日独冷戦   作:雪風時雨

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2万文字近くになってしまったので分割。ついでに短編から連載(完結)に変更。


概要

冷戦─Cold Warとは第二次世界大戦後の世界を二分した大日本帝国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ドイツ帝国を盟主とするファシスト・全体主義陣営との対立構造。日独冷戦や東西冷戦とも呼ばれる。

 

 

*起源

 

 

冷戦の始まりは、古くは日露戦争の頃まで遡る事もできるが、超大国の対立という構図では、"パナマ体制"に求める事ができる。1946年2月、主にアメリカ分割を扱った東条英機、アドルフ・ヒトラー、ベニート・ムッソリーニの三巨頭による"パナマ会談"が戦後の国際レジームを決定した。しかし、7月のサンフランシスコ会談、続くニューヨーク会議で主に日独の間で相互不信が深まっていった。

 

1947年、ベルリンの日本大使館に勤務していた大島浩のいわゆる"長文電報*1"は、陸軍中央部を通じて、山本五十六政権(当時)内で回覧され、対独認識の形成に寄与した。後に、日本の冷戦政策の根幹となる"反独・封じ込め政策"につながっていく。

 

戦争によって大きな損害を被っていた戦後欧州において、皮肉にも、ドイツが打倒したはずの共産主義勢力の伸長が危惧されつつあった。特にフランスやイタリアでは共産党が地下で勢力を伸ばしつつあった。戦勝国たるドイツ帝国でも、"メフォ手形"などに代表される無理な経済政策─いわゆる"戦争経済"政策が祟り、経済が事実上崩壊状態にあった。*2*3そのため、洋の東西を問わず(敗戦国であるはずの)アメリカの存在や役割が否が応でも重要になっていった。

 

 

 

1948年、ヒトラーは演説においてアメリカ全土のドイツ支配を日本に対して要求する。正確に言えば、日本に代わって南北アメリカ大陸の治安維持を引き受けることを宣言(要求)したのである。いわゆる"ヒトラー・ドクトリン"である。ここに、全体主義(ドイツ)と自由主義(日本)の2つの生活様式というマニ教的世界観が顕在化したのである。

 

さらに49年6月にドイツはヨーロッパ復興計画(いわゆるシャハト・プラン)*4を発表し、"ライン川の奇跡"と呼ばれる大規模復興が始まった。

 

東欧諸国、特にバルト三国やウクライナ、カフカースなどにおいてはドイツ軍が依然として駐留を続け、共産主義パルチザンとの熾烈な争いを続けていた。このため、各地において"自治政府"が次々と"建国"されたものの、主要ポストはドイツが握っていた。"パナマ会談"および"ニュルンベルク講和条約"に基づき独立回復が約束されたフランスにおいても、ドイツの強い影響が色濃く反映された政権となった。とくに、日本に対して、冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1949年のイランにおける国家社会主義革命である。

 

敗戦国たる連合国の中心であったアメリカ・ロシアは、ドイツ・日本により2分割され占領統治された。占領行政の方式や賠償問題、特にアメリカ国内におけるユダヤ人その他の扱いをめぐり、日独の対立が深まり、1950年、アメリカのドイツ占領地域にはノイエ・ドイッチュラント(ニュー・ドイツ)自治共和国(東アメリカ)、日本占領地域にはアメリカ太平洋連邦(西アメリカ)が成立する。

また、ロシアのドイツ占領地域においても、オストラント、モスクワ、ウクライナ、ドン・ヴォルガ、カフカース連邦(後にグルジア・アゼルバイジャン・アルメニア)、ウラルの各自治政府が"樹立"され、日本占領地域には中央アジア連邦、極東共和国がそれぞれ成立する。

 

 

*植民地問題

 

 

"パナマ会談"の焦点の一つが、植民地問題だった。米英が保有していた世界に跨る広大な植民地、これをどのように分割するか。日独双方にとって第二次大戦を始めた理由の一つがこの"植民地"にあり、これを巡って会談は紛糾した。特に、太平洋における英領や仏領、あるいはアフリカにおける英領などである。日本は東アフリカに領土を要求し、他方ドイツは太平洋における旧ドイツ領、いわゆる南洋諸島の返還を要求した。

 

ムッソリーニが後に語ったとされるように、ドイツにとって太平洋上の領土は"名誉の問題"である一方で、日本にとって南洋諸島とは"安全保障上の死活的問題"であったため、日本側はこの問題に関しては非常に強硬な姿勢を採った。

 

