『山岸由花子』…
この名前をこの杜王町で聞けば、それはもうぶどうヶ丘高校で誰もが目を引く、とんでもない美人だと有名だ。それは俺も思う。兄である俺でも、贔屓目なしに、由花子本人を見ていてそう思うのだが。問題があった。
その問題とは自分は何故か騒がれないことである。男女問わず騒がれる妹の由花子に対して、自分は男女問わず騒がれないのだ。
何故だ…楽器だって弾けるし(チェロやピアノ、サックス、なんでもだ)趣味だってある…勉強も運動も漫画も別に嫌いじゃあないのに…
おまけに最近妹には彼氏ができた(めでたいが!)。最初の頃は何だか頼り気のないやつに見えたが、見た目に依らずとてつもなく男気のあるやつだった。何よりあの由花子が彼を信頼しているのだから、安心して妹を任せられるだろう。
いつかはこんな時が来るだろうとは思っていたが…由花子には幸せになって欲しいと思う。
黒髪が美しくて、料理も上手くて気が利いて、世話好きな子だからこそ彼女の内面を好いてくれる子でなくてはダメだと思っていた。好きな相手にはちょっとばかし強引な手を使うが、恋をした女の子っていうのはそういうものだろう。
現に連れてきた彼氏のために、弁当を作っている由花子は幸せそうだった。本当に良い相手に出会えたみたいで良かった…
…そして現実にふと戻る。
自分はどうだろう?由花子には恋人ができたと言うのに…学生時代のことを思い返しても、俺はどちらかというと避けられていた。顔は良い方だと思うんだが?どうしてだ?女の子の一人や二人から告白ぐらいされたって良いんじゃあないのか…?
「兄さん、女を優しくするようには見えないのよ」
自分の妹なら、女目線でもその理由を教えてくれるだろうと思った。しかし由花子から発せられた言葉は自分の身がひっくり返りそうなほどのものであった。
女の子には優しくしているとも!なんなら女の子にモテたいから優しくしていない日など全くないのだが。
「いいえ兄さん。女って生き物が全員、歯を浮かすほど優しい言葉や仕草が好きってわけじゃあないのよ」
「え…」
「兄さんの優しさっていうのは、底が見えない暗さを感じるのよね。『なんか裏があるんじゃあないか…』ってやつよ。
あと兄さんは少しナルシストが過ぎるんじゃあない?まあ、他の男よりマシかもしれないけど、男の見た目だけってのも救えないわよ」
由花子は綺麗にウェーブのかかった黒髪をなびかせて「今から康一くんとデートなの」と、俺以外の男が見たら惚れて卒倒してしまうような笑みを見せて外出してしまった。
今日は日曜日、今から正午になる。デート日和でしかないだろう。
結局「なぜ自分がモテないのか」の理由は分からないまま、暇な日曜日の午後をどう過ごすか、一人で考えるのであった。
あまりに暇すぎたので特に目的もなく家を出てみる。日曜日の午後、天気良し、デート日和なせいで杜王町は恋人同士で溢れ返っている。うんざりしてしまう。自分への当て付けなのか?恋人同士で連れ歩くカップルたちはお互いに自分の世界に入りっきりで俺の方など気づいてすらいない。
はぁ、今頃由花子と彼氏もこんな雰囲気なのだろうか。兄として情けないがやや羨ましくなる。
あてもなく歩き回って、近くの喫茶店でコーヒーを頼んだら福引券を渡された。商店街でやっているという。じゃあこれ回して帰るか…由花子は晩御飯いるのかな…などとぼやきながら福引の前に行くと腰の曲がったおばあさんが一人で店番をしていた。おばあさんは俺を見上げると「まあ〜、色男だねぇ」と目を丸くした。当然、色男と言われて悪い気はしない。
「一等は何ですか?」
「“杜王水族館”のペアチケットだよ〜、孫にやるつもりだったんだけど、何だか、恋人と遊園地に行くって言ってねぇ…貰ってくれなかったのさ」
「は、はぁ…」
ここでもか、と言いたくなるほど、“恋人”という言葉に今日一日付き纏われている感じだ。
「そうだねぇ…お兄ちゃんにあげようかなぁ」
「へ?」
「お兄ちゃん、どうせ彼女の一人や二人いるんだろう?だったらこれで連れてってやりな」
「え、いや、あの…」
「良いんだ、良いんだ。色男が誘えばどんな女も行くさ」
おばあさんに強引に水族館ペアチケットを押し付けられると「じゃあ福引は終わりだよ〜」などと言っておばあさんは店をたたみ始めた。
なるほど、さっさと終わらせて帰りたかったのだろう。それに加えて使い道のないチケットの押し付け先が見つかったのだからこれ以上福引をやり続ける必要もない。
色男という言葉に浮かれていたら、痛い目を見てしまった。
どうせまっすぐ家に帰っても由花子はまだまだデート中だろうし、ひとり寂しく晩御飯の準備をすることしかない。しょうがないと思ってペアチケットを握り締めて水族館まで行ってやることにした。一人でも行ってやろうという気持ちだった。
できなかったらチケットを払い戻しにしてその金で高めのアイスクリームでも買おうと決心した。
杜王水族館に着くと、受付で何やら揉めていた。そこで揉めている客が、2メートル近くあるんじゃあないか…ってぐらい巨体の男で、白いコートを羽織っており、さらに目を引いた。
