妹をこよなく愛し、誰よりも大事にしている、自分に絶対的な自信のある『山岸由紀雄』は、誰もが振り返るほどの美人な山岸由花子の兄である。当然その兄も見目麗しい見た目をしているのだが、彼には悩みがあった。
どうも兄は妹ほど周りに言い寄られることがないらしい。妹とよく似た緩く波のついた黒髪に、少し上がった眉、対称的に少し目尻の垂れた大きな目は上下長いまつ毛に覆われている。右目の目尻の下には泣き黒子が小さく位置付けている。ここが妹と唯一違うところで、顔の作りだけで言えば、瓜二つの美男子である。
だからこそ兄である由紀雄は由花子同様、周りに少しぐらい騒がられても良いんじゃないかと思うのだった。
そんな由紀雄は“空条承太郎”と名乗る、ある男に出会った。自分よりも見上げるほど逞しいながらも、どこか品のある佇まいと宝石のような目を持って、被った帽子の奥から覗く端正で凛々しい顔を見た時、由紀雄は心を奪われた。いわゆる一目惚れをしたのだ。
妹にそれを言い抜かれてようやく自分が恋をしたのだと知った由紀雄は、“空条承太郎”のことを考えずにはいられなくなっていた。
家に突然押し掛けてきた“あの人”が、ドアを開けた由花子の身体越しに見える。心臓が早鐘を打ち始めて、席を立って今すぐ自分の部屋に逃げたくなるのに、自分の目が彼をじっと見て離せなかった。目を逸らしたいのに、逸らせずにいた。
由花子が何か言葉を交わして、こちらを振り返って見てくる。そして由花子はドアの前から身体を動かして、彼を家へ招き入れようとした。
「邪魔するぜ」と、低くて心地の良い声が遠くからなのにハッキリと自分の耳に聞こえてくる。廊下を渡って白いコートを翻して、ゆっくりとやって来た。もう逃れようがないけれど、彼が徐々に近づいてきて由紀雄はようやく目を離せた。
真近では見てられない。無理だ。自分がどんな顔してるかわからない。顔に熱が集まって、変なこと言いそうだ。心臓がうるさくて、この人に聞こえそうなほどだ。
「承太郎さん、そこ座って」
由花子は彼を椅子へ案内すると、着ていたコートを脱がせて近くにあるコート掛けに片すと、キッチンへ向かいながら「コーヒーで良いですね」と言って湯を沸かしに行った。
テーブルに向かい合って座るとは思わなかった。
いやここに自分が座っている以上、当然向かい合うんだけれど。由紀雄は頭を上げられずにいた。顔をあげたら絶対にまずい。何かが終わる。
早くコーヒーでも水でも良いから持ってきてどうにかしてくれ、と由花子を胸の中で呼んでいると、目の前に座る空条さんが「おい」と声を上げた。
低いのだが、少し迫力のある声に反射的に顔をあげてしまう。「無視するな」と言わんばかりの声色だった。
上げた顔の先には、白いコートを脱いで黒いハイネックのセーターを着た彼が見えた。コートを脱ぐと細身ながらも筋肉がついていて、腕の太さなんて自分とまるで違っていた。
「“なぜ家に”…って顔してるな」
「そ、れは……当然じゃないですか?山岸なんて名字は杜王町探せば他にいるかも知れないのに…」
「君の妹と仲の良い康一くんに聞いた。山岸、と聞いてピンときてな」
内心あのヤロー…と思いながらも、
「ん…?彼と知り合いってことは、学校の先生とか…?」
「俺が先生って柄に見えるのか」
緩やかに息を吐いて笑う姿に、この前より一層綺麗に見えた。なんでこの人は、なんでも絵になるように美しいのだろうか。
仕草の全てが上品で、だからといっていやらしさはなくて、骨ばった長い指が帽子の鍔を撫でているのは男らしさがある。
「…で、俺がここに来た理由は…どうやら君は忘れてしまったみたいだから俺の方からお礼をしに来たんだが…」
「忘れてなんかないわよ。最近の兄さんの趣味は紙の切れ端を眺めて鬱陶しいため息をつくことでしょ」
「な、ゆっ、由花子!」
「本当のことじゃあないの」
コーヒーを注いで戻ってきた由花子は、フンと鼻で返事をしながら空条さんの目の前にコーヒーを置いた。
悪いな、と言ってコーヒーカップを手に持ち、一口だけ飲むと空条さんは遮られた話の途中をし始めた。
