ふ・れ・ん・ど・い・な・い・っ!   作:ボルケシェッツェ

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5/15 改稿、修正作業


Newyear's Day

 

 ざわざわ、ぴたぴた。雨音の騒がしさって、人の喧騒に似ている。

 直に晒されていなければ耳の心地良いアンビエントでしかないのだけれど、それがわたしの躰に降りかかるとき、感じるのは冷たさと煩わしさ、そして後に残る肌寒さだ。

 

『だからねぇ、私はいっつも思うんだけど、こういう人たちって実は結構暇なんじゃないかなって。だってこんだけ政治資金を使い込むほどその、機会があったわけでしょ? それをほらさ、秘書の人だって・・・・・・』

『新たに中日本で急速に発達しつつある低気圧の影響で、近畿地方から関東周辺にかけて、急な大雨に見舞われています。雨は多くの地域で明日朝方まで続く見通しで、地盤の弱い地域に関しては土砂崩れなどの災害への警戒が・・・・・・』

 

 ザッピングされる三八インチテレビの呟きをコーラスにして、降り注ぐ雨が窓を流れていく様を眺める。雨戸に叩きつけられた雨粒の嘆きは普段より強烈であり、同時に吹き付ける風の呻き声がガラスをすり抜けて居間に響く。外は随分荒れているようだった。が、湯水滲みたこの身にはそんな騒々しさも無縁だった。

 

 シャワーを浴びて食卓に着くと、既に湯気立った焼き飯が二皿、麦茶の入ったコップ二つと共に並べられていて、義弟はいつもどおりの所在なさげな顔付きでわたしを待っていた。わたしはそそくさと席に着いた。木製の椅子を引くとき、左手首の内側にあるバーコード状の傷が疼いた。

 

 なにも考えずにいただきます、と手を合わせた。白磁のレンゲで無作法に盛り付けられたそれを掬い、口へと運ぶ。義弟の作った昼食は炒飯というよりは、喫茶店で出されるピラフみたいな代物だった。でもそこそこ食の捗る一品だった。

 自炊する姿はあまり見ないが、思いの外料理のセンスは悪くないのかも知れない。シンプルな腕やレパートリーに関しては母の手ほどきをある程度受けていたわたしが優っているだろう。男飯というやつは分からない。そも、わたしには炊事に対する意欲がまるでない。

 

 人前に出すことには慣れていないのか、どこか不安げにこちらを伺ってきた義弟に美味い、と伝えてやると、多少安堵した様子で自らもレンゲを持つ手を進めた。欲をいえばもう少し濃い味の方が好みなのだが、敢えて口に出す程の不満でもない。後一言二言感想を述べようとしたものの、それ以外の感想が思い浮かばなかった。こういうとき自らの語彙のなさに嫌気が差す。妙な形で停滞した空気を誤魔化すのに、表面上食事に障らないくらいのアルカイックスマイルを浮かべ、黙々と昼餉を食べ進めた。

 

 二人してピラフもどきをたいらげ、食パンに付いていた懸賞で当たった深皿をシンクに片付けた後も、わたしは義弟の味覚を褒めるための言葉を二三考えていたのだが、数瞬わたしの手首に目をやった後、シニカルな視線で液晶を睨めつけ始めた本人を前にして、結局なにも言わない選択肢を取った。

 

 朧げな沈黙がその場を支配する。肉体関係と、洋楽と、他愛もない家庭の連絡事項を除いてしまえば、わたしたちの間には取り付く島もない。傍から見れば、世間話もままならないような二人がどうして淫姦におよぶ間柄になれたのか疑問を呈することだろうが、それはわたしとて同様で、あるいは彼もそう。

 

 はっきりした発端を挙げるのなら、誘惑、といえるかも分からない誘いからだ。彼がわたしの精一杯の色香に惑わされてくれたのか、それとも最初から彼なりの慈悲でしかなかったのか。とにかくあの夜は衝動的で、刹那的で、希死念慮のようなあやふやさに突き動かされていた。わたしは気紛れと僥倖が織り混ざった気持ちで快楽に身を投じた。

