ふ・れ・ん・ど・い・な・い・っ!   作:ボルケシェッツェ

3 / 5
5/16 改稿、修正作業


sunday bloody

───耳を、疑った。

 

───全てが抜け落ちていくようだった。

 

『事情もクソもねぇよっ! ドロスの知り合いの先輩たちが囲ってるアソビのガキとヤらせてやるって言われて、アイツも連れてこさせられてんだよっ。そしたらアイツ、ビビってマトモじゃねぇとか言い出して』

 

『挙げ句ガキに本気になって連れ出そうとしやがって! ガキも散々使われて悦んでた癖に花畑になりやがって、俺ら面子どころじゃねぇ、下手すりゃまとめてトバされるとこだったんだぞッ! こっちだって荒れてんだよ』

 

『大体、テメェにキレられる筋合いはねぇよ。あの腐れ頭がハブらなきゃあ、今頃俺らと一緒にキョドってただろうからな』

 

『お前も大概笑える奴だよ。大した付き合いもない癖に、本人のいないところで友達アピールか? 身内に寒い奴らを二人も抱えるなんて、ハナから願い下げだってぇの』

 

『ま、クサ霧が消えてくれて良かったよ。汚ぇ穴ぁ孕まされたゴミごと抱えて消えてくれたんだからなぁ、こっちもゴミ処理の手間が省けて万々歳ってやつだ』

 

『やっぱ、ヤク中の商売女の穴から出てきただけあって、頭ん中ガチでお花畑が広がってんだなぁ。あんなんとつるんでたと思うと、キモくて仕方ねぇよ』

 

『クソッ、お前のせいでボタン千切れちまったじゃねぇか』

 

───こつん、と額に何かが当たる。学校指定の校章が刻まれたボタンが、尻餅をついたおれの腹の上に落ちてくる。

 

 目の周りが真っ白になる。

 気が付いたとき、おれは腕を振り抜いていた。

 

 そのとき初めて、おれは本気でヒトを殴った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 前に目にしたときより少しだけ湿気ってしまっているそれを咥えて、ライターに火を灯す。実はライターを使うのはこれが初めてで、キッチンから拝借した百均ライターの手触りをよく確かめながらフリントを削った。

 

 よく乾いた空気の中では、ふかしてやるまでもなく早々に火が灯った。おれは鼻先に点いたほんのちっぽけな熱を確かめながら、火元と同じく湿気た紫煙を体内に流し入れた。

 茅ヶ崎真嗣、十六歳。煙草は初めてだった。

 

 朝霧の寄越したマイルドセブン(マイセン)───いや、知らないうちにメビウスなんてチープな名前に名を変えていたそれは、おれの未熟な喉に狭苦しさを感じるのか、咽頭の奥から肥大化するようにして呼気を堰き止めた。おれは未知の重圧に一瞬うっと詰まって、なんとか唾を飲み込んだ。なる程お約束。どうせならタールの少ない初心者向けのヤツをくれれば良かったのに、と咽返りそうになるのを必死にこらえながら思う。

 

 こうしてガーゼの下の痛みに酔いながら粉雪などを目で追っている時点で相当自己倒錯的とは思う。あまつさえゲホゲホとわざとらしい咳まで零そうものならついぞフィクショナリティのヴェールを破れなくなりそうで、おれは平静を装ってフィルターから口を離して煙を吐いた。

 口と鼻の両方から漏れ出た紫煙は無様な形で大気に流されていき、吐息の白さに交わって溶けていく。出ていった空気を鼻の穴を広げて吸込めば、傷口が冷気に晒されて悶た。つくづく後を引く痛みだった。

 

 頬のかさぶたを掻きむしる。知らず知らずに苛立ち。拳に貼られた湿布が捲れる度に顎に力が入る。

 鼻柱と下顎の右側、左の眼窩に腕と脛、それから肋などに諸々。(あおぐろ)く変色した殴打の応酬は今までで最も新しい証で。今までで最も激しい傷痕になるであろうというのは明らかだった。しかし勲章と称するに値するほどその由来は高尚ではなく、今はただひたすらジクジクと未練がましく疼く。

 

