また漫画シンデレラグレイの話も拾っています。
青年は思った(俺のせいでアイツは勝ちきれへん)―――と。
少女は思った(ボクのせいでトレーナーは指導力を疑われている)―――と。
『テイエムオペラオーは、今年のクラシック三冠ウマ娘に成れた筈だ。東条ハナが自ら指導していれば』
その年のウマ娘ファンの間では、そんな話が良く話された。オペラオーが、ダービーと菊花賞を取り逃したのは担当であるリギルのサブトレーナーの責任だと。
オペラオーが所属するトレセン学園最強チーム・リギルのトレーナー東条ハナ。彼女が当代一の名トレーナーであるのは誰も異論を唱えない。
しかしその彼女の日々は多忙に過ぎた。最強メンバーを抱えるが故の殺人的な仕事量。
それを緩和するのと、後進育成の2つの目的のために、リギルにはサブトレーナーが配属される運びとなった。
無論あの東条が迎え入れるのだから、ただの若手ではなかった。才能と情熱にあふれ、将来を嘱望されていたトレーナーだった。
『こりゃあおハナさんは、良いサブめっけたな~。お前、暇な時はウチにも手伝いに来てくれよ』
そう初対面で語ったのはリギルのライバル、チームスピカのトレーナーだった。
偶然か必然か、そうやってトレーナーとデビューを控えたオペラオーは出会った。
ナルシストで王様気質のオペラオーと、控えめながらも芯が強いトレーナーは不思議とウマが合った。
東条の多忙も手伝い、自然とオペラオーを担当する事となる。
エリートとは言えないオペラオーと新人に近いトレーナー。果たして周囲や世間の評価は低かったが、一戦一戦と勝っていくうちにそれは逆へと変わっていく。
『フレッシュなコンビでいいじゃないか』『記者会見での会話が漫才のようで面白い』などと好意的に評された。
東条自身も『このままやってみなさい。あなたはあの子の力を良く引き出してるわ』と認めた。
そして皐月賞を制した時には、『天才若手トレーナーと天才ウマ娘の最強コンビ』や『東条ハナの後継者現る』とまで言われのだった。
だが外野の声とは勝手なものだ。皐月賞以後の、好走するも勝ちきれない試合が続くと、前述のような言葉が雨後の筍のように湧いて出る。
果たしてテイエムオペラオーは、東条の直接指導があれば三冠を取れたのか。
本当の所は誰も分からない。それはスポーツの世界には付き物であり、語られてきた“IF”の一つに過ぎないのだ。
『もしオグリキャップがクラシック登録をしていれば』『もしサイレンススズカが骨折しなければ』
そんな話がトゥインクルシリーズにも溢れていた。だがオペラオーとトレーナーが、皐月賞以後勝ちきれなかったのは厳然たる事実だ。
その年の最後のレース、僅差の3位に終わった有馬記念。1つ上の先輩2人の後塵を拝した時オペラオーは、物理的な距離以上に彼女らとの“差”を感じた。
(今のままでは――足りない!)
そう直感した。しかしそれが世間が言うように、担当トレーナーのせいかと問われれば断じてノーだととも思った。
ではどうすればその足りない1ピースは埋まるのか。そんな事を思いながらウイニングライブは終わった。
その後控室に戻った時、2人は殆ど会話をしなかった。
いつもなら唯我独尊なセリフを発するオペラオーに、トレーナーが関西出身ならではのツッコミを入れるのがお決まりなのだが。
事務的な話をし、『来年もよろしく』などと言い合い別れた。
お互いがお互いに言いたい事を飲み込んでいるように見えた。と後に語ったのは、その年の有馬の覇者でありリギルの先輩であるグラスワンダーだった。
有馬の後は学園も、しばらく年末年始休みとなるため、2人はそれが年内最後の会話となった。
様々な思いや思惑を残しながら――――つつがなく年は明けた。
中央トレセン学園に存在する各チームの部室棟。
リギルやスピカなどの、名の通り綺羅星の如きチームが立ち並ぶ場所。
その片隅にある、一つの空き部室。埃とくたびれたパイプ椅子程度しかなったその部屋だったが、今日は違っていた。
リギルのサブトレーナーを務めていた男性と、数人のウマ娘たちが机や掃除用具などを持ち訪れていた。
「それじゃあ、掃除を始めようか」
「はーい」
「チームとしての初仕事っスね」
トレーナーの指示に従い、ウマ娘たちはテキパキと掃除を始めた。
埃ははたかれ、くたびれたパイプ椅子は綺麗に雑巾で拭かれた。
