肺は干からびて脚は重く、凍結防止剤を含んだダートは凍りきれず、歪んだ感触を蹄鉄に伝えてくる。気を抜けば凍土に飲み込まれそうだ。たった1600メートルが死ぬほど遠い。それでも・・・・・・。
『第4コーナー、シャーベットシルフが大外から追い上げる! 壁のような馬群を迂回して行きます!』
東京競馬場、稀に見る吹雪となった馬場は重い。だが、彼女は知っている。雪風こそが我が身を最も軽くすることを。乗れている。行ける。追い風の中、雪が身体の横をふわりふわりと落ちていく。風が止んだような気がして、彼女は気付く。自分が速いのだ。風速と同化して、雪を従えて彼女は駆ける。風の精のように。
(向かい風を恐れず、順位を気にせずとにかく一番外で耐えろ・・・・・・そして最終直線は追い風になる。そうなれば、君が一番だ。シルフ)
トレーナーの指示が木霊する。同じ事を考えている者は当然居る。だが、風を受けて走るというのはひとつの『戦技』であることを、彼女は証明する気でいた。姿勢、脚運び、重心、何一つとっても、右に出る者など居ない。だから、見ているのは遥か向こう。壁の先頭を走り続けるあの人だけ。自分の勝利を阻み続けるあの人。ずっと追い続けて、やっと同じステージに立てたウマ娘。
(カッ飛べ私!!)
進路クリア、スパート続行。大外を走る分他のウマ娘より長くスパートする必要があったが、もう関係ない。風はもう私を抱いて見捨てない。私はもう飛ぶだけだ。
口の中にひとひらの花弁が入った気がした。白い欠片。大粒の牡丹雪の冷たさを噛み締めた瞬間、何かが己の内で弾けるのを感じた。世界が急速に音を失う。音もなく舞う雪が全てを奪い去ったようだった。
『速い! シャーベットシルフ、まさに風のようです。重いダートをものともしません。伸びる、伸びる。どんどん駆け上がっていきます。届くのか!? クレイローズの二連覇を阻むのか! このまま逃げ切るかクレイローズ!』
勝利への執着、憧れの先輩への競争心、全てを忘れて彼女は翔ける。ああ、静かだ。ここはこんなにも自由だったのか。もう呼吸しか聞こえない。鼓動だけを感じる。肉体の感覚すら忘れ世界だけが後方に流れていく。誰も居ない。私の前に誰も・・・・・・。
※
クレイローズはまだ知らない。己が率いる馬群の遥か後ろ、その外側に『それ』が居るのを。
(短距離走、不良馬場、先行有利。誰にも渡さない。他人の足跡など私は踏まない)
幼い頃から誰も足跡を付けていないところが好きだった。砂場、海岸、校庭、ダート、薄く雪の積もったトラック・・・・・・。必ず先陣を切った。それはレースに出るようになってからも変わらない。自分の信条。大逃げ、駆け引き無しの全力疾走。必然的に彼女はスプリントレースに出るようになった。ダートは好きだった。まっさらなダートの先頭を走るのはそれだけで走る意味を感じさせてくれた。
フェブラリーSはスタートから芝が続く外枠が有利と言われている。この時彼女は三枠、内側だった。彼女はダートや不良馬場の方が速い。内側を一気に取り、そこから最後の直線に飛び込んだ。誰もクレイローズに着いていけない。物心ついた時から道無き道や不整地を走り込んできた彼女に敵う者など居るはずはなかった。
──風。
唐突に彼女は風を感じた。右を見ると、白いウマ娘が『飛び去って』行く。十六枠からずっと外側を走り続けていたシャーベットシルフだ。負けてたまるか。後輩に、私の領域で負けるものか。
「舐めるなッ・・・・・・」
クレイローズは土すらも砕かんばかりに踏み込んだ。その力強さはもはや後続の戦意をも踏み砕くに十分だった。だが、シャーベットシルフは違った。彼女はもう『独り』だった。ここに居ながらにしてここに在らず。その天衣無縫のスピードはクレイローズの土俵から既に抜け出していた。シャーベットシルフが起こす風が雪を巻き込み、翼のようにその背後で渦巻いている。瞬く間に彼女はゴール板を通過し、一馬身離れてクレイローズがゴールした。ややあって後続が続々とやってくる。
