家の電話機の前で右往左往しているのは由紀雄である。言葉にならない声で唸っていた。
そんな由紀雄の手にあるのは、紙の切れ端である。紙には何かの番号が書かれているが、由紀雄だけがその番号が何を示すのか知っている。
知っているからこそ、受話器を持っては下ろしを繰り返して早30分が経っていた。
心臓が口から飛び出そうなほど電話ひとつ送るのに緊張する兄の姿をみて、妹の由花子はまた呆れてしまう。電話しなかったらしないできっと彼の方からやってくる。それは由紀雄にとってもっと耐えられないほど緊張するだろうに。
この前こんな兄が意を決して誘った一言、「知り合いになりたい」という言葉が相手に通じたのだ。むしろこれからも交流したいなどと向こうから言われた兄は地に足つかずな状態であれからずっと過ごしている。
とはいえ、兄は前より変わった。
前は『他人に興味がありません』と表情から見て分かるような人間だった。
上辺だけの言葉や態度で他人を騙そうとするけど、相手が求めている言葉はそれじゃない。だから離れられる。
ただ外見だけが良い人間だと周りから見られる。
本当に彼が自分を見せて、人間らしくいるのは由花子の前だけ。
兄は他人から好かれないことを嘆いていたが、兄も同じで…どっちもどっちだと思う。
そんな人間だったのに、あんな…歳上で既婚者で、何を考えて由紀雄に近づいてきてるのか分からない承太郎という男に兄は心底惚れてしまったらしい。
これを応援するか否か。まだなんとも言えないのだが、せめて兄の暴走だけは抑えてあげたいと由花子は思う。康一が自分を止めてくれた時のように。
未だに電話をかけきれずに電話の前で右往左往する兄を見て、由花子は何度目かのため息が出た。
兄に近づいて、手に持った紙に書かれた番号の通りに文字を押す。隣で「あっ!」「ちょっと!」などと言っているが気にしない。
3回のコール音の後に、『はい、杜王グランドホテルです』と若い女性の声が聞こえてきた。
「部屋番号伝えて、電話繋げてもらうのよ」
「な、なっ」
「あんな状態じゃ日が暮れるわよッ」
兄に受話器を押し付け、いつもと違って頼りげなく丸まった背中に喝を入れて由花子はリビングへと戻っていった。
押し付けられた受話器を恐る恐る耳に当てると、柔らかい女性の声が『もしもし?』と心配そうにこちらを伺っている。
妹が繋げてくれたのだ、俺だけじゃ確かに日が暮れるまで悩み続けて、今日もできなかったと後悔していただろう。
ええいままよ、の気持ちで深呼吸を一つして、受話器を握り締めて言う。
「…さ、324号室の方に、繋いでもらえませんか」
『324号室の方にですね?その前にお名前を伺ってもよろしいでしょうか?』
「山岸…由紀雄です…」
『ヤマギシ…ユキオ…様。…はい、わかりました。お繋ぎいたしますので少々お待ちください』
女性の声がぷつりと途切れ、保留音が代わりに由紀雄の相手をするが、由紀雄は頭が真っ白になっていた。繋がったらなんと切り出せば良いんだろう。天気が良いですね…とか見合い話みたいなことを言ってしまいそうだ。どう切り出そう…空条さん、どこか暇な日はありますか?今度、
『暇な日は来週の月曜日だな』
「ぁひっ」
電話越しから突然聞こえてきた空条さんの声に驚いて受話器を落としてしまった。
もう一度受話器を耳につけると『月曜日、で良いのか?』と聞こえてくる。本当に空条さんに繋がっているとは…いつの間に繋がっていたのだろう?