「忘れてたわけじゃあねぇみたいだな。
君の都合が合わなかったってだけか」
こちらの顔色を見るように小首を傾げる空条さんに、また胸の辺りがドキリとする。彼の顔が見れなくてなって、また目を逸らしてしまった。空条さんはそれに構うことなく話を続ける。
「この間、俺があの場で手間取っていたのはイルカの生態調査の為だった。…まあ、俺の仕事関係だと思ってくれたら良い。
君があの場で俺を水族館に入れてくれなかったら、俺は仕事ができなかった」
「そ、そうだったんですか…」
「だから君にお礼がしたい」
「あの時俺が持っていたチケットも貰い物だったので…お礼、なんて…」
「君にとって迷惑になるなら、無理にとは言わないが」
空条さんの気持ちは分かったが、でもやっぱりそんな大々的なお礼をされるほどのことをしたとは思っていない。だから、と断るようなことがつい口を出てしまう。
本心はどうしたいか分からないけど、彼を見るだけで呼吸の仕方が分からなくなる。つらくて苦しいのに、この時間が長く続いてほしいと思ってしまう。
しかし空条さんの最後の言葉に、ひゅっと首を絞められたような気がした。
嫌だ、これで終わりになってほしくないって思っている。
「お礼してくれるって言ってるんだから、何か頼めばいいじゃない」
俺のいろんな葛藤を一蹴したのは由花子の言葉だった。「モノでもお金でも、なんでもお礼にしてくれるんじゃないの」と由花子は躊躇なく空条さんの綺麗な顔に向けて言葉を発する。
空条さんは由花子の方を見て「君の兄貴がそれで良いと言ったらそうするさ」と返す。
な、なんでそんなにあっさりとこんな人に物とかお金とか請求できるんだ…!?自分の妹ながら由花子が恐ろしく感じてしまった。
「相手がこう言ってるんだし…この好意を無下にするのも良くないってアタシは思うけど」
由花子の一言も一理ある…!でもいざお礼と言われても…?!空条さんに何もお礼してほしいことなんてない、強いて言うなら、この胸がうるさくなるのをどうにかしてほしい。
「ま…また後日で…いいですか」
もう限界だった。心臓も頭も持たない。
どうにか絞り出した答えはまた先延ばしにする言葉だった。
今度は君からの連絡を待ってる、と空条さんは俺を見て言うと来た時と同じように白いコートを靡かせて帰っていった。
徐々に遠ざかっていく白い背中を見送って、完全に見えなくなった後で、ようやくまともに息ができるようになった。
そんな俺の様子を見てド呆れしたと言いたげに由花子はため息をついた。
「な、なんだよ」
「バレバレよ。兄さん。好きなんでしょ、あの人のこと」
「すっ……好きなわけあるかっ!!」
「借りてきた猫みたいに縮こまって、兄さんってあんな顔もできるのね?」
「違う!俺は別に…」
「分かり易いわね。告白する前の女の子みたいな顔して」
由花子は完全に俺のことを馬鹿にしていた。唇が綺麗に弧を描いて、細くて白い指が俺の頬をつねる。
しかし由花子は唐突に真顔に戻って、俺の両頬を両手で挟むように叩いてきた。
「でもね兄さん、無理のある相手よ」
「何言って…」
「あたしは別に兄さんが誰を好きになろうとも良いって思ってるわ。でも相手は既婚者よ」
「…え?」
「あの人、指に指輪の痕があった。ここに来る時外したのかもしれないけど。既婚者相手に恋をするのって、誰も幸せになれやしないわ」
由花子は鋭い言葉で俺の言葉や考えを塞ぐように捲し立ててきた。しかしその言葉の裏には、目には、「誰も幸せになれない」という由花子なりの優しさがあった。
「兄さんのあの人への想いは、自分や誰かを犠牲にしても良いって思うほど強いわけじゃあないでしょ?それだけの愛の強さがあるなら、良いけど」
由花子のその一言でハッとする。
宇宙にいるみたいにふわふわしていた気持ちが急降下して現実に戻された気分だ。
「…そうだな。
お礼、たんまりと貰ってくるよ。何か欲しいものある?」
何か自分の中で吹っ切れた俺は、由花子に冗談めいたことを言って、胸の内にいる空条さんのことを忘れようとした。