負けたとすら思わなかった。アレはなにか別のモノだ。なんだ、アレは・・・・・・。この土が重くないのか? この短距離レースでどうやって後ろから追い上げた? 何もわからない。想像もつかない。
『シャーベットシルフ、ごぼう抜きだ! 泥土の女王クレイローズすら意に介さず、ついに念願のG1を制しました!』
ゴール板を通り過ぎた所でシャーベットシルフが立ち尽くしている。クレイローズは乱れる呼吸をどうにか押しとどめ、歩み寄る。
「おめでとう、シルフ。次は負けない」
シャーベットシルフがゆっくりと振り返る。クレイローズの姿を認め、やっとその瞳に感情を取り戻した。
「先輩、私・・・・・・」
それきりシャーベットシルフが黙り込む。クレイローズにも覚えがある。夢現になって、どうしていいか分からなくなるのだ。クレイローズはふっと笑って愛する後輩の肩を叩いた。
「喜べ、シルフ。それが礼儀だ」
「・・・・・・! はいっ」
シャーベットシルフがスタンドを向き、両手をいっぱいに広げて振った。風が彼女の銀の髪をなびかせる。シルフコールが湧き、なぜかクレイローズは自分の事のように嬉しくなった。
(抜きたい奴が現れるのも、悪くない)
クレイローズはスタンドに一礼し、静かにその場を去った。風はいつの間にか止んでいた。ただ静かに舞い降りる雪だけが、雲から差す陽光に煌めいていた。
※
翌年、クレイローズは学園を卒業し、レースシーンを退いた。あのフェブラリーSの後も数々のダートで輝かしい成績を残し、表彰までされた。桜吹雪の堤防をあの頃と変わらずランニングする。習慣は抜けなかった。楽しかった日々。そして、もう戦うことの無い数々の好敵手の顔。それらが視界を横切る花弁のようにいくつも脳裏をよぎる。
(あれから、リベンジは果たせなかったな)
シャーベットシルフはあの後、故障した。限界を超えたパワーを負荷のかかる馬場で発揮したのだから、無理もないと言えばそう。しかし、クレイローズの心を沈めているのは勝負についてではなかった。
『私、あなたみたいになりたいんです。レースと言えば芝、そんな私の狭い視点を打ち砕いてくれたあなたの走りを超えたいんです』
そう言って彼女はダートに転向した。そうして見事、自分を超えて行った。手の届かないところまで・・・・・・。
(本来彼女は、ダート向きではなかった。繊細な体重移動を駆使した走り方はもっと安定した軽い馬場の方が合っていた気がする)
私の走りへの想いが誰かに伝わった、受け継がれた。あの時はそう素直に感じ、とても嬉しくなったのを覚えている。だけど、そのせいで彼女が壊れたというのなら、私は彼女になんと言ってやればいいのだろう。
あの走りは間違いなく完璧だった。自分が理想としていたものはあれかもしれないとすら思った。だが、レースは残酷だ。速きことを素直に祝福してくれるような世界ではなく、強さを求める。
(すまない、シルフ。私の足跡はお前を惑わせたのかもしれない。だからこそ、お前のあの一戦は本当に尊い物だ)
人々はまだシャーベットシルフを求めてくれているだろうか。もしそうだとして、どこに彼女を求めるのか。ダートかターフか。人々は我々に『夢』を見る。泥に咲く花として求められた私はそれに応えられた。だが彼女の夢は、何処にあるのだろう。彼女にとっての夢が『私』だったなら、それは・・・・・・。
「それでも、間違いだったなんて私は言わないぞ。シルフ」
「ええ、もちろんです。先輩」
「!?」
クレイローズは驚いて足を止め、振り返る。そこには純白のウマ娘、シャーベットシルフが居た。彼女がいるだけで、桜吹雪が白雪に見えて否応なしにあのフェブラリーSを思い出してしまう。
「いつの間に後ろに居たんだ」
「いつもここを走ってたなーと思って。途中からずっと追いかけていたんですけど、気付いてるからさっき私の名前を──」
「違う、忘れろ。いや、いいんだ。そんなことより」
たくさん聞きたいことがあった。たくさん言いたいことがあった。だが、どれもいま言葉にできる気がしなかった。言葉に詰まってクレイローズは視線を落とす。ランニング用のハーフパンツから伸びる、シャーベットシルフの白い脚が目に入った。