 気を鎮めようとかれこれすれど、謹慎を言い渡された五日前からずっとこんな調子だった。

 逆立った気はなにもせずともやがて障られて燻り始めるのに、精神そのものは決して超えることのできない大きな壁に隔たれていて、さっぱり涼やかに凪いでいる。脳幹と心胆がどこかで切り離されてしまったらしい感覚。

 

 言うまでもなくクールではなく、とはいえ憤りの炎はとうに萎んでしまっている。するとドライ、というのが言い得て妙なのか。大方燃え上がらせるものは嘗め尽くしてしまった後の静けさがそこにはあるのだ。その周辺、倒壊した瓦礫を押し退けた下の断熱材なんかの中に、辛うじて生き延びているか弱い残り火。丁度人差し指と中指の間に挟んだ紙巻きに潜む火のようだ。日の下を忌むべき感情がまだ、収まりがついていない。

 

 もろとも消し去ってしまえれば楽なんだが───足元のコンクリートに吸い代が有り余る煙草を押し付けた。勿体ないとは思わなかったから、たぶんおれには合わないのだろう。くしゃくしゃになったパッケージに三本くらい残っているけれど、それも口にする気はしない。煙草そのものが気に入らないのかタールの含有量の問題なのかは他の種類も吸ってみないと分からないが、次吸うとすればスーパーライトくらいかな、と思う。ピアニッシモとか。

 経済的にも健康においても吸わない方が有益なのは判りきった話なのだが、古ぼけた憧憬は中々消えないものだと感じる。親父もお袋もヘビースモーカーだったから。

 

 そういえばお袋がめっきり吸わなくなったのはいつからだっただろう。少なくとも親父が死ぬよりは前で、親父は死ぬ間際まで日に日に吸い殻の量を増やし続けていた気がする。

 幼き日のおれはそれぞれの灰皿に積み重ねた煙草の数でその日の機嫌を推し図ろうと試みたりもしたけれど、結局表層に出る顔色とライターが灯る回数に因果関係は見い出せなかった。むしろおれが顔色を伺うような素振りを見せる度に二人は粘ついた優しさをくれて、おれは気持ちが悪くなった。

 

 おれは酒も煙草も好きだ。それは旨いからじゃなく、両親が旨そうに嗜んでいたのを眺めて育ってきたからだ。だから酒の肴になるようなツマミの類も好物だし、酔った頭に鋭く効くような映画や音楽も好きだ。玩具も、漫画も小説も、ボードゲームなんかも、全ては暖色の照明にまとわりつく副流煙とアルコールの熱に浮かされた空気に相応しいかどうか、それが好みの根幹にあった。

 親父がグラスを傾けて、氷が鳴らす玲瓏の音色。お袋がジッポの火を起ち上げて紙巻きの先を焼く匂い。名状しがたい安堵と未知への興奮が彩る世界は日々のささやかな幸福の象徴であり、そしておれにはまだ触れ得ざる場所。そのもどかしささえ漠然とした将来への不安を忘れさせてくれて、おれは得難い居心地に浸るのが好きだった。

 

 だから親父が死んで食卓からヤニ臭さが失われたとき、おれは世界に抱いていた幻想の空虚さを知った。世界は思っていたより冷たいし、湿っぽくもない。おれにはこんなにも満ち溢れているように感じられた趣味や娯楽は細々と、そして理解者を得ることはとてつもなく尊い幸運なのだと知った。おれの酩酊混じりの教鞭によって培われた浅知恵は、大多数に憚りなく伝わるものじゃないことを覚った。

 

 それ以前におれは自分自身の空っぽさに愕然とするのを避けられなかった。

 当然といえば当然の話。

 己の中の情熱や我欲の炎を顧みたとき、それらはおこがましいほどに小さく弱く、火種にすら成り得ない虚弱さ。おれはおれ自身の領域を持たない乞食のような存在だったと気が付いた。おれは侘しくも、他人の幸福の価値に縋り、それを自我の幸福と錯覚していた餓鬼だった。

