妙にふわふわした足元と、殆ど力の入らない腕。目の前の床に描いてあるのは、大小様々な円と図形、それに文字を組み合わせた陣。
周りには本がぎっしり収まった本棚と、フラスコやペンが雑多に置かれた机。
俺は室内に居るようだ。この部屋には見覚えがある。散々寝て、散々勉強して、散々暮らしてきた自分の家、その一室だ。
―――陣を…錬成陣を起動させないと…。
俺がその感情に支配されるのは、半ば自動的だった。一歩、二歩、と陣の前に進み出る。床を踏み締める為に力を入れなければいけないはずの脚は、何故かまだ宙に浮いた様な虚無感を持ったままだった。
全身に力が入らない。根気だけで両手を持ち上げ、錬成陣の縁に押し付ける。
―――行け。発動だ。
これで青い光が瞬き、錬金術が発動するはずだ。普通ならば、そうなる。
だがしかし、陣には何も変化が無い。光る事も、錬成が開始される事も無く、ただただ痛いほどの静寂が俺の体を包み込むだけだ。
もう一度全力で腕を上げて押し当てても、何も変わらない。錬成陣を見直しても、欠陥は見当たらない。
何度も何度も陣を発動させる事を試み、その度に体が鉛の様に重くなっていく。
―――何でだ。何でだ。何で…。
いくら試みても駄目だった。いつしか全身は血塗れで、滴る汗は赤黒い血の雫に変わっている。
遂に床に倒れ込み、その場に広がった血溜まりのせいで呼吸も満足に行えなくなった俺は、ぼろぼろと大粒の涙を流しながら叫んだ。
「何でだ…!?どうして…どうして何も出来ないんだよ!!何でだ…!?何でなんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!」
不意に充満する白い光。俺は何も出来ず、目を閉じてその中に身を委ねるしか無かった。
口の中が乾き、僅かに喉が痛い。ひりひりした不快な痛みが、俺の脳に認識された最初の情報だった。
「…おい、起きろ!起きろ!」
「え…?」
規則的な振動。少し使い古された感のある座席の座り心地。そして、迷惑そうに俺の肩を揺らす若い男。
―――ああ…。夢か。
セントラル行きの列車に一日遅れで乗車し、その前のゴタゴタで寝不足だった俺は発車してから殆ど間を置かずに眠りこけてしまったらしい。
未だ気怠さが残る体を動かすのも億劫で、目だけを左右に走らせて窓の外を確認する。
木枠で囲まれたガラスを一枚隔てた列車の外は、目を凝らしてもごく至近距離の木々以外に何も見えないほどの深い暗闇だった。
この列車は夕方に発車したので、今が夜中なのは当然と言えば当然だ。
と、そこまで頭が回った所で、俺は夢の中で自分がかなり叫んでいた事を思い出した。急に恥ずかしさが去来して顔が熱くなる。
「あの…俺の寝言とか聞きました…?」
恐る恐る口にした問い掛けに対し、若い男は淀みなく返答を返してくれた。
「いや、聞いてないぞ。何かもごもご言ってはいたが」
「あ…そうですか…。……良かった…」
間もなくして、少し紅潮した顔が元の色に戻ったのを感じる。すると、残存する眠気で靄がかかった様な状態の俺の頭脳がまた一つの疑問を芽生えさせ、提示してきた。
―――俺を起こしたこの男は、誰だ?
