どんつっつー。どんつっつー。
ぼくは陽陽とリズムを口ずさみながら朝霜を踏み鳴らした。ニット帽の耳当てから垂れ下がる毛鞠がぼんぼんと頬を叩く。
どんつっつー。どんつっつー。
母さんが織ってくれた毛糸の手袋がすっぽ抜けんばかりに腕を振って、無邪気に白銀の朝焼けの中を駆け回る。耳を切る冷気が痛い。でも、それ以上に薄っすらと汗ばむくらいはしゃいでいたい。
どんつっつー。どんつっつー。
はやくはやく。
ぼくは誰かの手を引く。荒い息遣い、その狭間に楽しげな笑い声。ぼくも素直に口角を上げて、ズボンの裾を濡らしながら跳ねて回る。眠気や疲れを忘れてただ自由を謳歌する。
どんつっつー。どんつっつー。
あっ、と後ろから悲鳴がして、誰かの足ともつれる。
グシャっとダイヴ。
ぎゅっと瞑った目を開けると、開けた空に透明なヴェールがはためいていた。冬の、どこか造り物みたいに現実感のない空の青みが、遠い向こう側からぼくを見下ろしていた。
一瞬ぼくは呆気に取られて、それからお腹がはちきれんばかりの大笑いを斑模様の曇り空にぶちまけた。つられておんなじような声がもう一つ重なる。
どんつっつー、どんつっつー。
ふいに降りかかる体温。視界の端に垂れ下がる長い髪がかじかんだ鼻先を弄んでいた。くすぐったくてぼくは身動ぎする。
光が揺らめいて、影が一つになる。
【寒くないの?】
ぼくの目の前にねえさんの顔があった。
どんつっつー、どんつ。
どうして? とぼくは聞いた。
【独りだから、よ】
ねえさんがぼくの頬をつつく。きれいな細い指先が乾いた肌にひずみを作った。
【ここには誰もいないわ】
ねえさんが言う。ぼくはお腹の上に被さっていたぬくもりが消え去っていることに気がついた。
途端に途方もない寂寥感が襲いかかってきた。
そこにあったもの。なかったもの。降り積もっていく処女雪の下から手を伸ばしては霧となってフェードしていく。ぼくはそれを無力に眺めている。
じゃかじゃかじゃんじゃっちゃっちゃー、ちゃらちゃらちゃんじゃっじゃっじゃー。
だれ、とぼくは聞いた。
彼女はここにはいない。いてはいけないものなのだから。
【さぁ? でも】
ねえさんがぼくの手をとる。慈しむように優しく、両手でそっと包み込んで。
【ねえさんと呼ぶのはあなただけ】
ぼくは冷たい眼に見惚れた。
【『ねえさん』は、わたしだけ】
超常的な雪解け。
ぼくは溺れていく。
◇
瞼を上げる。おれはそのまま数回瞬きを繰り返して、血の気の引いた手のひらで顔を覆った。指と指の間から覗く世界はひび割れているが、寝起きの前頭葉は全て一つに繋がっているのだと確信している。そうやって、おれは自身が夢から目覚めていることを確かめた。
ガキの頃から口呼吸する癖が抜けなくて、朝起きると高確率で口腔内がカピカピになっていて喉が痛い。おれは冷え固まった唾を飲み込んで額にやっていた手を当てずっぽうに振り下ろす。狙いは外れず、手探りで液晶の適当な場所を叩くと響いていたサウンドが鳴り止んだ。
公園へあと少し。冬から変えていない今の目覚まし。そろそろ別の曲にしようかと思っているけれど、妥当なものが見つからない。あんまり煩い曲にするのは躊躇われる。寝覚めはいいのだが、目覚ましを設定した時刻の数時間前から何度も目が覚めるようになってしまって苛々するのだ。実際、しばらくは
それはそれとして、ベッドから上体を起こして二度寝への欲求を断つ。春は曙というやつ───とはいえ、自室の嵌め込み式の小窓から射し込む朝日など程度の知れたもので、寝ぼけ眼で四季折々の機微に感じ入ったりすることはない───誘惑を振り切って褥の魔性から逃げ出した。
くしゃくしゃに打ち捨てられた夏季制服(丸めて捨てたティッシュみたいだ)を身に纏い、ズボンを上げてベルトを締める。ここまででとりあえず起床後に部屋で行うルーティンを終えて、おれは他の部屋に比べて軽々しいドアを開けて下の階へ降りていく。