 

 そう、去年のクリスマス・イヴの日だ。

 

 あの日も、ゼミの友人の頼みでコンパの穴埋めに駆り出されていた。というのも、彼女らにとってわたしは取り回しの良い人間らしい。それもそうだろう。大した主張もなく、仕切りを妨げることもなく。本気になって相手方にがっつくこともなければ、ささやかな相槌を打つだけのマシンに徹することができる。いつも殿方側の都合を付けてくる調子のいい男に言わせれば、わたしはお淑やかな令嬢なんぞに見えるらしく、密やかに目当てにされている程度には見目も映えるとか。

 

 かの言葉が本当ならば、狙っているというそいつは大した節穴ぶりだが、彼らに頻繁に呼び出されることは事実で、日に日に辟易が肩の上で凝り固まっていくのを感じていた。一度固まり始めた疲れは早々に洗い流すか、それとも自重に砕け散るのを待つしかない。わたしは後者の方が先にやってくる予感を抱いていた。

 やがて完全に硬化し、肥大化した疲労は脊髄から不可視の手を伸ばして、軽薄な連中にお誂向きの笑みを作ろうとするわたしの首を絞める。そうすると媚び切った称賛の台詞も、莞爾な微笑みも喉元で止まってしまって、次に酸欠が頭に昇ってくる。さすればもう、手詰まりだ。

 

 気分が悪くなった、悪いけど帰ると簡潔に吐き捨てて、適当に算出した勘定分の金を押し付けて店を出た。引き留める声を振り切るとき、恐らく爛々としていた相貌を上手く隠せたかどうか分からない。たとえ露見していたところで悔いもしないが。その後の誘いが暇を詰めるほどではなくなったのは思わぬメリットだった。

 

 外装だけは気の利いた大衆居酒屋のドアベルを鳴らし道端に出ると、おりしも冷たい夜空に粉雪がちらつき始めていた。外気に晒された途端に白む吐息。霧散する熱に当てられた雪の一片がマフラーに染み込んで消える。その様を目の当たりにしてやっと、わたしは季節が冬に移り変わったことを認識した。後一週間も経てば、この年も背後に流れていくのだ。そんなことも忘れたままわたしは怠惰の日々を貪っていた。

 

 あざといジングルをBGMにして滔々と行き交う人の流れに背筋がゾッとする。

 ほとんど直感的に覚った。わたしが居るべき場所はここじゃない。それがどこかなんてどうでもよかった。名状しがたい焦燥が心に薪を焚べていて、わたしは淡々と、弱々しい熱気を原動力にして歩みを進めた。

 

 とにかく躰に力を入れていたかった。聖夜の甘ったれた空気に呑まれた瞬間から、一度立ち止まれば膝から崩れ落ちてしまうような、一抹の薄弱がわたしの根幹に根付きつつあって、わたしはひたすら次の足を踏み出すイメージを連続させ続けた。毅然と、荘厳に。踵から地に足をつける。リズムにのせて反対の脚を上げる。その繰り返し。この上なく素朴で純粋な作業を飽きもなくこなして、わたしは無意識の導きのままに仄暗い路地を行く。

 

 そのうちに鈍りきった関節が悲鳴を上げてきたが、胸には所以の知れぬ快哉が溢れ出していた。たぶん無聊から逃げ出してこれた嬉しさとか、開放感だった。この世があらゆる退屈を詰め込んだ箱庭なら、わたしは木枠から飛び出してしまったビー玉で、激しく打ち付けながら木目を滑っていく。今はその最中。壁にぶち当たるまでの幕間だ。

 

 雑踏をくぐり抜け。

 街灯を通り越し。

 きらびやかなイルミネーションを横目にしつつ。

 

 そうしてわたしの足が止まった場所が、忌々しい我が家の玄関前だったのが解せなかった。なんでここに帰って来たのか自分でも分からなかったが、それが余計に自分自身への怪訝と落胆を強めていた。

 