シンプルな長袖のシャツと上着、下は作業服の様な黒っぽいズボンを穿いた若い男。これはどう見ても車掌や運転手には見えない。
となると次に思い浮かぶのは「乗客の一人」という可能性だが、窓の外、真っ暗な中でも周りの景色は高速で流れているのが解る。列車は今まさに運行している最中なのだ。
この男が乗客であるのなら、何故俺を今起こす必要があったのか。ただ居眠りしているだけの、一乗客に過ぎないこの俺を。
「…あの、どうして俺を起こしてくれたんですか?まだセントラルには着いてないと思うんですけど…」
「え?…あー、そうか。ずっと寝てたんだもんな」
男は頭を軽く掻きながら俺を起こす為に傾けていた上半身を戻し、足を肩幅に開いて真面目な顔を作った。
一瞬でがらりと変化した男の雰囲気を肌に感じた俺は、その余りの急変ぶりに面食らい、更に混乱し始めた寝起きの頭をどうにかしようと目をきつく瞑る。
僅かな頭痛と爽快感を伴いながら頭が冴えてきた。その覚醒を待っていたかの様に、男がきっぱりとした口調で俺に言い放つ。
「荷物を持って後ろの車両へ移れ。急げよ」
おもむろに背中に手を回し、何かを俺に向ける若い男。
筒状の黒っぽい部分と木目の入った後端部。その物体の名称と用途を、俺は一目見た瞬間に理解する事が出来た。
今度は俺の表情が固くなる番だった。ゆっくりと傍にあったトランクを持ち上げ、男の構えた物体に注意を向けながら歩き出す。
車両の端、連結部分に繋がる扉の前まで連れていかれた所で、意を決して俺は男に問い掛けた。
「何をする気だ?そんなライフルなんか持って…」
「分からないか?他の客は皆すぐに理解して大人しくしてくれてるぜ」
心なしか態度も大きくなっている事を思わせる尊大な声色で答えながら、男が俺の背中に銃口を押し付けてきた。全身に鳥肌が立ち、顔から汗が噴き出す。
「早く行け。後からリーダーが改めて話すが…」
その後に続く言葉を予想するのは容易かった。
「まあ、要するにお前等は人質になったんだよ。この列車は俺達が占拠した」
溜息を吐きながら、大人しく指示されるままに扉を開けて隣の客車に移る。移動した先の車両にも既に乗客の姿は無く、またしても小銃を持った男が立っていた。
「こいつを後ろまで連れてくよ。のんきに寝てやがった」
「分かった。人質共はここから五両後ろの客車だ」
どうやら俺に銃を突き付けた男は、俺に付き添って他の乗客が押し込まれている客車まで来る様だ。
もう俺一人ぐらいしか残っている乗客がいないという理由もあるだろうが、単純にこの列車占拠犯達の人数が相当数存在するのだろう。
素直に従っておいて良かったと、改めて再確認する。ここで不用意に抵抗の意思を示せば、わらわらと湧いてきた男の仲間達から一斉射撃を受けて全身穴だらけになっていた可能性も十分あったからだ。
揺れ続ける汽車が時々大きく振動し、体勢を崩して二、三度よろけながらも客車四両分の距離を歩き切り、最後の連結部分に行き着いた。
「ここか?」
「ああ。お前も他の客と一緒に、ここで大人しくしてるんだな。後でリーダーが改めて説明しに来る」
「……それはさっき聞いたよ」
旅行鞄を扉の枠にぶつけながら体を押し込む。人質である乗客が集められているというさっきの男の言葉通り、俺が入った客車の中には三十人ほどの人間が怯えた顔をして座席に座っていた。
その場に居る皆が、静寂を持って俺を迎え入れる。恐らくだが、俺が入ってくる前もこうして恐怖による静寂が客車の中を支配していたのではないだろうか。
黙ったままの客を見下ろしながら、四人の男が銃を持って立っている。犯人グループ内で客達の見張り役を担っているのだろう。
俺を連れてきた若い男が見張り役の一人と二言三言囁き合った後、俺に荷物を置いて腕を後ろで組むよう指図した。その手にはロープが握られている。
「縛るのか?」
「当たり前だろ。ほら、手を組め」
心の中で舌打ちしながらも、俺は鞄を離して、されるがままに拘束された。そのまま空席に腰を下ろして、足を使い旅行鞄を自分の元に引き寄せる。
入って来た時は気付かなかったが、他の乗客も全員手を後ろで縛られていた。きつく縛り上げられた者もおり、痛そうに顔をしかめながら身を捩っている様子が散見される。
「おい…。わしらは何時までこんな風に縛られてないといけないんじゃ?手が痛んできおったわ」
乗客の中に居た白髪の老人が、疲労の色が見える声で見張りの一人に尋ねた。
―――黙っとけば東部に着くだろうに…。
不用心に犯人達を刺激する様な言動を取った老人に対し、俺の中で僅かな苛立ちが芽生える。
苛立ちを覚えたのは犯人側も同じだったらしい。老人を睨み付け、無言で銃口を向ける事で黙らせるという行動に出た。
その威圧感に押され、すごすごと老人は引き下がる。その後は誰一人として、言葉を発する者は現れなかった。
―――そうだ。黙ってればいい。
この連中が何故列車を乗っ取ったのか、その理由は何となく想像が付く。元々それほど選択肢がある訳でも無いからだ。
俺達をネタにした身代金の要求か、そうでなければ何か別の、政治的な要求を政府に呑ませるのか。