廊下から居間に出る途中で洗面台の前に立ち、誰かが使った形跡のある蛇口を捻った。厚さが不揃いなフェットチーネみたいな蛇口から冷たい水が流れ出す。水道局が栓を閉めない限り、それが不変の法則。聞く人が聞けば怒りそうな浅慮だけど、インフラとライフラインが当たり前に調えられた日常に浸かりきったおれたちにとってはそれが常識なのだ。
両手を差し出して透明な帯の中に突っ込む。生命の水。どこからともなく顕れて、おれの手から溢れ落ちていく水。おれはすくい上げたそれを顔面目掛けて叩きつけた。流水。体表の神経と体温に混ざり合って判らなくなる。どこまでがおれで、どこからが水なのか。土気色の腕を滴って排水口に流れ込んでいった。
咄嗟にリフレインが咲う。
昨日もそんな夢を視ていた気がする。水、気泡、息苦しさ、紺碧の光芒。そして
おれは剃刀を手に取った。クリームは付けない。義父が持ち帰ってきたビジネスホテルのアメニティだ。プラスチックの間からちっぽけなギザ刃が不安げに覗いている。よもや皮膚を削ぎ落とすことなど能わない。義姉のとは違って。
一度だけ見たことがある。濡れ羽色に艶めく前髪をかきあげて、胸の前で抑えたバスタオル、その人差し指と中指に挟んだそれを。浅い下心もなければ、近頃交わすピロートークのような安易な気安さもない、全くの不意の遭遇で得た数カットの記憶。彼女の持つ剃刀はつまらない冗談なんか許容しない鋭さと静謐を兼ね備えていて、おれはあまりにも妖艶な佇まいに目を逸らしてしまったほどだ。
アンバーに混じる鮮血──────蛇腹の傷は渦を巻いて下水に還る残り湯の中で目覚めた。その様子を彼女は虚無を映した瞳で愛でている。たわわな唇を薄く曲げて。
イカれてる、と思った。おれも彼女も。なにも特別じゃないけど、凡庸なりのイカれ方をしている。理解できるからこそ触れ得ない領域に手を染める。世界のどこにでもいる人種。いわゆるクラスに一人はいるやつ。だからこそ嫌になる。
皺だらけのイカ臭いティッシュに身を包んで、これが正装なのだと言い訳しておれは家を出た。
朝飯を食い終えたとき、お袋がいやに優しい眼をしていて、おれは足早に居間を後にした。義姉の剃刀に触れたかった。
結局昨日一日留まり続けた雨足のせいで、アスファルトが緑色に濡れていた。並木道を埋める桜の落ち葉を轍が踏むたびハンドルの感覚が曖昧になる。まるで死人の上を走っているような感覚だった。おれは腐った皮膚にタイヤを持っていかれないよう気をつけてペダルを漕ぐ。
高校は家からそう遠くなく、かといって近いともいえない距離にあって、おれは毎日煤けた色の自転車に跨って校門を目指す。この愛車は最近のシティサイクルと比べて少し重いものの、安定性に富んだ乗り心地は悪くなく、朝霧が冗談で付けたシルバー号という名前も気に入っている。元ネタは
安直なネーミングセンスから察する通り、朝霧はヤンキーじみた柄に似合わずホラー映画が好きだった。あいつはオタクくせぇから、と言っておれ以外の前では公言しようとしなかったけれど、やつの映画評の豊富さは高校生にしては行き過ぎていて、おれは朝霧のことを影でホラーフリークと呼んでいた。実際そう呼ぶとやつは肘で脇腹を小突いてきたのだが、その実満更でもなさそうな笑みを浮かべていたのをおれは覚えている。
教室や、柏木たち───おれをボコボコにしたやつら───とつるんでいるときは話題は無差別だったが、二人きりになると大抵その話をした。
基本的に、関心を向ける映画自体にはこだわりがなかった。ショッピング・モールの広告欄とか、映画館の前を通りかかったりすると、ケースの中のポスターを指差しては「やっぱあの俳優はイカしてる」とか、「あの女優はモデルあがりだけどなかなか悪くない」とか、「このシリーズは新作が発表されるたびにファンに自殺者を出してる」とか、適当なことを言い合った。そうこうしているうちにあいつは「近頃の邦画はダメだな」と宣い、二言目には決まって「キューブリックが一番だ」