 (うち)は嫌いだ。昔も今も変わらない。前者はあの女がいたから。後者は、知らない人間たちと共に暮らす家だから。気後れするとまではいわないが、なんとなくドアノブに手をかけることを躊躇ってしまう。わたしにとっての自宅とはそういうもので、真に聖域と認められるのは自室の扉の内側だけだった。

 

 自分の部屋に引き篭もっている間は確かに自由だ。家庭内とはいえそこには法があって、続いて暗黙の了解が存在している。くだらない規則とか慣習とか、家族ごっこの重圧からは解放されるだろう。でも積もり積もった徒然を慰めるには、六畳間は狭すぎる。しかし一歩外に出れば、最早安息の地ではない。

 学内の忙しさ、社会の理不尽さ、そして吹き付ける雨風を凌げても、重ねた仮面を外せるほどの気安さはそこにはなくて、母や父や、最近では義弟の座る卓を前にすると息が詰まりそうになった。

 

 家族嫌いなわけじゃない。尊敬なる表現が正しいのか決めかねるが、父は善良で気の置けない人格者だし、あらゆる面でわたしを育てた良き父親だと思っている。深いところまでは知り得ていない継母のことも、さっぱりした性格で悪い人間ではないと感じるし、義弟も無愛想だが何かと律儀な少年だった。彼ら個々人に確執や嫌悪感はなかったし、家族という急造の肩書がついてもむしろ好感の持てる人々だった。

 

 ただ、それとこれとは別の問題で。わたしたちは同居人ではなくて、「成りたて」の家族だった。少なくとも父と義母はそういう風に四人の人間の集まりを認識していた。彼らには大人としての配慮はあるし、押し付けがましくもない。向こうも手探りであることはひしひしと伝わってくる。だからこそ、その半端な家族ごっこに付き合うのが億劫だった。父も義母も義弟もわたしも、悪い意味で模範的な人間であろうとし過ぎる。空気が読め過ぎるのだ。

 

 それらのやりづらさやぎこちなさはきっと健全なもので───ともすれば根本に捻れを妊んでいるわたしには眩しすぎたし、詰まるところ毒だった。

 人が人同士として真っ向から存在しようとする、その言葉や形にはならない強制力のようなものが、わたしには到底受容できなかった。それはもう心底気持ちが悪かった。父や義母の含みある───言ってしまえばなんでもかんでもそういう感じに見えるのだ───優しい微笑みを向けられる毎に、悍しい寄生虫が全身を這いずり回って蝕んでいるみたいな気色悪さに駆られた。

 

 そういう点では、義弟には最初からシンパシーというか、憐憫故の好意をある程度持っていたように思う。それは連れ子同士だったからという理由も大きいが、なにより親の再婚で一番に気苦労を背負っているのは恐らく、高校一年生という多感な時期にある彼だろうからだ。

 

 わたしだっていきなり父親が再婚すると言ってきたときには色々と考えたし、今とて散々に家庭に対して不満や難儀さを覚えている。とはいえ年を越せばすぐ傍に成人式が控えている身としては、彼ほど世界に閉塞を感じたり、些細な感情の揺れ動きに寂寞や幸福を見出したりするわけじゃない。

 

 わたしは大学が近いからというだけで未だ実家に居座っているが、その生活圏の主導は高校までの学生生活に比べれば外部にあるといえる。つまるところアルバイトをして、ささやかながら散財をして現実から逃避することができる。ちょっとは世界の見え方を誤魔化していられるわけだ。

 義弟にはまだそれができない。そりゃ、一日遊びに出て満喫するくらいの資金や、少し遠出して友人の家に泊まってくる程度の自由は手にしている。けど、本気で世界から逃げ惑えるような寛容には恵まれていなかった。誰だってそうではある。わたし然り、彼のクラスメイトや後輩や先輩もそう。持て余すほどの身軽さを行使できる人は、この地球に一握りだけだ。その下にある、五十歩百歩のサティスファクションの差を、わたしたちは毀誉褒貶混じえて競い合っている。

 