「あ、の…」
『電話が来たと思ったら「暇はあるか」といきなり聞かれて驚いたが…』
「くっ、口に出てたんですか!?」
『出てたな。…まぁ君が何を言いたいのか分かった。それで「今度」の先は何だ?』
「コンド…?」
『君が最後に言おうとしていただろう。俺の暇な日に何をしてもらいたいんだ?』
何を言おうか内心考えていた言葉が声に出て空条さんに筒抜けだったなんて、どうしてまた俺はこうも…と頭を抱える。
今度、とつい口走って言ってしまったがその先の言葉は特に考えていなかった。空条さんの暇な日にして欲しいことなんてないんです、むしろ俺の方が何か手伝いたいぐらいで…
『手伝う…ならそれも今度君に頼むか』
「えっ?え?」
『また漏れてたぞ』
「…〜っ…」
『何度も言ってるがまずは君への礼を先にしたい。…では月曜日にしよう。昼間の方がこの間みたいに邪魔が入る心配もないしな』
数回喋っただけだけど、空条さんは言葉選びからなんとなく大人の余裕というものがヒシヒシと感じる。空条さん相手に慌てて調子が狂う自分なんかとはまるで違うから、つくづく子供だなと自覚させられる。
『俺の方から君の家へ向かおう』
「…ぇ、い、いや俺の方から」
『また逃げるんじゃあないか?』
「に、逃げっ…ません…多分…」
『多分か。君の言葉を信じたいところだが…悪いな。俺の方から向かわせてもらうぜ』
逃げるんじゃないか、と言われることに少し心が痛い。最初の時点で空条さんと適当にお礼をもらっておけば、わざわざこんな二度、三度手間なことをしなくても済んだのに。
しかし現実は、連絡を取ると言いながら数日置いて、を繰り返していた。彼から信用を無くされるのもしょうがないと思う。
『君の妹が居ない時間の方がいい』
「…え?由花子が何か…」
『なんでもない。月曜日にそっちへ行く。じゃあな』
「あっ、空条さ…」
電話の向こうで空条さんはいなくなってしまったようで、電話の途切れた音が虚しく響いていた。
電話する前はあれだけ緊張していたのに、勢いで話が済んでしまって喋っていた時間があっという間に感じる。緊張は後に消えて、残ったのは少しだけ心惜しいという気持ちだ。
「“もう少し話したかった”って顔に出てるわよ」
頬をつねってきたのはいつの間にか傍へ来ていた由花子だった。由花子は俺の気持ちがわかるのか…と感心する。
「俺…」
「やめて兄さん。兄さんの口から湿っぽい言葉は聞きたくない」
「まだ何も言ってないぞ」
「ウジウジしたこと言いますって顔してるのよ、今の兄さん」
「どんな顔だ…?」
由花子は完全にうんざりしているという顔で「買い物行ってくるから」と言って家を出ようとした。
「え?今日は俺が買い物に行く日じゃ…」
「兄さんは買い物下手だから任せられない」
「今までそんなこと言ってなかっただろ?!」
「アタシが行くからほっといてちょうだい」
「ええ!?」
何を意固地になってるのか、由花子はアタシが行くと言って聞かずに財布を持って家から飛び出してしまう。なんだそれ…と思いながら代わりに部屋の掃除でもすることにした。
[newpage]
月曜日の朝、由花子は妙にソワソワと落ち着きがない兄を見て確信した。今日はあの承太郎と何かある日だと。由花子が用意した朝食を手に付ける様子はなく、鏡の前で唸っている。
つい先日デート前に姿見の前で身だしなみを整えていた由花子を見て、「別におかしくないよ」などと適当なことを言ってきた兄にそのまま同じ言葉を返してやりたい。
しかし約束をつけているとして、自分のように待ち合わせ場所へ向かうのだろうか?だとしたら“承太郎さん病”が起きて前日からキャーキャー騒いでいると思うのだが。
それと比べれば今の兄はだいぶ落ち着いている。身だしなみを見る余裕があるなんて。