朝霧はホラーマニアだったが、映画全体のカテゴリではスタンリー・キューブリック作品を崇拝していた節がある。完全主義者と呼ばれた彼がフィルムに刻んだ風刺、狂気、非人間性。それらの奥の奥に、鈍感なおれでは見い出せないなにかを探り当てたあいつは、キューブリックの作風に情緒的な憧憬を抱いていた。
おれがシャイニングとフルメタル・ジャケットしか観たことがないと言うと、朝霧は熱烈に時計じかけのオレンジを推した。それはもう、気炎を吹き上げる勢いだった。
「オレ、結構映画を観てきたけど、アレを超える一作にはまだ出逢ってない。もうアレ以上の名作には一生出逢えないかもしれねぇ。それぐらい、なんつーか、とにかく、観ろ」
本気で真剣にものを語る朝霧の顔を拝んだのは、そのときが初めてだったかもしれない。
おれが知る朝霧は、素行に違わず軽薄で、口が悪く、配慮が足りず、頭もそんなに良くない、へらへらした粗暴さの方が前に来る問題児気味の男だったのに。お気に入りの魅力を雄弁する瞬間のあいつは、人間性の芯がピンと屹立しているように見えた。限りなく素顔に近い朝霧新斗がそこに居て、おれは立ち会うことをやつに許されていた。
だからだろう。だれかに勧められた映画をだれとでもなく観てみようと思ったのも、それが初めてだった。あからさまに語彙力が足りない、どれだけ無様な弁舌であっても、おれの心は確かに突き動かされたのだ。あいつの言葉で、あいつの眼で。
それなのに、あいつは感想を聞かずに行ってしまったな。
レンタルショップに立ち寄った晩、おれはスタッフロールを観終えて、真っ先にスマホを手に取った。そして液晶から漏れ出るブルーライトを浴びながら必死に考えた。なんて伝えればいいのだろう。この名状しがたい物語にどんな文言をぶつければいいのだろう。いいたいことはあるのだけれど、適切な単語が思い浮かばないジレンマ。それでもおれは無性に朝霧に感想を伝えたくて、拙い手付きでフリック入力を繰り返した。そうしてやっとの思いで解き放ったSMSは、未だ返信がない。
朝霧の席が教室から消えたのはその翌日のことだった。虫の報せなどあるはずもなく、大多数の人が預かり知らぬうちにやつはひっそりと陰に呑み込まれていた。さらに一日経てばしめやかに噂は広まって。耳を澄ますまでもなくいたるところで囁かれていた。年下の女の子を妊娠させて夜逃げした、と。
不自然に欠けた学習机の行列を視界に入れたクラスメイトたちの、蔑みと嘲りをないまぜにした生温い瞳が脳裏に焼き付いて離れない。彼らには怒りも失望も湧かないが、怯えだけは感じる。あれはおれの姿だ。普段何気なく生きて、知らない間におれもああいうふうな眼をしているのだと考えると、胸の奥を無数の針で突かれるような感覚に苛まれた。
でも今ならその点は安心していいと思う。登校するとあの瞳を向けられているのはおれの机だ。
歩道に突き出た桜の木の枝を身を屈めて避けつつ、頭を上げた勢いで天を見上げた。しとどに降り注いだ反動か、快晴の青空には雲一つなかった。梅雨入りもしていないというのにからりと冴え渡るグラデーションに猛暑の片鱗を視る。今年の夏もきっと暑いだろう。日陰者の角膜に鮮やかなプリズムが容赦なく突き刺さる。
埃くさいガレージを出て十分もすれば、駅前のロータリーを臨む十字路に差し掛かった。ここまで来れば家の周りではまばらだった人通りも増えてきて、同じ高校の制服を着た生徒の姿も少なくなくない。他にも、サラリーマンに大学生、学ランの中学生からランドセルを背負った児童、ママチャリの前後に幼児を据えた主婦。ありきたりすぎて現実味を感じないほどの光景がおれの目の前に瀰漫する。毎朝本当の意味での意識の覚醒は、いつもここから始まるのだ。
巡ヶ丘駅は外界と寝ぼけた頭との接続点であるとともに、私立巡ヶ丘高等学校との距離が至近になりつつあることの指標でもある。通行人と信号の多さにペダルを緩めなければならないが、あと五分と少しもあれば校門に辿り着ける。おれは左腕に巻いたアナログの盤面を盗み見た。今朝は不必要に早く家を出たぶん、平時よりも余裕を持って呼鈴を聞くことができそうだった。