 なんたって、それはおれの趣味に適っていようが、おれが情熱を注いだ趣味じゃあない。そこにおれの愛着はない。人が育んだ興味を、親父やお袋が青春を賭した嗜好を、愛を、乗っ取ったつもりでいたに過ぎなかった。好きに籠める感情とその対価、代償。おれはそれをなんにも払ってこなかった。すべからくおれは愛を持たなかった。

 

 自らに空いた虚空を理解した刹那、おれの内から熱狂は喪われ、意欲は塞ぎきった。否、それは元々持たなかったものだった。

 おれには探求の欲も根付かなかった。それまで娯楽は自動的に与えられる要素だったのだ。お溢れを享受しているのみだった人間が、能動的に熱意を誂えるのは存外に難しく、そしておれはどこまでも冷え切っていた。当時は単に親父が死んだからだと考えるようにしていたけれど、内心では全て諦めていた。

 そう、おれには何もない。

 肉親の死にショックを受けるよりも本質的に無気力である。それ故この穴は埋まることはないだろう。穴どころではない、外面ばかり膨らんだ心の空白は、満たされるには膨大過ぎるのだ。

 

 どれだけ悪足掻きを重ねようと狂しき飢餓と渇望は収まらない。足と手が赴く範囲でありとあらゆる快楽の種を摘み取っても、おれの胸にはいつだって拭うことができない虚しさがこびりついていて、振り上げた拳を降ろす場所も見当たらない。

 

 おれの孤独は必然的なものだった。友と共有するものなどなく、共に笑う程度の愛想もなく。おれは既に意味をなさないと知った慰めに立ち返っては、満たされきらない苦痛にぽつねんと悶々とする外なかった。

 

 それでも。それでいて、ああ、あいつと過ごした時間には、核心に迫る快哉があった筈なのに。

 

 だからおれは怒っているし、悲しんでもいる。失った友人への同情や陥れた奴らへの憤慨より、なによりもおれの安寧と癒しが奪われたことに。そして唯一の友人を失くしても、自分の痛みにしか目が向かない薄情な己に。腹の底から憤っているし、悲壮に駆られている。どこまでも救いようがない現実に目を逸らしたまま。

 おれはまた、親父が溜め込んだCDのデータをスマホに焼いて、耳の中で暴れるサウンドに集中する。そうして全てを忘れようと試みる。

 

 なんだ、親父が死んだときもそうしていたっけ。それだけじゃない、お袋が義父と再婚したときも、ペットのウーパールーパーが死んだときも、階段で転げて腕を折ったときも同じようにイヤホンを着けるなりスピーカーの前に居座るなりしていた。

 チビだった頃はスマホは持っていなかったから、テレビ台に増設されたデッキスペースを私物化して好き勝手曲を聴くのがストレス発散だったんだ。親父やお袋に新しい曲や古いヒット曲を教えてもらうのも楽しかったけれど、それ以上におれは既知のアルバムを何度も聴き返す方が好きだった気がする。

 あのアウトロが終わったら、確か次はこのイントロ。そこにある普遍性が世間の激流からおれを守ってくれたのだ。

 

 果たして、忘れようとするばかりか、同じフレーズを耳に入れるたびに忘却を望んだ記憶が次々と浮かんでくるようになってしまったのはなんの冗談だろう。こればかりは幼さ故の過ちと認めるしかない。特に、Kornの楽曲を聴いていると思い出す。

 

 血飛沫が飛び散った新快速のフロントガラスと、警官たちが冷ややかに進める事情聴取の言葉。

 真っ白な顔で立ち尽くす幼い少年と、額をタイルに押し付けて咽び泣く若い母親、隣の父親。

 置き去りにされた吸い殻だらけの灰皿。夕陽を凝視して微動だにしなくなったお袋の背中。

 ほとんど空っぽで焼かれていた棺桶。やけに快活な笑みの遺影。

 喪服に向かってお袋がごちたおれの知らない誰かの名前───おれはそれが誰か知っていた気もするのに、今は陽炎の如くあやふやに揺らいでいる。いつかの記憶。

 

 おれは、ただ、ずっと今が続けばいいのにと、いつだって願ってきた。だがそれが一度だって叶ったことはない。穏やかで退屈で、真綿で締め殺すみたいにゆっくりと意識が遠のくような、満たされない繰り返しの毎日がおれは嫌いじゃなかった。

