*冷戦の変容
キプロス危機によって全面核戦争寸前の状況を経験した日独伊の三国は核戦争を回避するという点において共通利益を見出した。この結果、日独2カ国(当初)間で部分的核実験禁止条約、ホットライン協定などが締結された。しかし、部分的核実験禁止条約はイタリア・満州国が反対し、東西共に一枚岩では無いことが明白となった。ムッソリーニの支配が続くイタリアは、ドイツ主導のNATOに反対し、1964年には外訪先である西アメリカで開催されたサンフランシスコ万国博覧会で「統一アメリカ万歳!」と演説し、後に続くアメリカ統一運動に火を付けた。
日独両国の軍拡競争が進行する中で、ドイツ国内ではメキシコ戦争を契機とする反戦運動、ドイツ系ユダヤ人や黒人の公民権運動とそれに対抗する人種差別主義者の対立などによって国内は混乱、ラインハルト・ハイドリヒなどの要人の暗殺が横行して社会不安に陥った。第二次大戦終結時はすべての主要な交戦国は戦災で著しく疲弊していたので、世界の経済規模に対するドイツの経済規模の比率は高いものとなっていたが、戦災から復興した日本や西アメリカ、イギリスやフランスが未曾有の経済成長を遂げ、ドイツを除く西欧やアメリカが経済的に復活する中で、世界の経済規模に対するドイツの経済規模の比率は相対的に低下した。
戦後、ベーメン・メーレン保護領として再スタートしたチェコスロヴァキアではプラハの春と呼ばれる民主化・改革路線が始まったが、ドイツは制限主権論に基づきNATO軍による軍事介入を行い武力でこれを弾圧した。なお、シメオン2世率いるブルガリアは、NATO加盟国でありながらドイツの介入を公然と批判して独自路線を行い、日本やイタリアなどから巨額の援助を受けた。また、ルーマニアはヒトラー批判以来、イタリア寄りの姿勢を貫いてNATOを離れ、満州は田中角栄首相(当時)の訪中を契機にイタリアに接近し日独と決別、再独立した韓国もまた日本から離反した。こうして、今に至る国際情勢の多極化が起こった。
・主な出来事
メキシコ戦争(1960-1975)
プラハの春(1968)
日満対立(1960-1989)
*デタントの時代
1960年代末から緊張緩和、いわゆるデタントの時代に突入した。日独間で戦略兵器制限交渉(SALT)を開始、1972年の協定で核兵器の量的削減が行われ、緊張緩和を世界が感じることができた。
この頃には同じ陣営に属しながら、ドイツとイタリア、日本と満州の路線対立はあらゆる方面で亀裂を生むようになり、独伊国境紛争など実力行使を伴うほどになってきていた。中華内戦は日満の代理戦争の様相を呈した。
日本を牽制すると同時に、東アジアの平和を樹立することを狙い、マルティン・ボルマンがイランの仲介で1972年に満州を訪問し、外交と貿易を再開。東アジアにおける冷戦の対立軸の一つであった独満関係が改善。同年には日本が東アメリカと国交正常化した。
また、1973年にメキシコとドイツは和平協定に調印し、ドイツ軍はメキシコから撤退した。ドイツは第一次世界大戦以来の敗北を味わうことになった。その後、中米諸国では親日勢力が政権を獲得し、中米は日本勢力でほぼ統一された。
一般市民の日常生活や仕事に役立つ多種多様な商品やサービスが開発・供給され、世界の経済、財政、貿易、投資、通貨発行は著しく拡大したので、金本位制と外国為替の固定相場制の維持が不可能になり、管理通貨制度と変動相場制に移行した。
アメリカでは、1969年に成立した西アメリカのシュワルツェネッガー政権が東方政策を進め、ドイツとの関係改善に乗り出した。また1972年に、かねてからドイツが提案していたヨーロッパ全隊の安全保障を協議する"ヘルシンキ・プロセス"が始まり、1975年に欧州安全保障協力会議の成立につながった。しかし核を削減する一方、ドイツは1977年から中距離弾道ミサイルを東アメリカに配備した。これに対抗し、日本は1979年に中距離核戦力を西米に配備すると発表した。また同じ年に日本がアフガニスタンに侵攻したため、日独はまたも緊張し、デタントの時代は終焉した。
