今回で最終回の予定でしたが、文章がとても多くなってしまい、前後編に分ける運びとなりました。
後編も近日中に必ず……。
「はぁっ…はぁ…はぁ…」
冬を迎えたトレセン学園。一年を締めくくる有馬記念に向けて、ナリタトップロードは走りこんでいた。
かなりハードなトレーニングメニューだったが、無言で黙々とこなしている。
ジャパンカップには参加できなかったが、有馬のファン投票では選出され出場が決まっていた。
(勝ちたい……今度こそ、オペラオーに!)
昨年はアドマイヤベガと共に、クラシック戦線で激しくしのぎを削った同期。
(だけど……)
シニアとなった今年は、一気に彼女は高みへと駆け上がっていってしまった。
これまでで四冠。シニア王道路線、中長距離完全制覇まで有馬記念を残すのみだ。
それでもメイショウドトウのように、僅差の2位ならば悔しさだけで済んだかもしれない。
だがトップロードはそれだけではなく、置いて行かれたような焦燥感を感じていた。
(私の事、ちゃんと敵って思ってる?)
オペラオーの2着になったのも、ドトウのいないG2の2戦のみ。
かつて感じた“敵”にすらなれない不安が、現実となったような感覚だった。
この感覚を振り払う方法は、一つしかない。
(……勝つ!勝つんだ!オペラオーもドトウも倒して!)
そう、勝利しかなかった。勝てば裏返る。敗北も焦燥感も悔しさも全てが。
そのためにはどんな厳しい練習もこなす覚悟があった。
走る。走る。トップロードはただ走る。冷たく乾いた空気をかき分けて走り続ける。
そこには一種の美しさすら漂っていた。
同じ頃、メイショウドトウもトレーナーと共に激しい練習を行っていた。
トレセンの中山競バ場を模したコースを、何度も疾走している。
「よしっ!」
自分の目の前をドトウが駆け抜けた時、彼女のトレーナーはストップウォッチを止めた。
「……た、タイムは…」
「2分34秒4だ、ドトウ」
白くなる息を吐きながら、尋ねるドトウにトレーナーはタイムを告げる。
「……はぁ…はぁ…だ、ダメですね…せめて、32秒台前半を出さないと」
「おい、それは追い込みすぎじゃないか?」
「練習でそれぐらいをコンスタントに、出しておかないとオペラオーさんには勝てません。違いますか?」
真っすぐにトレーナーを見つめてドトウは言った。
普段のおどおどした様子は全くない。
「……大分覚悟がキマってるな」
「オペラオーさんは、もっと早くに強い覚悟をしていると思います」
当然ドトウはオペラオーの東条への『宣言』を知らない。
しかし幾度となく戦う事で、彼女の覚悟の強さは読み取っていた。
「…頼もしいなドトウ。もし……」
オペラオーがいなければ。という言葉をトレーナーは飲み込んだ。
それは言うべきではない言葉であるし、もしオペラオーがいなければドトウがここまで伸びたかどうか。
「どうかしましたか?」
「いや、いい。忘れてくれ。少し休んだら後2本、行くぞ」
「はいっ!」
元気のいい返事。トレーナーは願った。
(神様、頼む。1勝でもいいから、あの覇王サマに勝たせてくれ!この娘はG1を勝たずに、終わる娘じゃないんだ!)
