ふ・れ・ん・ど・い・な・い・っ!   作:ボルケシェッツェ

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pride

 夢を見る。

 溺れる夢。水の中で踊る夢。足掻く夢。

 逃れられないのは知っている。鼻を、口を、気道を、苦しみが埋め尽くす。

 水だ。

 人は水がないと生きてはいけないらしい。当然だ。ぼくたちは喉が渇く。喉が乾けば水を飲む。おしっこが出て、汗をかく。そしてまた水を飲む。

 でも、いまは苦しい。苦しくて仕方がない、死んでしまいそうだ。

 ぼくは水で満たされていた。口の中、鼻の中、目の中、耳の中、頭の中、血管の中、お腹の中、肺の中・・・・・・。逃げ場なんかないくらい、内側も外側も水で溢れかえってる。

 人は水がないと生きられない。でも、水は苦しい。

 ぼくは苦しいものにいっぱいいっぱいだった。

 ああ、なんだ。

 別にいつもと変わらない。

 夢を見る。

 

 

 ◇

 

 

 

 ぬめりついた自然由来のノイズが、こびりついた穢れを洗い流してくれる。

 幼い頃のわたしは雨音に出処不明の信仰を抱いていた。天から降る水は蛇口から流れ出る水より当然偉いはずだ、と盲信してやまなかった。水溜りより、河川より、大海より、雨雲から勢いよく地面に飛び出していく小さな雨粒の方が尊いのだ。自分の目線より上から来るから。上にあるものこそが偉いもので、頭の高さは序列を表している。

 それは、篠突く雨の冷たさを知らなかったから。

 そのときはまだただの子供らしい勘違いに過ぎなかったけれど、物心がつき、この世の法則が分かってくるにつれそれはぼんやりとした自然信仰へと形を変えた。空の青は貴い。海の蒼は誇らしい。芝の緑は優しい。血の赤は畏ろしい。砂地の黃は眩しい。有機物は素晴らしい。なんでそう思うんだろう、たぶん地球産の生物に備わる本能的な意思なんだとわたしは勝手に解釈している。自分の肚の中で生まれた生き物たちが気紛れに宇宙へ旅立って行ってしまったりしまわぬように。ガイアの愛が、わたしたち弱っちい生命を優しく縛り付けているのかも。

 その母の腕を取り払って重力の枷から逃れようとする人類は、やっぱり神々への叛逆者なのだろうか。太古より生き続ける巨木よりは、太古に朽ち果てた古代遺跡と聞く方が浪漫に疼く。空を支配する怪鳥よりは、宇宙を漂う異星人の宇宙船を目にする方が心が躍る。自然は愛すべきものだ。でも、天然の楽園にわたしの姿はない。唯一を信ずる者には常に異端の姿が焼き付いていて、わたしは背徳の誘いに屈したわけだ。

 背信者の檻は矛盾の快楽に満たされている。たとえばコンドーム。いつから快楽は代償なしに抜き取られるようになってしまったんだろうか。禁じられた遊び。忌避したはずの行為。昼前に過ごした義弟とのまぐわいを思い返した。わたしは耳朶を打ち付けて覚醒を促す雨音に純真の残滓を感じつつも、安物のヘッドホンから流れる音色に意識を感ける。

 おとなしい。いつも跳ねっ返りに感じるベッドが、今は流動する汚泥のように消極的だった。

 耳元も、壁の向こうも騒がしさにあふれているのに、意識はこの上なく静まり返っていて、わたしはベッドの中に引きずり込まれていくような錯覚に陥った。やがて暗闇が訪れた視界を見限り、狂気を催すほどの深閑の最中、わたしは虚無に触れる。わたしが視界の影に溜まった霞に溺れるかの如き日常を脱却しないかぎりは、いつだって深淵はそばにあって、ふとした瞬間には見つめ合っている。それは悪性の体質であると同時に、暇潰しでもあった。

 現実でのわたしは今、虚ろな目で自室の天井を見上げていることだろう。手首を切って緩やかに失血死していくみたいに。あるいは本当に、動脈を縦に裂いて死にかけているのか。純白のベッドを自分の色で染め上げながら、わたしは地獄への奈落(Highway to hell)を堕ちていっているのかもしれない。

 あの夜も───そうだった。

 霧がかった脳内に、荒い吐息を出し入れして。どうしてこうなったのだと自身に問いかけるけど、望むような応えは導き出されなかった。あのときのわたしは混乱していたのだ。今でこそわたしと義弟の仲に忌憚を抱くことはないが、あの夜はまだその性質が実母と間男に近いものと見誤っていた。

 義弟が拙い動きでコンドームを外したときはこう思った。ただ、わたしは負けた。雑な誘惑に勝てなかった。いや勝たなかった。どこかでそれを期待していた。最初からシナリオを立てていた。自ら堕ちることを選んだんだ。だから無様な誘惑を彼に仕掛けた。そして彼はそれを拒まなかった。それだけだ、と。