大きめの事務机やホワイボード、テレビや冷蔵庫などが運び込まれ、2時間もするとその部屋はすっかり部室らしくなっていた。
「よーし、こんな物だろう。各自椅子に座ってくれ」
「分かりましたー」
トレーナーが額の汗を拭いながら、ウマ娘たちに声をかける。
ウマ娘たちは、言われるままに自分たちで綺麗にしたパイプ椅子に腰かけた。
机の上には、乾杯用と思われる人参ジュースが人数分置かれている。
「えー、皆掃除お疲れ様。今日が我がチームの門出となる訳だが、こんな新人に毛が生えた若造に付いてきてくれてありがとう」
「そんな事ないですよー」
「そうそう。なんたってあのリギルでサブトレーナーやってたんですし」
「G1でも勝ってますし。東条トレーナーの、秘蔵っ子って言われてたっスよね」
若手トレーナーの謙虚な言葉に、ウマ娘たちは笑顔でそう返した。
威厳はまるでないが、どうやら教え子たちとの関係性は良好なようである。
それはトレーナーの人間性によるものか、それとも学園最強チームのリギルでサブトレーナーをしていた実績によるものだろうか。
少なくとも『オペラオーを勝たせきれなかったトレーナー』と思っている娘は、一人もいなさそうだった。
「おいおい、あんまりからかわんでくれよ。確かに俺はリギルにいたけれど、あそこのやり方を押し付ける気はないからな」
照れくさそうに鼻を掻きながら、トレーナーは真剣な面持ちで言葉を続ける。
「リギルで学んだ事を活かして、一人一人に合った練習や調整を行っていくつもりだ」
若手らしい硬さはあるが情熱のこもった言葉に、ウマ娘たちもうんうんと皆頷いている。
「皆も何か意見があったら気軽に言ってくれ。全員でこのチームを強くて華のあるチームにしていこう。それでは…」
乾杯と言いかけた時、急に部室のドアをノックする音が響いた。驚いた数名が耳をピンと立てている。
「はーい、開いてますよ」
こんな時に誰だろうと少し不審に思いつつ、トレーナーはドアの向こうの人物へと声をかけた。
しかしそれに応えて、ドアが開かれた時彼は思わず言葉をなくした。
「良かった……乾杯には間に合ったみたいだね…!」
「………お、お前何しとんねん?」
トレーナーはドアの向こうの頭に王冠を乗せた栗毛の少女に向かって、駆け寄りつつもそうとしか声をかける事ができなかった。
その顔には狼狽が色濃く浮かんでおり、動揺のせいか普段使わない地元の言葉が出てしまっている。
「何って、今日は記念すべきチーム『アンタレス』の結成式だろう?君と付き合いのあるボクが現れて何の不思議があるんだい?」
この新生チームの名前を言いながら少女は、トレーナーに朗らかに笑って見せた。
「そうやない…俺が言いたいのはそうやないんや…なんで来た?そんな慌てた様子で」
「ボクは慌ててなどいないさ。何を失礼な」
「嘘つけ、服装メチャクチャやぞ。身だしなみに気を遣うお前らしくもない」
確かに頭に乗せている王冠はずれているし、制服のリボンは曲がっており、オバーニーソックスは左右の長さが極端に違う。
「あっ、いや、これは失礼したね。ボクともあろうものが恥ずかしい。しかし、君の関西弁のツッコミもなんだか久しぶりな感じだ」
笑いながら少女は片方の靴下をたくし上げ、リボンと頭の王冠を直す。
だが対照的にトレーナは悲し気に下を向き重々しく言った。
「……俺はもう、お前のトレーナーちゃうんや。オペラオー…」
悲痛さすら滲ませた声で、トレーナーはその名を呼んだ。
少女の名はテイエムオペラオー。昨年の皐月賞の覇者であり、あのチームリギルのメンバーでもある。
紛れもない現時点でのトゥインクルシリーズのトップクラスにいるウマ娘だ。
その彼女がサプライズにしても突然の登場。しかもかつて担当だったこのチームのトレーナーと訳ありな様子。
あまりの急展開に集まった他のウマ娘たちは声が出ない。
しばしの沈黙が部室を包む。重苦しい雰囲気だったが、オペラオーは口の端を吊り上げ言い放った。
「……そうだね。確かに君はもうボクのトレーナーじゃない…けれど、“これからも”ではない」
「どういう意味や?」
怪訝な表情で尋ねるトレーナーに、オペラオーは懐から一枚の紙を取り出して見せた。
「こ、これは!?」
「正式な『チーム入部届』貰ってくれるよね」
