山岸由花子は沸々と苛立っていた。その苛立ちを表すように髪がなびいて波打っている。その怒りのもとは、この扉を開けた先にいる意気地なしの兄に対してだ。
ここ最近の兄は塞ぎ込んでいた。
ついこの前浮き足立ってあの人のところから帰ってきた兄は快活としていたのだが、その本人が由花子に聞かせた(勝手に喋り始めた)話の中で「アメリカに帰る」という言葉を指摘したところ、本人は冷静になったのか、その言葉の意味するところに気づいて、日に日に元気をなくしていった。
兄があの寡黙な男から「アメリカに来ないか」とまで言われたことは由花子は知らない。
ドア一枚挟んだ兄の胸中を本人の代わりに代弁するならば、「アメリカに行く=妹を一人にする=心配すぎる、加えて、そんな軽々と行きますと答えられるものじゃない」というものだった。
そんな現実的なことを考える一方で「承太郎さんについていってもいいのか?」という正直な気持ちがせめぎ合っており、兄は由花子の知らないところで精神的に疲弊していた。
終には家から出るのも億劫になって、兄の部屋の前だけ陰鬱とした気が重く漂っていた。由花子はいい加減、兄の鬱陶しい女々しさをぶっ飛ばそうと意気込みもあってドアの前に仁王立ちで立っていた。
「兄さん、起きてる?」
返事はない。このあたしを無視するなんて良い度胸じゃないのと由花子は瞼が痙攣しかけそうになる。
思春期の女子じゃあるまいし、いつまで悩んでるのよ。と、由花子は呆れていた。
兄は今まで見かけだけの恋愛をしてきた。
由花子はこれまで、兄の新たな一面も二面も三面も見ることになった。前まではただの外見だけの人。いつの間にか由花子にも自分を取り繕って外面だけ良いように見せる人、そんな風だった。
それが心の底から好きになった相手に、得意のお澄まし顔が通じなくなった。兄はようやく外面の皮を破ったように思えた。
とはいえいつまでも遅れた思春期を過ごさせるわけにはいかない。
由花子はドアノブに手をかけながら「開けるわよ」と一言断る。ドアをゆっくりと開けると、閉め切られた遮光カーテンで、部屋は昼間だというのに床の物が見えないぐらいには真っ暗だった。
なんとか目を凝らして見ると、ほったらかされた携帯灰皿が吸い殻を少しこぼして、テーブルに置かれたままだった。まだ半分ほど残っている煙草の箱はそのそばで転がっていた。
吸ってみたけど結局ダメでした、みたいなそれに「兄さんに苦い煙草は無理に決まってるのよ」と言いながら近寄る。
ベッドの上で掛け布団に包まって蓑虫のようになっているのが、その兄だ。
「ちょっと、いつからそうやって塞ぎ込んでるのよ」
「…三日前」
「あたし言ったわよね。承太郎さんにみっともなく縋ったらぶっ殺すって」
「…うん」
「いまそのイエローカードよ、分かってる?」
「わかってるよ…でも今、放っておいて欲しいんだよ。どうしようって毎日考えてるから…」
「どうしようって考えてる?何をよ?別れ際の挨拶?」
「違うよ、アメリカに来いとか、…あっ」
「アメリカに来い…?」
「あ、いや…ちが…くはない、んだけど」
「出て来て白状してもらうわ」
蓑虫になっていた兄を、皮を剥ぐようにひっぺがえしたら、兄は甲高い悲鳴をあげて姿を表した。
「いやぁぁ!由花子の乱暴!」
「気色悪い声出してんじゃあないわよ!タマ潰すわよ!」
兄の冗談が通じず、本気で怒って潰そうとした由花子に平伏して謝りながら、何がどうなって「アメリカに来い」という話になったのか丁寧に説明した。
兄の心情も含め、全てを聞き終えた由花子はたった一つだけ兄に聞いた。
「で?兄さんは結局行きたいの?行きたくないの?」
「怒らないで聞いてくれる?」
「いいわよ」
「…どっちの気持ちもあります」
「………」
「怒ってるじゃないか…」
「行けない理由って英語が通じないとかあたし以外にもあるの、兄さんには」
「それは…」
由花子のその質問に、思い浮かんだのは年下の不良の顔二人だった。ケーキ作り以来街中で会うと彼らも必ず声をかけてくることが増えて、いろいろ話すようにはなった。年が近い分気兼ねなく接せる彼らとも楽しいと思える時間を過ごしていた。