ドトウのトレーナーの人生にとって、これほどの仕上がりを見せたウマ娘はこれまでいなかった。
ただ一つの決定的な不運は、テイエムオペラオーという巨大すぎる星が同期にいた事。
その強すぎる光がドトウの光をかき消し、さながら衛星のような存在にしてしまっていた。
トレーナーの願いは果たして届くのだろうか。
「おつかれ、ヘイロー」
ちょうどドトウの休憩が終わった時、キングヘイローは与えられたメニューを終えていた。
汗が冷えぬよう、タオルで拭きながらスポーツドリンクを喉に流し込む。
「…ぷはっ……ずいぶん軽めのメニューだったわね。有馬までもう3週間ほどなのに」
そう、キングヘイローは今年の有馬記念に選出されていた。
去年は選ばれなかっただけに、悲願のG1初勝利を飾った効果もあったのだろう。
「いまさら鍛えに鍛えて、いくらタイムが伸びるっていうんだい。次がラストランの、トゥインクル4年目のベテランさん。それに決して優しいメニューではないさ」
トレーナーは淡々とそう答えた。
キングヘイローは有馬記念を最後に、トゥインクル引退を決意していた。
「あら、リョテイ先輩なんて、こないだタイムが4秒伸びたって騒いでたわよ?」
有馬で戦う1つ上のとにかく頑丈な先輩の名を出す。
「彼女は別。というかリョテイだって、見たところそんなにハードトレーニングはしてないよ」
トゥインクルのキャリア末期ともなれば、練習では力を伸ばすというよりも調子や体調を整える意味が多くなる。
“劣化と衰え”はスポーツ選手の常とはいえ、競走ウマ娘の全盛期の短さはこの世界の謎の一つだった。
『トレーナーがウマ娘の才能を開花させるのは難しい。だが、その咲いた花を維持するのはもっと難しい』という格言まである。
(しかし……)
しかし果たして、キングヘイローと言う花は咲いたのか。
人目もはばからず、嬉し涙を流し泣きじゃくった高松宮記念。あそこでG1初勝利を果たしたとはいえ、最近彼女のトレーナーはそう自問自答する事があった。
もっと出来たのではないか。という後悔が浮かんでは消えていた。
急に黙り込んだトレーナーに、キングヘイローは怪訝な表情を浮かべた。
「……まさか諦めてはいないでしょうね?」
試すような口調で相棒に尋ねる。
「諦められるなら、一昨年あたりにとっくにやってるよ」
トレーナーは当然の事のように言う。
「勝ちにいくに決まっているだろ。いくら可能性が低かろうと、それが一流のウマ娘キングヘイローとそのトレーナーなんだから」
2人の出会いの日。あるいは地獄巡りの始まりの日。
距離もバ場も構わずに、ひたすら勝利だけを求めて走り続け戦い続けた日々と、ようやく見つけた自分たちの道。
その終着点である有馬記念。『折角のラストラン。無事に完走して選んでくれたファンに報いればいい』などという腑抜けた意識は、この2人にはまるでない。
「可能性………ねぇ、正直に言ってみて。今の私がオペラオーさんに勝てる可能性はどれくらい?」
曇りのない眼で、キングヘイローはトレーナーに問いかける。
トレーナーは急にそんな事を聞かれ、少々戸惑いつつも答えてみせる。
「不利は否めないよね、正直に言わせてもらえば。こっちがほぼベストのレースをして、尚且つオペラオーがミスをしたらイケるだろう。数字にしたら、消費税くらいかな」
全く装飾のない言葉をトレーナーは教え子に告げる。
もはや気遣いも遠慮も無用の関係だ。
「十回に一回勝てれば良いって事?ふっ、本当に正直に言うのねあなたは。でも……」
「でも?」
キングヘイローが不敵に微笑む。
「これまでの私たちの戦いに、不利じゃないものがいくつあったかしら?」
そう、群雄割拠の“最強世代”。有利な戦いなど殆どなかった。よくて五分五分、不利な勝負の方が圧倒的に多かった。
だがしかし、この一見高飛車そうだが実は誰よりも心優しいお嬢様は、泥にまみれ雨水を被りながらも決して首を下げずに戦い続けたのだ。
或いはその優しさという美点が、勝負の世界では足を引っ張ったのかもしれない。
とはいえ彼女は今もスペシャルウィークら、戦友たちが去ったトゥインクルのターフに立っている。
「……そうだね。一流のトレーナーと一流のウマ娘のタッグに、有利か不利かなんて大した問題じゃなかったね」