オペラオーからいくつかの判が押された書類を受け取り、トレーナーは硬直した。
あるいはあまりの急展開に、脳がついてこれないのか。
「……という訳だ。皆、これからよろしく頼むよ。ああっ、そういえば、これから乾杯だったね。ボクの分の人参ジュースはあるかな?」
「ほ、本当にオペラオー先輩がここに入るんですか?」
「本当だとも!これからは同じチームの仲間だね。よろしく!」
一人のウマ娘の手を取り微笑んで見せる。
「す、すごーい!嘘みたい」
「嘘なもんか。まぁボクが入ったからには、大船、いやスペースシャトルにでも乗ったつもりでいたまえ!ハーッハッハッハー!」
持ち前の太陽のような陽気さと存在感で、後輩たちに溶け込んでいくオペラオー。
それまでの重苦しい雰囲気が、徐々に緩和され和気あいあいとしたものに変わっていく。
しかし書類を握りしめて、硬直していたトレーナーが急に口を開いた。
「待てや。オペラオー、まだお前の入部を認める訳にはいかん」
「…どうして?書類に不備でもあるのかい」
「そやない、ワケを話せや。リギルで何があった?それを話すまでお前の入部は認めん」
互いの目を見つめ合うオペラオーとトレーナー。
再度沈黙が場を包んだが、オペラオーが軽くため息をついた。
「やれやれ、君に隠し事はできないな。良いだろう、皆も聞いてくれ」
そう言いながら歌劇の語り手のように、オペラオーは事の顛末を語り始めた。
それはアンタレスのメンバーが掃除をする前の出来事だった。
「納得できません!」
チームリギルを率いる、東条ハナのトレーナー室で、オペラオーは机を叩いた。
彼女の前にいるのは、その東条本人である。
曰く稀代の名将。曰くトレセン学園の実質支配者。曰くリビングレジェンド。
数々のウマ娘たちに栄冠を勝ち取らせたその圧倒的手腕は、国内外から称賛を集めている。
その最強最高のトレーナーに、歯向かうようなそぶりをオペラオーは見せているのだった。
「………なにか勘違いをしているようだけど、彼の独立は最初から決まっていた事よ。元々彼はリギルを継ぐためではなく、独立前の修行としてサブトレーナーをしていたんだから」
「ボクに黙っていたのは?」
「あなたのメンタルに差支えがあると判断したから。現に今あなたは珍しく頭に血が上っている」
「っ………!」
教え子の反抗などどこ吹く風。東条はいつもと変わらぬ口調で簡潔に答えた。
「…彼の独立がその内あるのは知ってましたよ。聞きたいのはそれがなぜ“今”なのかって事です」
普通新しいチームを立ち上げるのなら、4月と相場が決まっている。
そんな時期外れに、自分の担当トレーナーが黙って独立。オペラオーはそこに憤っているのだった。
去年のリベンジを今年のシニアレースで果たして、それを手土産にトレーナーが独立する。
そんなオペラオーのうっすら描いていた、青写真ももはや実現する道はない。
「元々進めていた独立話。そんな彼のチームに入りたいって子が必要な分だけ集まった。それがたまたま今だった。それだけの話よ」
「本当ですか!?ボクが彼と組んで、勝ちきれなかったからじゃないんですか?」
「あなたが気にする話ではない」
「気にしますよ!結果が出なかったのはボク自身のせいなのに……!」
その言葉に東条は、トレーナーの『俺のせいです東条先輩。今思えばもっとやりようがあった。それなのに勝たせてやれなかった…!』という嘆きを思い出した。
「考えすぎよ、彼の才能は私も高く評価している。ただ確かにここ一番での、あなたの勝負弱さは私も感じていたわ。しかしそこまで若手の彼に求めるのは酷。彼の責任とは思っていない」
「くっ……」
「勿論あなたのせいにするつもりもない。去年序盤の快進撃に調子に乗って、本来なら三冠を取れる器のあなたを、経験の浅い彼に任せっきりで一冠に終わらせたのは私の責任。だから今年は私が直接指導する」
「その為にトレーナーの独立を急いだんですか?」
東条はその質問には答えない。ただ黙ってオペラオーの紫色の瞳を見つめている。
「答えてください!」
「あなたの持っているポテンシャルは、本当に素晴らしいの。それさえ十分に発揮すれば今年のシニア中距離三冠だって夢じゃない」
東条の口をついて出た言葉は、オペラオーが望んだものではなかった。
「納得しなさい。それがあなたにとっても彼にとっても、一番いい道よ」