 でもそれは平然とぶち壊されていき、最終的にはまたもとに戻るのだ。現状維持さえしていればいい、今があるだけでいい、と。世界はそんな愚かささえも見過ごしてはくれない。刻一刻と状況が変われば変わるだけおれは孤独を噛み締める。

 

 顔を上げて寒空に手を伸ばすと、先程より大きくなった雪の粒が手の甲に乗った。明日も降雪する可能性が高いと気象予報士が告げていたから、ホワイトクリスマス・イヴに、ホワイトクリスマスだ。いや、降り積もっていないとホワイトクリスマスとは言わないのだったか。なにやら英語教諭が嘯いていた気もするがはっきりしない。

 

 どうでもいい。なにもかも。ぷつりと糸が切れたように手を放り出し、冬空の冷徹さを黙って味わう。ない頭を無駄に動かしすぎたんだ。そうだブランデーが飲みたい。アルコールの熱は特別だ。なににも変え難い酩酊感はきっとおれの寂寥を薄めてくれるだろう。永久なんて贅沢は言わないから、せめて今しばらくはぼんやりと生きていたい。ひたむきに、ものぐさを貪って、ひそやかに消え入るように在りたかった。

 儚く闇夜に舞う一片の雪の如く。

 

 微睡みに身を委ねて、瞼を降ろす。視界には暗闇が押し寄せてきて、米神の辺りで追憶の泡が瞬いていた。プレイリストは猥雑にシャッフルされている。スキャット、ホイッスル、ファルセット。脳髄を解すメロディは選り取り見取り。しかしそれらは十把一絡げに括られて消費されていく。誰もいないスタジオと壊れかけのシーケンサ、おれはオーディエンス。

 

 おれは目を見開いた。誰かがステージの上に立っている。

 

 ふいにきぃ、と引き違い窓のパッキンが呻き声を上げた。包んだ指の中にはまだ吸い殻が残っていた。親にバレたら面倒になるのは間違いないというのに、おれは不思議と驚きも慌てもしない。けれど瞬時に現実に引き戻され、おれは顎を跳ね上げて肩越しに下手人を見やった。

 そしてはっと息を呑む。そこに立っていたのはお袋でも義父でもなく、であれば自ずと回答は出て、しかしながら意識の埒外に居るその人は、つまり予想だにしなかった人物で。

 

 しなやかに長く、艷やかな黒髪は、聖夜の月光を浴びて妖しい蒼色に輝いている。大きいのに何処か鋭い瞳は同様の色彩を帯びていて、読み難い意図を宿しておれを見下ろしていた。手に持った六角のグラスと琥珀の液体がおれにはない、大人びた余裕を醸し出していたから、おれは思わず圧倒されそうになる。

 

 来訪者は───バカみたいな独りきりの宴に───義姉(あね)だった。

 

 いつの間に帰宅したのか、赤みがかった頬や鼻先から察するにそう前のことではなさそうだった。全く気が付かなかったのはイヤホンを着けていたせいだろうか。この頃は気圧変動のせいか、誰かが玄関を開けると家のどこかしらが軋むのだ。外に居ても判るときは判るのに。

 おれは少しひりつく外気に魅入られすぎたのかもしれない。雪山じゃないが、今眠ると寝起きが悲惨な具合になるのは考えるまでもない。酔ってもない癖に。

 

「意外ね」義姉は後ろ手に窓を締めて唐突に口を開いた。

 

 依然としてぽかんと彼女を見上げていたら、義姉はスカートを手で抑えながらコンクリートに腰を降ろした。あまりに自然でさり気ない動作で呆気に取られていたが、おれの隣に彼女は座った。その感覚というか距離感は今までの生活になかったものだった。

 

 おれは素直に近い、と思った。

 

「あなたのこと優等生らしい、と思ってたけど」

 

 義姉はグラスを両手で包み、腹の前で水面が揺らぐ様を俯いて眺め、ひとりでに呟きを零すように言った。普段より近くにある彼女の横顔に気まずい気分になる。そんなおれの胸中を知るか知れずか、彼女は見定めの意を含んだ流し目を向けた。

 

「今は不良生徒そのものって感じ」

 