自爆して新聞の一面を飾りたい、という訳では無いだろう。もし本当に自爆する為ならばここまで人数を揃えて、人質まで取る様な手間を掛けるとは思えない。数人だけ人質にして残りは解放し、列車を暴走させて駅に突っ込む方が余程簡単だ。
要するに、人質に取られた俺達こそが「鍵」なのだ。すなわち、抵抗でもしない限りはやすやすと殺される事は無い―――恐らく。
―――にしても、運悪いなあ…。
やっと乗り込んだセントラル行きの列車が、よりによって銃を持った輩に占拠されてしまうとは。
科学者である錬金術師は神など信じない。その例に漏れず、俺自身も霊的な存在や「運命」などと言うものは全く信じていなかった。
だが、しかし。こうも不幸が起こると、存在しないと分かっていても無意識に神を呪ってみたくなるのが人間という生き物だろう。
そして案の定、俺は錬金術師である前にただの人間だった。
見た事も無い神様に、口の中で悪態を吐く。
炭水車の真後ろにあるこの客車に立っていると、機関車のボイラーが燃え盛る音や蒸気の噴出音がはっきりと聞こえてくる。
恐らく私の周りに居る同志達も、同じ音を聞き、同じ思いでいるのだろう。
「リーダー。乗客を全員確認して集め終わりました」
「よし。―――おい、エルマー!客車の爆弾の接続チェックは!?」
「完了してます!」
私の問い掛けに、客車の外から返答の声がした。それを聞き、私は計画が順調に推移している事を確信してほくそ笑む。
手を叩いて客車に詰めている他の同志達の注意を引き、咳払いを一つして話し始めた。
「諸君!!我々の計画は今現在、全くの障害無く進行している!各々がそれぞれの役割をしっかりと遂行すれば、これからの計画も問題無く進むだろう!それはすなわち我々の勝利、同時にこの国の革命の第一歩が達成されるという事だ!正義は我々にあり!―――急ぎ、持ち場に就け!!」
熱の入った私の訓示を聞き、同志達が掛け声と共に走りだす。現状、統制の乱れは全く見られない。
「…相変わらず、大層な大声ですね」
落ち着き払ったその声を聞いた私は、統制の外に位置している人間が一人だけ、この客車に乗っていた事を思い出す。
私の右側、座席にもたれ掛かった体勢で一人の青年が窓の外を眺めていた。
「…私の訓示に対する感想はそれだけなのか?」
ゆっくりと、青年が立ち上がる。
年齢は二十六歳。少しくすんだ茶色のくせ毛と鳶色の瞳が特徴的な、中肉中背の男だ。他の同志達とは違い、その体躯は戦闘の為に鍛え上げられた屈強なものでは無かった。ごく普通の、何処にでもいる様な体型だ。
その手に掴んでいるのは、金属製のリングによって綴じられた十数枚ものカード。青年が動く度にカードが揺れ、乾いた音を立てている。
少し皺の入った白いシャツと、黒っぽいズボン。髪の色と同じ茶色の上着を羽織ったその姿は、およそ犯罪を起こす様な人間には見えないだろう。
だがこの青年は、確かに一年間我々と行動を共にしていた。今までこの青年の力で成功するに至った計画も複数ある。
もっとも、最近では自分自身の重要性に気付いたのか、先ほどの様に自分勝手な態度を取る事も多くなっていたので、そこが悩み所でもあるのだが。
「これから乗客の所へ?」
「ああ。私達の計画をある程度説明する。その程度の誠実さを見せておかねば、乗客の感情が不安定になって危険だからな。同行するか?」
「……そうですね。イレギュラーな乗客に対処するのが僕の仕事ですし、顔を見ておきたい」
言葉の端々に慇懃無礼な感じも匂わせるこの青年は、他の同志達とは役割もその能力も全く違っていた。それ故に、我等にとって必要な人材として今まで登用されていたのだ。
青年は、錬金術師である。
金属のリングで綴じられたカードには「錬成陣」と呼ばれる錬金術発動の為の図形が描かれており、彼はこれに力を循環させる事で様々な物を生み出し、また変成させる事が出来るのだ。
今回のこの計画にこの青年を同行させたのには、過去の苦い経験を我等が持っているからに他ならない。
以前、我等の同志が同様の列車占拠を試み、失敗して投獄された事がある。その原因となったのが、乗客の中に紛れ込んでいた錬金術師の二人組だったのだ。
実力のある錬金術師が起こし得る現象は「常識外れ」と表現するに相応しい物であり、はっきり言って常人にどうにか出来るものでは無い。
―――その為の錬金術師だ。錬金術師の出現も含めた、想定外の事態に対応する為の…。
組織全体の士気や対外的信用の点を鑑みても、二度目の失敗は許されない。
気を引き締め直し、私は青年を含めた数名の同志に付いて来るよう、手を振って合図した。
「行くぞ。我等、『青の団』の革命を始めるのだ。敵の手に捕まった同志を救い出す為に!」
「ええ。行きましょう」
座席に立て掛けてあった自分の銃を取り、私は早足で歩き出す。
しっくりと手に馴染んだその小銃の銃床には、私の名が小さく刻まれている。
「ルドヴィゴ」と言う、誇り高き私の名前。
そして、この名は歴史に名を残す事となるであろう。私はそう信じ、銃のグリップを握り直した。