「そうよ。王を倒すものは王。オペラオーさんの連勝は、このキングが止めてみせるわ」
そして最強世代の一角としての意地を見せて、引退を飾ってみせる。
キングヘイローもまた、有馬記念に賭ける思いは強かった。
「………凄いな」
いささか白味の増した芦毛が、師走の風に舞っている。
そのウマ娘はジャージ姿で、一人ターフの脇に佇んでいた。
視線の先ではウマ娘たちが練習に励んでいる。
「おや、珍しいなオグリキャップ」
誰もが知る名前を言いながら、鹿毛のこれもジャージを着たウマ娘が声をかけた。
「……そっちこそ。久しぶりだな、会長」
この学園で会長と言えば、それは紛れもなく生徒会長シンボリルドルフの事だ。
レジェンド2人の邂逅。後輩たちが気づけばたちまち人だかりならぬ、ウマ娘だかりが出来るだろう。
「新年のWDTに向けて、調整は順調のようだな」
「私の調子が見ただけで、分かるのか?」
「ふふっ、君との付き合いも、いい加減長いからな」
苦笑するシンボリルドルフ。
地方にいたオグリキャップを見初め、中央へとスカウトしてからの仲だった。
だからなのかオグリキャップの実力のせいか、シンボリルドルフは彼女に一目置いていた。
「しかし、トゥインクル現役組、それも有馬に出走する皆の気合と熱気は凄まじいな」
オグリキャップは、視線を後輩たちへと戻しながら言った。
「その気合と熱気の根源はどこだか分かるかい?」
「テイエムオペラオーだろう」
オグリキャップの碧い瞳は、その名を持つ少女を捉えていた。
アンタレスのトレーナーがタイムを計る横で、ターフを疾走している。
「あなたは確か元チームメイトだったな」
「リギルの後輩だった頃の彼女とは別人だ。あの頃は単なる才能のあるウマ娘……開物成務、今は全てを蹂躙する“覇王”だ」
シンボリルドルフも視線をテイエムオペラオーに移した。
「皆が彼女を倒す為に激しい鍛錬を行い、自分を磨いているんだ。かつての君を倒そうとした者たちのようにね」
ピクリと、オグリキャップの眉が上がった。
タマモクロス・イナリワン・スーパークリーク・ヤエノムテキ・バンブ―メモリー……ライバルたちとの激闘。
それが人々を魅了し停滞気味だった、トゥインクルシリーズの人気を沸騰させた。
その中心にいたのは、紛れもなくオグリキャップだった。
「それが世代を代表する者の義務だよ」
「……古い話をしていると歳がバレるぞ。それにあなただって、同世代のウマ娘たちから標的にされていただろう」
史上初の七冠ウマ娘。皇帝の二つ名はその偉業に似合っていた。
「どうだろうな。私は君のようには、愛されていなかったからね」
シンボリルドルフは自嘲気味に笑う。
「とはいえ、既に勝負付けが済んだ相手ばかりなのは否めない。有馬記念、オペラオーの勝ちは揺るがないだろう」
「………どうかな。あなたはともかく、トゥインクルに絶対はないし、特に有馬はなにが起こるか分からないぞ?」
そのセリフはオグリキャップが言っているだけに説得力があった。
日本中を感動させたラストラン。あれも下バ評を完全に覆したものだ。
「……君のような神に溺愛された、スーパースターでもなければ、あのような奇跡は起こせんよ」
オグリキャップが何か言い返そうとした時、ぐぎゅるる~と、会話を遮る様に音が鳴った。
「ふっ、はっはっは!!いや、すまない確かに夕食時だな。芦毛の怪物の食事を邪魔できるものなんて、ホーリックス以外にはいなかったかな」
「……まったく、意地悪な皇帝様だ」
腹を押さえて赤面しているオグリキャップは、身体を翻してその場を去ろうとする。
「ああっ、言い忘れていた。有馬記念の当日は、君と私でゲスト解説らしいから、その時はよろしく頼む」
シンボリルドルフのその一言に、オグリキャップは顔色を変え露骨に嫌なそうな顔をした。
「解説だと?……解説は苦手だから勘弁してくれと、何度も言ってるのに…解説は全部タマに任せればいいんだ!」
ライバルであり親友であるタマモクロス。先日のジャパンカップの解説も好評だったらしい。
しかし口の回る彼女とは対照的に、口下手なオグリキャップは解説を苦手としていた。
「無茶を言うな。いくら彼女でも無理だ」
「ああっ、また解説をしなければならないと思ったら、余計にお腹が減る。すまないが、失礼する」