由花子は兄の様子を観察し、彼にあれこれ問い質したくなったものの、時計の針が家を出る時刻を指そうとしていた。…その時計が、何故か新品のようになっているような気がするが、朝の登校は康一と共に行くのを約束していてその時間が迫っていた。時計のことなど気にする余裕はなかった。
「行ってくるわね」
「…ん〜、…行ってらっしゃ〜い」
兄は抜けた声で由花子を見送った。
由花子の疑いはほぼ確信である。今日は絶対に承太郎と何かある日だ。
そんな由花子の疑いや心配を全く知らない由紀雄は時計の針を仕切りに見返す。動いてるのは秒針のみだが、由紀雄は時計を見ずにはいられなかった。由花子が登校したことで、いよいよだと心臓が落ち着きを失い始める。
でも昼間って言っていたし、11時ぐらいだろうか。まだ2時間ほどあるな。2時間もあるのか…などと思っていたのだが。
家の呼び鈴が鳴り、由花子が忘れ物でもしたのかななど思いながらもドアを開けると、そこには白いコートに身を包んだ空条さんが壁のように立っていた。
この時間にって約束してたっけ?なんで?デカい、久しぶりに見た、近い…などと頭の中でぐるぐると言葉が巡っていた。
「驚いたな。今日は素直に君が出てくるのか」
「え、あれ…?もう、でしたっけ…」
「学生に邪魔されない時間帯としか言ってねえ」
屁理屈…とも取れそうなことを悪びれず言いのけた空条さんは、待っていると停めてある車を指差して、車へと向かう。
待っているということは、もう行かなきゃいけないということなのか…!?まだ心の準備が何もできてないのに…
テーブルの上の朝食は一つも手をつけていない。由花子が作ってくれたものをそのままにするのは悪かったのでラップだけ掛ける。
もう一度姿見の前で身だしなみ整える。白のシャツに薄い緑のカーディガンと黒のパンツだ。シンプルな格好しかしないからこんな地味な服しかないが、今日はそれで良い。
香水なんかもつけないし、整髪料もつけていない。余計な匂いで気分を悪くしたらまずいし。
あまり待たせても良くないな、と思って急いで家を出る。鍵を閉めて、ドアに背を向けると目の前に空条さんの乗った車が家の前までやって来ていた。
すいません、と謝って小走りで近づき、後部座席のドアを開けようとする。
「助手席に乗れ。後ろは俺の荷物があっていろいろ片付いていない」
「ジョシュセキ…?」
「隣だ」
空条さんは自分の隣だと指を指す。
そんなところに座れません無理ですごちゃついてるならトランクでも大丈夫ですと頭の中が整理つかない。空条さんは運転席から顔を覗かせて「早く乗れ」と催促する。
その声に背を押されて、これはもう助手席に乗るしかないと腹は括ったのだが、両手と両足が一緒に出そうになる。つまりバキバキに緊張していた。
車をぐるりと回って助手席のドアを開ける。深呼吸を一つして、乗るしかないと心を決めて乗り込めば、車の中は空条さんが吸っているらしいタバコの匂いが充満していた。普通なら車に充満したタバコの匂いなんて嫌なのだが、空条さん相手には苦にならない。
スン、と鼻を鳴らした俺に空条さんは気が付いたようだった。
「タバコ…気になるか」
「えっ!?い、いえ。全然…ってわけじゃないですけど、特には…」
「…そうか。子供ができてからは控えていたんだが…離れてるせいで喫煙癖が戻ってしまった」
空条さんの家族の話を聞いた時、どこか胸の奥でピリッとしたものを感じた。由花子に言われた「既婚者に惚れるのは幸せになれない」という言葉を思い出す。初めから分かっていたことだから、胸の奥で何かを思ったところで無駄なのだ。
空条さんは緩やかに車を出発させる。
車の中で無言というわけにも行かずに、家族の話の続きを振った。
「ご家族は…遠方なんですか?」
「アメリカだ。俺だけ日本に来ている。…この間、リーゼントの…高校生を見ただろ。アレに会いに来た」
「あ…あぁ!複雑だって聞きました」
「仗助からか?口が軽いな…」
「まあ…」
「あれから会ったのか?」
「家に押しかけられて…」
「何を聞いた?」
「えっ?…と…不良伝説…です」