諭すような口調で東条は語り掛ける。
「…………納得……できません!自分の事は自分が一番分かります!ボクは彼と組んだって勝てますよ!なんなら今からそれを証明…」
「チームを移る気?ダメよ。それは認めない」
言おうとしたことを先回りされ、オペラオーは思わず口ごもった。
「なぜですか!?以前スズカ先輩の移籍は認めてくれたじゃないですか?」
「…言いたくはないけれど、スピカのトレーナーはああ見えて凄腕よ。経験も深いし指導の引き出しだって多い。最近のスピカの面々の活躍はあなたも知っているでしょう」
確かにスペシャルウィークを始めとして近年のスピカメンバーの調子は凄まじい。
一部ではこのままいけば、学園最強チームの座はリギルからスピカに移るとまで言われている。
「それは、スピカのトレーナーなら安心してスズカ先輩を預ける事ができたけど、彼にボクを預ける事は不安でできないって意味ですか?」
「人には向き不向きがあるって事よ。今の彼に必要なのは経験と実績を積むこと!勝つべき選手をしっかり勝たせるよりも、デビュー前や直後の子たちと二人三脚で強くなっていく。それが一番だと“私”が判断した」
力強く言い切られてしまった。東条ハナにそう断言されては、そうそう言い返せるものではない。
事実オペラオーも矛を収めたかのように黙り込んでしまっていた。
(東条トレーナーの言っている事は正しい……正しいが…それを認めるという事は、同時にボクが負けた理由は彼だって認める事だ!)
だがしかし、後の“世紀末覇王”は決して納得したのではなかった。自分以外に敗因を求める事も、自身が見出したトレーナーの力を否定する事も認めがたい。
トレセンに来るまでは、決してエリートとはいえない自分を見出してくれた恩師。
敬愛しその実力とウマ娘への思いを痛いほど知っている東条に、それでも譲れない物の為に必死に次の言葉を紡ぎ出そうとしていた。
「………じゃあ、こういうのはどうですか、東条トレーナー」
「ん?」
オペラオーの様子が、少し変わったように感じ東条は眉をひそめた。
「先程、ボクならシニア三冠だっていけると仰いましたよね?」
「ええ、そう言ったわ」
「ならば、宣言します。彼のチーム、アンタレスに移籍して今年のシニア中長距離で三冠…いや五冠を取り、なおかつ他のレースでもすべて勝ち無敗でいきます!ボクは…いや、ボク達はもう負けません!」
胸に手を当て神の前に宣誓する王者のように、高らかにオペラオーは言った。
「なっ…!」
あまりと言えば、あまりの大言壮語に東条は目を見開いた。
オペラオーは、天皇賞(春)・宝塚記念・天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念の5つのレース全てを制すと言っているのだ。
それぞれレース場も違い、距離も3200から2000まで一つ一つ違う。
そんな5つのレースを全て勝つ。これまで言うまでもないが達成したウマ娘はいない。
「もしどこかのレースで負けたのなら、その瞬間ボクはリギルに戻ります。そして東条トレーナーの言う事全てに服従します……どうです、これで?」
「ほ、本気で言っているの?シニア五冠でなおかつ年間無敗だなんて」
「前例はないですよね。あの会長ですらそれは成しえていない。でも、だからこそ挑戦する意義がある」
“皇帝”シンボリルドルフすら成していない偉業を達成する。そんな事が果たして可能なのか。
だがもしそれが出来たのなら、一途に意志を貫き通した事への、これ以上ない理由づけになる。
(――ああ、そうか、ボクに足りない物――こうやって埋めるべきだったんだ)
完全に呆気にとられた様子の東条に、オペラオーは突然ペコリと頭を下げた。
「これまで本当にお世話になりました。退部届と、入部届を貰ってきます。それでは」
くるりと踵を返し、トレーナー室を後にしようとするオペラオー。
「待ちなさい!まだ話は…」
もはや言葉では止まらなかった。部屋に扉が閉まる重い音が響いた。
離脱は確定的だった。本気で移籍を望むウマ娘を、強制的に留める正当な手段はない。
もしオペラオーがリギルに戻る事があるとするならば、彼女の宣言が失敗に終わった時しかないだろう。
東条は思わず椅子に体重を預けて天井を仰ぎ見た。
(全く………私の判断ミス…か?)