忘れようとした…のに関わらず、後日買い物の帰りに寄った喫茶店で、空条さんに声をかけられてしまった。
店中に響くような大声を出しかけたけれどぐっと飲み込む。
空条さんは何も言わない。それが余計に話を切り出しにくかった。
「君にまた逃げられたな」
しばらくの無言を切ったのは空条さんだった。
顔に手を添えて値踏みをするかのようにこちらを見る。手が視界に入った時、由花子の言っていた指輪を思い出した。が、今は着けていなかったし、痕も見つからなかった。だからといってどうというわけではないのだが。
「君からの連絡を待ってるといつになるか分からない…だからいま、今日だ。俺もいい加減君にしつこいと思われそうだからな」
空条さんは胸元から煙草の箱を取り出して一本口に咥えると、それに火をつけて吸い始めた。
由花子に言われた通り、せっかくの好意を何度も無下にするのは、人としても失礼だろう。
でもお礼をせびる気はなかった。
だから気持ちを切り替えて、空条さんに言おう。
お礼なんていらないです、もう関わらなくて良い、って。
「あの…っ、…「あー!承太郎さんじゃあねえっスか!」……え?」
俺の決死の覚悟を遮ったのは、どこからか聞こえてきた若い声だった。
辺りを見回すと、髪型が特徴的な学ランを着た青年が空条さんに向かって手を振っている。隣にももう一人猫背の学ラン少年と、二人に並んで小柄な少年、由花子の彼氏である広瀬康一がいた。
「仗助か」
少年たちはあっという間に自分たちのそばに寄って来ると、矢継ぎ早に空条さんへここで何をしているのか、いま暇なのか、奢ってくれなどと話しかけていた。
空条さんはそれらを無視したが、康一が「あれ?お兄さんと?」と驚いているのには、頷いて答えていた。
すると隣にいたリーゼントヘアーの少年がこちらを丸々とした目で見てくる。
いわゆる不良と呼ばれる連中なのだと一眼でわかる。下品でガサツでうるさい。俺は不良が大嫌いだった。なぜ不良と空条さんが親しげにしているのかわからなかったが、リーゼントの不良は自分をじっくりと見ると、「ほ〜ん」と間抜けな声を出す。
「康一、これがあの由花子の兄貴かよ?」
でかい頭をぶらんと揺らして、自分をジロジロと品もなく見てくる。
「ふ〜ん。なんつーか…目元とか、プッツンの由花子に超そっくりっスね〜。ま、よろしくっス。
東方仗助って言います。ども」
「俺ぁ、由花子と同じクラスの虹村億泰っス。由花子に兄貴がいたなんて意外だぜ〜…」
「康一が言ってただろーがよ」
「そうだっけぇ?」
嫌いな不良が顔を寄せてそれぞれ挨拶をしてくる。鳥肌が一気に立った。
仗助と億泰は俺の方へ興味は失せたのか、次はなぜ空条さんが俺と一緒にいたのか、について聞き出そうとした。
空条さんは灰皿に煙草を押し付けると、行くぞと俺を見て言う。
伝票を持って席を立ち上がる空条さんに、仗助達は「あー!」と残念そうな声を上げる。
行くぞ、と周りを無視して自分に言われた状況に、また胸がうるさく騒ぎ出す。
空条さんの背中を追いかけようとすると、「あ、由花子の兄さん」と仗助に呼び止められた。
「アンタの名前、聞けてねぇんスけど…」
誰が不良に言うか!と思って「そいつに聞け!」と康一を指して店を出た。
「はぁ〜?なんスかそれ〜」
「で、由花子の兄貴ってなんつー名前なんだよ」
「えぇと…山岸由紀雄さんって言ってたよ」
「『ユキオ』〜?兄妹そろってお上品な名前してるのね〜」
「あの兄貴もプッツン来るのかね。どうなんだよ康一ぃ」
「仗助くん…ほどではない、かな…多分…」
[newpage]
行くぞと言われたから空条さんの背中を追いかけたが、結局さっきも言い切れなかったし、このままどこに行くのだろうか。
白いコートから微かに匂うタバコの匂いを頼りに着いて行ってる状態だった。
「遮って悪かった。何か言いかけていただろう。
教えて欲しい」
突然歩くのをやめて後ろを振り返ってきた空条さんは夕日を背にしていて、表情はよく読めない。交差点が近くにあって、帰宅ラッシュに巻き込まれて疲れ切ったサラリーマンや部活帰りの学生が自分達の間を流れていく。