「アイツらの?」
「…空条さんの、です…」
「……」
空条さんは顔こそ無表情だったけど呆れた雰囲気を出していた。そこまでベラベラ喋ったのかと帽子の鍔を触って少し下げた。
あれはやっぱり聞かれたくない過去だったのかなどと思うけど、空条さんにもそんな黒歴史じみたものがあるんだなとか思えて、少し面白く感じる。
そうだ時計、何時だろうと自分の膝に目を向けた時自分は財布も何もかも家に置いて来たことに気がついた。
「あぁー!」
「っ、…なんだ、何か飛び出て来たのか?」
「財布を…忘れて、しまいました…」
「あぁ…」
「あの、走って、取りに戻るので!だから…」
「そんなことはしなくていい」
空条さんは俺の肩に大きな手のひらを置く。温かなそれは安心させられるのだが、彼の表情はどこか固い。
「でも、」
「今日ぐらいは気にするな」
彼の気にするなという一言は、俺が財布を置いて来たことに向けられている気がしなかった。空条さん自身が、自分に対して言っているような気がした。
俺が言葉も出さなくなったところで、空条さんは何もなかったかのように車を発進させた。
『今日ぐらいは気にするな』という言葉に、どこか自分も安心していた。それは由花子の忠告を一瞬だけ忘れられそうな気がしていたからだった。
[newpage]
空条さんはどこに向かうつもりなんだろう。そんなことを考えていたら、空条さんから「海は好きか」と問いかけられた。
「えぇ…好きです。海は…昔、由花子とよく遊んでいました」
「そうなのか?」
「祖父母の家が海の見える所にあったんです。他に遊ぶところもないし…俺や由花子と同年代ぐらいの子はいないし、二人で遊ぶしかなくて、行くなら海しかなかったんです」
車が長いトンネルを抜けた後、山の隙間から海が見えた。太陽の光を浴びて海が宝石のように光っている。
「綺麗だ…」
思わず口から溢れるように出た言葉に、運転席にいる空条さんが微かに笑う声が聞こえる。
道を降って道路脇に車を停めた空条さんは、シートベルトを外して座席に背中を預けた。
車内にいてもわかるほど海が小さな宝石をばら撒いたように光っていた。近くに行ってもいいだろうか、と車のドアに手をかけようとした時、空条さんが煙草に火をつけた。
「…ここによく来る。仕事でも個人的な要件でも」
運転席の向こう側にも海が見える。その海と、空条さんの日本人離れした横顔がとても絵になっていた。煙草のフィルターを唇で挟んだまま、彼は器用に話す。
「考えの整理がつく。自分の行動が本当に正しいのか。そしてそれが…自分で納得できるのか」
空条さんは目を瞑り、眠るような仕草を見せた。
彼の言葉は、この一言だけではその全てを理解しきれないほどに重みがあった。
彼がここまで来るのにきっと多くの場面があったのだろう。
その全てを見てみたい、と思う反面、それが許されるのは彼が心を許した相手だけだろうとなぜか漠然と思った。
彼の言葉に対等な重みを持った言葉を言えそうに無かった。どんな言葉も軽く聞こえてしまうような気がして、ただ助手席から海を眺めるしかなった。
狭い鉄の空間の中で、煙草の煙と匂いが、自分達の間を埋めていた。しかし今だけはそれが煙たくて目が滲みてしまう。
「近くまで見に行くか」
空条さんは短くなった煙草を灰皿に押し付けて声をかけてきた。
見てみたいです、と空条さんの方を見ずに言う。
空条さんの本心や全てを自分は見ることはできない。例えば仗助が彼の過去を知っていて、彼の家族が彼の思いを知っているように。
自分が彼らのようになりたいと思うなら、空条さんが持つ関係を壊してしまうかもしれない。そんなことはできない。自分には、空条さんの中で彼らのようになれる余地などないのだろう。
砂を踏む感触も、波打つ音を聞くのも、潮の匂いも全部が久しぶりで思わず頬が緩む。由花子も一緒に来れたら、と思った。こんな状況でも由花子のことを考える余裕が今の自分にはある。
