくらいのあの日々の姿を思い浮かべる度、それを否定するように穢れに溢れた金切り声がどこからか聞こえてくる。寛闊に満ち溢れた母の微笑とは相反する、ヒステリィに陥った表情が、あの風景に重なって浮かんでくる。

 

 わたしが無性に誰かにぶつかってみたくなるのは、そのせいだ。あの女がまだどこかでのうのうと生きていて、しかもまともな母親面なんてしていようものなら。そう思うとどす黒い憤りに支配されて、どうにもいかなくなる。そして過ちを犯す。溜め込んだ活力を最悪の方向に放とうとするのは、悍しいことこの上ないがあの女譲りで、それもまた性欲という同様の形で発散しているのだ。

 

 あの女の最も忌避すべき穢れを自分自身で取り込んでいるのだと思うと、胸を掻きむしって破り、この身を流れる血液を流し抜きたい衝動に駆られる。

 

 わたしは母が憎い。それよりも己が憎い。憎くて憎くて仕方がない。死にそうなくらいに。

 

 これまでどうにかして母の影を踏まないように生きてきた。人を飾れば身の程を見失う。母親のように。だから自分を誇らないようにした。陽だまりから逃げてきた。人を手の内に入れれば尊厳を見失う。母親のように。だから枠を嫌った。人を縛る規則も偏見も通例も見下した。価値観に唾を吐いて己を縛った。世界を縛った。自らを哀れめば箍を失う。あの女のように。だから。

 

 だけど───慰めは棄てられなかった。義弟との関係が、躰から流れ出ていった劣情がなによりの証左だった。母の影を踏まぬ為に努力すればする程に、現実は思惑とは乖離していった。わたしは母親に近づいていった。

 

 そうだ。わたしは哀れだ。わたしは自意識過剰だ。わたしはエゴイストだ。

 本当は、わたしが誰よりも愛しているのは自分自身だ。捻れ歪んだ自己愛がなければ、眼前に広がる世界の残酷さに耐えられそうもない。非力で脆弱で。他人を蔑まなければ物事も語れない。悪辣な人格。

 たとえば虐待されて育った親は、自らの子を虐待する。そんな与太話をちらほらと耳にする。わたしはそうは思わない。反面教師は必ず実ると信じている。しかし、人は親の背を見て育つ。そうして蓄えられたミームは、必ず子が親になったときに噴出する。いくら表面を偽ろうと本質はミームに引きずられていく。心のどこかではそっちの方に信憑性を感じていた。

 

 判らない。わたしはどこに行けばいいのか。どうすれば今より、過去より良くなるのか。漠然と救われたいとは思うが、救われ方は知らない。なにが救いなのかも判らない。ただひたすら、雷鳴り渡る暗雲の狭間を彷徨っている。当てずっぽうの方角に太陽を探して、失速しないように浅く機首を上げて。

 既に空間識失調(vertigo)に陥っているとは気が付かないで。翼の両端で二重の螺旋を描きながら、急速に堕落していく。

 

「義姉さん」

 

 重くなった瞼を上げる。光を背負って、影の中に義弟が立っていた。

 

「お先。シャワー浴びてきなよ」

 

 高校指定のトレーナーを下に履き、しとどに水が伝う黒髪をタオルで拭う。乱暴にかき回された水滴がわたしの頬に落ちてきて、反対に現とかくり世を行き来していた意識が浮上する。カーテンが靡き、風は踊り、日光が揺らぐ。鼻先に乾いた太陽の香りがした。

 まだ、大丈夫だ。目を擦り、脳裏にこびりついた衝突のイメージを描き消した。わたしはここにいるんだから。

 

「ねぇ」

 

 喉を揺らす。ひどく掠れた声が出た。義弟はこういうとき応えない。言葉を発さずに、小首を傾げて目で続きを促す。一八〇センチ近くある男がするには少し間抜けな仕草だが、静謐で小動物じみた雰囲気の彼には思いの外似合った動作だった。わたしはそのリスみたいな眼差しに思わず頬が緩む。

 

「あの曲、わたしのスマホにも焼いてくれない?」

「えぁ、『曲』って?」

「あなたが去年のイヴの夜に聴いてた曲。いい曲だったから、もっと聴いてみたくて」

「ああ、U2ね」

 

 こくりと頷くと、義弟は自身のスマホを手に取って弄り始めた。

 ドライヤーのかかっていない頭髪からは未だ水滴が滴っていて、首にかけたハンドタオルに度々吸い込まれていく。その影にちらりと覗く首筋はほんのりと赤くなっていて、果たしてそれが単に湯気に紅潮しているだけなのか、それともわたしの刻んだ証によるものなのか、微かに想像を掻き立てる。湿気に撫でつけた髪は好戦的な圧を醸し出していて、本人の気質さえなければ中々得難い色男になるだろうに。

 

 これも彼と寝るようになってから知ったことだけれど、不精というか、惜しむらくは気力がそこまで至らないところか。恐らく自覚はあるのだろうけど、身嗜みに関しては無難の域を出るつもりはないらしい。世に言う男前というのとは異なるかも知れないが、醜男からはかなり遠い容姿にあるように思える。だからどう、という話ではないが、寝る相手の小指の事情にもささやかな興味はあるものだ。何れにせよ、まあ、わたしの預かり知る事柄ではない。

 

 そんな見定めの視線も意に介さず、わたしのお願いに対して義弟は小さく喉を鳴らして、あっさりと快諾を寄越した。

 

「いいよ。義姉さんiOSだったよね? 一曲と言わず、まるまる共有しとく。PCからならMP3にも変換できるから、まぁ、好きにしてくれ」

「ええ、ありがとう」

 

 上体を起こして礼を伝えると、彼は少々照れたように頭を掻いて、扉の脇に逸れた。先程まで泥濘たる情慾を吐き出しあっていた人間とは思えないくらい、距離の透けた表情を作って。それはわたしの望む通りの関係性で。

 

「支度、しとくから。シャワー浴びてきたら」

 

 

 

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