承太郎の誘いに乗るということは、杜王町での生活を捨てるということであり、それは由紀雄自身が大きく悩んでいる部分だった。
「多分、兄さんが思ってることはどれも本心でしょうけど」
「…うん」
「ただ漠然とついて行きたいから、で行くのはやめた方がいいわ。行くなら、そこで自分はどうしたいかって考えてから行くことね。じゃなきゃ行っても承太郎さんのお荷物になるだけよ。みっともなく泣いて鼻水ダラダラ垂らして杜王町に帰ることになるわね」
「ひどい絵面だね…由花子の中の俺は…」
「そうよ。その図があたしには見えてるわ。あたし、そんな兄さんは帰って来ても家に入れませんからね。だって、あれだけ愛しの妹なんて言ってたあたしを見捨てて、好きな男のところに行った兄なんて、これっぽっちも可哀想だと思わないもの」
「そんな…」
兄の情けない悲壮の声をそれ以上聞かずに部屋から出て行ってドアを強く閉めた。再び部屋で一人になった由紀雄はどうしよう、とまたしばらく悩み出し始めるのだった。
「ぅ、えぇ!?由花子の兄貴がァ!?」
「アメリカぁ!?」
「食べカス飛ばしたらここから落とすわよ」
億泰は由花子の言葉に咄嗟に口を手で押さえる。仗助は持っていたサンドイッチから具をこぼしそうになって「うぉ、」と持ち直す。
「マジかよ〜…それよォ、兄貴は行くっつってんのか?」
「行かない気持ちが6割ってところね」
「4割は行きてぇのかよ!」
「一番怖えのは、4割の気持ちの方じゃなくて、4割程度なら男気で連れて行きそうな承太郎さんだと思うぜ…」
「あぁ?どういうことだよ」
仗助は親戚だから分かる…という謎直感の前置きを入れて顔を手で覆っていた。
「由花子はどうなんだよ」
「は?」
「兄貴だろ。行って欲しくねーとか思わないのか?」
「…別に」
「おいおい素直になれって由花子よォ、兄妹揃って恥ずかしがり屋かァ?」
「うるさいわね。あたしは別に、兄さんが自分の意思で決めれば良いと思ってるわ。行くと言うなら行けば良いし、行かないならいつまでもウジウジしないように根性叩き直すってだけよ。あたしは行く行かないって女々しく悩んでるところが一番大っ嫌いだわ」
由花子の答えに仗助と億泰はニヤついている。口元を手のひらで隠しているが、二人揃ってニヨニヨと間抜けな顔をしていた。
「なによ」
「お前もお前なりに寂しいと思ってんだな」
「そんなこと一言も言ってないんだけど」
「ひひひ、康一から既に聞いてたのよォ、『由花子さんがお兄さんに強い当たりする時は、だいたいお兄さんにワガママがある時だから…』ってな」
「こ…康一、くんが…!?」
身近な信頼している存在の名前から、まさかそんなことが言われていたなんてと由花子の身に衝撃が走った。康一が言ってた通りだなぁ、と仗助と億泰はニヤけるのを我慢せずに腹を抱えて笑い出した。問題の康一は教師に呼ばれたとかでこの場にはいない。
「じゃあよ、兄貴のやつに精一杯俺たちのわがまま言おうじゃあねぇか。承太郎さんだって無理なこと言ってるって俺は思うけど、あの人はやるって言ったらマジでやる人だからな…」
仗助は億泰と由花子の肩を引き寄せて作戦会議だぜ、と話し込みはじめた。
仗助があれやこれやと説明をする間、由花子は自分の本心について考えていた。
兄に強い当たりをするときは、兄へワガママがある時。そんなことを康一が見抜いていたとは。自分ですら気付かなかった一面だった。
(…兄さんがいなかったら、って考えたことすらなかったわね)
小さい頃からそばにいることが当たり前だった。そんな兄が家を出て知らない土地へ行く。寂しいと言われればそうなのかもしれない、と思った。
由花子と億泰とある作戦を企てた後のこと、仗助はある場所へと一直線に向かっていた。
物申す!と言わんばかりの面持ちでやってきた仗助に、あの事を聞きにきたのかと予想をつけていると、想像通りに仗助は言った。
アメリカに連れて行くのは本気かと聞かれたので本人の気持ち次第だと答える。
「いやいやいや、トランクとかに詰めて連れてく気じゃ…」
「お前、俺のことどんな奴だと思ってんだ」
「じゃ、じゃあっスよ?例えば、ね?」