車道の向かいにコンビニで待ち合わせをする同級生、信号待ちの最中そいつに手を振るその友人らしき後ろ姿に、なんとなくこの駅前の歩道を歩く人々の面々に見知った目鼻立ちが───朝霧がいるんじゃないかと見渡してしまう。されど、校章入りの半袖を纏った群れにはもちろん、私服や仕事着の一団にも当然探している気配はなくて、おれはおれを嗤う。
いい加減、理解したほうがいい。朝霧と己の関係は、たぶん今おれが思っているよりも浅かった。お互いに都合のいい虚像を押し付けあっていただけだって───柏木たちとなにも変わりやしないということを。
友達アピール。
突き立てられた刃には鋭い返しと鱶の歯にも似た鋸が潜み、それらは癇癪が柏木の頬を殴りつけるのに合わせて心の表面をぐずぐずに切り裂いていった。それだけでは飽き足らず、刃先に塗られていた遅効性の毒が、じわじわと中枢神経に効いてくる感覚が、足を行き場のない陰鬱に運んでいく。鈍さと鋭さが螺旋状の痛みを繰り返し出力する一方で、おれは泡立った傷口に憐憫を注ぎ、卓抜した芳醇に酔う。
孤独は甘いものだと、彼女は教えてくれた。おれは彼女の吐き出す世迷言の全てを鵜呑みにするわけではないが、彼女の持つ剃刀に写る歪んだ実像から眼を背けることはできなかった。刀身の煌めきは虚言を伴わない代わりに、おれ自身を一方的に喋らせる。これまで有耶無耶にしてきた、或いは思ってもみなかった感情を植え付けては、溢れ出した痛みを啜る。彼女自身が剃刀みたいな女なんだ。
責任転嫁というなら、自らの繊細さを呪うことだ。救いようのない惰弱を忘れるには魔性に魅入られる外に術はない。
溺れろ。
そしてそのまま死んでしまえばいい。
唐突な自殺願望に囚われるのは珍しいことじゃない。おれは左折してくる車両に轢き殺される妄想をしながら青色信号の横断歩道に躍り出ようとした。
そのとき、遠くでだれかの名前を呼ぶ声がした気がした。
ひどく不明瞭な幻聴が。
低く影が、残像になって視神経を迸った。
おいおい、まるで死神の鎌の一閃だ。
おれは処理能力のキャパシティを超過して頼りにならない視界に見切りを付けて脊髄反射に運命を委ねた。考えたってしょうがない。呆然と硬直する意識を置き去りにした躰が咄嗟にハンドルを切り、フルブレーキを掛けながら靴の裏で地面を削る。
景色がマーブルに引き伸ばされる。三半規管が正常な電気信号でシナプス染め上げて、おれは傾斜していく世界がバグに侵されているわけではないと認知する。
おれは盛大につんのめって、シルバー号を引き倒して、挙げ句手のひらを地面にひきずって──────やっと、状況を理解した。
脇の下でまん丸い眼を見開いている少女。彼女は焦点が合わない瞳孔を凄まじい速度で這わせてようやく、おれと見つめ合う。そう不安げにしなくていい。おんなじだ。おれもそうだから。コンマいくらか頭の回転が速かっただけだ。まだ、声は出ないけど。
そうして須臾の間、世界が止まっていた。
ほんの数瞬だけ。目撃者たちはシュレディンガーの猫を追う。いるはずのないねこを幻視する。黒ずんだタイヤ痕を拉げた頭部にペイントしたネコの幻を、皆一様に。
それって、なんだか可笑しくて、愉快だ。と、おれは笑ってしまう。
それからギアは律動を取り戻し始めた。バラバラに弾けた世界がもとの形に戻っていく。おれは手を戻して尻餅をついた。
群衆のざわめきに混じって「るーちゃんっ」という声が段々近付いてくる。さっきおれが錯覚だと思ったのはこの呼び声だったんだろう。母親が静止を無視して飛び出していった子供を心配して呼び止めようとしていた・・・・・・と考えていたものの、曲がり角の向こうから現れたのは巡ヶ丘高校の制服を着た女生徒で、おれは少し意外に思う。
少女の姉らしき先輩(紅いリボンは三年生だ、ったと思う)は茶髪のロングヘアが張り付いた血相を青褪めさせて座り込んだままの少女に駆け寄った。手には黄色い制帽が握り締められていて、つばが白くなった指先に推し潰されている。