何も気にするなと彼自身が言っていたが、やっぱりどこか思うところがあってここへ来たのだろう。
俺が連れて来られたのは、景色見も兼ねての、知り合い同士のそれだと思う。
空条さんのことは分からないし、分かることもできない。自分はそんな存在じゃないと、本人から聞いたわけでもないのに思い込んでしまう。気持ちが上下に狂わしく動いて頭が痛くなった。
これがもしかして失恋なのかな、何かが始まったわけでもないのに勝手に終わった気になっているのも甚だおかしい話だけど、帰ったら由花子に聞いてみよう。
「おい」
「ぅ、わ」
ぼうとしていたせいで、まさか隣で肩を並べていたとは気が付かなかった。波の音の中で低い声が響いて素っ頓狂な声を出してしまう。
「腹は?」
「減ってる…かも、です」
「食いに行くか」
「ぁ、はい…」
空条さんはコートの裾を翻して海に背を向けて車へ戻っていく。
自分の横から遠くへと離れていく白い背中を見て、最初から近くへと寄ることはできない人なんだと何か感じてしまった。
波のように寄っては引いてゆく。自分にとって空条さんとはそういう人なのだ。高嶺の花、みたいなもので。
それに気がついたら、由花子の言葉と心配そうな表情を思い出してしまった。
この人と出会わない方がマシだったのかも、と思うと目が熱くなる。
瞼が熱を持って、視界が滲んでしまう。
なんで泣きそうになってるんだろう。こんな顔で車に戻ったら気味悪がられる。
カーディガンの裾で急いで拭いて、海へと近づく。由花子にお土産でもと思った、とか適当に嘘でもつこう。
海でシーグラスを見かけて、それを拾って車へと戻った。由花子に見せようと思った。
あとは、ここへやってきたという自分の思い出の一つもある。未練がましくも感じてしまうけど。
遅れて戻ってきた俺に「気に入ったか?」と空条さんが声をかけてきた。はい、と答える。海自体は綺麗だったし、杜王町にこんな場所があるとは知らなかった。でもまた行きたいという気持ちは起こらなかった。
車内は無言だった。車が風を切る音と、後ろの座席に置いてある空条さんの荷物が擦れる音だけがする。
泣いたせいで目が重くなったのか、抑えきれない眠気が襲ってきた。車のかすかな揺れも相まって、自然と瞼が閉じた。
[newpage]
由花子は康一と持ち寄った弁当を二人で食べて昼食の時間を楽しんでいた…が、その時間をある二人の不良に邪魔される。仗助と億泰だ。
由花子は自分の眼輪筋がピクつくのが分かる。しかしそばにいる康一に「ごめんね」と言われると、何故か許せた。
仗助と億泰は康一に用があったのではなく、由花子に話があるようだった。その話題は兄のことである。
数日前に兄とこの不良二人は進展があったらしく、億泰の口から出たのは「今度兄を連れてツーリングに」とのことだった。(なんでも廃品のバイクを二台見つけたらしく、それを仗助が『治した』ことで使えるようになったらしい)
どうやら兄の暇な日とやらを聞きに来たのだが、由花子はそんな彼らを一瞥して言う。「兄さんは無理」と。
そんな由花子の回答に納得がいかない二人はなんでと口を揃えて聞く。
「承太郎さんが先約だから」
その言葉に不良二人は次の言葉が出なかった。
[newpage]
車をしばらく走らせて赤信号に捕まった時、助手席の少年が瞼を閉じて寝についていることに気がついた。ドアの縁へ頭を預け、瞼をきつく閉じている。
信号が青に変わった後で小道に入り、路肩に駐車した。
少年は静かに寝息を立てていて、すぐに起きそうにはなさそうだった。彼のシートベルトを外し、彼の頭を支え、ゆっくりと座席を倒す。
何本目かの煙草を咥えて火をつけて、ゆっくりと吸った。
あの海の存在を誰かに知らせたことはない。
自分の心の拠り所であった。家族からわざと距離を置き、新たな人の繋がりを避ける自分にとってあの海は自分が唯一肩に背負ったいろんなものを一時でも下ろせる場所だった。