 だから、母親と寝床を共にして父親面をする見知らぬ男や、陰気で性悪なその娘と顔を合わせなくても済むという自由は、彼が手にできるちっぽけな権利には含まれていないのだ。この生活が始まったとき、わたしはそう思い込んで彼を哀れんでいた。家と学校の板挟みになって苦悩する凡庸な少年の、ドラマじみた青春生活の一端を見ていくものと期待していた。

 

 けれど、そうはならなかった。

 彼はわたしが思っていたよりもずっと大人だった。ある意味ではあの家に住む誰よりも大人びているやもしれない。

 そう、臆病と吝嗇。そういう由来に流されて物事を割り切ることが得意になってしまった、そういう人間であった。つまり、彼は大人びた子供だった。

 

 座卓における彼のにべもない態度は、家族の繋がりの薄さを閑却し得ない二人に対しては懸念を呼び起こしたし、わたしには二人の醸し出すぬかるんだ意志を断ち切る新風として吹き込んだ。

 押し付けられた団欒に際し、彼は決して、義父のことも母親のことも拒絶しなかった。ただどこ吹く風という風に笑って、なにも聞いていない真似をしていただけだった。

 

 そのとき、わたしは彼の目に宿った昏い衝動を見た。腐りかけの果物のような甘く饐えた香りを感じ取った。虚無から溢れた倒錯した願望がそこに潜んでいるのが手に取るが如く伝わってきた。わたしはその瞬間から、彼への感興を自覚したのだ。

 

 勘違いではない。半ば確信じみた予感だった。義弟にはわたしと似たものが埋もれている。正確には似て非なるもので、同族意識とは違う。近いところに貼り付いた雨粒が、大きくなろうとして手を伸ばし合うように。わたしの心肝に渦巻く泥が、彼の中に溜まった膿を求めて蠢くのが分かった。

 

 考えている内に己が何を思ったかだんだん分かってきた。

 要するに、そういうことなのだろう。

 もしかしたら。義弟なら、わたしの奥底にまで手を伸ばすことが適うかもしれない。そんな期待を持って、わたしはここに立っているんだろう。たとえ返ってくる反応が理解や許容でなくてもいい。否定、拒絶。そこにあるのが痛みや屈辱の類であっても関係がない。むしろ自傷を求めてさえいると思った。今はひたすら、わたしの穢れを認めてくれるなにかを欲している───。

 

 微熱の籠もった息を一つ、吐いた。それからわたしは悴む手で冷え切った鍵を摘み、滑りの悪い鍵穴を解きほぐした。よくよく見ると、ドアノブの表面に薄っすらと霜が張っている。どうりで触覚が乏しいと思った。冗談抜きで凍り付きそうな指先を無理やり動かして、玄関口を開け放つ。平時よりは幾分戸惑いのない仕草で。

 

 次に、家に入ってまず、わたしは土間に並ぶ靴を確かめた。義弟のものはともかくとして、父と義母の靴は脱ぎ捨てられていないはずだった。予定通りであれば、彼らは今頃少し高価なレストランで酒を呑んでいるか、もしくは───恐らくこちらの方が可能性が高く、そしてあまり想像したくはなかった。どうでもいいことなのに、言葉通りに当てはめるだけでも吐き気がする───何処ぞのホテルで「休憩」でも取っていることだろう。

 実際、その憶測に違わず、タイルの上には父の革靴も義母のハイヒールも見当たらなかった。その代わりに、味気ない白味の一対の学生用運動靴がしおらしげに佇んでいた。

 

 そう、それは好都合だ。

 雑にパンプスを履き捨てて、ずかずかと廊下に上がり込む。まるで他人の家みたいな言い草だが、実のところこの家にはまだ馴染みが薄かった。

 この家に落ち着いたのは両親が再婚して同棲が決まったときで、元々は義母と義弟とその亡くなった父親が暮らしていた。わたしと父とあの女が住んでいた持ち家は、こっちに越してくるときに売りに出した。引き払うときには若干の名残惜しさはあったが、よもや不満などはない。それどころか、どこの馬の骨とも知れない間男と実母が行為に及んでいた場所に住み続けるなんて気色悪くて仕方がなかったから、移住には大賛同だった。