おれは立ち上がって寝転がったシルバー号を起たせた。信号待ちだった親切なサラリーマンが手を貸してくれて、すんません、と会釈して応えると、彼はおれの手のひらを凝視していた。少女を避けた表紙に礫に擦られたみたいで、赤黒い血が流れ出ていた。確かに、ちょっと痛いと思った。
「あのっ」女生徒がおれを見上げていた。豊満な胸の中に囚えられた少女も。
「本当にごめんなさい、急に飛び出してしまって・・・・・・」
「ああ、いや、こちらこそ不注意でしたので」
おれは拳を軽く握って傷口の具合を見定めつつ、別におれに非はないよなあ、なんて自分でも疑問を抱きながら思ってもいない言葉を口にした。割とスピードは下げていたし、そもそも少女が突っ走って行こうとした先は赤信号だったのだから。
今しがた背後を通り過ぎていった大型トラックを眼の端に捉えて、こんな小柄な子があのバンパーにぶつかっていればどうなっていたか、想像してしまう。肋骨は粉微塵、細腕や脚はあらぬ方向を向き、胴は破裂して捻れているやもしれない。可愛らしい顔立ちには、もはや面影だって残っていないだろう。
それでも、親父よりはマシだ。親父はマックの一番安いハンバーガーのパティくらいの大きさにまでスライスされて、線路の七メートル先にまで飛び散っていたというから。だからあの駅のホームのどこかには、探せばまだ親父がこびりついているかもしれないのだ。
ああ、なんだ親父、そんなところにいたのか。
「あの、怪我は・・・・・・?」
おれと似たような幻想を描いていたのか、先程よりもむしろ血の気を引かせて真っ白になっている姉が聞いてきた。
「いや、べつに大丈夫です」
「え? でも」彼女の視線の先には皺の間を伝って溢れた血の跡があった。おれは気づかないふりをして「その子は大丈夫でしたか、膝擦ったりとか」
「は、はい!」
おれが少女の容態を覗きこもうとすると、姉が少女にこちらを向かせ、肩に手を置いて囁く。なにをさせようとするのか察しがつかないほど、おれは鈍くない。でもおれは、できれば見えないところでやって欲しいと思った。見当違いな話だろうけど、人間性が確立しない年齢の子供になにをされようと、正直本心がそこにあるように感じられない。
謝罪というのは、基本的にする者の為にある儀礼だとおれは思っている。少女の為にもおれは彼女の弱々しい声音を聞き届け、それを許さねばならない。でも苦手なのだ、あの底なし沼のごとき模様のない瞳を向けられるのが。はっきり言おう、おれは子供嫌いだって。
「ぅ、その、ごめんなさい」
「ああ、いいよ、気にしなくて」
おれは吐き捨てるみたいな言い方になってしまったのを慌てて最大限柔らかく見えそうな表情で取り繕い、誤魔化した。たぶんこの少女はちゃんと内心で自省しているのだろうなと、上目遣いに眼を合わせたあと俯いた少女の素振りから解っても、一刻もここから去ってしまいたいという気持ちに変わりはなかった。親父の死に際に対する勝手なイメージがナイーヴにさせているのかもしれない。
「行きますね」
「え? あ、待って!」姉が立ち上がって呼び止めて来たけれど、おれは無視してシルバー号に跨り直した。「傷の手当てだけでもっ」
「急いでたので」
失礼します、とはペダルを漕ぎ出してから放った言葉だ。
おれは自身でも釈然としないものを胸のうちに感じたが、徐々に色を失っていく相貌を見られたくはなかった。お天道様の下で晒してはならない澱みが躰中の穴から漏れてきてしまいそうな予感がおれを疾走へと駆り立てた。
このままどこに自転車を走らせればいいのか、迷った。もとより学校という選択肢の他にはないが、さすればあの女生徒と出くわす恐れがある。それのなにがいけないのか分かりやしないけど。心の片隅に気まずさを生み出す理由が息を潜めているのは確かだった。
ハンドルは通学路に沿って左右する。おれはグリップのゴムが汚れた傷口を弄ぶたびにこれでいいのかと不安に見舞われる。
ああ、独りになりたいな。
白塗りの壁に焼き付いた影の中に、義姉の影を感じ取った。