 兆しなく不敵に歪む唇にどきりとする。どこか違和感を催す笑み。知らない貌だった。よくよく考えずとも彼女についておれが知っていることの方が少ないが、それでも家の中で見せる控えめな仕草からはなにもかもがかけ離れていて、おれは動揺を抑えられない。

 

「別に」

 

 内心を誤魔化すように無理やり震わせた声は掠れ、言葉を詰まらせる。

 

「別にいい子ぶってるつもりはないですけど」

「そうなの?」

 

 くすり。

 彼女は長い髪をかき上げる。それがなんだか挑発的な仕草に見えた。少々穿ちすぎているかもしれないが、少なくとも義姉はおれに興味があるふうに、おれの目には映った。胸を張って重心を背後にずらし、腕を上げて脇を晒す。肩の力が抜けているというわけだ。おれに気を許して、あるいは緩めているということである。人間警戒心があるときは、胸の側面を惜しげもなく晒したりはしない。心理学の本か何かで読んだことがある気がする。心理学的な話がよく出てくる小説とかだったかもしれないが。

 

 とにかく、これまでほとんど関わりを持ってこなかった、それこそ飯のときに顔を突き合わせることがあるだけの同居人程度の意識しか抱いてこなかった義姉が、何故か突発的に、降って湧いてきたらしい感興に流されているようなのは推察できた。

 過ぎた期待は、向けて欲しくないものだが。義理の姉弟で会話を交える所以が必要かと問われれば、おれとて首を傾げるしかない。

 

「こんなところで黄昏れてたのね」

「・・・・・・まぁ」

「痛むの?」

「少し」

 

 義姉に言われて無意識のうちに鼻柱に当てたガーゼを撫でていた。

 怪我をした当日は滲む血と血漿で汚れ、変色してカピカピになっていた患部も、もう見ていられないほどの有様ではなくなっている。それでも傷口は傷口であり、未だ瘡蓋になりきっていない箇所があるくらいだから、やつらにどれだけこっぴどく痛めつけられたか分かりやすい。

 ホントに、なにをやっているんだろうか、おれは。

 頭を冷やした日数が延びるだけ、あのときあれだけの憤りに支配され突き動かされていた自らが別の生き物みたいに思えてくる。あながちそれは間違いでもないのかもしれない。時々の立場とスタンスが異なれば、人の在り方は似ても似つかぬものに変貌を遂げる。優等生のおれと不良のおれのように。

 

「どんな感じ?」

 

 おれは瞳を見つめ返した。言葉の意図が掴めなかったからだ。義姉は一旦酒───たぶんウィスキーだろう───を口に含んで、唇を湿らせた。セーターの襟首から覗く、白皙の喉元が上下する様子が異常に艶かしく映った。

 

「人を殴るときは、どんな感覚がするの」

 

 濡れ羽色の虹彩が手の甲を撫でていく。なぞられた跡がゾクゾクと粟立つ。

 

「怒りに身を任せるとき、どんな気持ちになった」

「・・・・・・どうしてそんなこと聞くんです」

「興味よ。ただ単純に、責めとか、蔑むとか、そういう意味合いはない。答えたくないならそれでもいいわ。これは純粋な興味本位からの質問」

 

 随分不躾な話題をふるものだと思った。それほど不快に感じるわけではないが、喧嘩して傷心している相手に対して投げかける問いではないと思う。

 おれは形作られつつあった義姉の人柄のイメージに更新の必要性を覚え、それはそれとして返すべき答を考えた。

 

 感覚。

 怒りを爆発させる感覚。拳を肉に叩きつける感覚。

 難しい問題だった。自分でさえ良く分かっていない当時の感覚を思い出して、もしくは想像して言葉にして他人に伝えるなんて、至難の業だ。試しに回想してみても、やはり適当な表現は見つからない。あのときおれは文字通り激情に呑まれていた。沸立った感情の渦に魂を覆われて、心と躰が切り離される。鮮烈な痛みに精神を内包する外殻が遮断されて、衝動が生み出していた筈の爆発力は知らぬ間に防衛本能とないまぜになり、おれは腕を振るうマシーンに作り変えられる。その名状のし難さ。