心技体のうち既にオペラオーには、ほぼ技と体は備わっていると東条は思っていた。
足りない心を補うためのきっかけとして、あえて相棒との仲を引き裂くようなマネをしたのだったがまさかこういう結果になるとは。
「しかし、あの目……今までの彼女にはなかった」
それは東条がシンボリルドルフやナリタブライアンの全盛期に見た、彼女らの目つきと似ていた。
一人誰もいない部屋で呟く。東条の目論見はある意味半分成功したのかもしれない。
「だとしたら、皮肉だな」
トレーナー稼業を続けていれば、いつだって担当ウマ娘の成長と別れは突然やって来る。
忘れかけていた、そんな金言を東条は思い出していた。
オペラオーがトレーナ室から出た直後、待ち構えていたようにその正面に立っている人影があった。
トレードマークである三日月のような前髪、立っているだけでにじみ出る王者の風格。
チームリギルの先輩であり、トレセン学園生徒会長シンボリルドルフだった。
「会長……!」
「すまない。盗み聞きをするつもりはなかったんだが…」
決まりが悪そうにシンボリルドルフはそう言った。
なんでも東条に用事があり部屋を訪れたら、二人の会話が耳に入ってしまったらしい。
ただでさえウマ娘の聴力は人間のそれを大きく上回るし、オペラオーもかなり熱くなっていたので漏れ聞こえていてもなんの不思議もなかった。
「…いいのか?吐いた唾は吞めぬし、大言壮語が位卑言高に終われば皆の笑いものだ」
心配そうに問いかける。そこには後輩を案じる以外の感情はなかった。
そして言外にもし東条に謝る気があるなら、一緒に謝ってやるぞという思いも滲ませていた。
しかしそんな偉大な先輩の心配に、オペラオーは笑顔できっぱりと答えて見せる。
「覇道を目指す以上、道化になる覚悟も一緒にしてますよ」
当然の事のように言った。自ら退路を断つ信念がその言葉には感じられた。
「ほぉっ、君がそんな事を言うとはな」
違う。とルドルフは思った。今までの自分が知っているテイエムオペラオーとは、決定的に何かが違うと。
しかしそれは中々言語化しにくい物でもあった。
「中長距離シニアレース全制覇に加えて年間無敗……もし達成できれば前人未到の大記録だな」
「会長、以前オグリキャップ先輩が中央に移籍してすぐの時、ダービーの件で会長に詰め寄った事があるそうですね」
突如指摘されルドルフの脳裏に浮かぶはあの時の光景。半ばトレセン学園で伝説化している出来事。
クラシック登録をしていなかったオグリキャップが、一縷の望みをかけて訪れた会長室。
そこでいくつかのやり取りの末、放たれた『中央を無礼るなよ』皇帝の威厳と鋭い眼光をたっぷりと込めたその言葉。
並のウマ娘ならあまりの迫力に、泣きでもするかへたり込んでしまう所だろう。
だがかの“芦毛の怪物”は違った。一歩も引かず逆にルドルフに啖呵を切って見せた。
「『ならば実力で覆す。常識も…ルールも!この脚で!』でしたっけ?カッコいいですよね」
「……あの頃は私も彼女も若かった。あまり言ってくれるな。だがなぜ、いまそんな話を?」
問うてはみたが、ルドルフにはおおよそ察しがついていた。
宣言通り常識もルールも覆し、後のオペラオーの皐月賞への道を作ったオグリキャップの話をした真意を。
「ボクも今、その時のオグリキャップ先輩と、多分同じような気持ちだからですよ。それでは」
そう言い残して、オペラオーはルドルフの横を抜け颯爽と去っていった。
後に残されたルドルフは、フッと微笑を浮かべた。
そしてとある球は速いのに気弱気弱と言われたプロ野球の投手が、監督の『お前は気が弱いんじゃない。優しいだけなんだ』と言われ大投手へと覚醒した逸話を思い出していた。