「……私や後輩たちの分も残しておいてくれよ」
終わるのが早い冬の夕焼けに、シンボリルドルフの声とオグリキャップの腹の音が溶けていった。
迎えたその年の有馬記念当日。冬晴れの中山競バ場にはファンたちが詰めかけていた。
「お前、誰が勝つと思う?」
「そりゃ、テイエムオペラオーだろ。今日勝ってグランドスラム達成だよ。マジで見てみたいよ」
「そうそう。誰も出来なかったシニア中長距離制覇。夢だよな~」
「いやいや、今日こそメイショウドトウが意地を見せるね」
「分かってないな~今日はリョテイが勝つに決まってんだろ」
「でたでた、リョテイ信者」
パドックに詰めかけたファンたちは口々に自分の予想を話していた。
「おい、オペラオーが来るぞ」
誰かが言うと、場は一瞬だけ静かになった。
パドックは人気順なので、いの一番にオペラオーが出てくる。
果たして五冠に臨む姿はどうなのか。いつも通り自信満々の笑顔を振りまいてくれるのか。
皆が注目をする中、彼女はゆっくりと現れジャージを宙へ投げた。
「え?」
観衆たちに戸惑いのざわめきが広がった。
だがそれも無理もなかった。パドックに現れたオペラオーはその片目に眼帯を身に着けていたのだから。
時間は有馬記念前日の夜へと遡る。
その日チームアンタレスのトレーナーは、業務を終え自宅へと戻っていた。
トレセン学園から自転車で10分。独身男性の住むアパートとしては十分なものだった。
「うぅ…さぶ…」
寒さに凍えながら、トレーナーは自宅の鍵を取り出し扉を開けた。
待つ者がいない部屋は暗くて空寒く、電気をつけ暖房を入れる。
荷物を置き、外套を脱ぎ、ベッドの上に腰かけ途中コンビニで買った暖かいコーヒーを飲むとようやく人心地が付いた。
「……ふぅ~」
明日はついに有馬記念。今年最後のシニアG1レースであり、五冠がかかった勝負。
ちくりと胃が痛む。それはすきっ腹にコーヒーを入れたせいだけでもなかった。
初めてチームを構える、若手の彼にとって今年のオペラオーとの激闘の毎日は、確実にストレスとプレッシャーとなり身体にダメージを与えていた。
胃炎を何回か起こし、体重も5キロは落ちた。
先輩トレーナーに相談すると、『今年のお前は常人が3・4年かけてやる事を、1年でやっちまったようなもんだからな』と同情された。
だがそれも明日で終わりだと思うと気が楽だった。
勿論オペラオーの勝利は疑っていない。調整も体調も万全だったし、対戦相手も過去に勝利した事があるウマ娘ばかり。
だからといって、彼もオペラオーも微塵も油断はしていないが、レースがごくごく常識的に推移すればまず勝てる。
場所が初のG1を制した、中山というのも縁起がいいと思っていた。
(この1年、ホンマに大変やったけど、いい経験をさせて貰ったわ。あいつのお陰や)
コーヒーを啜りながら、教え子の自信に満ちた顔を思い出す。
リギルで出会ってからもう2年ほどになる。思えば出会った頃のオペラオーは、今よりも幼く朴訥な印象があった。
それがクラシックからシニアへと進むうちに、覇王へと変貌していったのだからトレーナーも驚きだった。
とはいえ彼の前では、年相応の表情や態度を見せる事も少なくはなかったのだが。
(有馬が終わったら、チームで忘年会でもするかな。スピカみたいに部室で鍋でも……)
などとリラックスしながら考えていた時、不意に電子音が部屋に響いた。
慌ててバッグから携帯を取り出すと、着信元はアンタレス所属のウマ娘からだった。
こんな時間にどうしたと思いながらトレーナーは電話に出る。
「もしもし、どうした?」
「ああっ!トレーナーさん……ごめんなさいっ、ごめんなさい!……全部、全部私が悪いんです!」
電話から流れてきたのは、かなり取り乱した様子の涙声。
「お、おい!一体何があった?」
これはただ事ではないと、トレーナーは彼女を問いただすが泣いて謝るばかり。
埒が明かないと思っていた矢先、電話口の声が変わった。
「ポニーちゃん落ち着いて、後は私に任せて……トレーナーさん、お電話変わりました。お久しぶりです、フジキセキです」
その声と名前にトレーナーは馴染みがあった。
フジキセキはオペラオーのいる栗東寮の寮長であり、かつてリギルでサブトレーナーをしていた彼とは面識もあった。