 次に処女を散らした頃を思い出した。後頭部でカビ始めた脳細胞に収められたフィルムが廻り始める。

 義弟との関係の中では間違っても天井のシミを数えるなんて失敬な真似はしなかった。一度それをしたことがあるけれど、癇癪を起こした相手に頬を打たれて痣を作る羽目になった。高校時代の、バスケ部の先輩だったが、縁を切る切っ掛けになったのはむしろ幸運だった。少し顔が良くて運動神経のいい、どこにでもいる自意識の高い男だったが、精々わたしをステータスか血の通った穴程度にしか考えていなかっただろう。仮に逢瀬の際に度々囁かれた背筋が薄寒くなるような言葉が本心からのものだったとしても、あれが熱を上げていたのはわたしではなく、わたしに愛を捧げる自分の姿に違いない。

 どうしてわたしはあの男と付き合ったのか疑問だけど、それは当時から甚だ分からなかった気がする。きっとあの頃から憂さ晴らしが必要だったんだ。まだ、わたしの人生には母が手をついていた時期だったから。自分だけに与えられたはずの人生だと確信するための楔がわたしには必要だった。本気で倒錯できるものを求めた。手に入ったものは、形だけの恋愛だった。

 わたしはあの一件で理解することができた。執念深く、こよなく人を愛することは自分には不可能だと。本質的には名前も忘れてしまったあの先輩と同じなのだ。わたしが人愛せたとしても、その愛情が行き着く先は己の中にある自己顕示欲にすり替えられる。つまりはフィルターだ。わたしがわたしを愛するためのモニタになってもらうしかない。そう考えると気持ち悪さにこめかみの裏が痒くなった。

 だから、もうやめた。虚空から慈しみは湧かないし、受け取るのも虫唾が走る。義弟との間には契約だけあれば十分だ。

 セックスフレンド。

 それがわたしたちに相応しい関係性の呼び名だ。とても洗練されていて、不必要に不安や不信とかに葛藤しなくてもいい、フェアな間柄。そこではわたしは彼が望むように動いて、彼もわたしが望むように動く。いわばビジネスライクであり、多少の気遣いと線引きが出来ていれば揺るぎなく成立する。ある種の大人らしいやり方。小賢しいとも思う。

 

『ヘンですよ』

 

 二度目のセックスで彼は言った。

 

『どうしておれなんだか。いや、拒んでるんじゃなくて、気になったんですよ。義姉さんのやり方に相応しい相手は他にもっといるんでしょ。おれはどの辺が都合が良かったのかな、って』

 

 その問にわたしは「わたしとあなたが似ていたから」だと返した。すると彼は喉に小骨が刺さったふうな顔をして『あんま似てる気はしないけど』とごちた。彼の訴えたいことは分かる。それでもわたしはそれ以外の返答を持ち合わせていなかった。わたしがひとりでに感じたシンパシーを除けば、彼の言うとおりわたしが彼を選ぶ確固たる理由がないからだ。

 その上、似ている気がしないというのも偽ではなかった。真ではないけれど、わたしと義弟は根本から似通っているわけではなくて、逆に根本的には全く相容れない質ですらあると思う。たとえばわたしは孤独を望んで酔っているが、彼はそうじゃない。彼は自分なりの割り切り方を覚えただけだ。仮に誰かとつるむことに面倒くささを感じたりすることはあっても、それは一般的な人付き合いの範疇に収まる。わたしにように受け流せない苦痛に苛まれることはないだろう。単純に、孤独に見舞われたら最大限楽なやり方で乗り切る。そんな受け止め方を遂行しているに過ぎない。そしてわたしはそのやり方が好きだった。

 両親への反応から分かっていたことだが、義弟は、わたしなんかよりよっぽどリアリスティックだ。

 ただ、しみったれた現実への理想が高過ぎるだけ。この世界のどうしようもなさを諦めきれていないだけだ。健全なんだ。彼が話す言葉の端々や貪欲な眼差しに宿る青臭さは、世間一般的な男子高校生のそれとなんら変わりがなかった。

 思わず目を逸らしたくなる類の光だ。

 

『義姉さん』

 

 好きな音楽について語る彼の軽やかな声音。何故かわたしには痛々しいものに聞こえた。語りが早まって少し滑舌が鈍くなる彼の横顔を目に入れると胸が疼いた。イヴの自宅で窓越しに彼の背中を目にしたときと同様の蠢動だった。わたしは未だその正体を掴めていない。

 乾いた目を閉じて寝返りを打った。ヘッドホンが清閑を保とうとするシーツから押し出されていく。あーあ、と思いながらもわたしは未知の音色の奔流に飽きてきていた。義弟が片手間に寄越したデータは、しかしその実膨大な量で、なにをダウンロードしてもあっけらかんとしていたスマホのストレージに悲鳴を上げさせている。聴いても聴いても滂沱の果ては見えそうにない。