「・・・・・・先輩?」
「もう、脚はいいのか?」
クレイローズはやっとそれだけを絞り出した。
「やっとレースに出る許可が出ました。それでお話したかったんです」
「そうか、良かった・・・・・・。私でよければなんでも聞いてくれ」
シャーベットシルフは微笑み、突然頭を下げる。
「すみません。私、芝を走ります」
クレイローズが目を見開いたのをシャーベットシルフは見ていなかった。それこそが彼女への呵責、呪いだったのだ。シャーベットシルフが顔を上げた頃には、クレイローズはいつもの端正な表情を取り戻していた。
「あなたにあの日勝てて、でも勝ち続けられなかった。私はあなたのような強いウマ娘にはまだなれていません」
クレイローズは黙って言葉を待つ。
「故障してから、先輩は私のことちょっと避けてましたよね」
「・・・・・・すまない。なんと言葉をかければいいのか分からなかった。頑張れとも言えない。ダートを諦めろとも言えない。ただ、見守るしか無かった。あそこに居る者なら分かるだろ?」
「はい。だから私もずっと黙々と準備をしてきました。多分完成したと思います」
シャーベットシルフは少し恥ずかしそうにスマートフォンを取り出して写真を見せてきた。スポーツ用の下着だけ身に付けた彼女が写っていた。クレイローズは驚く。故障明けとは思えぬ程の引き締まった筋肉。
「スイミングを始めとする様々なメニューで一から鍛え直しました。フォームも研究しました。足音、全然しなかったでしょう?」
「・・・・・・!」
クレイローズがはっとする。シャーベットシルフはどこを走るつもりなのだろう。俄然気になってくる。
「それで、君は何を走るんだ?」
「芝3600メートル、ステイヤーズステークスです」
「なんと・・・・・・有り得るのか、そんなことが」
シャーベットシルフがにやりと笑う。そうだ、彼女はこういう奴だ。人の予想を超えてあっと驚かせるのを何よりも楽しむ、イタズラ好き。
「ダートのマイルを勝って、最長の距離を誇る芝を勝つ。すごくワクワクしませんか」
「ああ、とてもする・・・・・・!」
興奮を隠せぬクレイローズに、シャーベットシルフは嬉しそうに頷いた。
「見ていてください、今年の冬を。あなたが泥土の女王なら、私は冬の女王になります」
「楽しみにしている。頑張ってくれ」
「はい。それでは、これで」
シャーベットシルフが駆け去っていく。クレイローズは心が急に軽くなったのを感じた。冬の重い雲が一気に晴れた心地だった。
(あいつの走りなら、やるのかもしれん)
そして、季節は過ぎて冬が来る。
※
『あいにくの吹雪となりましたが、ステイヤーズステークス、まもなく出走です。注目のウマ娘は誰でしょうか』
実況が解説に話を振る。クレイローズはスタンドでトラックを見守りながら、ウマ娘用イヤホンでラジオ中継を聞いていた。
『そうですね、一番人気のペガサスエメラルドはやはり強いでしょう。彼女は疲れ知らずの末脚を持っていますからね。ただ』
解説は一度言葉を切った。クレイローズは何を言うか分かっていた。
『一番気になるという意味ではシャーベットシルフですね。元々ダートかつ短距離レースが主体だった彼女が故障明けから芝の長距離、それもステイヤーズステークスに出るというのはどのような狙いがあるのか、未知の領域ですから』
『なるほど。確か彼女はフェブラリーステークスであのクレイローズに勝っていましたが、ここで通用するのかは全くの未知でありますね』
「するさ・・・・・・」
クレイローズは空を見上げる。雪、そして風・・・・・・そう、風が強く吹いている。
(もうここは、あいつの領域だ)
ゲートが開く。シャーベットシルフは内枠だ。クレイローズは眉を上げる。
「逃げでいくのか、シルフ」
強い向かい風の中、シャーベットシルフが飛び出していく。当然他のウマ娘は追わない。風を避け、足を溜めて様子を探りあっている。
『シャーベットシルフ、どんどん逃げていきます。掛かっているという表現すら適当ではないほど飛ばしている』