「オペラオー君が大変なんです」
「な、何があったんや?」
「ちょっと電話では長くなるので、栗東寮まで来ていただけませんか。理事長の許可は貰っています」
トレーナーはウマ娘たちが暮らす寮へは無断では入れない。
つまりその寮へとトレーナーを呼び出すというのは、よっぽどの事態と言う事を意味していた。
「わ、分った。着いたら説明してくれ!」
トレーナーは電話を切ると、先程脱いだ外套をまた着ると走って部屋の外へと飛び出していった。
必死に自転車をこぐトレーナー。寮へは7分ほどで到着した。
入口で待っていたのはジャージ姿のフジキセキと、オペラオー以外のアンタレスのメンバーたち。
その中には本来美浦寮の子もいる。
「向こうまで知られる、大騒ぎになってしまいましてね。ヒシアマに許しを貰ってきています」
トレーナーが自転車から降りるとフジキセキは言った。
「……お、オペラオーは大丈夫か?一体何があったんや?」
アンタレスのメンバーたちは誰も答えない。
皆が沈痛な表情で目を赤く腫らしている。
「私が部屋に案内しながら話しましょう」
フジキセキに促されるまま、トレーナーは栗東寮の中へと入った。
「……ご存じでしょうが、我々ウマ娘という生き物は、人間よりも耳がいい」
自分の耳を指さして、フジキセキは続ける。
「それでその耳で、図らずも拾ってしまったんですよね。イヤな話を」
彼女が語る事の顛末。それはアンタレスのメンバー2人が、風呂上りにジュースを買った後の事だった。
『…最近、チョーシ乗ってるよね。アンタレスの娘たち』
『そーそー、オペラオーさんは凄いけど、あの娘たちは全然大した事ないのに』
『あの人の金魚のフンの癖に、リギルとかスピカのメンバーみたいな顔しちゃってさ』
自分たちの陰口を言っているらしい。
“調子に乗った”つもりはなかったのだけど、そう思われているのはショックだった。
腹が立たない訳ではなかったが、明日オペラオーは大舞台に挑む。
迷惑をかけてはいけないと、グッと堪えてその場から立ち去ろうとした。
だが次に聞こえてきた一言は、そんな理性を吹き飛ばしかねない物だった。
『大体オペラオーさんだってさぁ、アレ勝ってるからいいけど、かなり“イタい”人だよねぇ』
『自分の事、世紀末覇王だとかイタい人じゃないと言えないって』
『それにヤバいくらい、ナルシストだよね。ウマ娘の中では大した顔でもないのに、美しい美しいってバカみたい』
我慢がならなかった。チームの同輩として、彼女の日頃の必死な努力と研鑽を一番身近で見て来た。
その姿勢は後輩たちの、素晴らしい手本となっていた。その尊敬している先輩が、口汚く中傷されている。
2人のうち、血の気の多い方のウマ娘が、半ば激昂して声の聞こえる方へと走った。
『今ッ、誰になんて言った!?』
陰口を言っていたウマ娘たちの顔に焦りの色がはっきりと生じた。
言っていた本人が、激しく怒りながら現れたのだから無理もない。
『ちょ、ちょっと何よ……』
『トボけるんじゃないわよ!もう一回同じ事言ってみなさいよ!』
『ダメっス!先輩が困るっス!』
必死に止めるもう1人のウマ娘。
『なによ!なんか文句でもあるの!?』
陰口を言っていたウマ娘の中で、血の気の多い娘が逆切れ気味にいきり立つ。
今度はその友人が『マズイって!』と止める。
一触即発の状態となった場は、簡単には収まらない。
怒声を聞きつけた何人かのウマ娘も、どうしたどうしたとその場にやって来た。
いきり立った2人は、互いに掴みかかりそれを友人たちが必死に背後から引き離そうとしていた。
『君たち!どうしたんだい!?』
後輩の声を聞きつけ、オペラオーもその場にやって来た。
「あっ、先輩」
喧嘩の原因となった人物の登場に、アンタレスの後輩は反射的にそちらを向いた。
その時だった、陰口を言っていたウマ娘が、タイミング悪くアンタレスの後輩の腕を乱暴に振りほどいた。
力を込めていた腕がすっぽ抜けるように外れ、手に持っていた中身が減っていないペットボトルは宙を舞う。
「あっ……!」
後にオペラオーは、あの時ペットボトルの動きがゆっくりに見えたと語った。
「うっ!」
ぐむっ。形容しがたい音がその場に鈍く響いた。
