日独冷戦   作:雪風時雨

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概要そのに

 

*雪解け

 

1954年、初代指導者兼ドイツ国首相アドルフ・ヒトラーが死去し、日独の冷戦状態が緩和する兆しが見え始めた。同年にインド内戦の休戦が合意され、1955年にはNATOに対抗する大東亜条約機構(EATO)が結成、イラン、イラク、トルコなど小アジア・中東や南米諸国では永世中立が宣言されて東西の緩衝地帯となり、またジュネーヴでパナマ会談以来となる日独伊の首脳が会談し、日本とイギリスが国交回復、翌年にはドイツが西アメリカと国交を樹立し、1959年にはゲーリングが東京を訪問するなど、冷戦の"雪どけ"ムードを演出した。

 

この時期、ドイツ側陣営では、ドイツの覇権が揺らぎつつあった。ヒトラーの後継者争いを勝ち抜いたゲーリングは、1956年の党大会で"ヒトラー批判"を行った。この演説の反響は大きく、ドイツの衛星諸国に強い衝撃をもたらし、ヨーロッパ各地で反独暴動が起きた。ハンガリーでは反独暴動に次いで、政権交代が起こり、国民の改革要求に引きずられる形で枢軸同盟からの離脱、中立化を宣言するに至り、ドイツ軍の介入を招いた(ハンガリー動乱)。

 

一方、イタリアはヒトラー批判に反発した。1960年代にはティロル危機や部分的核実験禁止条約でしばしばドイツと対立、イリュリア紛争などの国境紛争を起こすに至った。

 

主な出来事

・スエズ危機(1956年)

・ハンガリー動乱(1956年)

・サテライト打ち上げ成功(1957年)→サテライト・ショック

・ミサイル・ギャップ論争

 

 

*危機の時代

 

互いを常に"仮想敵国"と想定し、仮想敵国と戦争になった場合の勝利を保障しようと、各国共に勢力の拡大を競い合い、軍備拡張が続いた。この象徴的な存在が、核兵器開発と宇宙開発競争である。両陣営は、目には目を、核には核を、との考え方からそれぞれ核兵器を大量に保有するようになる。また、大陸間弾道ミサイルと共通の技術を持つラケーテンやR-2などの高高度を飛行する偵察機、宇宙から敵を監視するための人工衛星の開発に没頭し、国威発揚のために有人宇宙飛行と月探査活動を活発化した。

 

しかし、ドイツと日本の直接衝突は、皮肉にも核の脅威による牽制で発生しなかった。特に、1962年のキプロス危機によって、日独の全面核戦争の危機が現実化したため、翌年から緊張緩和の外交活動が開始されるようになったのである。

 

その一方、第三世界の諸国では、各陣営の支援の元で実際の戦火が上がった。これは、大国の"熱い戦争"を肩代わりする、"代理戦争"と呼ばれた。また、キプロス危機を契機に、"ドイツの裏庭"となっていた地中海に面する中東諸国に対する影響力を得ることを企てた日本の動きに対し、ドイツは中東各国の親独軍事独裁政権への肩入れと、日本勢力の排除を行い、その結果日本勢力の排除に成功した。しかし、その後冷戦終結までの永きにおいて、これらの中東諸国では軍事政権による内戦や汚職、軍事勢力同士によるクーデターが横行し、民衆は貧困にあえぐことになる。

 

*ワシントン危機

 

1949年以降、分断状況が既成事実化しつつあったワシントン問題が暫定的な形とはいえ、"解決"を見たのが、1959年から始まった"ワシントン危機"であった。当時、東アメリカにおける過酷な国家社会主義化政策によって、熟練労働者や知識人層における反発が高まり、その多くが西ワシントンを経由して西アメリカや日本、満州へと逃亡した。国家社会主義建設の中核となるべき階層の流出に危機感を募らせたリンドバーグは、アメリカ問題の解決をゲーリングに訴えるとともに、日本側との交渉が挫折した際には、人口流出を物理的に阻止することを選択肢として提起した。リンドバーグの要求に対し、日本側は拒否の姿勢を貫いたため、1962年に、西ワシントンDCを囲む形で鉄条網が敷設され、後に壁へと発展した(ワシントン危機)。

 

主な出来事

・スエズ危機(1959年)

・R-2撃墜事件(1960年)

・キプロス危機(1962年)

 

 

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