私とトレーナーの秘密特訓が始まってから、既に一か月の時間が流れていた。
最初はランニングマシンをこなすだけでバテていたのに、今では随分と余裕ができていた。
ウェイトトレーニングで使う重りの重量も増え、また今度増やそうか、などとトレーナーと話すまでになっていた。
他に変わったことと言えば、学園のトレーニングルームを見て追加したらしいサンドバッグが増えた事くらいか。瓦は毎回割るとお金がかかるから見送ったらしい。
やぱりトレーナーはお金をケチっているのでは? と思わないでもないけど、蹄鉄やシューズはちゃんとした物を用意してくれているのでそんなことはないみたい。
そんなことを考えられるくらいにはここでの特訓が日常になってきた頃……
「ハーツ、今日はもう上がっていいぞ」
後ろで見ていたトレーナーに、そう声をかけられた。
「えっ、いつもより全然早くないっすか? 私まだまだいけるっすよ?」
「明日はいつもと違うメニューでやってもらうからな、今日はもう休んで明日に備えろ」
「そんなの聞いてないっすよ!」
「それに関しては本当にすまん、前々から準備はしてたんだが先方の返事待ちだったからな。今さっきやっとOKが出たもんでな」
本当に申し訳なさそうな様子を見るに、どうやら言っていることは本当らしい。
それなら仕方ないと納得するけど、相手が居るという事は何をする気だろう、ついに秘密特訓が秘密じゃなくなるのだろうか。
「なるほど……? それで、明日は何するんすか?」
「模擬レースだ」
「模擬……レース、レース。えっ、レースやるんすか!?」
「そりゃ模擬レースって言ったらレースやるに決まってるだろ。他に何するんだよ」
「いや、そりゃそうっすけど、なんで今になってやるんすか? 必殺技のための秘密特訓ってデビューまで隠しとくやつだと思ってたんすけど」
「なんでってお前、その必殺技をコントロールする特訓はやってないからだろ。結局一人でどうにかしようとしても何も起きなかったしな」
「うぐっ、痛いとこ突くっすね」
「一人でなんとかなるんならそれでも良かったんだが、どうせデビュー前に併走やるつもりだったし丁度いいだろ」
何かきっかけでも掴めればより良いしな、と付け加えてトレーナーはこちらに悪戯っぽい笑みを見せてくる。
つまり、明日のレースで必殺技をモノにしろ。とこちらに期待しているのだろう。
レース、その言葉に対して少しだけ怯えている自分が居た。
今まで一度も勝ったことのないそれにまた挑んで、負けたりしないだろうか。
負ければこの一か月を、秘密特訓を否定してしまうことにならないだろうか。
「相手……」
「ん?」
「相手は誰なんすか?」
もしかしたら、トレーナーが負けによる自信喪失を心配して今の自分に合った相手を選んだかもしれない。だなんて既に負けているような発想でそう聞いてしまう。
でもそんな淡い希望も、彼から放たれた一言で打ち砕かれることになる。
「……アグネスタキオン」
「……は?」
────
「いやあ。馬場は良好、君のトレーナーが気を回してくれたおかげで観客もほぼ居ない。私達二人が実験をするのに絶好の状態だと思わないかい? シュラーク君」
「そうっすね……実験とかはよくわかんないっすけど」
スタート位置に立ったところで声をかけられたけど、緊張のあまりそっけない返しになってしまう。
あのアグネスタキオンとレースをするというのだから当たり前だ。クラスメイトで、問題児扱いされていても実力は確かで、その速さに敵う者はほとんど居ない。
まだ必殺技をモノにしていない私に勝てるウマ娘じゃない、そう思う。
「……」
この期に及んで、本当にやるの? という目をトレーナーに向ける。
彼はこちらを真っすぐ、ただ真っすぐに見つめていた、「お前を勝てるウマ娘にしてやれる」と言ったその時の目、そのままで。
私の事を信じている、勝てるのだと、お前はやれるのだと。そう目が訴えている。
そんな目を向けられたら、自信がないだとか、無理だとか言っていられない。
だから──覚悟は決まった。
ゲートが開く、出遅れはない、でも。
いつものレースでのスタートじゃない、特訓の成果が出たのか、いつもより早く走れている。だけど。
あの心臓の音が、自分にも聞こえない。
この走りはいつもの……そう、あの暴走が出てない時の普通の走りだ。
タキオンさんとの距離はまだ大きく離れていない、でも。
(マズい……)
このままだと、最後のスパートで、いや、もっと前の段階で決定的な差が出てしまう。
彼女の「超高速」と呼ばれる末脚の前では……。
(待って……)
私は今、何を考えた?