 

 強いていうならば、あのときのおれは。

 

「研ぎ澄まされていた」

「へぇ」

「必死だったから。一度手を出したら、止まらなくなりますから。殴られたら痛い。殴っても痛い。こっちは一人で、むこうは三人。だったらこっちは、精一杯痛くされないように躰を動かすしかないじゃないですか」

「気持ちよくはなかった?」

「そんな余裕ありませんでしたよ。やっちまった、って感覚の方が大きかったです。元々特別に嫌っている相手ってわけでもなかったし・・・・・・拳を振り切ったとき浮かんできたのは、どっちかというと後悔ですね。きっちり報復も喰らいましたし」

「そうなんだ」

 

 義姉はどこか予想と違う返答をされたふうな声音を出した。

 

「殴り合いの喧嘩って、もっと開放的なものだと思ってたけど、違うのね」

「蟠りがなくなるような、河原の決闘みたいなのじゃ分かりませんけど・・・・・・」

 

 おれは苦笑を浮かべてそれ以降の言葉をぼやかした。これ以上追及してくれるなという意思表示のつもりだった。願いを汲み取ってくれたのか、義姉は黙ってまたグラスを傾けた。

 

 暫しの間沈黙が続いた。さっきまで気にならなかった寒気が神経に一気になだれ込んできて、堪らずぶるりと躰を震わせる。

 隣に目をやると、義姉も腕で躰を抱いて白い息を吐き出していた。独りではなくなったからだろうか。おれたちは熱狂に包まれているはずの街の静寂に耳を澄ませて月夜を見上げた。

 なにがクリスマスだ。熱に浮かされた人々の雰囲気に当てられるたび薄ら寒さを覚えた。まるでおれだけが吹き溜まりに取り残されたみたいな気分になるからだ。

 彼女もそうなのだろうか。花の女子大学生が聖夜に一人、夜も更けないうちに家に帰ってくるなんて、なんとも健全な話じゃないか。

 

「帰り、早かったんですね」

 

 思い切って声に出してみた。今度はおれの番だ。吸い殻をパッケージごと握って脚の間に抱えた。湿布のふちが紙パックと擦れて悲鳴を上げる。耳障りだ。

 

「コンパとかだったんですか」

「ええ」

 

 肯定を表す母音の連続はため息を多分に纏っていて、彼女の辟易具合が直截実体化したようだった。合コンの空気なんぞは触れたこともないが、そこにある粘着質な感触は容易く想像がつく。段々と雁字搦めになって窮屈に喘ぐ自分が想像の余地にいる。その上、改めて確かめた義姉の造形は上質だ。きっとおれには理解できない気苦労がその肢体に絡みついているに違いない。

 

「つまらなかったから、途中で抜け出してきたわ。元から興味がなかったし」

 

 案の定、義姉は逆立った気を仄めかして隣の家の外壁を睨んでいた。

 

「こんな夜にまで肩を凝らせたくはないでしょう。連中をまともに相手にするには、お酒が足りなさ過ぎるのよ」

「大変ですね」

「ほんと。でも、あなたも人のことは言えないんじゃない?」

 

 まただ。彼女の嘲りが隠れていそうな矯笑を向けられると深い違和に苛まれる。目の前の認識に歪みが生じるというか、現実と妄想のラインが侵されてしまう。どこまでがありのままの義姉の微笑みで、どこまでがおれが脳内で勝手に与えたエフェクトなのか判断が鈍る。果たして義姉はここまで瞳孔に澱を秘めた人だっただろうか。前髪と眼鏡が落としていた翳りは確かに重々しかったが、屈折した闇は面影もなく隠れ潜めていた。

 

 あ、そうか。今日はコンタクトなんだ。

 鳴り止まなかった違和感の一つの正体が分かった。だいぶぼーっとしていたから気が付かなかったが、自らの間抜けのほどに呆れる。

 おれはあらゆるリアクションを兼ねて肩を竦めた。自嘲にも似た鼻息が気の抜けた音を鳴らす。何気なく義姉を見た。義姉も目を鋭く細めておれを見ていた。おれは肝を冷やす。まずった、今の態度は気に障ったかもしれない。お袋と二人暮しだった頃に言われたのを思い出す。あんたの笑い方はたまにヒトを小馬鹿にしているようで気になる。