「なんだ」
「アイツが行かないって答えたら?」
「そういう答えかと思って、潔く諦めるぜ」
「えっ?ほ、ほんとスか?意外とすんなり…」
「俺の納得のいく理由ならな」
「あ……っスよね〜……」
当たり前だろう。誰かに押されて言わされた、「行かない」はいくら本人の口から出た言葉でも信じない。
そんなこちらの心情を知った仗助は、少しだけ悩んだ後、何か閃いたように顔を明るくさせる。
「承太郎さんを納得させれば良いんスよね?」
「…まぁな」
仗助は回れ右をしてドアの方へ向かっていく。
「あんま独り占めしないでくださいよ」
祖父によく似た不敵な笑みでそう言うと、仗助は足取り軽く部屋から出て行った。
寝込み生活も6日目を過ぎた頃。
このままでは部屋にキノコが生えるかもしれない危機感に襲われて、とりあえず部屋の中を換気して掃除をし始めた。
始めて一時間程度で部屋はあらかた片付いたのだが、テーブルの上の煙草だけは触らずにいた。
触ると考え出すし、吸えば煙たさに気持ち悪くなりながら、会いたいと思ってしまう。
由花子にウジウジ、女々しいなどと散々言われているがそんなことはとっくに自覚していた。
気分を変えるために部屋から出てリビングに降りる。誰もいないリビングでソファに倒れるように座り込んで、そのまましばらくじっとしていた。
「んーーー………」
行かなかった自分、行った自分を交互に想像する。前者は、行かないことを伝えたら承太郎が「そうか」と一言だけ言って、一度も自分を振り返らずにアメリカに発ってしまうもの。
想像するだけでつらくなる。
後者の自分は、慣れない外国で右往左往していたら、隣にいたはずの承太郎と逸れてしまっていた。見知らぬ地でひとりぼっちになった自分は、路頭に迷って凍え死ぬ。
承太郎に頼り切りというわけにはいかない、ついていけばかえって迷惑をかけてしまうかもしれない。連れて来るんじゃなかった、みたいなことを言われて見切られるかもしれない。
「つらい…どう転んでもきつい…」
結局煙草にも慣れずにいた。
せめて彼の吸う煙草の味が分かるようになれば、少しはこの気持ちが埋まりそうなのに。それすらできない俺は、と、そこまで考えて窓から見える景色に見知った学生服の二人が見えた。
仗助と億泰だ。スタコラサッサと擬音がつきそうな勢いで愉快に走り去って行く。あの二人がこの辺に用事があるとすれば、大体はうちにあるものなのだが、家の呼び鈴を鳴らした様子はない。
なんだったんだ、と思いながら玄関の扉を開けてみれば、ドアに何か文字が書かれた紙が貼り付けられていた。
『お前の妹を誘拐した
返して欲しければアンジェロ岩にまで来い
お前が来たら妹を返してやる』
どう見ても仗助と億泰が用意したものだろう。何をこんな悪ふざけをしてるんだ。返を帰と書き間違えて大きくバツをつけてある。
せめて書き直せよ、と見当違いなことを思いながらアンジェロ岩にまで向かうことにした。
「…来たけど…」
どこなんだ、と思って辺りを見回す。しかしそれらしい人、どころか通行人の一人もいない。
気味の悪い岩の前で一人で立って待っているのも落ち着かず、周りを散策することにした。
くまなく探していると、廃墟のような家に由花子の履いているローファーが落ちているのが見えた。
ただ妹をダシにして自分を誘き出す適当な冗談だろうと思っていたが、まさか、と思って駆け出した。
『立禁止』と書かれた妙な門を通ってローファーを拾う。やはり由花子本人のものだった。
それを拾い上げた時血の気が引いた。
由花子の身に何かあった、あのメモだけは二人がふざけたもので、それを見た不審者が本当に由花子を拐ったのかもしれない。
暗くて何も見えない部屋の中を、何も考えられずに手当たり次第に探し回った。古びたドアは蹴飛ばして由花子の名前を呼びながら探す。
人の息すら聞こえない家の中で、自分の足音と息荒く名前を呼ぶ声だけが喧しく響き渡った。
2階の部屋に続く階段を見つけて、乱暴に登る。由花子のことも心配だが、それ以上にさらった奴が許せない。そんな怒りが芽生えていた。