何やら当日券がもう売り切れていて、水族館内に入れないということだった。イルカショーが見たいのだという白コートの男は食い下がっていたが、受付の揺るがない「申し訳ありません」の一言についに折れてしまった。
白コートの男がゆっくりと振り返り、帰ろうとするのを、何故か(本当になんでこんなことをしたのか分からないんだが)男に向かって「あの!」と声をかけてしまっていた。
白コートの男は自分の声に気づいて、「なんだ?」と言う。自分の知り合いに居ないぐらい低音の、しかし耳に心地よいトーンで話す声が自分の頭を揺らす。白コートの男は自分を真っ直ぐに見て振り返ってきたので、思わず自分も男のことを見上げる。
帽子のつばから少し覗いている目は自分を見下ろしているが、その目は宝石のように綺麗な色をしていた。日の光を浴びたエメラルドグリーンのような色が二つそこに並んでいる。
生まれて初めて、妹以外を綺麗だと思った。
呼び止めておいてその先の言葉を言わない俺に嫌がらせか何かかと思ったようで男は宝石の目を曇らせる。それが何か嫌だと思った俺は、ハッとして手に持っていたペアチケットを男に押し付けた。
「ペアチケットなんですけどっ、その、福引屋で貰って、俺は一人なので、良かったらどうぞ!」
焦りのあまり言葉が辿々しくなってしまう。なんというか、生まれて初めて綺麗な人を目の前にして自分が混乱しているのがわかった。
「俺も一人で入場するつもりだった…だが入れないと言われた。…ペアチケットなら結局俺も使えないな…」
「あ、」
「君も一緒に入るか?」
「…はい???」
「元は君のチケットで、俺も君も一人ならこのチケットを使って入場する…それが最善策だと思うが」
俺は最高潮に混乱していた。男が何を言っているのかさっぱり分からない。しかし心地の良い低音で、どうだろう?と首を傾げられて、ますます綺麗だと分かる顔を見せられていいえと答えられるはずがなかった。
男の目的であるイルカショーに直行した後、無事に鑑賞し終えると、男はありがとうとお礼を述べてきた。俺はいえ別に…とやんわり社交辞令で返す。イルカショーの間、心がぼんやりとどこか行ってしまっていた。いつのまにかイルカショーを同行して見て、隣に座る彼の顔をちらちらと見てしまった。一体どうしてしまったのか…
「改めて君にお礼をしたい」
「はい?!」
「俺は空条承太郎という。君の名前は?」
「そ、そこまでされなくてもっ!使い道がなかっただけですし…」
「だからといって君に言葉一つだけでお礼を済ませるには分が合わない。今日は本当に助かった」
空条と名乗った彼は、頭上から低い声で再度自分の名前を聞き返す。その声に耐えきれず、生まれて初めて出したんじゃないかというほど弱々しい声で「山岸由紀雄です…」と答えた。
空条は自分の名前を反芻すると、何かを紙にペンで走り書きをした。そしてそれを俺の手に握らせた。
「俺は杜王グランドホテルにしばらく滞在している。そこのホテルの電話番号と俺の部屋番号だ。君の都合の良い時に電話してくれ」
流れるような字ですらすらと書かれた紙切れを見て、何がなんだか頭が追いつかずにいる間に、空条は「それじゃあな」と立ち去ってしまった。
しばらくその場で放心したままでいたが、近くのゴミ箱に誰かが投げた空き缶が入る音で現実に引き戻された。
今日は、なんだか疲れた。というか何があったんだろうか。福引屋にチケットを押し付けられて、そのチケットで知らない綺麗な男とイルカショーなんかを眺めて、お礼をしたいと言われて…
本当に綺麗な人だったな…と考えだしてどこかぼうっとしてしまう自分を叱責しながら、渡されたメモを大事にして、帰路に着くのだった。
あれから数日経った。
「兄さん、最近ぼんやりしてるわね。締まりのない顔。ようやく好きな人でもできたの?」
綺麗に身支度をして制服に身を包んだ由花子は、自分を見てはぁ…とため息をつく。その仕草一つ一つが絵になる。我ながら本当に綺麗な妹だ。恋をすると綺麗になるのだろう。
それにしてもそんなに抜けた顔をしているのだろうか。思わず自分の頬を触る。
「でも兄さん、心奪われたって感じね。
そんなに魅力的な人だったのかしら」
由花子の何気ない言葉にピンとくる。
“心奪われた”…確かにそうかもしれない。
あの低く、自分の耳に響く声と宝石のように美しい両眼が思い出される。あんなに美しいものを見て逆に奪われない人がいるのだろうか。
ピンポーン!
突如家の呼び鈴が鳴り響いた。
その音に向かって由花子が返事をしながら家の玄関へ近づいていく。
何故か心がバクバクとする。
この間のメモに書かれた電話番号…結局電話できずにいた。何かあの出会いは夢だったんじゃないか…と思わずにいられなくて電話をかけてもあの時の人はいないんじゃないかと思ってしまっていた。
でももしかして、あの出来事と出会いは本当のことで、由花子が向かっていくあのドアの向こうにあの人がいるのかもしれない。何故かそう思えた。
いて欲しい、いないで欲しい。
矛盾した期待が心臓を叩いていく。
由紀雄は初めて、一目惚れをしたのであった。
由紀雄は知らない。
この後、由花子が開けたドアの向こうにその一目惚れの相手がいることなど。