 

「ねぇ」

 

 義姉は中途半端に手を挙げて、おれの頭を指した。

 

「それ、なに聴いてるの?」

「え? あ、えーっと・・・・・・」

 

 正しくは耳だった。おれは内心ほっと安堵の息をついてイヤホンに手をやる。雑然と奏でられ続けていた音楽は知らないうちに鳴りを潜めていた。おそらくは義姉がやって来たとき、振り返った拍子にジャックが引っ張られて接触不良を起こしたのだろう。型落ちのiPhoneに付属していたlightningケーブル式のイヤホンは、どうも基部の造りが脆弱らしく、作業しながら音楽を再生しているとしばしばスピーカーに切り替わった。

 

 地べたに放り出したスマホの液晶にはシャッフルされたプレイリストが表示されていて、統一感のないタイトルが途方もなく列んでいる。Nirvanaの次はBeastie Boys、その次はAC/DC、Ke$haにYES、そしてU2。おれはAC/DCと悩んでからU2の方を再生した。冬に聴くならそっちの曲があっていそうだと思ったからだ。

 

 おれは外したイヤホンを服の裾で拭ってから義姉に差し出した。彼女はそんな様を微笑んで眺めていた。それから差し出した両手の右側を制して押し戻し、片側だけを左耳に嵌めた。意味を理解して呆然とするおれにからかいの滲む目で促す。つけ直せと。

 動揺をあからさまにするのも気恥ずかしかったので、おれは困惑もそのままにいそいそとイヤホンを耳に持っていった。

 

〈──────〉

 

 耳に飛び込んできたのは聞き慣れたイントロ。リズミカルなブラッシングに透明感のあるバッキング。なんとなくグルーヴィーなロック。スペイン語混じりのリリックをまともに聴き取れたことはないけれど、翻訳ブログに載っていた和訳を読んだ限りでは中々ユーモアにあふれているようだ。このバンドの中では一番好きな一曲。

 

 おれは隣を盗み見る。義姉は静かにサウンドに聴き入っていた。なんだか遠い目で夜空の上の方を探っていた。

 月とか星が飾られた天幕の裏側を見透かすみたいな眼つきで、たとえば世界を定刻通りに動かしている歯車の形を確かめているような表情で、初めてまともに言葉を交わした義理の弟とイヤホンを共有していた。変な人だと思った。

 

「洋楽なんだ。いい曲ね」

 

 ヴァーティゴっていう曲です。U2、アイルランドのバンドの。お気に入りなんです。半分以上親父の趣味だったんですけどね。おれは頭に浮かんできた文章をそのまま出力していったが、どこまでが正確に声となって空気を震わせたかは分からなかった。そんな事実はどうでもよかった。真面目にメロディを聴き入れている彼女に、おれのなんの価値もない自分語りなんかで茶々を入れてしまいたくなかった。耽美な横顔をおれに向けるくらいなら、宵闇の深淵に真っ直ぐに瞳を向けていて欲しかった。

 

 おれたちは口を噤んだ。果てしない静寂がモノラルの歌声を際立たせる間、一言も漏らさなかった。いつの間にか体中の痛みは去っていた。その代わりに胸の渇きが一際強くなっておれに圧を与えていた。これじゃ足りない。満足できない。分かち合うことに意義はない。潤いを。新鮮な潤いが必要なのだ。

 

「わたしね、独りが好きなの」

 

 ギターの余韻がプツリと音を立てて潰えたとき、彼女は唐突に白状した。

 

「独りでいると安心するの。ああ、世界はこうだったって、あるべきものがあるべき場所にあるんだって感覚が落ち着くの。誰かがいないと生きていけないけど、誰もいない場所で独りでいる時間が一番生きてるって感じるのよ」

 

 義姉は音楽を聴き始めたときから変わらない姿勢のまま喋っていた。瞼の開いた角度も、瞳孔の向きも、指先の位置も変わっていなかった。顎とピンクのリップの唇と浅い喉仏だけを動かして声を発していた。おれは彼女の言葉がなんとなく分かった。義姉はここにはいない。独りきりで生を謳歌しているのだろう。