中身の詰まったペットボトル。すなわち500グラムの固い物体が、ウマ娘の力で飛ばされ顔面に直撃した。
オペラオーは自分の顔を押さえて、その場に膝をついた。
先程までの騒ぎがまるで嘘のようだった。水を打ったような静けさが周囲を包んだ。
「―――という訳なんです。今お医者さんに来てもらって、治療を受けています」
オペラオーの部屋へと向かいながら、フジキセキは手早く経緯を話し終えた。
「………ごめんなさい……私の……私のせいで…!」
ジュースを持っていたウマ娘がトレーナーの背後から、消え入りそうな声で謝罪した。
凄まじい罪悪感に包まれているのだろう。
泣きはらした目は、かなり真っ赤になっている。
「……いや、君のせいやない。オペラオーの顔に当たったのは偶然の事故や」
でもと大粒の涙をこぼしながら尚も謝る少女に、フジキセキがそっと呟く。
「大丈夫。君はチームの先輩の為に怒っただけだ。その後の事はトレーナーさんが言うように、不幸な事故だよ」
「フジキセキ先輩……!」
慈雨のような慰めの言葉を、フジキセキは聖母のような表情で言った。
その優しい一言で後輩のウマ娘は、多少なりとも落ち着きを取り戻した。
やがて一行は、オペラオーとビワハヤヒデの部屋の前へと到着する。
「そういえばビワハヤヒデは?」
「私の部屋で待ってもらっています」
などと言いながらドアを開ける。そこには医者らしき、白衣を着た男性とベッドに腰かけたオペラオーがいた。
「…やぁ、君たち。心配かけてすまないね」
ひょいと医者の脇から出したその顔は、鼻血をこびりつかせて、片目の上を赤紫色に腫らしていた。
「……ッ!」
その顔を見て一同は押し黙った。後輩たちは収まりかけた涙をまた流す。
「動かないで」
「ああっ、すいません」
医者に促され、オペラオーは顔の向きを戻した。
沈黙に包まれたまま、時間だけが過ぎてゆく。
それから30分ほどが経過したとき、医者は『終わりましたよ』と声をかけた。
オペラオーは片目に大きなガーゼが貼られており、鼻血はなんとか止まったようだ。
「先生、オペラオーは大丈夫なんですか?」
トレーナーは縋るような声で言った。
「……幸い視力そのものに、問題はありません。ただし痛みと腫れは数日はひかないでしょう」
一瞬だけトレーナーは安堵したが、すぐに別の絶望が去来した。
すなわち明日になったからといって、回復するような事はないのだ。
つまりあくまでレースを強行するなら、この片目が腫れあがり視界を塞がれたままで、有馬記念に臨まねばらならない。
「先生、レースに問題はありませんか?」
患部を氷嚢で冷やしながらオペラオーは尋ねた。
「……ただ走るだけなら問題ない…と言いたいですが、ウマ娘のレースは走るだけではない。鼻血もまた噴き出す可能性もある。立場上とても推奨は出来ません」
確かにちょっとした接触など、日常茶飯事のトゥインクルだ。それを片目の距離感の掴めない状態で走ればどうなるか。
ウマ娘は人の身で60キロ台のスピードで疾走する。事故も人間の陸上競技のものとは比べ物にならない。
「……分かりました。先生、ありがとうございました」
「ご、ごめんなさい先輩!私のせいで!」
「……いや、君のせいじゃない。避けられなかったボクがドジだっただけさ……それよりも皆、すまないんだけど、トレーナーと2人っきりにしてくれないか」
いつもの調子で後輩たちに語りかけるが、逆に痛々しく彼女たちは泣くばかり。
分かったと答えたのはフジキセキだった。
泣きじゃくる後輩たちを宥めながら、医者と一緒に部屋を後にした。
そして部屋にはオペラオーとトレーナーだけが残された。
「…………本当に残念やけど、棄権しよう」
前人未到の大記録がかかっていようと、担当ウマ娘の体には代えられない。
トレーナーは絶望と諦観が混ざった顔で、重々しくそう口を開いた。
オペラオーは静かな様子で答える。
「……それはコンビ解消宣言と、受け取ってもいいのかな?」
今年の1月東条に誓ったシニア五冠。それがならぬ時はリギルへと戻る約束だ。
「こんな状態のお前をレースに出すわけにはいかん、結果的にお前を手ばなす事になってもな。東条先輩ならそう言うはずや」