 

「ねえさん・・・・・・ね」

 

 刺激の飽和してしまった穴の入り口よりも、耳の奥で何度も渦巻く呼び声をそのまま反芻した。当然、慣れない発音に唇が着いてこなかった。

 

「好きか?」

 

 ぼやけた視界を埋めるように手を伸ばす。指の先には雨粒が張り付いた窓があった。点線が線になったり、線が線に絡め取られて点線になったり。透け色のキャンパスは目まぐるしく様相を変えている。

 絶え絶えの呟きは誰にもぶつからず放物線を描いて床に落ちた。散らかった衣服の上に立った言の葉は考えるだろう。本来己が至るべき顔は一体どれだったろうか。そこに寝転がる女か、床下のリビングにいる男か。それとも全くべつの某か。

 解はわたしも知り得ない。考えるに値する式の形にすらなっていない。

 

「バカか」

 

 わたしは仰向けに体制を取った。

 答など知るものか。そんなものはどうでもいい。気持ち良ければいい、退屈を凌げればいいと思考を放棄したのは他ならぬわたしなのだ。そうまでして結局始点に立ち返ってどうする。かき出そうとした汚泥が回路を蝕んでいくだけだ。そしてまたショートして、わたしは無知蒙昧を顧みることなく快楽を(むさぼ)る獣に成り下がる。

 ならば、知悉なぞ最初から必要ない。わたしが知っているのは、精々部屋を侵す影の蒼さぐらいなものでいい。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ひどく匂う。引っ掛けた薄手のジャケットの襟元を緩めた。

 短く点灯したウインカーがジャカジャカと音を鳴らす。おれは少しパワーウィンドウを下げて、水気に膨れあがった外気に鼻先を突っ込んだ。雨水が染み込んだアスファルトの匂いが脳漿いっぱいに広がった。

 無臭化と謳っていた消臭剤は清涼感のきつい、それなのに甘ったるい香りを部屋中に振りまいて、シャワーを浴びた後念の為衣服の上からミストを被ってきたおれにも同じように纏わりついた。おかげで安物の香水よりも感に障る臭気を全身から吹き上げている。他ならぬおれから。

 過剰に匂いを気にかけるだけ逆に怪しまれるかと思って、敏感過ぎたかと後悔していたところにこの香りが重なって、もとよりネジ止の緩い機嫌が徐々に傾いてくる。冬、手が出て以降、おれは少し怒りっぽくなったのかもしれない。

 

「買い物を手伝えって話だったろ───」おれは語気の端を硬く響かせながら問うた。「どこに停めるつもりさ」

 

 返ってきたのは一昔前のホンダAT車特有の、キントンキントン、というバックの警告音で、次に「見ればわかるっしょ」と抑揚がない言葉が飛んできた。おれはピラー越しに仄暗い路地に続くブロック塀と、眼下目の粗いアスファルトを睨めつけた。細い道に面した駐車場の看板には、最近出来た喫茶店の名前と駐車規約が刻まれている。一度も顔を出したことがない店だった。

 

「なんでまた」

「いいから、黙って付き合いな。アイスくらいなら奢ってやるからさ」

 

 有無を言わせない物言い。おれは喉を震わせるのをやめて、昼下がりから溜め込んだ気怠い疲れと眠気を息に絡めて放った。安っぽいシートに身を委ねてから三回目の嘆息だった。あからさまな吐息を聞いたって、お袋は頑なに意を介さなかった。

 昼食を義姉と共にして、彼女が部屋に戻った後、微睡みからの誘いをテレビから流れるどこの誰とも知れないコメンテーターの語りと雨樋の囁きに耳を澄ませて振り払っていたところに、お袋から着信があったのが約一五分前のこと。コールセンターの退勤ついでに買い出しに行くから、米袋と二十四缶入りビールケースを運ぶのを手伝えと、これまた一方的な呼び出しに従って家を出た。

 それが肝心の近所のスーパーを通り過ぎても轍は勢いを弱めず、では距離があるものの規模で優るリバーシティに用があるのかと思えば、そちらの方面にも走らせず。怪訝をしたためていれば、止まったのはごくこじんまりとした個人経営の喫茶店の前。おれはその背景を察することができないまま現在に至る。

 サイドブレーキが引き上がると同時、エンジンの鼓動が潰えた。首筋にのしかかる凝りがどっと重みをまして、たまらず肩を竦めたおれを尻目にお袋は軽を降りた。五月雨に続く雨雲が見えていないかのように店の戸に向かって歩くお袋を目で追うだけともいかず、おれも喧しい降雨の下に降り立った。手に滑るドアを閉めると、見送るかの如く中古のライフが目許を瞬かせた。いやに隙がないのがいけ好かない。

