「駄目だ。君のトレーナーとして出走は認められない」
トレーナーさんは確固たる意思をもって、首を振りながら言った。
「いいえ、私は走れます。医者さんも言ってたじゃないですか、奇跡って」
「それでもだ。君には将来がある。その将来を潰すようなまねはしたくない」
私の右脚がもう限界を迎えている事はとっくに分かっているのだろう。
それでも、この奇跡に縋り付きたかった。
「ここを回避し、治療に専念すれば──」
「その将来に、この東京
「ッ……」
それまで頑なだった瞳が揺さぶられるのがわかる。
東京優駿。ウマ娘とそれに関わる者たちにとって最高の栄誉。
一年に一人だけ勝者の名が刻まれるそれを追い求めない者はいない。
「……ウマ娘の生涯でただ一度しか、チャンスがない最高の栄誉。だからこそ
「それは……そう、だが……」
トレーナーさんは苦悩を露わにした表情をして、後に続く言葉を口にすることはなかった。
……ごめんなさい。ずるい事を言ってしまって。
きっと、優秀なあなたなら他のウマ娘と東京優駿の栄冠へ辿り着くことはできるでしょう。
それでも、私はあなたの初めてになりたかった。あなたに私というウマ娘がいたという事を刻みたかった。
「ふふっ、そんな顔をしないでください。きっと大丈夫ですよ! 次もまた、勝ってきますから!」
「……少しでも、悪化したら止める。それでいいか?」
「はいっ! ありがとうございます、トレーナーさん!」
──ごめんなさい。笑顔の裏でまたその言葉を呑み込んだ。
ありとあらゆる治療法を探してくれた。その身を投げうって献身的に私の脚を支えてくれた。
それでも私の脚を治す事は叶わなかった。なんて無力なんだ、と誰もいない部屋で幾度なく涙を流すのを密かに見てきた。
……もう、そんなあなたの姿は見たくなかった。
自分の事は自分が一番わかっている。きっと、次で終わるだろうということも。
だからこそ、終わってしまう前に東京優駿を制したトレーナーというあなたの夢を叶えたかった。
トゥインクル・シリーズという私の夢だった舞台へ導き、叶えてくれたあなたのために。
わたしたちの夢を果たしにいこう。そして、
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「来てくれたんですね」
全速力で駆けたアタシに対して、そいつは病室のベッドの上でいつも通りの温和な笑みを向けてくる。
アタシは眉間に皺を寄せ、息を切らしながら睨み付ける。
どうして、そんな顔ができるんだ。
「はっ……はっ……アンタ、分かっていて出たね」
息を整え、言葉を何とか絞り出しながら机の上に電撃引退を報せる号外を叩きつける。
号外の一面に映し出されたウマ娘と同じ顔をしたそいつは困ったように目尻を下げ、小さくため息をついた。
「そんなことはないですよ、と言っても分かっちゃうんでしょうね」
「当然だ。ずっと、ずっとアンタの先を走る事だけしか考えていなかったんだ」
「……いつからだ?」
アタシの問いに温和な笑みが崩れる。目を落とし、ためらうような表情。
「はっきり言っていい。たぶん、アタシが考えている事と同じのはずだ。それは……」
「「最初から」……です」
声が重なる。
アタシの口から大きく、深いため息が漏れた。分かっていた。分かってはいたはずだった。
ほんの僅かな綻びが生じていたそれが、共に走るたびに少しずつ広がっていった事に気づかないふりをしていた。
万全とは言い難い彼女に負け続けているという事実を認めたくなかった。
「デビュー前もだましだまし走っていた状態でした。毎回このレースが最後だ、これで終わるかもしれないと。一発勝負だという覚悟をずっとしていました……私はもう、走れなくなりました」
膝から力が抜け落ち、病室の椅子に身を預けて天井へ視線を向ける。
そうしなければ、情けない顔を見せてしまうから。熱くなる目頭を胆力で抑えきる。
「……もう二度と抜くどころか、共に走る事すら叶わないなんて。そんな残酷なことがあるかい」
アタシを打ち負かしたウマ娘はこの目前にいるただひとりだけだった。だから、ずっと、ずっとその先を走る事だけしか考えていなかった。
そのために血反吐を吐くような鍛錬を積み、ありとあらゆる角度から研究を重ねた。
滝に打たれて精神面を鍛え上げた事もあったし、一介のウマ娘では知る事すら叶わないであろう知識や技術を海外から高値で買い入れた。
その甲斐あってか、目前にいる彼女との差は少しずつ縮まっていった。
最初は四バ身だった差が三バ身になり、二バ身となり。
そして東京優駿という最高の栄誉こそ逃したが、とうとう一バ身まで追い縋ることができた。
次こそは勝てると。そう思っていた。
──しかし、それはただ彼女が、
あの時、スタートに失敗して初めて先頭を譲る形で走ったのは、もう脚が限界だったからか。
それでもなお、アタシは負けた。絶好調の仕上がりだったというのに。
「この事をトレーナーは」
