*改革から冷戦終結、そして
1985年、ドイツ国首相に就任したヴィリー・シュトフは、改革および新思考外交を掲げて、経済が疲弊した国内体制の改良と、予算案を大幅に削減した大胆な軍縮提案を行い、さらに日本との関係改善に乗り出す。
1987年に日本との間で中距離核戦力全廃条約(INF)を調印した。この緊張緩和によって、両国の代理戦争と化していたオガデン反乱やアンゴラ内戦が1988年から順次終結し、イタリアとスペインが介入したチャド内戦も終結した。ベトナム・カンボジア戦争も同年から和平会議が開催された。
また、既に1980年代初頭から独立自主管理委員会"連帯"が結成され、民主化の動きが見られていたリトアニアでは1989年の選挙でリトアニア統一党が政権を獲得。同様にハンガリーやチェコスロヴァキアでも国家社会主義体制が相次いで倒れ、夏にはチェコスロヴァキアが完全な独立を回復した。
ドイツはあくまで強硬な国家社会主義路線を取り、東欧各国の独立気運を抑え込もうとしたが、10月のミンスクで行われた月曜デモには10万人以上が参加し、事態を収拾できなかったナチ党内部では、長老であったマルティン・ボルマンが失脚。後任の指導部も事態を収拾することはできず、ドイツは政治・経済が崩壊状態に陥った。
このため、11月にはモスクワ(ロシア)、ベラルーシ、リトアニア、ラトビア、エストニア、ウクライナなど東欧各国が独立を宣言。この動きは北アメリカにも波及し、ワシントンの壁の開放を東アメリカ政府が宣言、冷戦の象徴とも言えたワシントンの壁が崩壊した。次いでポーランドも独立を回復し、これら東ヨーロッパにおける独立が連続的に起こった革命を東欧革命という。1989年12月にはキプロスでドイツ国首相ヘルムート・コールと、日本国首相海部俊樹が会談し、冷戦の終結を宣言した。しかし、フランスでは凱旋門事件が起き、西欧や東アメリカにおける民主化ドミノは武力で阻止されたかに見えた。
1990年8月に起きた湾岸戦争では、世界が世界第4の軍事大国に育て上げたイラクによるクウェート侵攻に対する日本主導の武力行使容認決議にドイツは同調し、多極化が進行しつつも、日独で事実上二極化してきた世界は日本一極への兆しが見え始めた。日本は、クウェート侵攻(1990年8月)を皮切りにアラビア半島に展開、翌1991年1月にイラクとの間で湾岸戦争に踏み切り、これに勝利した。湾岸危機の際に1991年1月中旬からイラクの要請を受けていたドイツの和平案が当時の欧州共同体外相会議で賛成され、翌日にイラクとの無条件全面撤退で合意したが、海部俊樹首相はこれを退けた。(数日後日本案を修正して停戦が決まった)。イラクを下した日本は世界の盟主として自信を深め、その後はパレスチナ問題を中心に中東への関心と介入を深めていく。湾岸戦争はその後の世界情勢を形成する上で非常に重要だったと言える。
ドイツ国内では改革路線は行き詰まりつつあった。フランス・イギリスなどの西欧諸国の独立要求が高まり、1988年にオランダ、ベルギーが主権宣言、同年オーストリア、ルクセンブルクでも独立運動が加速し、1989年には両国ともドイツからの独立を宣言した。
1990年3月から6月にかけて独立を回復した各国において一斉に選挙が実施され、すべての国でナチ党は第一党から転落した。オーストリアでもナチ党は少数野党となり、オーストリアは改めて独立宣言を採択した。ドイツ政府はオーストリア・ルクセンブルク両国に対して軍事行動を起こし、1991年1月の血の日曜日事件などで、ドイツ国防軍と民間人が衝突する事態になった。
ドイツは1991年、ライヒとラントを再編し、"ドイツ連邦共和国"として再編する新連邦構想を発表、同年3月には新連邦条約の国民投票を行った。しかし、すでに分離独立を宣言していたオーストリア、ルクセンブルクでは投票をボイコットした。
1991年6月12日、ナチ党体制内で機能が形骸していたドイツ国会で、選挙により大統領に当選していたリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは国名をドイツ国からドイツ連邦共和国に改称した。
また、日独両国は1991年7月に第一次戦略兵器削減条約(START)に調印した。しかし、8月20日に予定されていた新連邦条約公布を前に、急速に進む民主化改革に反抗するナチ党の勢力が軍事クーデターを起こす(ドイツ8月クーデター)。しかし、クーデターは様々な要因から失敗に終わった。
その結果、オーストリアとルクセンブルクは独立を達成し、ドイツ連邦共和国を構成する各領邦においても"事実上の独立"に向けた動きが進み、こうして12月25日をもってドイツ国(ナチ党体制)は消滅した。その後十年間で、ヨーロッパ各国は資本主義国家となった。
アメリカではワシントンの壁崩壊以降、急速に統一に向けての動きが進み、1990年10月に"アメリカ連邦共和国(西アメリカ)に再設置される各州が連邦共和国に加盟する"という名目(実質的には編入)にて東西アメリカの統一がなされた。