ヒトラー引退後の政権を引き継いだゲーリングはこうした南洋諸島の現状について、日本側と粘り強く交渉を続け、これはゲーリング=東郷協定*5として結実するも、その他の諸問題に関しては合意を見ず、日本とドイツは対立するようになる。

 

 

*ワシントン・モスクワ問題

 

 

アメリカの首都であったワシントンDC、およびソビエト社会主義共和国連邦の首都であったモスクワは、その国土同様、日本、ドイツ、イタリア、ハンガリーの4国による分割統治を受けることとなった。この内モスクワはモスクワ自治政府の成立と同時に各国が共同で"返還"を行ったが、他方ワシントンDCは引き続き4国による分割統治が続いた。この結果、日本占領地区のみが、東アメリカの中で島のように位置することとなった。

 

冷戦対立が深まる中、ドイツは日本地区におけるユダヤ人逃亡幇助への対抗措置として、1949年に西ワシントンへつながる鉄道と道路を封鎖した(ワシントン封鎖)。これに対抗するため、日本は物資の空輸を行って、封鎖をなし崩しにした。そのため封鎖は約1年後に解かれた。

 

 

*冷戦のグローバル化

 

冷戦は地球の反対側でも日独が向き合うため、周辺諸国にも強い影響を与えた。東南アジアでは、戦後すぐにドイツの支援するインドシナ連邦と、日本が支援するベトナム独立同盟などが内戦を繰り広げたが、ベトナム独立同盟などが勝利し1949年にベトナム、カンボジア、ラオスをそれぞれ建国。翌年にはそれぞれ日本との間で友好同盟相互援助条約を結んで日本の同盟国となった。一方、ドイツの支援を打ち切られたインドシナ政府はフランスへと逃れた。また、後にベトナムはインド動乱に出兵することで、ドイツと直接対立して東南アジアも冷戦構造に組み入られた。

 

すでにモンゴルでは、日本の支援の元で蒙古国が建国されていたが、戦後になってドイツ等が承認した。

 

インドでは、"デリー協定"に基づきイスラム教徒多数地域をドイツが、ヒンドゥー教徒多数地域を日本が占領し、インドは分断国家となった。このため、1951年にドイツの支援を受けた西インド(パキスタン)が、東インド(インド)へ突如侵略を開始し、印パ戦争が勃発した。印パ戦争には"義勇軍"の名目で、日本から援助を受けたベトナム軍やドイツからの支援を受けるイラン軍も参戦し、戦闘状態は1955年まで続いた。

 

これら日本勢力の台頭に脅威を感じたドイツは、1951年にイランと独イ相互防衛条約、旧敵国イギリスと独英安全保障条約、東アメリカと大西洋安全保障条約を立て続けに結び、大西洋においてはNATO(北大西洋条約)、中東においては中東条約機構(バグダッド条約機構、METO)を設立し、日本勢力の封じ込めを図った。

 

このように冷戦が進む中、1950年代前半のドイツにおいては、親日勢力を炙り出すことを口実とした活動、いわゆる"黄色狩り"旋風を起こし、多くの無実の政府高官や軍の将官だけでなく、エルヴィン・ロンメルのような"英雄"や、チャールズ・チャップリンのような外国の著名人さえ親日主義者のレッテルを貼られ解雇、もしくは国外追放された。

 

1950年代にドイツの生産力は奇跡的な回復を見せ、総生産は世界の約4割、金と外貨の保有は約5割に上り、名実共に世界の盟主へとなっていた。このようなドイツを中心とするヨーロッパ・アメリカ・アジアの同盟は、収奪によって富の蓄積を続けるドイツ経済によって支えられていた。

 

・このころの主な出来事

インドシナ動乱(1946-1949)

インド内戦(印パ戦争)(1951-1955)

MC-20事件(1952)

 

 

*1
ただし大島当人はあくまで親独気運を高めるために当電報を出した、と後年振り返っている

*2
なお日本においても同時期通貨切り下げが相次ぎ、戦前の1マルク=約50銭(0.5円)から、一時期は1マルク=400円前後程度まで切り下げが行われている

*3
史実1930年の為替レート 100マルク=24.0ドル=4.94ポンド=608フラン=48.6円

*4
ヨーロッパ復興と銘打っているものの、実際にはドイツが征服した諸国からの収奪によるドイツのための復興計画といった趣が強い計画。なおシャハト自身はより自由主義的な軍縮等による経済の建て直しを目指していたとされる

*5
ドイツが南洋諸島に関する一切の権限を放棄する代わりに、日本側は賠償を行う協定。賠償内容は後日取り決めるとされた

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