いいえ、と弱弱しい声が返ってきた。分かり切った答えだった。
あのトレーナーは彼女を担当してからずっと、脚の事を気にかけていた。
丹念なケアから始まり、私財をなげうってあらゆる手段で快癒への道を模索し続けていた。
担当でないアタシの目からでもあの執念は相当なものだった。
それこそ今の姿を目にしたら、トレーナーとしての職を辞するかもしれない。それほどまでの覚悟を抱いていたのだ。
「そうか……いや、すまなかったね、アンタが一番辛いだろうに……」
「ふふっ」
白い天井から小さい笑い声に視線を向けると、ばつを悪そうに頬に手を当てる様子が見えた。
「すみません。本当に優しいひとなんだなって」
それはどういう意味だい、と口に出ていた。
目の上のたんこぶであった彼女に対しては弱音を見せまいと常に気丈に振る舞っていた。
だがそれがなぜ優しいという評価になるのか、これが分からなかった。
くすくすと笑う彼女からその答えは期待できないと悟ったアタシは小さくため息をついた。
「あのトレーナーにさえ伝えていないってのに、アタシに伝えた理由はなんだい」
「本当は誰にも言わないでおこうと思ったんです」
「そうしようとしたら、あなたの顔が浮かびました。あなたと走るのはとても楽しかった。あなたと競い合えば最高のレースになるから。もっと一緒に走っていたい、そう思ったんです。でも……」
温和な笑みに影が差し、布団の下にあるであろう右足に視線を向けた。
「……だからこそ、あなたにだけは伝えたかった。私が言うのはおこがましいかもしれませんが、私というウマ娘の生涯で最高のライバルだったあなたに」
──ごめんなさい。
大粒の涙をこぼしながら、消え入りそうな声でそう言った。
"パーフェクト"なんていう大層な二つ名ですら、生ぬるいほどの走りを見せていた彼女はもう二度と見られない。もう二度と共に走る事すらできない。
……ああ。彼女はもういなくなってしまったんだな、と今更ながら寂寥の念が湧き出てきた。
それを振り払うように、アタシは声を張り上げた。
「アタシなんかよりも、もっと言うべき相手がいるだろう」
「それ、は……」
「……アンタが決めたことだ、アタシからはこれ以上とやかく言わない」
ふん、と鼻を鳴らす。アタシに出来ることはただ一つだけ。
「アンタがいなくなった後の道はアタシが踏破する。アンタの分も走ってやる。アンタ以外に、負けてなんかやるもんか」
「……ええ。応援しています」
それから、アタシは走り続けた。新設された安田賞を皮切りに、1着を取り続けてきた。
菊花賞といった長距離にはどうやら適性がなかったらしく、そこは他のウマ娘たちに後塵を拝したものの、2000メートルまでの中距離では無敗のまま駆け抜けた。
だが、一着を取ったレースでも、常に目前にアイツの幻が走り続けている。
どれだけ勝っても、アイツが残したまばゆい輝きに呑み込まれていく。
その幻を追い抜けないまま、アタシのウマ娘としての人生を終えた。
──アタシは数あるただの"星"にすぎない存在で、太陽にはなれなかったんだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
私は未だに夢に見る。
東京優駿を目前に迫った頃、「なぜ追わないんだ」と周囲から言われ続けようとも、他のウマ娘より遥かに短い練習で切り上げて両脚のケアに専念し続けた。
彼女の両脚は既に限界を迎えていた。これ以上悪化するならば、無理矢理にでも休養させようとも考えていた。
そんな最中で、ある日に奇跡が起きた。
ずっと見てもらった医者にすら「これは奇跡、あるいは神の思し召しとしか言い様がない」と匙を投げるほど、抱えていた問題が嘘のように雲散したのだ。
それでも私は出走を取りやめようとした。神の存在は信じていないが、この奇跡を活かさない手はない。ここで将来のために治療に専念させようとした。
「その将来に、この東京
「……ウマ娘の生涯でただ一度しか、チャンスがない最高の栄誉。だからこそ
……彼女の出走を止めることはできなかった。ダービートレーナーなどという私の些細な夢はいつか他のウマ娘と取れるなどと──担当である彼女を前に、誰が言えるというのだ。
しかしながら、東京優駿の直前まで彼女の両脚を注視していたものの問題点は一つも見つからず、むしろ絶好調。
警戒を緩めずに短く切り上げた練習でもこれ以上ない記録を叩き出しており、その後の両脚のケアでも異常なしと出走を止める理由が一つもなかった。
この時、「もしかしたら」という思いがよぎった。
それまで一度たりとも本気で、両脚で駆ける事ができなかった彼女の"完璧"な走りが、もしかしたらこの東京優駿で見られるのではないかという思いが。
──その東京優駿は、現実とは残酷なもので、神などいないということを痛感した日だった。
彼女が最も得意とするスタートダッシュを初めて失敗した時点で、否が応でも止めるべきだった。