 意味は判る。共感さえする。羨ましくもなく、憐れとも思わない。おれも同じ気分になる瞬間がいくつもある。群れからはぐれて逃げ惑うシマウマの仔を俯瞰するように、自分の矮小さや無力さを賞翫する。そこに心地良さを感じるのは、おかしいことではないと思う。

 

「あなたは、孤独が好き?」

 

 おれは少し考えた。それから右耳のイヤホンに手をやって、それを外した。

 

「いえ、好きじゃありません。でも、嫌いでもない。好き嫌いとか思ったことないです。けど」

 

 そこで、初めて義姉の顔が真正面からこちらを向いた。おれを視ていた。

 

「独りでいるときだけは、おれはおれを見ていられます。醜くとも、自分という存在を認めることができる」

「・・・・・・・・・・・・そう」

 

 おれがそう言うと、彼女は俄に淋しげな頷きを返して俯いた。

 

 口を閉ざすと、舌の上がムズムズする。

 おれはもっと深刻に言葉を選ぶ必要があったかと後悔した。おれは義姉になにを言うべきだったか。嘘偽りなく本音を示して良かったのか。彼女の求める答を探すべきだったか。しかし全ては義姉が進める話なのだというのは分かりきっていたから、あとから悩むのは全く無為な行いなんだろう。彼女の言った通り、義姉の世界は常に彼女独りの領域なのだろうから。

 

「あなた、ずっと外にいて寒くないの?」

「そうですね、流石にそろそろ」

 

 やはりおれが考えるまでもなく、顔を上げた義姉は不敵な表情に戻っていた。そのことにほっとし、そしてどうでもいいな、と思う。奇妙な会話はここで終わりだ。今日中だか、もしくは日付が変わって目が覚めると両親がいて、義姉とはまた戸籍上繋がりがあるだけの他人の関係に成り下がる。それでいい、それがいい。趨勢はいつだって変わらないほうがマシだ。

 指摘された通り、肌の感覚がおかしくなりつつあったので、おれは義姉からイヤホンとケーブルを受け取るとしめやかに腰を上げた。眼前を降りていく雪の量も増えている。明日の雪化粧が期待できる勢いだ。

 

「ねぇ」

 

 窓の棧に手をかけたところで、義姉に呼び止められる。今度はなにを言われるのかなどに思考を割かず、おれはやおらと彼女に向き直った。

 

 刹那、背筋に鳥肌が立った。

 

「中で、もう少し話しましょう?」

 

 凍えて鈍くなっているはずの嗅覚に、重たい甘い匂いが飛び込んできたのは錯覚だったのだろうか。おれはタールが喉にへばりついたときと同様に息を詰まらせ、目眩に近い没入感に脳を揺さぶられる。ぐるぐると廻りだす。おれは白くならなくなった吐息をしまうのも忘れて、喉元まで言葉が出かかった口をあんぐりと開けていた。

 

 傾げられた頭に連動して垂れ下がる黒髪につられて視線が動く───衝撃。

 

 おれの脳髄の中で、どこかズレていた義姉の目許と歪んだ口許が一つの貌として合致する。暗い目、遠慮、引け目、苛立ち、愛想笑い、苦笑、葛藤、悲観。黒縁の眼鏡と長い前髪に切り刻まれて分断されていた彼女の表情を象るパーツが集合し、変形し、それらを突き抜けて新たなる相貌へと昇華される。

 

 それが──────その変貌が──────これだというのか。

 

 この、笑みが。

 淑やかに獲物を待ちわびる食虫植物の如き妖艶さが。

 これが、おれの知らない、おれになにかを望む義姉の秘めるもの。

 

「ねぇ?」

 

 おれは泡を食うみたいな喘ぎを覚られないように発露させて、調律された空間を描き乱す衝動を抑え込んだ。おれの孤独を蝕むなにかに耐えようと試みた。耳朶に残るエッジのギターソロが不協和音を発し始める。

 

「わたしたち、結構似ている気がするわ」

 

 ふいに思い出した。おれたちの意思に関係なく、夜は思ったよりも長いんだって。

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。