 

 だというのに、家主のいない今、床板を踏みしめる度に()()()()ことをしている感じが胸に募る。夜這いに来たわけでもないというに。不安混じりの切なさが、自己の矛盾を明白に映し出していた。はしたない、わたしと母は違うのだ、と自らに言い聞かせる。無論、これまで義弟にあからさまに低俗な視線を送ったりしたことはないし、性的な対象として見るつもりもない。わたしの欲求は性的不満からなるものではないのだから、ここであの女と自身を重ねるのは不適当なのだ。

 

 なんだか納得がいかず、もやもやとした不快さ。わたしは照明が点いたままのリビングに入り、コートとマフラーを取り払ってソファの背もたれに掛けた。彼の気配はなかった。居間は外よりも濃密な静寂に包まれていて、クリスマスの活気など微塵も感じさせない。

 

 唯一、テーブルに放置されている、まだ底の湿ったグラスだけが、彼の残り香を漂わせていた。シンクに残ったプラスチック容器とパッケージから見るに、彼の夕食は買い置きの冷凍パスタで賄われたのだろう。イヴの晩餐にしては随分と物寂しい話だ。が、独りであればわたしもそうする。

 

 ひどく喉が乾いた気がしたので、わたしは父のセラーからウィスキーを拝借した。流石に高そうな瓶は避けて、常備してあるジャック・ダニエルをロックグラスに注ぐ。琥珀色になみなみと揺れるそれをストレートのまま呷ると、アルコールの香りが脳髄を焼いた。同時に高まった体温に大きく身震いする。

 ふと目の端を窓の向こうに向けたとき、わたしは義弟の後ろ姿を見つけた。

 

 ぞわり、と。胸の奥に鳥肌が立ち上がる。

 

 どうしてって、その背中があまりにも哀れだったから。小さくくすんで見えたから。

 

 わたしは口に含んだウィスキーを嚥下することも忘れて、じっと彼の竦められた背筋に見とれていた。

 実母の不貞を思い出した不快感とか家の中の空気に対する嫌悪感は、一瞬にしていずこかに吹き飛んでいってしまった。須臾の思案と衝撃の余韻に浸る間、わたしは幾重の仮面をも突き抜けて純粋に還っていた。手の中のロックグラスが体温で温もってしまっても構わなかった。

 芳醇な酒精の雑味を舌の上に広げたまま、突然心に湧き上がってきた不可思議な情動の名前を見出すために必死になっていた。

 

 これはなんだろう。

 感動に打ち震えるような、猛毒を喰らって痙攣するような。

 人体に根付いている心という器官の肉を、腹の底からミキサーの刃で搔き回すみたいな疾走感と、摺り潰されていく神経が感じ取った鈍痛。さながらその二つを強引に和えて煮立てた、そんな風な感情がわたしを内からじわじわと蝕んでいた。

 

 はっと我に返り、やっとの思いでウィスキーを喉に流し込んでも、この舌筆に尽くし難い感情の正体は定まらなかった。その答を得るよりも早く、わたしは窓の方へ歩き出していた。妙な力の入った右手にはまだ中身が揺らめくグラスがあった。

 

 義弟が感づいて振り向かないように、気配を消して歩みを寄せる。別にわたしが帰ってきたことを気取られたってなんの問題もないのだけれど、どうしてか漠然と彼に悟られてはいけないと思った。悪戯心というやつだろうか。そんな自問自答はあれど、所以も知れず滾り迸るこの感情を前にしては取るに足らない些事にすぎない。

 

 ガラス窓の棧に手を掛けて息を呑んだ。今更緊張に苛まれている。たかが義理の弟との対面に張り詰めたものを感じている。それでも四肢は留まる様子になく、胸中の脈動は激しさを伴いつつも、その先を求めて止まない。

 わたしはゆっくりと窓を開けた。義弟の(かんばせ)を覗き込む為に。

 

 

 

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