さっきまで言いかけていたことをやっと言える。
どこかホッとしているのに、今までのことを思い返すと胸が詰まってしまう。
だって本当に、自分にとって使い道のなかったペアチケットを渡しただけでわざわざ家にまで来るほどの義理堅い人なんだ。外見も綺麗なら中身も綺麗なのか。それに、自分にとって一目惚れの相手に「もう関わらなくて良い」なんて軽々しく言えなかった。
もう一生会えないかもしれない。
そう思うと、息が震えて何も言えなくなった。
由花子に想っていても幸せになれないと言われたのに。
…そもそもここまで考えるのも重い気がする。
昔から熱中すると他が見えなくなってしまう、ああ、だから諦めきれない。
「く、空条さん」
「なんだ」
「…その…お礼、は…」
「?」
「ぉ…俺と、…知り合いに…なってもらえませんか…」
遠くから二人を見ている少年たちが3人いた。
東方仗助と虹村億泰と広瀬康一である。
あの二人に何の接点があるのか問いただしても二人から教えてもらえなかった結果、二人を尾行することにした。
少年たちは二人の会話の内容も聞こえる場所でじっと観察していた。
康一は由花子の兄が猫でも被ってるのかと言いたくなるほどの態度に目を丸くした。
仗助はさっきの態度とまるで違うじゃあねぇか!と吹き出しそうになっていた。
少年たちが気になるのは、由紀雄の前に立って言葉を真に受けた承太郎が何を言うのか、である。
固唾を飲んで見守っていると…
「ぅ、あ、…うぇっくしょいっっ!!」
億泰の盛大なくしゃみが発せられた。
あまりに派手なくしゃみのせいで、仗助と康一も驚いて大声を上げた。
その声に気づいて承太郎達二人も仗助達の方を見て、その存在に気が付いたようで、承太郎の顔が全てを察したように呆れた表情をしていた。
由紀雄は全てを聞かれたのだと分かって顔を真っ赤にする。承太郎はそれを見て、向こうで騒いでいる少年たちのことは放っておくことにした。
彼がそんなに時間を溜めて何かを言うのに苦労するのは、彼の中にある自分への気持ちがそうさせているのだと薄ら察していた。
承太郎は物心ついた時から周りからそういった好意を寄せられてきた。鈍感になれないように鍛え上げられてきたようなものだ。
だが承太郎にとって彼からのその好意は不快ではなかった。知り合いになって欲しい、とようやく絞り出された言葉を耳にした時、「もうすでになってるだろう。普通はそこから先を望むんじゃないのか」と内心思った。
彼の初で謙虚な言葉は承太郎にとって新鮮だった。
だから彼に対する答えは決まっていた。
「知り合いにはもうなってるだろう。
俺は、君とこれからも付き合いたいと思っている」
大きな目をこれほどかとまで開けて、驚いた表情をしている由紀雄は放心していた。承太郎はそんな彼の肩を叩いて、「だから今度は君から連絡してくれ。待っている」とだけ言って、後ろで悪ふざけをする少年たちの方へ向かった。
夕方過ぎに帰ってきた兄の顔を見て由花子は驚いた。また心ここに在らずと言った様相だったからだ。一瞬であの白いコートの男が脳裏に過ぎる。絶対にまた骨を抜かれたに違いない。
「…これからも、って言われた…」
へなへなとその場に座り込んだ兄に聞けば、結局切り出せなくて、挙句の果てに仲良くして欲しいと捨て身の覚悟で言ってみたら、良いと返事が来た、と力のない声で兄は言った。
由花子は頭を抱えた。
兄の性格は自分と少し似ている。何かに熱中すると世界がそれ一色で染まるような気持ちになる。それしか考えられなくなる。今の兄はきっと、自分が康一を好きだと自覚した時の気持ちと同じだろう。
兄は恋を知らないから、と心配になる。
一生治らないような大怪我をするかもしれない。
だって、この間やってきた時、彼は由花子のことなど一切見ていなかった。
ただ兄のことを見ていた。
女の勘が「この男は危険」と感じたから、兄にやめたほうがいいと助言した。
しかし、そんな由花子の心配は、いまの由紀雄に通じていなかった。