2階の一番奥、最後の部屋に着いた。ここに居なかったら、その嫌な予感を払うようにドアを蹴飛ばした。
果たして由花子は、そこにいた。
部屋の真ん中でぐったりと横たわる由花子の姿を見つけた。
「由花子!」
近寄って由花子の身体を抱き上げると、「兄さん…」と弱々しく声を出した。
「由花子、どこも痛くないか?誰に拐われた?どんなやつか覚えてるか?」
「…大丈夫よ。心配しないで」
遅くなって悪かった、痛かっただろと由花子の身体を摩った。由花子は大丈夫と言う。心配していたよりも特に何も異常はなさそうだった。
「兄さん…助けに来てくれたのね」
「当然だろ…」
「どうして来てくれたの?」
「心配したからだよ!あんなメモ見て、お前のローファーまで落ちてた!何かあったんだって、俺は…」
自分の答えに由花子は「ほんと過保護ね」と笑っている。何を笑ってるんだと由花子を怒ろうとする。
「兄さん、またあたしがこんな目にあったら助けてくれる?」
「当たり前だよ」
「いつでも?」
「いつでも!」
「どこでも?」
「どこでも!」
「じゃあアメリカに行ったりしないわよね?」
「もちろん!……ん?アメリカ?」
アメリカ?と聞き返した途端、電気がつけられたのか部屋の中が明るくなった。
部屋に誰か入って来たのか騒がしい足音がしたと思えば、目が慣れて視界がハッキリするとそこに仗助と億泰が『ドッキリ大成功』と書かれたスケッチブックを持って立っていた。思わず力が抜ける。
「……は?」
「よっしゃ、言質は取ったぜ!『もちろん!』って今答えたよな!」
要するに、由花子をダシにしたことは違いなく、助けに来た自分から『アメリカに行かない』という確実な言葉を取るために企てた計画だということを説明された。
それを聞いて馬鹿馬鹿しさに仗助と億泰の頭を殴り、なんて真似をしたんだ、由花子にもし何かあったらどうする気だと二人に怒った。
「いやでも…由花子はおっかねーから…」
「そうそう…由花子拐うような命知らずいねーって…」
小声で何やら不服だとぼやいていたが、ひとまず何事もなかったことに胸を撫で下ろした。
「それにしてもなんでこんなことに手を貸したんだ?くだらないとか思わなかったのか?」
「それは…」
珍しく言い淀む。
そんな由花子を後ろから二人が「言えよ!」と何か言っている。そこ二人は反省しろ、と叱ろうとした。
「…くないから」
「…え?」
「…行って欲しくないのよ!寂しいから!」
由花子は背を向けてそう言った。そんなことを思っていたなんて、と驚いてしまって反応に遅れてしまう。
唯一の家族から「寂しいから行ってほしくない」と言われて何も思わないわけがない。一番そばにいた妹がそう思っていたことを気付かずに、自分のことばかり考えていたのが情けないと思った。
行きたい気持ちが完全になくなったわけじゃない。しかし大事な誰かを一人にしてまで行きたいのかと言われたらそうじゃない。
自分だけじゃない、彼にだって大切な人はいる。彼の帰りを待つ人がいる。そこに自分がいるべきではないと思った。彼には彼の、自分には自分の居場所がある。それにどうしてもっと早く気が付かなかったんだろう。
そのことを考えると、自ずと答えや気持ちは決まっていた。
それはそれとして。
「ほんっと…本当に、心配したんだからな…」
「メモで嘘ってすぐわかると思ったんスけど…」
「メモはな?!あんなタチ悪く靴なんて置くから、俺はほんとに…」
「由花子拐うやつなんていねーって…普段は康一がそばにいるしよォ」
「そういえばその康一はどこだ、このドッキリは今後に生かしてみっ……ちり対策を取らせる!だいたい彼女の危険に彼氏がいないってどういうつもりだ」
「あああ、康一も仕掛人だから!アイツも納得した上っスよ!…まあ最後まで反対はしてたけど…」
落ち着けって!と億泰に羽交い締めされるが、こんなことが今後絶対に起きないとは限らない。しかし由花子に「康一くんに手を出すのは許さないわよ」と睨まれて、由紀雄も仗助や億泰と並んで正座することになった。
[newpage]
7月も半ばを過ぎた頃。
顔の無い変死死体が見つかったり、仗助は謎の大怪我を負っていたが、それも無事に完治して、由紀雄の知らないところで日常が戻ろうとしていた。