解説もプロだ。この異常事態でもほとんど動揺を声に出さない。だが、誰もが困惑しているだろう。クレイローズには分かっていた。シャーベットシルフが新たに編み出したのは、風に『支えられる』走りだ。かつて自分を破った時の逆、向かい風を味方にする力。
(今、あいつは身体に全く力を入れていない。倒れるか倒れないかのギリギリを風速と風向に合わせて保ち続けている)
それはともすれば小手先の技だ。だが、彼女はその程度ではない。ないはずだ。だからこそあの堤防で彼女は笑っていたのだ。
『四馬身、五馬身ほどでしょうか、リードを保って二週目に入りましたシャーベットシルフ。大きな高低差をものともせず快調に走っています』
シャーベットシルフが第四コーナーに差し掛かる。速度を上げ始めた馬群の中から飛び出す一人のウマ娘、ペガサスエメラルド。
(ああ、こいつは速いな・・・・・・)
脚が軽い。シャーベットシルフと本来同タイプだ。だが、シャーベットシルフよりも長距離の経験がある。普通なら逃げ切れる相手ではない。
『第四コーナー、シャーベットシルフを猛然と追っていきますペガサスエメラルド!』
ペガサスエメラルドはみるみるうちにシャーベットシルフとの距離を詰めていく。クレイローズはこの寒さの中、額に汗を感じた。行けるのか? いや、行け。風はお前を裏切らない。
「いけッ!! シャーベットシルフ!!」
──風。
スタンドでクレイローズは風向きが変わるのを感じた。向かい風、そして強い横風からの・・・・・・追い風。ほぼ並び掛けた二人が突然距離を離す。
『シャーベットシルフ、速い、落ちません! ペガサスエメラルドの猛追を寄せ付けていません!』
雪風の中、シャーベットシルフが翔ける。そうだ、あの時と同じだ。背中に逆巻く白い雪。あいつはいつも風の中を飛んでいく。
『シャーベットシルフ、一馬身のリードを保ってゴール! 二着にペガサスエメラルド! 三着に──』
クレイローズはもう何も聞いていなかった。夢でも見ているのだろうか。どんな自分の勝利よりも夢現だった。スタンドからは驚愕と賞賛の声が湧き上がっている。
『有り得るのでしょうか、こんなことが。フェブラリーステークスを制したウマ娘が、なんと芝の最長レース、ステイヤーズステークスをも制しました!』
『これでシャーベットシルフは二勝目ですが、この二勝の意味は数字以上の物がありますね。凄まじいものがあります』
クレイローズはイヤホンを外し、シャーベットシルフに手を振った。この席は少し遠く、ターフからは観客席の顔などほとんど見分けられないだろう。だが、シャーベットシルフは間違いなく、こっちを見た。スタンドに銀髪のウマ娘が両手を振る。クレイローズは自分でも知らないうちに涙を流していた。
「おめでとう、シルフ・・・・・・。お前こそ雪風の女王だ」
銀の髪をなびかせ、シャーベットシルフがターフに君臨している。マイルと長距離、ダートと芝、ほとんど相反する世界を手にした冬の精。伝説の誕生であった。
※
シャーベットシルフはステイヤーズS勝利後、レースに出ることは無かった。彼女は全てを出し切った。彼女にとってレースとは勝つ事でも強い事でもなく、壁を飛び越えることだった。だから、もう彼女にとってはそれでいいのだ。
「シルフ、この後はどうするんだ?」
あのレースの後、クレイローズはそう尋ねた。シャーベットシルフは笑って答えた。
「もう脚が持たないかもしれません。私はもう満足です。冬を満喫しましたから」
「・・・・・・そうか」
不思議と、残念だとは思わなかった。彼女の満足気な顔を見れば全てが分かった。
「もし出来れば、私の技を誰かに伝えてみたいですが・・・・・・。まあ、期待せず待つとします。ああ、ただ強いウマ娘になりたかったなあ。季節も環境も関係ない、そんな存在に」
「贅沢な悩みだ。少なくとも君は路面も距離も関係ない存在になったのだからな」
「ふふっ、そうですね。楽しかったです、ほんとに」
あれから何年も経った。それでも時々、シャーベットシルフの名を耳にする。雪風の女王。そんな形の最強もまた、この世に在るのだ──。