その両脚にかかっていた魔法は、スタートの時点で解けてしまっていたのだ。
彼女のことを知らない者から見れば、美しいとすら感じさせられるそのフォームは万全からは程遠いもので、
右脚をかばい続けた結果、その左脚にも多大な不安を抱えている状態だというのに。
それでも、止めればよかったという後悔の念を抱く事すらおこがましいほど、彼女は苦しみながらも懸命に走っていた。
スタートダッシュの失敗による致命的な出遅れをしながらも、向こう正面で脚をつけて先行勢を次々とかわしていった。
そして先頭で押し切り、一バ身の差でその栄誉を勝ち取った。ダービートレーナーという私の生涯の夢を叶えてくれた──ウマ娘としての人生を代償に。
彼女の口から引退の言葉を聞いた時、私は自責の念と共に、なぜかひどく安堵してしまっていた。
走る事で苦しむ彼女の姿を二度と見なくて済むから。それはトレーナーにあるまじき思考だった。
「燃え尽きた」などという引退の理由が嘘であることは分かっていた。
彼女自身がよく分かっているであろう両脚の事を私に伝えなかったのは、彼女なりの優しさだったのだろう。
彼女の引退後、トレーナーを辞する事も考えたが、彼女の願いを踏みにじるつもりかとライバルだったウマ娘に怒鳴られてしまった。
一度。
たった一度だけでいい。万全の状態で走らせたかった。
気がつけば、トレーナーノートなどをまとめた資料のページの最後にそう筆を走らせていた。
意味はない。ただ、吐き出したかっただけだ。最後の最後までそれを叶える事が出来なかった愚かなトレーナーの戯言を。
──私は、未だに夢に見る。
君が何の懸念もなく、全力でターフを駆け抜けてゆくという見果てぬ夢を。
「む、君は」「アンタは」
見た顔に気づき、お互いにほぼ同時に声を上げた。
忘れもしない。彼女はまばゆい輝きを放つ走りにより、安田記念の初代覇者となったウマ娘。
観客たちの注目と瞳を奪っていくことで"一番星"とまで呼ばれ、トゥインクル・シリーズの黎明期を支えた1人だった。
そして私がかつて担当していたウマ娘のライバル的存在でもあった。
今はある地方のトレセン学園の教官をしていると記憶していたが、なぜこの東京の東府中駅にいるのだろうか。
「何をしてるんだい」
「それはこちらの台詞でもあるのだが……ある噂を聞いてな」
「噂……アンタもそうかい、"ターフに現れる幻のウマ娘"だね?」
ああ、と小さく何度も頷きながら呟いた。
"幻のウマ娘"。東京優駿を制した直後、全戦全勝のまま電撃引退をした彼女を指す言葉だった。
たった一年という短い期間でありながら、七回もレコードを塗り替えるというあまりにも鮮烈な結果を残した彼女は、まるで東京優駿を制するために現れた幻だったのではないか、と。
それが今になって同じ呼び名で荒唐無稽な噂話として広まっているとなれば、聞き逃すことはできなかった。
「アイツがいる学園でその噂が広まるってえのは只事じゃないと思ってね、適当な理由をつけて臨時教官として来たんだ」
「……そこまで同じか。私も似たようなものでね、特別講師としてねじ込ませてもらった」
「聞いたよ、アンタ地元じゃ"ダービーの英雄"って呼ばれてるんだってね」
私の喉からうめき声が漏れた。なぜそれを知っているんだ。
担当していた彼女の引退後、私はこの中央でいくつかのウマ娘を担当した。
"黄金の波浪"と讃えられたウマ娘と共に
良くも悪くもこの中央には思い入れがありすぎたし、地方に埋もれている原石を磨き上げたいという思いもあった。
何より、かつての彼女のような悲劇を生み出さないために。
しかし、ダービートレーナーという称号をもって帰郷した私は、故郷にとってはとんでもないことだったらしかった。
"ダービーの英雄"の凱旋だ、とあれよあれよと祭り上げられてしまい、今や学園長補佐のポジションにまで納まってしまった。
「やめてくれ。私の力ではなく担当していた彼女たちの力あってこそのものだ」
「ふん、アタシはアンタの力も大いにあったと思っているんだけどね」
「……君からそう言われては立つ瀬がないな」
なんせ私たちと真っ向勝負を繰り広げてきたウマ娘だ。彼女がそう言うのならば否定は無礼にあたるだろう。
「それにしても、随分と鍛えているようだな」
「ン……教官としてお手本を見せなきゃならないからね」
かすかな逡巡。半分嘘であろうということは推察できた。
教官としてお手本を見せるには、あまりにも鍛え上げ過ぎている。
それこそ現役時代よりも厳しいトレーニングを重ねない限り不可能と言っていいぐらいには。
おそらく、彼女もまた幻影を追いかけ続けているのだろう。私もそうだったのだから。
それほどまでに、あの幻は鮮烈すぎた。
私たちの間に静寂が訪れる。彼女は気まずそうに目をそらしている。
「……ここで立ち話もなんだ、目的のところまで向かおう」
彼女は頷き、共に目的の場所──かつての青春であった日本ウマ娘トレーニングセンター学園へと歩を進めた。