彼を連れてきたのは、その自分を見せても良いと思ったからだ。
彼自身も、自分への遠慮であったり妹への責任感であったり抱えるものがあるはずだと思った。
今日は何も気にするなと言ったのは、自分に対してでもあるし、彼に対してでもある。
あの場所へ行けば、彼も自分も、何も気にすることなく時間が緩やかに流れるのを身を任せて過ごせると思ったはずだった。
そんな気持ちで彼をここへ連れてきたのだが、いまいち上手く伝わっていなかったらしい。そしてまた一人で思い込んでいるのだろう。少年は目元を赤くして海から戻ってきた。
承太郎はううむと唸った。
妻子ともしばしばすれ違いが起きるのは、自分の言葉の少なさであったり口下手な部分であると自覚していたが、20年以上もこれで生きてきたので今更どう変えれば良いのかわからなかった。
そもそも自分は誰かのために自分の何かを曲げるということが性に合わなかったのもあり、このままで良い、苦労しねえと突き進んできたら、いざ家庭を持ち、職を持ちとなると問題が起きることは多々あった。
自分の母や祖父、かつての仲間は、きっと自分のことをよくわかっていたのだろう。言葉が足りないぐらいで悩むことはそうなかった。
素直じゃない少年と言葉の少ない自分の間に生まれた誤解はどう解くべきなのだろうか。
歳下かつ同性同士。その難しさに煙草が不味く感じてくる。
安心した寝息を立ててすやすやと寝る少年を起こすわけにもいかず、二本目の煙草に手を伸ばした。
[newpage]
「ん…ぅあ?」
目を開けると、自分の身体の上に何か分厚いものが掛けられていた。眼前に白が広がっていて、体を起こすとばさりと音を立てて落ちる。
それに指で触れた時、空条さんのコートだと気がついた。寝ていた自分に気を使ってかけてくれたらしい。その事実にバクバクと心臓が跳ね上がって寝起きの頭を一瞬で起こしたが、同時に、数時間前の自分の気持ちを思い出して焦る心臓はゆっくりと落ち着いていった。
空条さんは変わらずに運転席に座っていたが、帽子をダッシュボードに放り投げ、ハンドルにもたれかかって、今度は空条さんが眠っていた。
こちらを向いて寝ているので、顔を見るつもりはなくても視界に入ってしまう。掛けてもらっていたコートを元に戻すように彼の体にかけながら、こちらを向く空条さんの顔を見た。
目の下に僅かにクマがあった。普段は帽子を被って影になっているせいで見えなかったが、相当仕事が大変なのだろう。
さっきまで天気の良かった外は、曇天が広がっていて今にも雨が降り出しそうなほど重い雲が頭上をひしめき合っていた。
浮き足立っていたけど、落ち込んでいる自分の気持ちを表したような空模様だと思った。
「天気まで悪いなんてなぁ…」
今日は運が最悪なのかな、と思ってシートにもたれ掛かった。
いつから目を開けていたのか、ハンドルに顔を埋める空条さんと目があった。
「天気まで、悪い…か。他に何が悪いんだ?」
空条さんは身体を起こして、首を捻って骨を鳴らした。長い腕を伸ばして帽子を取ると、それを乱暴に被り、かけていたコートに腕を通した。
「い、いやぁ…」
身だしなみを整えた空条さんはもう一度こちらに向き直っている。言えという圧が強い。
もうハンドルに頬杖をついてこっちをジトリとした目で見ている。言えって空気で言われている。
「あ…そのですね…」
「……」
「…無理って分かってるものを欲しがっちゃって駄目だなって」
空条さんがどんな顔をしているのかなんてわからないし、見るなんてできない。
車の窓ガラスに水滴がポタポタとついている。
雨が降り出したらしい。
長い沈黙が続いて、車に当たる雨音がうるさく響き始めた時、自分の身体のそばに白い袖が見えた。
思わず顔をあげると、空条さんが助手席のシートに手をついてこちらをじっと見ていた。顔がここまで近い距離に来たのは初めてだ。目を背けようにも背けられない。
「君は本当はどうしたいんだ」