「そうだね。でも君は東条トレーナーではない。『リギルのやり方をそのまま押し付ける気はない』んじゃなかったのかい?」
チームアンタレス結成の際の言葉を引用する。
「屁理屈言うなや!」
思わず声を荒げてしまう。
「………棄権はしない。足が折れたのなら仕方ないけれど、ボクは走れるんだ。先生も走れるって言ってたよね?」
きっぱりとオペラオーはそう言い放った。
「その後の話聞いとらんかったんか?走るコースの決まっとる競技ちゃうんやぞ!」
「距離感なら問題ない。キョウエイレア先輩がいた事は、君も知っているだろう」
かつてトゥインクルで『独眼竜』と呼ばれた、隻眼のウマ娘の名前を出す。
「ああ知っとるわ!だけどキョウエイレアはレース前日に、突然片目になった訳やない。お前とは片目での経験値がまるでちゃうわ!」
なんとかオペラオーを納得させようと必死な形相のトレーナー。彼の言うように、片目での走行に慣れる時間すらない。
だがオペラオーも引く気配はまるでない。
「常に万全の体調で、走れるとは限らないのがトゥインクルだろ?」
「限度があるわ!」
トレーナーがまた声を張り上げた。オペラオーは小さくため息をついて答える。
「そりゃボクだって万全な状態で臨みたいし、こんなヒドイ顔をファンに見せたくはないよ」
フッとオペラオーが微笑を浮かべる。
「だけどショーは待ってくれない。ファンがボクの五冠と年間無敗という夢を望み、その幕が上がるのなら、演じ切るしかないのさ。終わりまでね」
初めはオペラオーが東条に向かって、放った無謀な啖呵だった。
だが彼女が言うように、それがいつしかトゥインクルファンたちの夢へと変わっていたのも事実だ。
言葉に込めたオペラオーの気持ち、それは覚悟とも少し違っていた。
ファンの想いに応える事。それはトゥインクルを走る者として当然の義務。呼吸をするのに理由がいるのか?とでも言わんばかりの自然さだった。
それを察したトレーナーの表情から険しさが抜け、懇願するようなものへと変わる。
「……頼む…有馬をお前の最後のレースには、したくないんや…もし事故があったら俺は俺を許せへん……」
自分の顔を手で覆い、トレーナーは悲痛な思いを込めて話す。
涙すら流しそうなその様子に、オペラオーは困った顔をしていたが、すぐに立ち上がってトレーナーの手を取った。
「まったく、君らしいね……大丈夫さ、約束するよ絶対に無事に君の元へ帰ってくる」
そしていつものように、胸を張り手を当てて大仰に構える。
「オペラオー……」
「ボクが君との約束を違えたことがあったかい?」
「……ない……お前はいつも俺の期待に応えてくれた」
「だったら、話は簡単だよ」
ぐっと押し黙るトレーナー。
それ以上オペラオーも何も言わなかった。判断を待つように静かな表情で佇んでいる。
トレーナーは黙ったまま、天井を見上げたり、目を瞑ったりしていたが、やがて意を決したようにオペラオーと目を合わせた。
その紫の瞳に映っている自分は、どこかひどくちっぽけに見えた。
「…………明日、朝一でもう一回病院でしっかり診て貰おう。それでドクターストップが、かからんやったら走れ」
「……分かったよ……ありがとう」
安堵して礼を言うオペラオーにトレーナーは手を振った。
「礼なんか言うな。俺は最低のトレーナーや。東条先輩やスピカの先輩なら力づくでも止めたやろう」
「ふふっ、じゃあボクは最低のウマ娘かな?なんだか不思議な気分だね、デビュー戦を思い出すよ」
かつて何者でもなかったオペラオーと、同じように何者でもなかったトレーナーが挑んだ初めてのレース。
結果は2着だったが、お互いに確かな手ごたえも掴んだ一戦だった。
「そやな。やけど、デビュー戦みたいに2着じゃアカン。出る以上勝つぞ」
「言うまでもない。さっきの約束に“1着”でという条件も足そう」
オペラオーが右手の人差し指をピンと立てた。
「……ええけど、お前約束ばっかやな俺と約束して、東条先輩と約束して」
「そうだね。一方的にだけど、グラス先輩とも世代交代の約束をしているしね」
「なんやそれ、ヤクソクオペラオーやなもう」
「なんだいその寒いギャグは?まるで会長じゃないか」
などと言うと2人して笑った。
果たして五冠達成は成るのか。様々な思いを残してその日の夜は更けていった。