みんなが普通に戻る、ということは彼も帰る日が近づいて来たということで。
由紀雄は承太郎に呼ばれて出港する少し前に波止場へと来ていた。あれから結局顔を合わせられるほどの時間が承太郎にはなく、再会するのは一ヶ月ぶりになるものだった。
その久しい再会が帰る日となってしまったことに謝りを入れて、挨拶や世間話をそこそこにあっさりと本題へ入った。「この間の答えを聞かせてほしい」と。
正直多忙のあまり忘れているんじゃないか、そんなあまい期待に賭けていたが脆い可能性だったらしい。しかしこの日まで、どう言おうか頭の中でずっと考えていた。綺麗な言葉でまとめたり、上手く言おうとしたけれど、結局形にはならなかった。
「俺は…」
行きません。
この一言を言えば全て終わる。そう思うと舌が震えて上手く声が出ない。
本人を前にすると、蓋をしたはずの感情が押して溢れ出そうになる。今になって素直に言えるようになるなんて本当に意気地がない。本当はもう少しだけ一緒にいたかったですとか、煙草、慣れてきたんです、だとか。それでも言わなくてはならない。ここに大切な人達がいる、大切な思い出がある。貴方と初めて会ったのも、過ごしたのもこの杜王町だ。その思い出全部を置いてはいけない。
「…行きません」
絞り出してようやく言えた一言は、彼の目を見てまっすぐに答えた。磨かれたグリーントパーズに海を映したような綺麗な目だ。この人の綺麗な目が好きだと改めて思いながら、笑顔を努めて言葉を続ける。
「貴方に会えて、すごく、毎日が楽しくなりました。杜王町にいて楽しいって思えることが増えたんです。楽しかった、です。貴方と過ごせて」
これはお別れの挨拶だ。笑っていなきゃいけないのに、あの綺麗な目を見ていたいのに、顔を背けて目を閉じてしまった。泣いてると思われる。顔を上げないと。
「だから、お元気で、っ」
顔を上げた途端、視界が真っ白になった。それが彼の羽織る白いコートなのだと気づいて、自分がいま抱きしめられているのだと分かった。
暖かで煙草の匂いが微かにする。
「俺の方こそ、この杜王町で君に会えてよかった。いま君と同じ気持ちだ。この街にいて楽しかった。そう思えたのは君のおかげでもある。…ありがとう」
一言ずつ、噛み締めるように言われた言葉に堰き止めていた何かが全部流れて行くようだった。目が滲んで、目尻を通って流れて行く。服が濡れてしまう、そう思って彼の肩を少し腕で押した。
しかしそうさせないと言わんばかりに腕に力が込められる。より一層彼の体温が自分に伝わってくる。彼の手にはいろんな感情が込められているように感じた。自然と彼の背中に手を回していた。
「…あ、はは…ほんと、…好き、です…」
「…最後に言うのか。ずるいやつだな」
泣いてるせいできっとひどい顔をしてるだろう。
今この顔を見られたら、あまりのひどさにとてつもなく引かれるかもしれない。
「ちょっと、しばらく…あの…」
「顔を見られたくないのか」
「そ…そりゃそうですよ!いま見せられない顔してるので…」
「そんなふうに言われるとますます見たくなるな。お前の顔を見るのは…飽きなくて楽しい」
「今まで人の顔見て面白がってたんですか?!」
最後の最後に爆弾発言をかまして来て、ますます自分が変な顔をしているのが分かった。怒ってるのか泣いてるのか、嬉しいのか、笑ってるのか。別れ際に相応しくないこんな顔は見せられない。
わがままを聞いてくれたのか、しばらくそのままだった。少し頬が乾いた頃、彼はいつものように話しかけてくる。
「お前だけのもんじゃない、と仗助に釘を刺されたんだ」
「…へ?」
「あの時に断られるなと大方予想はついた」
「なんですかそれは…?知らない…んですけど…」
「そうか…てっきり策を練って手を伸ばしていると思ってたが。仗助のヤツはジジイに似てるからな…」
親戚同士だからなんとなく分かる…と付け足して言っていた。なにそれ、と思わず吹き出して笑う。その笑いが移ったように、肩の部分が微かに震えていて彼が笑っているのが分かった。