「…え、」
「まどろこっしいのはやめだ。正直に聞こう。君は俺をどう思ってる」
「え、ぇっ」
息が止まってしまいそうだ。
きっと車の中の酸素が薄いんだ、こんなに息苦しいなんて。
「…は、…」
空条さんの目から離れたくて、下を向いて口に溜まった息を出す。
「…っ、…ぅ、す……っ」
「…なに?」
「……す、き…です…」
言って、しまった。
顔が熱くて変な気分だ。言った後で胸が後悔ばかりで埋もれる。相手を考えろ!なんで言ってしまったんだ、もう取り返しつかないぞ、いや人として好きだとか言い訳しよう、などと自分を責めるばかりだ。
そんなことよりも、空条さんに気持ち悪がられたかもしれない。
その一言に後悔の念や心配など吹き飛んで、一気に顔から熱が引いていく。焦りで下がりっぱなしだった顔を上げて、空条さんの方へ向く。
いつの間にか離れていた空条さんは顔を向こうに背けていてどんな表情をしているのかわからない。
「ごっ、ごめんなさい、あの、変なこと言って、ほんとに…」
ああもう駄目だ。本当に終わった。
諦める理由ができたなと思った。
雨はひどくなる一方だったが、もう降りて歩いて帰ろうかと思った。
「そうか。やはり君は俺に惚れているんだな」
な…なんて率直な一言だろう。
遠慮のひとつもない言葉に、むしろ気持ちが良いぐらいだ。
まさか返答がそんな言葉だとは思わなくて背筋がピンと張る。
「…で、君はいろいろ遠慮しているわけか。俺の家族のことや…俺自身に」
空条さんの直球すぎる言葉に返事も感情も追いつかない。たった一言好きだと伝えただけで、そこまで本心を読むことができるのか、この人。
空条さんはゆっくりと振り返って、腕を伸ばしたて、大きな手を俺の頭の上に置いた。
「言っただろう。気にするなと。
そうだな…さっき言ったことを訂正しよう」
「ぁ、は…い…?」
「好きなことも、欲しがることも気にするな。
…俺は君に遠慮はしないし、君も遠慮しなくて良い」
撫でるのに慣れていないのか…ぎごちない動きで手を動かし、俺の頭を撫でるようにしてくれた。
空条さんにこんなことを言われるなんて、俺は夢でも見てるんだろうか。
[newpage]
「食欲は?」
「なくなりました…」
「本当にこのまま帰るぞ。良いのか」
「きょ、きょうはもう…勘弁してください…」
「君はいつも逃げるのが上手だな」
突然の豪雨はすぐに止み、分厚い灰色の雲はどこかへ消えて、太陽が戻ってきていた。
長い道路の先に杜王町の街並みが見え始める。
「…あの、でも…」
「…家族のことは、別だ。そして君のことも別だ。悪い大人だと思えばいい」
「こ、これは自分が悪いです。…はい。どう考えても俺のせいだと思います」
「君の気持ちを認めて、俺が気にしないと言ったんだ。…なら俺たちは共犯だな」
「キョウハン…」
空条さんはわずかに口を開けて白い歯を見せる。あからさまに悪い顔をした笑みで反則だ…と感じる。
車は心なしかゆっくり進んでいるように見えた。
でもそれでも良い。この時間が長く続いてくれるなら良い。
さっきまでの自分の感情はとうに遠くの方へ行っていて、単純だな自分…と自分に呆れるのだった。
夕方に帰ってきた由花子は、玄関で兄の靴が直されていない状態なのが気についた。いつもはつま先が扉を向くように治されているはずなのに。
帰ってきてそのまま、のような状態に嫌な予感がする。
リビングに入るとソファに横たわる兄の姿が見えた。テーブルの上には朝食の皿が空になった状態で、そのまま置いてあった。
兄に近づけば、微かな煙草の匂いがした。兄は吸う人間ではない。由花子の予感はまるでテストの採点でマルがついていくように当たっていく。
由花子の脳裏にはあの男しか浮かばない。
「…兄さん」
どんな人を好きになっても構わないけど、あなたが傷つくことだけは見てられない。
由花子は気持ちよく眠る兄の寝顔を撫でて、煙草の匂いを消すように兄の体を抱きしめた。