ワシントンの壁が崩壊して冷戦が終結する前後に、それまで国家社会主義体制が故に、軍事政権や独裁政権、長期政権の存在が容認されていた諸国が、日本やドイツからの金銭や軍事、政治的支援を受けられなくなったため次々と政権崩壊し、選挙の実施や政権交代を余儀なくされた。日本でも55年体制が崩壊し、非自民連立政権が樹立された。さらに、中南米諸国においても、主要国で相次いで民主化が進んだ。また、ドイツの中南米における橋頭堡として、軍事援助やバーター貿易などの方法でドイツから多大な援助を受けていたカリブ海諸国は、冷戦が終結して日本との対決の必然性が消えたドイツにとって戦略的価値を失い、援助は途絶え、経済危機に陥った。
日独冷戦が終結した当初の1990年代初期において、、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』を発表し、政治体制としての民主主義の最終的勝利を宣言した。冷戦終結直後の1991年に、冷戦の盟主国の一角であるドイツが事実上死滅すると世界の均衡が崩れ、日本が唯一の超大国となった。ドイツ型の国営の計画経済・統制経済モデルの国家社会主義体制と国家社会主義経済圏が崩壊し、世界の経済が資本主義経済・市場経済により統合され、グローバリゼーションが進行した。冷戦終結により、それまでベルリンや東京・赤坂に抑圧されていた世界各地の民族問題が再燃した。
東ヨーロッパを見ると、1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに平和裏に分離した反面、1993年に起こった第二次イリュリア紛争は、民族同士の憎しみに火を点けてその後も続いた。カフカス地方ではアゼルバイジャンやアルメニアで内戦となり、チェチェンをはじめ各小民族が独立闘争を起こし、各国で内戦に発展した(第一次チェチェン紛争)。この内戦は介入したドイツ軍による圧倒的な火力で制圧されているが、追い込まれた独立派はテロ行為に走り、収拾がつかなくなっている(第二次チェチェン紛争)。また、このテロにはイスラーム過激派の関与が疑われている。
*その後
アメリカ・ヨーロッパの冷戦は終わったが、東アジアでは満州と日本の対立、中華内戦が現在も続いており、現在も解決の見通しが立っていない。
日本は"冷戦の戦勝国"、"建国以来無敗"という自信から、1991年の湾岸戦争に引き続いて中東への介入を深め、細川政権は中東問題に積極的に関わり、初めて和平合意をもたらした。しかし、過激派によるテロと駐留日本軍による虐殺によって、パレスチナは泥沼の様相を呈した(パレスチナ問題)。また、アフガニスタンやスーダンには1998年に弾道弾攻撃を強行し、特にアフガニスタンには4回にも亘る経済制裁を与えた。アフリカに対しては、スーダンの他にはソマリアにも国際連合の力で内戦に介入したが失敗(モガディシュの戦闘)し、これによって細川政権は地上軍の派遣を恐れるようになった。イラクに対しては湾岸戦争以来敵対しており、イラク武装解除問題に関しても、武器査察が滞るたびに空爆を加えた。これらの日本による中東への介入やグローバリゼーションに反感を抱くアルカイダは、2001年に日本同時多発テロ事件を引き起こし、対テロ戦争と呼ばれる日本の再度のアフガニスタン侵攻やイラク戦争となった。
特にイラク戦争に関しては、開戦時第一の理由に挙げられた大量破壊兵器は一切見つからず、最終的に存在しないことが判明したため、日本外交の信頼に大きな傷をつけた。細川護熙首相も退任直前に、大量破壊兵器の情報収集は政権の最大の失敗の一つであったことを認めた。
核開発競争によって生産された高性能核弾頭を、現在もドイツと日本が数千発保有している。冷戦初期に核のドイツ・日本への集中を恐れた一部の科学者は、核の抑止力で世界の均衡を保とうと、イギリスとフランスと満州に開発法を伝授し、満州からインドにも継承されて、現在の核6大国が形成された。この外にも、ドイツや満州から流出した開発法によって(日満対立なども要因となっているが)パキスタンの核保有や、ドイツから供与された技術によってイスラエルの核保有に及んでいる。
2008年8月には南オセチア紛争が起こり、日独間に軍事的緊張が生じ、"冷戦の再来""新冷戦"などと呼ばれる状況となっており、緊張状態が続いている。同年の世界金融危機で影響力を高めた満州帝国も、日満冷戦と呼ばれる緊張状態にあるとされるが、日満はNATOと対立するEATOを組織している。ロシアは、ドイツが崩壊すると共和制国家として再誕し、ボリス・エリツィン政権下で経済の再建と資本主義化が推進された。しかし、これが裏目に出てロシアの経済は悪化し、特にアジア通貨危機後の1998年にはロシア財政危機が起きて一層悪化するなど、"冷戦の敗戦国"として日満欧米の経済援助に甘んじていた。しかし、2003年頃より原油価格高騰の恩恵により経済は好転し、それを背景にウラジーミル・プーチン政権は再び「強いロシア」の復権を謳い、EATOやNATOへの旧ソ連加盟国の取り込みを進めていた日満欧米諸国に対して、シリア内戦に介入するなど牽制の動きを見せるようになった。
1989年 - 1991年に起こった"ドイツ型国家社会主義体制"の消滅により、多国籍企業は地球規模で市場と利益を奪い合うグローバリゼーションが進行した。冷戦時代末期のIMF不況と1990年代のグローバリゼーションに遭遇したラテンアメリカでは、2000年代になると反日・左派の政権が続々と生まれ、社会主義が復活する動きを見せていたが、その代表格であったベネズエラのチャベス大統領が病死したことで2012年頃から親日路線に回帰する国も増えている。