いや、今だけじゃない、レースが決まってから? もっと前だ。
私はもしかして、口では勝ちたいだなんて言っているのに、レースに勝てないものだと、自分自身を評価していた?
だったら、そうじゃないでしょ。
トレーナーは、勝ちに飢えている私に可能性を感じたんだ。
「勝ちたい……勝ちたいっす!」
でも、それじゃきっと足りない。
勝ちたいんじゃない、私は──
「勝つんっすよ!」
ドクン──
そう、この感覚。
ドクン──ドッドッドッ
うるさいほどに心臓が早鐘を打っている、だけど。
だけど、それが今、とても心地いい。
見えている景色が遅くなる。
細かく意識しなくても、勝手に脚が前に進もうとして動く。
もっと、もっと、もっと、もっと!
奥から奥から湧き上がる衝動に、身を任せて。
走れ──
────
「いやはやまさか負けてしまうとはね、私の予想以上だよ。君のそれは」
レースの結果は、私の勝ちに終わった。
タキオンさんはあまり勝敗に頓着しないとはわかっていたものの、敗北をあまり気にしていない様子と合わせてみると実験というのは本当だったらしい。
「それにしても、ふむ。レース中の音だけでなく全身の体表の色の変化……これは心拍数の上昇によるものかな? 実に興味深い」
それにしても、レースが終わった後にじろじろと体を観察されるのはむず痒いものがあるというか、正直恥ずかしい。
汗とかすごくかいてるし……それは向こうも同じか。
「おう、お疲れさん。必殺技をものn「タキオン! お疲れ様!」
などと考えているところに、トレーナーと……その言葉を遮ってタキオンさんに駆け寄った人が一人。
暗めの色の長い紫髪をポニーテールに結い、黒いスーツを着た長身の女性だ。
「全く元気のいいモルモットだね、映像とそこのトレーナーから提供された資料はちゃんと持ったかい? 研究だけでなくトゥウィンクルシリーズで走るのにも必要だからね」
「うん、バッチリ!」
二人の会話を聞く限り、彼女が前にタキオンさんが話していたモルモットくん、うちのトレーナーと同期の一人らしい。
それにしても、今彼女は気になることを言わなかっただろうか?
「あれ……? タキオンさんトゥウィンクルシリーズに出るんすか!?」
「ああ、そういえばシュラーク君はずっと秘密特訓とやらで練習漬けだったから知らなかったのかな。君にトゥウィンクルシリーズに出るつもりはないと言った数日後に色々あってね、このモルモットくんと出ることになった」
色々、の中に何があるのかはよくわからないけど、二人の距離感を見るにかなり大きなことがあったらしい。
とにもかくにも、彼女がレースに出るということは……。
「つまり、リベンジのチャンスはあるって事。うちのタキオンは次は絶対負けないからね!」
「モルモットくん、前にも言ったように私は実験を優先するから勝敗はあまり重要視していないのだが」
「えぇー! ここは負けないって言おうよ! 私だけ盛り上がってるみたいじゃん!」
どうもぐだぐだしている感じだけど、どうやら宣戦布告をされたらしい。
だとしたら、受けて立つしかないだろう。今日の勝者は、私なのだから。
「望むところっすよ! 私だって必殺技をモノにしたんすからね、次も、その次も、タキオンさんには負けないっすよ!」
今までの私だったら絶対に言う機会はなかったであろう言葉に、少しだけ得意になる。
こういう関係をライバルというのだろうか? だとしたら、自分がそこまでになれた事が嬉しい。
トゥウィンクルシリーズで競い合えるなら、きっとその先も、ずっとずっと先まで競い合っていたい。
初勝利の自惚れかもしれないけれど、純粋に、そう思った。