 そそくさと屋根の下に逃げ込もうと足早に入り口へと向かう最中、店の景観に目をやる。いまどきの小洒落た店には珍しく、来客と先客を互いに開け透けにしてしまうような廉直なガラス造りは避けられていて、白壁と木目の足場が印象に残った。嫌いではない。

 からんと気の抜けた音がして、おれは慌てて扉を潜った。

 珈琲の匂い。真っ先に飛び込んできた香りに当てられて、強張っていた躰の力が抜けていく感じがした。いい香りだ。消臭スプレーの代わりに目一杯肺に詰めたくなる。木目調の塗装がされたドアが閉まると、来客を知らせるベルが鳴った。いらっしゃいませ、という初老らしき男性店員の声が奥の方から聞こえてきて、おれはジャケットに染み込みつつある雨粒をハンカチで拭いながら店内の様子を伺った。

 店の中は、無機質な外観とはうってかわって艶のある木々の模様と、大小様々な観葉植物の緑に彩られた自然的な色調に調えられていた。モダンレトロとでも言うべきか。脚長の椅子と一段せり上がったカウンターに、珈琲の湯気を引き消すシーリングファンとか。目を引くものは一昔前の喫茶店という感じで、いまどきのカフェ、とは言い難い。しかし真新しいステンレスで組まれた線の細いラックやエアプランツの佇まいには古臭さは感じない。眺めていると不思議と落ち着くようで、どこか落ち着かない内装だった。

 ケースレスの壁掛け時計が指すのは午後三時。土曜の昼過ぎと、それなりに賑わいそうな店内には二、三組の客がいる程度であり、あまり盛況な店ではないらしい。カウンターから顔を出しているマスターらしい制服の男性も、会釈をしながらも心なしのんびりとマグカップを磨いていた。

 一息つく。お袋の方はすぐに空いた席に座るかと思えば、知り合いの顔でも探すふうにキョロキョロと視線を這わせていた。

 

「萩芳さん」

 

 待ち合わせの相手でもいんのか。そう口に出そうとしたところで、壁際のテーブル席から声が上がる。どうやら目当てはその人だったようで、お袋はほぐれた笑みを浮かべて歩み寄った。萩芳の呼び名を聞くのは久しぶりだけど、数年前まではおれもその苗字を名乗っていた。要するに、親父が死ぬまでは。だから相手は古い知り合いなのだろう。

 にしては、声が若かったような──────。おれはやおらとお袋の足跡をたどり、席についていた先客の顔を見て強烈な既視感に見舞われた。

 

「お久しぶりです、萩芳さん」

「めぐみちゃん。いやほんと、お久しぶりです」

 

 思わず立ち止まる。おれの姿を見つけ、少しの間目を瞬かせてから、席から立ち上がって軽くお辞儀をする相手。お袋のことを萩芳さんと呼び、お袋にめぐみちゃんと呼ばれた女性におれは見覚えがあった。

 どこで───そう、教師だ。おれが通う高校の教諭の一人が、こんな顔立ちをしている。長い髪にワンピース。おっとりとした眼付きは朗らかな笑みに調和し、どことなく母性的なテクスチャが貼り付いて見える。おれの学年ではない。でも、クラスメイトが時々噂に、というか委員会の顧問がこの人で・・・・・・。名前、なんだったか。咄嗟にでてこない自分に普段の学校での無気力ぶりを改めて思い知らされる。全然優等生なんかじゃない。今じゃ立派な不良生徒だもの。

 

「どう、驚いたか?」

「あはは・・・・・・こんにちは、茅ヶ崎くん」

「・・・・・・佐倉、先生」

 

 口が答えを出す方が早かった。佐倉、なんとか先生。そのなんとかには恐らくお袋の言うめぐみちゃんが代入されるんだろう。佐倉めぐみ。そうだ、めぐねえ。三年の保健委員がそんな愛称で呼んでいた気がする。

 何故。放任主義の母親が高校の教師などと待ち合わせをするのか。皆目見当のつけようもないが、少なくともおれの授業態度に対する説教が始まったりはしなさそうだ。両者の異様に柔らかい声音からもそれは窺える。私的な関係だ。

 どうぞどうぞ、まあまあ。着席を促す佐倉先生に従って席につく。ニスの照りが眩しいテーブルを間近にすると一層挽き点てられたコーヒー豆の気配が強くなった。雨の日を思うとカップから漂う湯気が恋しくなる。ジャケットに纏わりつく湿気が背もたれとおれを密着させた。

 タイミングを見計らった白髪のウェイターが視界の端から歩み出てきて、メニューを広げる。しなやかな物腰の人だった。店自体は年季が浅くとも、マスターも給仕も仕草の一つ一つに培ってきた経験の分厚さを垣間見せている。あるいはプロっぽさを着込んでいる。

 

「わたし、本日のオススメコーヒーで」

「あー、じゃああたしは日替わりセットで。Bの方でお願いします」

 