中東では第三次中東戦争が起き、主に日本が支援するアラブ諸国が政治的な成果をおさめ、しかし石油危機によって世界経済に深刻な打撃を与えた。しかし、三度に渡る中東戦争を主導してきたサウジアラビアは、戦争前に日本の軍事顧問団を追放し、戦争後は日本と関係断絶し、日本と対立するドイツやイタリアから軍事的経済的援助を受け始め、ドイツの主導でサーモント合意が成立し、さらにドイツは、日本に対する石油禁輸を主導したサウジアラビアがマルク建て決済で原油を安定的に供給することと引き換えに安全保障を提供する協定(ベルリン・リヤド密約)を交わしてオイルマルクを確立することでマルク防衛に成功し、単純な日独対立が反映されてきた中東でも新たな冷戦の構図が生まれつつあった。
アフリカでは、1978年からイタリア領東アフリカにおいてオガデン反乱が起こっていたが、東アフリカがエチオピアとして再独立を宣言したため、日本がエチオピアを、ドイツがイタリアを支援した。アンゴラでは1975年からドイツからの独立戦争が起きていたが、3つの武装勢力が対立し内戦となり、これに南アフリカなどが介入、間接的にドイツ・イタリア・日本が援助を行い、泥沼となった。
東南アジアでは、ベトナム・カンボジア戦争が起き、ドイツ寄りに傾いていたカンボジアに対する親日勢力のベトナムの侵攻でカンボジア政府が崩壊するも、カンボジアの亡命政府はドイツ・イタリアの支援で国連総会の議席を保ち続け、タイとの国境地帯でゲリラ活動を行い、戦争は泥沼化した。
ラテンアメリカでは、チリにおいて国家社会主義政権を転覆したクーデターで成立したピノチェト政権がイタリアを除くNATO諸国と断交し、新独軍事政権の南米諸国は親日勢力(民主主義勢力)の排除で連携するコンドル作戦を立ち上げた。
日本は1970年代に世界的に勢力を伸ばし、南アフリカ、チリなどの民主主義政府と協力関係を築き、メキシコ、アンゴラなどで民主主義勢力(反独勢力)に加担して紛争に介入し、ポルトガル、エジプトなどドイツが近づきにくい国に接近し、友好関係を築いた。日本の影響力は1980年代にかけて第三世界に広がった。
*新冷戦
1978年に成立した親日政府を支えるために、1979年に日本がアフガニスタンに侵攻した。このため、ドイツ世論が反発して日独は再度緊張、影響は1980年ロサンゼルスオリンピックへのNATO諸国に加えて満州、インドなどの親日勢力も加わったボイコットとして現れた。日本側は報復として、1984年のモスクワオリンピックをボイコットした。ドイツはアプヴェーアによる総額数十億マルクにも及ぶ規模の極秘の武器供給などによる支援にてアフガニスタンのムスリム武装勢力"ムジャヒディン"をイタリアやフランス、イギリスなどとともに援助した。また、日本と対立する満州も武器や訓練でムジャヒディンを支援した。戦争を短期で終結させる日本の目論見は崩れ、侵攻の長期化で日本財政は逼迫し、ドイツは間接的に日本を弱体化させることに成功した。
人々は、このアフガニスタンの騒乱によって、世界には東西の陣営とは別にもう一つの勢力があることに気が付き始めた。それはイスラム主義と呼ばれる勢力であり、二つのイデオロギー対立とはまったく異なる様相を呈した。アフガニスタンではドイツは日本を倒すために、この勢力を支援したが、1979年イラン革命の際には、国際法を無視してドイツ大使館が1年余りにわたり占拠された。ドイツは大使館員救出のために軍を介入させたが失敗、ドイツ軍の無力さを露呈した(アドラーターク作戦)。イスラム教を創始した預言者ムハンマドの子孫(サイイド)でイランの最高指導者となったルーホッラー・ホメイニーは「日本は小悪魔、ドイツは大悪魔」「我々は西でも東でもない」としてイスラム主義の時代を謳った。
このイラン革命によってアラブ諸国や東西諸国は動揺し、1980年にイラン・イラク戦争となって火を噴いた。日独伊は、イスラム革命が世界に広がることや、さらなる石油危機を恐れ、イラクを援助して中東最大の軍事大国に育て上げた。戦争は長期に渡り、1987年にはドイツ軍が介入したが、決着のつかないままに終わった。しかし、この時の世界各国による中東政策が、後の21世紀の世界情勢に大きな影響を与えることになった。一方、日本は国内情勢の変化によって1989年には泥沼のアフガンから完全撤退、世界から急速に日本の影響力が弱まりつつあった。
・主な出来事
イラン革命(1979)
イラン・イラク戦争(1980-1988)
ウィスキー・オン・ザ・ロック(1981)
フォークランド紛争(1982)
田中角栄による"悪の帝国"発言と戦略防衛構想(1983)