船から彼を呼ぶ声がして、後ろからは仗助の声がする。そろそろ時間が迫ってきていることを示していた。「もう平気か?」と聞かれて、いろんな意味を含めて「もう大丈夫です」と答えた。良かった、と彼はほっとしたように呟くと、ゆっくりと離れた。触れていたところが潮風に当たると寒く感じるほどだった。
「…とはいえ、されっぱなしで帰るのも癪だ」
「…え?」
さっきまで真っ白だったはずの眼前に、あの宝石のような光が広がっていた。綺麗だ、と思えたのは一瞬で、すぐに離れて行った。口に苦いあの煙草の味がする。まさか、と思った時には、彼はコートを翻して「またな」と船へ消えて行った。
船が大きく唸って波止場を離れて行く。
仗助は手を振って「元気でなー!」と叫んでいた。その船のバルコニーから彼の姿が見えた。彼と目が合う。手をあげて「さようなら」と声を出そうとした時、あの人は「またな」と言って別れたことを思い出した。
それに気づいた時には走り出していた。走りながら、「承太郎さん!」と大声で叫ぶ。名前を突然呼ばれて驚いたのか、船の手すりから軽く身を乗り出すようにこちらを見ていた。
「あの…っ、俺、いまは無理だけど、いつか承太郎さんに、会いに行ってもいいですかー!」
走れる距離は限られている。そのまま言葉を続けた。
「あと、俺、…承太郎さんのこと、…大好きです!…貴方を、好きでいさせてくれて、ありがとうございました!」
これ以上はもう走れない。コンクリートの地面はこの先にはもう続かない。彼の元にはもういけない。
「だから…、お元気で!」
手を振って笑顔で別れを告げた。船を見ると、帽子の鍔を下げて顔を隠しているようだった。彼はほんの一瞬だけそうすると、顔を上げて笑ってみせた。その顔を見れて良かった。これで本当にさようなら。徐々に見えなくなる彼は、海に沈んでいく一等星のようにとても綺麗に見えた。
「…行っちゃったな」
船が水平線から消えるまでその場から動けなかった。仗助がいつの間にか後ろに居て声をかけてくる。走って上がった息は落ち着いたはずなのに、まだ肩が震えている。まともに返事もできないまま、「そうだね」と答えた。
「やっぱ…行かなくて良かったんスか」
「…行かないよ。あの人は帰るんだ」
仗助は「そっか」と一言だけ言ってしばらく黙っていた。泣き止むまでその場にいてくれた。
ようやく落ち着いた頃、「あの〜…さ…」と控えめに仗助が話しかけてきたので振り返る。
「今からさ…みんなでちょっとした打ち上げみたいなのするんだけど…あんたも来ない?」
明後日の方を向きながら細々と提案されたそれに頷く。波止場には振り返らなかった。仗助の背を追って、海に別れを告げた。
船から見えた彼が、走りながら懸命に言葉を紡いでいる…のはまだ耐えれたものの、自分があの場にいた時にはただの一度も言わなかったような「会いに行く」とか「大好きだ」とか、そんなことを言われて思わず顔が熱くなって、耐えようもなく恥ずかしくなった。太陽が沈むように地平線に立つ彼が消えるまで、しばらくじっと見つめていた。
後ろからジョセフが突いてきたことで現実にかえって、「なんだ」と聞き返す。
ニヤニヤと笑う顔に嫌な予感がして、やはり言わなくていいと訂正するも『こんな面白いこといじられずにいれるか』という顔でニヒヒと笑いながらおちょくってきた。
「お前も隅に置けんのぉ〜承太郎」
「黙れジジイ。てめーと一緒にするな」
「そんな人殺すような目せんでも…」
ふざけた祖父を睨んで思い切り牽制する。もう船から波止場は見えなくなっていた。杜王町が遠ざかって行く。さようなら君のいる杜王町。また会おう。彼にはもう聞こえないだろう言葉を、太陽を反射して光る水面を見つめながら思う。本当に会えて良かった、と最後に呟いて杜王町には振り返らなかった。
「えー…と、7番ゲートから降りてきたから…」
どこもかしこも英語が並んで何が何だか分からない。誰かに聞こうにも皆忙しなく行き来していて、足を止めて教えてくれそうになかった。
あれから5年が経った。5年の歳月は一瞬だったものの、杜王町は何も変わっていない。由花子は大学へ進学したが、変わらず康一との仲は熱々のままだ。