 あんたは、と催促するお袋の視線に晒されて、少し悩んでからおれはオリジナルブレンドを、とメニューを指しながら注文した。ウェイターは鷹揚に頷き、少々お待ちください、と含羞の欠片もない笑みを浮かべて立ち去っていった。スラリと伸びた背筋がその人の矜持を示しているみたいに思えた。ホワイトのカラーが鋭く立っている。おれじゃああはならない。そんな確信があった。

 手が届かないといえば、斜め前に座る彼女もそうだ。クラスメイトが時折話しているのを聞くことがある。三年の現国の先生がかわいい。スタイルがいい。性格が理想的。金持ちの婚約者がいるってさ。バカみたいな話だ。けど、おれみたいなのとは世界の見え方が違うんだろうと、帰りがけの生徒と談笑している彼女の眼を見て思ったことがある。人並みの幸福を満遍なく享受する人間というのは、たぶんああいう人を言うんだろう、と。

 おれが不幸せかと言われれば、全然そんなことはないけれど。そうじゃなくてなんというか、幸せって難しいなって話。つまるところ至極どうでもいい。

 

「アイス。頼まんくてよかったんけ?」

「あぁ、気分じゃないんで」

 

 眼前の人物を直視する気にもならず、おれは明後日の方向に眼差しをやりながらお袋の茶化した問い掛けを躱す。シーリングファンに吊るされた鳥のモチーフが緩やかに回転していた。ここで羨ましいなんて考えるほどおれは素直じゃない。

 

「ふふ、そんなに硬くならなくていいんですよ? 学校のお話をしに来たわけじゃないですから」

「そいやあんた、木曜遅刻していったらしいな。怒るで?」

「もう、お母様ってば・・・・・・」

「やーね、むず痒い。昔みたいにおばさんでいいんよ」

 

 ホントにおばさんだしね。饒舌に言葉を繰り出すお袋の姿は名実ともに近所のおばさんの肩書きに違わない。外行きの澄ました顔ではない素の容貌は近頃のおれでも中々お目にかかっていないのに、佐倉先生は臆面もなく笑いかけているところから、二人の付き合いはおれの想像よりも深い可能性が出てくる。その割におれの頭蓋のどこにも彼女の名や姿形は見当たらなくて、おれは当惑を深めた。ただ単に忘れているだけなのか、そもそも全くもって関わりがない縁に含まれる人なのか。忘却の線ならば、あまり堂々とした顔をしていられないんでないかという懸念があった。

 

「やー、しっかし何年ぶりぃ? 最後に会ったのがまだむこうに越す前だったし」

「うーん、だいたい十一? や、十二年ぶりくらいですかねぇ」

「だーっ、そっかあ。こいつまだ小学校にも行ってなかったしねぇ」

 

 緩く握られた拳の先がおれの二の腕に突き刺さる。おれは抵抗せずに椅子の上で傾く。噛み殺した苦笑が微かに耳に届いた。

 

「あんた、さっきからだんまりね。まさか忘れたとかいうんじゃねーよな」

「え、いや」

「覚えてなくておかしくないですよ。幼稚園の頃のことなんてこの歳にもなれば朧げになりますもの」

 

 ばつが悪い、という表情を作っていると当の佐倉先生が助け舟を出してくれた。顔を上げれば学内で見掛ける快活な微笑みがおれに向けられていた。やはり目を眇めたくなる。おれには一生かけても作れないし、仕組みを理解できない笑い方だ。

 

「ほら、あんたがまだ五才くらいだったかな。こっちに住んでたときにお隣に住んでたでしょ、めぐねえちゃん、めぐねえちゃん、って。よくお世話になったんだから」

「その・・・・・・お世話になりました」

「いやいや、あはは・・・・・・」

 

 お袋の簡潔な説明を受けても、二人の顔を順番に見つめてみても、おれの脳裏には何も浮かばないし、幼少期の記憶自体、ただ真っ更な荒野が広がっているような有様だった。

 他に口にするべき単語も思い浮かばず、おれは完全にお袋の後ろを着いて回るカルガモの仔になることを決めた。薄っすらと目を開けたまま軽く頭を下げる。佐倉先生は照れたように頬を掻いていた。おれも頬の瘡蓋を描き毟りたい。いまはもう実在しないその傷痕をモノクロの仮想空域の中で刳り穿つ。そこから脳みそにまで指を突っ込んで、頼りない大脳皮質を傷だらけにしてやりたかった。

 

「もう、高校生なんですもんね。あんなに小さかった子が・・・・・・」

 

 そう言う佐倉先生は遠い目で、まるで双眼鏡の向こう側を覗き込むみたいに、おれ越しに不可視の情景を映していた。おれは見透かされているようでゾッとする。文字通りおれの知らないおれを彼女は見ているのだ。ふと隣を見やれば、お袋は至近距離にピントを合わせていた。記憶と現実の相違点を周到に確かめるかの如き双眸で佐倉先生の肢体を舐め回していた。おばさんってより、おっさんの眼付きだなとおれは思った。