一つのきっかけで、人は容易く別人へと変わりうる。
それでは今までのオペラオーは蛹だったのか。蛹の状態で皐月賞を制したというのか。
だとすれば殻を破り成虫となった時、一体どこまで飛べるのだろうか。
「…一念化生、化けたかもしれないな。彼女は」
そのルドルフの呟きは本人以外誰にも聞こえなかった。
「………マジか。マジなんやな…おお…もう…」
オペラオーが話し終わった矢先、そう言いながらトレーナーは顔を両手で覆った。
「何をリア王のように嘆いているんだ。ほら、早く乾杯の音頭を取ったらどうだい?」
いつのまにやらオペラオーの右手には、ジュースの入ったコップが握られていた。
しかもどこから持ってきたのか、一人だけやたら豪華なアンティークチェアに腰かけてもいる。
「お、お前は……何考えとるんや!2人ともお世話になった東条先輩に、ケンカ売るようなマネ……おまけにシニア中長距離五冠と年間無敗!……自慢じゃないが俺はシニアのレースのノウハウなんかほぼゼロやぞ!」
「はぁー、そりゃ困ったね。それならこれから2人で頭丸めて、東条トレーナーに土下座でもしようか?」
くるくると、朱色の液体を弄びながら、どこか楽し気に言うオペラオー。
「あ、アホ。俺はともかく、お前にそんなみっともないマネさせられっかい」
「じゃあもう道は一つだよ。ボクたちはもう、とっくにルビコンの川岸にいるんだ。渡るために必要な物はたった一つ『覚悟』さ。ボクはできているけど、君はどうなんだい?」
まるで腹心の臣下に問いかける王のように、オペラオーはトレーナーを見つめた。
だがトレーナーはそれに即答することができない。皐月賞で掴んだかに見えた自信のかけらは、とっくに打ち砕かれている。
(簡単に言いおって……無敗&五冠なんて、できる訳がない。しかも俺みたいなヘボトレーナーと組んで)
そう口から言葉が出ようとした時、かつてリギル時代にオペラオーに言われた言葉が不意に頭に浮かんだ。
『ボクと組んでる以上、自分を卑下するような発言は減らして欲しいな。自分を信じられないのなら、君を選んだボクを信じてみたらどうだい?』
(……………ホンマか?ホンマにできへんのか?)
続いてトレーナーの脳裏に浮かぶのは、サブトレーナーとしてオペラオーと過ごした日々。
(こいつは自分も俺も信じとる……ウマ娘に信頼されるのは、一流トレーナーの条件やって先輩も言ってた)
トレーナーとしての実力は足りていない。知識や情熱はともかく経験はない。だがそれもすべて現時点での話。
ふつふつと、トレーナーの胸に熱いものが湧いてくる。
(足りなきゃ足りるように、なればええんや!何よりこいつがこんなに俺と自分を信じ切ってんのに、俺が自分とこいつを信じてやらんでどうすんねん!)
握りしめる両手に力が籠る。
「―――どうやら、気持ちは固まったようだね」
「ああ、乾杯、すっぞ」
やったぁ!などと叫びながら後輩ウマ娘たちが立ち上がる。
「チーム、アンタレスの前途を祝して乾杯!」
部屋のあちこちからコップをぶつけ合う音が聞こえる。
「乾杯~」
「オペラオー先輩、これからよろしくっス」
「ふふっ、君たちは実に運がいい。ボクの伝説をチームメイトとして、間近で見られるのだから!」
「頑張りましょーね!私たちもお手伝いしますから」
活気づく後輩たちを尻目に、トレーナーとオペラオーは心中を滾らせていた。
(やるしかないんや…!もうオペラオーを、俺を俺以上に買ってくれる奴を、俺のせいで負けさせるわけにはいかん!)
(やってやるさ…!もうボクのせいでトレーナーの能力不足だなんて誰にも言わせない。ボクの伝説はここでも……いや、ここでこそ輝くんだ!)
後に伝説となる1年が、学園の片隅の小さな部室から始まろうとしていた。