何も変わらない当たり前の日常だと思っていたその日、家のポストに当たり前じゃないものが届いた。「気絶しないでよね」と由花子に突然手渡されて、言ってる言葉の意味が分からずに受け取って、気絶こそしなかったものの奇声は上げそうになった。
明らかに国内のものでなさそうな郵便物に恐る恐る触れて差出人を確認する。それは忘れもしない彼の名前だった。
封筒の中には一枚の便箋が入っていた。
元気か?と初めに一言書かれたそれを見ただけで、手が震えてしまいそうになって、手紙を落とさないように押さえながらその先を読み進めた。
海洋学の博士として活躍しているという近況についてと、その博士としての功績を称えた授賞式のパーティに参加しないかと言う旨が書かれていた。
『君は私の友人として招待したい。同封したチケットで来て欲しい』
待っている、と締め括られた手紙を横に置いて封筒をひっくり返すと、確かに飛行便のチケットが入っていた。外堀をしっかり埋められている…と思いはしたものの、“準備”も整ってきた頃合いだったので、アメリカまで行く決心がついた。
来て思ったことは、改めて5年前本当についていかなくて良かったということだ。今だってどこを見回しても分からない。
ベンチに座り込んで途方に暮れてしまう。迷子のお知らせみたいに名前を呼んでもらえたりしないかな。
「やれやれ。こんなデカい迷子がいるかよ」
「…へ、」
「会いに行くと言って5年も待たせるとは君も酷なやつだ。…相変わらずだな」
項垂れていた自分の頭に誰かが触れている。手のひらの感触に覚えがあった。呆れと笑いを含んだ声は聞きたかったあの人の声によく似ている。
困っていた自分のところに現れるなんて、そんな都合のいいことがあるだろうか。夢でも見てるのかな、そう思って見上げると、星のように綺麗な人がいた。間違えもしないあの人だ。年を重ねてさらに落ち着きが増したのか、表情は柔らかいものだった。彼を見た瞬間ホッとしたのもあって、会えて嬉しいとか感動とか、いろんな気持ちが胸を占めて何も言えずに涙が出てしまった。
「おい…どうした」
「ご、ごめんなさい。嬉しくて、俺…」
「ここで泣くな…」
困ったように眉を下げる彼の表情を見て周りを見渡すと、通行人がチラホラと何があったのかと由紀雄を見ていた。急いで涙を払って、ベンチから立ち上がった。今度は彼の顔をしっかりと見て挨拶をする。
「お久しぶりです!」
「…あぁ、久しぶりだな」
「お変わりないですね」
「そういう君は…変わったな。大人びた…のか…」
「そ、そうですか?」
「…突然だが5年も空けた理由を聞いてもいいか。君が日本でどうしていたか俺は知らないからな」
「なんか怒ってます…?」
「まさか。怒ってない」
「…怒ってますよね?」
「外にタクシーを止めてある。長時間のフライトの疲れもあるだろう。泊まるホテルまで案内するぜ」
鬼が笑うように無理やり口角をあげた口元が怖い。少し腕を強めに掴まれながら、人混みを掻き分けて歩いて行く。音沙汰がなかったのはお互い様でしょうとか思いながらも、不機嫌そうな彼へ弁明する。
「5年の理由は、英語の勉強と…行くための貯金を増やしたりなど…していまして…」
「英語ね…それくらい俺が代わりに喋ってやるさ。…で?どの程度話せるようになったんだ?」
「挨拶程度……」
「………」
「可哀想なやつだなって思ってます?」
「思ってない」
「承太郎さんが即答するときって嘘ついてません?」
「ついてない」
仗助にお土産頼まれてるんです、とか向こうに行ったら承太郎さんの写真送ってとか言われてましたとかアメリカに来て仗助や億泰の話題を繰り返す由紀雄をどうやって黙らせようかと頭の中で考えながら、楽しそうにする彼の表情を見て、しばらく好きにさせてやろうと承太郎は思った。
時間はたっぷりあるのだから。彼は知らないがアメリカ滞在に限りはない。仗助たちへのお土産?郵送で良いだろう。自分と居て気が他に散っている彼がはぐれてしまわないように肩を引き寄せた。今度は妹も仗助達もいない。きっと赤面して大暴れするんだろうな、と思いながらその時間を楽しみにして空港に別れを告げた。