 

「そういうめぐみちゃんもねー。あの頃はまだちんちくりんだったのに、立派な美人さんになっちゃって、まあ」

「美人だなんて、そんな」

 

 胸の前で手を振って凌ごうとする佐倉先生の声を遮って、再び現れたウェイターが和やかな空気を一時的に裁断する。彼女の前には縦長のマグカップとフレッシュとスプーン、それから五百円玉ほどのサイズのチョコクッキーが載った小皿が並べられていく。その様を佐倉先生は右往左往させていた掌を併せて、垂涎といった体で見守っていた。あざとい人だが、若手のモデルが食レポで披露する、ザラメじみた大雑把さはなくて、上白糖のような気品のあるあざとさだと感じた。過大評価気味かもしれないが。

 ウェイターの、極彩色の血管が目立つ白い腕は反対側へと伸び、お袋には末広がりのマグカップとワッフルにナイフとフォーク、おれにはシンプルにカップのみの受け皿と、ひょっとするとサービスな気もするクッキーの小皿が配られて、ウェイターは恭しいお辞儀を残して去っていった。

 おれは受け皿に手をやって、立ち昇る湯気に鼻先を触れた。どちらかというとパウダリックな感じのする酸味が混じった香りは、きっと浅煎りの豆が所以になっている。珈琲は苦い方が好きだが、こういうのも悪くない。そもそも、カップ麺の食い過ぎで麻痺した舌ではそこまで味は分からない。

 そっと口をつける。舌先の熱と刺激。これは旨い。恐らく。鼻腔の内に燻るフルーティーな感触が嗅覚を満足させる。肚に流れ込み、そのまま体内の熱量へと変換されていく液体が、沁み込んだ湿気を取り払ってくれる気配が心地よかった。

 卓を囲む人間たちへと意識を戻せば、彼女らもそれぞれに誂えられた珈琲を味わって、熱い息を吐き出したり、カップの縁から垂れる滴を観察したりしていた。須臾の沈黙が場を支配する。躊躇いと思案の色が顔色に滲んでいた。

 おれは白壁に喰い込んだ小窓から外の様子を窺いながらなんとなく義姉のことを考えた。今頃自分のベッドで惰眠に絡め取られているんじゃないだろうか。彼女の寝顔が瞼の裏に描かれる。普段超然とした振る舞いをとることもある彼女だけど、無防備な素顔は意外とあどけなかったりする。如何に卑猥な行為を終えた後でも、ああいう踏み込んだ姿を見せられると気恥ずかしくなってしまう辺りに不意に自分の初心さを思い知らされるのだ。そんな純情さが今は忌々しい。

 うん、面白くないな。

 

「あの」

 

 無言の膜を破ったのは佐倉先生だった。

 

「お家での真嗣くんの様子とかって、聞かせて貰ってもいいですか?」

「んんー?」

 

 彼女が許可を取ろうとしたのはおれだったんだろうけど、お袋が口を開くときにおれの意図を汲もうとするはずもない。さりげなく下の名前で呼ばれたことに意味の分からない感慨を抱いてしまっているおれを他所にお袋は口火を切る。

 

「基本ぼーっとしてんね。たまにプチ反抗期に入ったり。あたしとしては勉学に勤しむ気配をも少し匂わせてくれれば好きにしてくれていんだけどね」

「はー、プチ反抗期ですか?」

「そ。プチ」

「プチって、なんか可愛らしい感じですね」

「そうそう、昔から可愛らしい止まりなんさ、こいつは」

 

 この手のプライバシー侵害にはもはや手慣れたもので、好き勝手言ってくれて、とすら思わない。この辺が可愛らしいというんだろうな、と自覚はあるものの別段どうしたいわけでもないので性分なんだろう。

 だからこそ、と前置きしてお袋は「暴力沙汰だって聞いたときはやっとやんちゃ見せたか、って思ったけど」

 佐倉先生にも心当たりはあったらしく、目を細めて言葉なく頷いた。おれは興味がないふりをして二口目を口に運んだ。さっきより苦味が強まった気がする。

 

「ま、これだかんね」

「はは・・・・・・まあ、元気そうで安心しました」

 

 意味有りげな流し目を恣意的に意識の外に放り出して珈琲を賞翫する。おれはこの空間に対する自身の必要性について疑問を深め始めていた。お袋はおれを辱めたくてこの場に連れてきたのだろうか。あり得るとも。おれは店の天井の隅に据え付けられたスピーカーから流れる有線に神経を集中させることにした。Earth,Wind&Fireの曲が流れていた。タイトルは知らない曲だった。

 

「学校だと結構眠そうにしてるなぁ、と思ってたんですけど。夜更しするの?」

「え、と。嗜む程度に」

「嘘こけ」

 

 唐突に向かってきた矛先に咄嗟に外面を取り繕う。

 

「結構夜更けまでガチャガチャ聞こえてんぞ。遅刻までして何やってんだ、あんた」

「結構・・・・・・? そんなに音が立つようなことはやってないつもりだけど、おれ」

「じゃあなにやってんの」

「なにって」

 

 ガチャガチャ? おれは首を傾げた。イヤホン同士がぶつかる音が下の寝室にまで伝播するとは到底思えない。

 確かに我が家の壁はさして厚くはないが、響くといえば精々激しく床板を踏みしめる音とかその程度で、おれが深夜にベッドから降り立つのはCDをデスクトップPCのドライヴに挿入するときくらいなものだ。お袋はおれの仕業だと断定しているようだけれど、お袋は義父と同じ寝室で寝ていて二階にはもう一人自室を持っている人間がいる。それすなわち義姉だ。

 物音の主が義姉だと仮定して、彼女はなにをやっているんだろう。気になる。

 

「音楽聴いてるくらいなもんですよ。たぶん、やなりでも住み着いてんじゃないか」

「どうせスリップノットとかで感極まってヘドバンしてんだろ」

「冗談。親父じゃあるまいし」

「残念ながらあの人はスローテンポにしか乗れんかったぞ。ヘルニア気味だったし」

「まじか」

 

 それは知らなかったな。けれどなるほど、おれにヘドバンのやり方は教えてくれても、親父自身がやっている場面を目にしたことはない。人生の中で、父親がヘヴィメタに合わせて狂気的に首を振る光景を目の当たりにする子供がそもそも、かなり稀だろうが。

 

「音楽かー、わたしも高校生のときはよく聞いてましたよぉ。スメタナとか、ベルリオーズとか」

「すみません、門外漢ですね」

「あたしは好きですよ。幻想交響曲第五章、サバトの曲だったっけな」

「いいですよねぇ、感情の起伏が大きいっていうか、ちょっぴり生々しい感じが」

「感想が渋いねェ」

「えへへ、実は、あんまり詳しいわけじゃないんですけどね。クラッシックが趣味っていうと、そこはかとなく頭が良さそうに見えないかなー、なんて。不純な動機でCDを買ってました」

「みんなそんなもんだと思うけどねー。あたしもいろんなとこ齧ってきたけど、これが好きだからなんでも聞いてくれ、とは到底言えないや。そんなんでも思わぬとこで役に立つんだからまあ、人生ってやつは」

「おー、ですねぇ」

 

 しみじみといったふうに首を振るお袋に、緩慢な同意を重ねる佐倉先生。どうしても上澄みだけの戯れに思えて、おれは本格的にこの場所から逃げ出したくなってきた。トイレに行く振りをして、出てくるときには別人になっているなんてどうだろう。茶色のコートに靴底の厚いローファーを履いて。あの重苦しいドアを開けたら、さぁどこを目指そう。アイスクリームパーラーなんてどうだ。とっておきのサングラスで・・・・・・。何気に義姉はああいう曲が好みかもしれない。もちろん根拠なんかない。

 飲みやすい程度に温くなってきた珈琲を啜る。

 

「おい、退屈ですって顔やめい」

「別にそんなことは」

「あっ、あ、ごめんなさい! 本題に入らないと、ですね。ええ・・・・・・」

 

 隠しきれない徒然とお袋の一言に急かされた佐倉先生は慌てて言葉を紡いだ。

 本題。それがどういったものなのかはやはり想像がつかないが、この場を設けたのは佐倉先生の方なのかもしれない。しかしながら彼女が次に出すべき話題を言い淀んでいるように見えるのはおれの勘違いではないはずだ。

 先程まで咲いていた柔和な微笑は鳴りを潜め、僅かばかりの緊張が小さな顔面を強張らせている。佐倉先生はマグカップを包む手のひらに躊躇いの類を匂わせて微かに揺れた水面に俯いていた。それから何度か深めに息を吸う。やっと面を上げると彼女は呆気に取られているお袋と数瞬眼を合わせてから、隣の椅子に置いた小柄な鞄からコンドームのパッケージほどの小袋を取り出した。

 一拍おいて深呼吸。

 

「今日お呼びさせていただいたのは、実はこれをお渡ししたかったからです」

「はい?」

 

 小袋をテーブルの天板に擦り付けて、茶色い封筒紙の表面を摩耗させながらお袋に向かって差し出す。それをお袋は気の抜けた声を出して受け取った。手に取ったそれの封を上にしながらお袋が「開けていい?」と聞く前から、佐倉先生は首を縦に振っていた。彼女の放つ真剣な眼付きが張り詰めた空気を店内に徐々に張り巡らせている。そんな錯覚を覚えた。

 お袋は若干気圧されつつ封を切る。自然とおれの視線もお袋の手元に引き寄せられた。一体何が出てくるんだ。たった五センチ四方の封筒に収まるもので、若き高校教師をそこまで萎縮させるなにか。

 トラテープに群がる野次馬根性で見届けるおれの視線の先で、お袋の指が袋の中身を摘み取り、心なし慎重に引き抜く。

 中身は───ヘアピンのようだった。

 百円均一で大量に売っているような普遍的なキャッチ部分に、色褪せてところどころ表面の剥がれたモチーフはデフォルメされた黒猫のシルエットに見える。特別珍しそうにも見えない、ただの飾り気のないヘアピン。ダイヤ片でも出てくるんじゃないかと期待していたおれは、意味もなく落胆した気分になる。

 果たしてこれをお袋に渡した意味は。そう思ってお袋の顔色を伺ったおれは硬直する。

 あからさまな動揺が顔の筋肉の上で踊っていた。四十路過ぎの、厚化粧でなんとか誤魔化しが効いているけれど、熟れではない老いをひしひしと認知し始めている、多くのシミが潜む顔が歪な形で静止していた。おれはそれをまるで、銃後に居たはずの人間が上陸してきた敵国の兵士を目の当たりにしたときの面持ちだと思った。幾重にも渡るプロパガンダと偏向報道と、ささやかな逃避で覆い隠してきた現実が姿を顕せば、人はああいう反応をする。鏡の前に立って、殴られた跡を撫でるおれがそうだった。

 室温が一気に下がる。

 

「大学を出て、巡ヶ丘で一人暮らしを始めるための荷物整理をしていたときに・・・・・・出てきたんです。本当は、もっと早くにお渡しできれば良かったんですが、その・・・・・・どう連絡しようかと思っているうちに、ズルズルとなってしまって・・・・・・」

 

 佐倉先生の人相に宿る明朗快活さが端から搔き消えていた。ぼそぼそと消え入りそうな声音で語った佐倉先生は、罪悪感に苛まれたのか途中から口籠って声を途切れさせる。目を伏せて、禁忌に触れて罰を受けるのを待つ子供じみた態度で。

 

「ああ、いや、うん。そっか・・・・・・」

「すみません」

「とんでもないな」

 

 ヘアピンを握り締めて笑う。初めてお袋の笑顔が下手くそだと思った瞬間だった。

 

「ありがとう。・・・・・・でも、ずっと持ってくれてても良かったのに」

「・・・・・・それは」

「ごめん。冗談」

 

 今度はお袋が謝る番だった。佐倉先生は終始なにか言いたげにしているけど、さっきまでとは逆にお袋がチラつかせる淀んだ哀しみが口に出すのを妨げていた。それから立ち上がっていた背筋の力を抜いて、やるせなさを含ませて黙り込んでしまった。

 待てよ、おい。内心で吐き出した一言をすぐにでも現実で空気の振動にしたかった。

 おれにはさっぱりわけが分からない。なんだかわからないうちに呼び出されて、喫茶店に連れてこられて、ほとんど喋ったこともない高校の先生に馴れ馴れしい知り合い面で話しかけられて。あげく、まるで()()()()()()()()()()()()()()()、そいつを当然のように悼んでいるような場面で、一人蚊帳の外だぞ。腹が立つというか、不条理じゃないか。

 

「なぁ、それ、誰のなんだ?」

 

 意を決して聞いてみる───刹那。

 佐倉先生が信じられないものを視界に入れたように目を見開いてこちらを見ていて。反対におれが驚かされることになった。かくも理解不能。彼女の瞳に写ったおれは、店の照明が反射していて容姿を判別できない。彼女の脳が認識しているおれの虚像を、全くもって象ることができない。

 おれは焦った。とんでもないことを口走ったんじゃないかと顎の動きを思い返してみても、そこにはありきたりな疑問しか詰まっていない。おれが知らない過去を問うてみただけのこと。憤りも、呆れも、哀れみも引き起こすに能う要素など微塵も含まない。それなのに、なんだこの凍りつきそうな不安は。

 助けを求めてお袋を振り返る。でも、おれの望むものはそこには存在し得なかった。

 瞳孔は、深淵だった。じわじわと入り口を広げていく。お袋は一切の感情が隠された暗い眼差しでおれの輪郭をなぞった。怖じ気に当てられそうだった。実の母親の一瞥で。お袋は諦観か、軽蔑みたいな色を仄めかせて唇を引き伸ばした。厚化粧の奥が得体の知れない非実在に作り変えられていく。

 デジャヴュが奔った。まただ。おれの知らない。おれの知ってる貌。

 

「うーん、あたしの、だよ。ずっと昔に持ってた、思い出のヘアピンだ」

 

 嘘だ。おれは口を噤んだ。

 口を噤んで、温い珈琲に手を付けた。酸っぱくなってきた珈琲は、喉の色々なところに引っかかって流れていった。耳元が静かだ。だれもなにも喋らない。Earth,Wind&FireのBGMだけが淡々と響いている。

 

「そ、うか。知らなかったな」

 

 

 

 

 

 

 




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