殺せる。
血を飛ばしながら拳を振るう虎杖には確信があった。七海が駆け付けたことで戦況はより虎杖に有利なものになった。
既に手負いだった真人を二人で着実に追い詰めていく。
相手はもう領域展開すら使い切っている。領域の結界を破壊し侵入したとき、虎杖本人にも自覚がないほどのわずかな時間の自失。それが過ぎ去った時にはもう真人は瀕死の体だった。
最後の呪力をふり絞って体を肥大化させた真人を前に、虎杖の脳内は凪いでいた。
もはや虎杖の頭に雑念はない。ただ、目の前の存在を
ここで虎杖が全力の拳に呪力をドンピシャで乗せられたのは偶然ではない。
もともと悪癖として体に染みついていた逕庭拳。しかし、目の当たりにした吉野の末路と天坂の死に、一時的に脳のリミッターが外れた状態になっていた。それが逕庭拳と呪力を同時タイミングで打ち込む打撃との無意識的なスイッチングとして表れていた。
そして、そんな状態からひたすら殺すことに集中した虎杖の放った一撃に
『黒閃』。
渾身の打撃が肥大化した真人の腹に突き刺さる。しかし、手応えはなく風船のように膨れていた体はあっさりと弾けた。何が起こったか分からず思考が一瞬停止する。
視線を走らせる。排水溝へ吸い込まれていく真人が手を振る。
「バイバイ宿儺の器。今度はちゃんと殺してあげるよ」
「まっ…」
追おうとして全身に走る激痛に倒れ込んだ。集中力が切れたことで今まで感覚の隅に追いやっていた痛みに動けなくなる。
視界がかすんでいく。何か呼びかける七海の言葉を理解する前に虎杖の意識は途切れた。
「ここにいましたか。安静にしてろと言われたでしょう」
高専敷地内の死体安置所。里桜高校から回収された遺体が並べられた台の間に虎杖はうずくまっていた。側にある遺体袋には吉野と天坂が物言わず収まっている。
ゆるゆると虎杖が顔を上げた。泣き腫らした目元が赤くなっている。
「…ナナミン。俺、誰も助けられなかった」
「いいえ、私は君に助けられました。あそこにいた生徒たちも」
ぽつり、と呟かれた言葉を七海は否定した。否定しなければならなかった。
大人として虎杖だけに重荷を背負わせないようにするためだけではない。それが事実だからだ。
たとえ、真人の領域展開を破ったのが宿儺だったとしても、あそこで虎杖が結界を壊して領域内に侵入するという選択を取らなければ七海は間違いなく死んでいた。
七海は膝を折り、虎杖と目線を合わせる。
「吉野順平の救出が間に合わなかったのは私の落ち度です。君のしたことが無駄だったわけじゃない」
これについては少しだけ嘘が混じっている。
回収された遺体で一つだけ真人のものではない残穢が残っているものがあった。個人を判別するのも難しいほど執拗に顔面が殴打され、全身に呪力による毒が回っていた。あの場に呪術を扱える人間は七海を除けば四名のみ。術式を考えれば犯人など分かり切っている。
吉野が虎杖の説得に応じ、呪術師としての道を決意したとしても彼はすでに一般人を手にかけた後だ。五条が手を回したとしても、上からは呪詛師の烙印を押されていただろう。
しかし、それを虎杖に伝える必要はない。吉野の家から発見された宿儺の指についても同様だ。
「でも、俺人を殺したよ」
虎杖は視線を自分のつま先に落としたまま言葉を紡ぐ。
祖父がそうだったように、人はいつか死ぬ。それならせめて正しく死んでほしいと思っていた。だが、今回の目の当たりにした惨劇と自分が引き金を引いたことでもう何が「正しい死」なのか分からなくなった。
吉野も天坂もあんな風に死んでいい人間じゃなかったはずだ。それなら虎杖が殺した改造人間たちは自分に殺されるべき存在だったのだろうか。どちらも同じ命であるはずなのに。
「引きずるな、と言っても君は背負って進むのでしょうね。その道はきっととても辛いものになりますよ」
どこか悲しそうに七海は目を細め、立ち上がる。
「せめて、死なないようにして下さい。今日の私のように君を必要とし、君に助けられる人はこれから先大勢現れる」
なにより、と一度言葉を区切る。一瞬の逡巡の後、七海はその言葉を口にした。
「君の友人は、まだ生きているんですから」
七海の足音が遠ざかっていく。
虎杖はまだ立ち上がれない。少しだけ鼻をすすってまた膝に顔をうずめた。
天坂は五条に呼び出された。虎杖にこっそり形代をついて行かせたことに関するお説教だろうか。現場には形代の死体が残っていたはずだ。流石に言い逃れできない。
大人しく説教を受けようと腹を決めてから扉を開けると、そこにいたのは五条ではなかった。
「君が天坂くんですか」
サングラス越しに冷たい視線が向けられる。
七海建人。冷や汗が吹き出した。
落ち着いて考えれば分かったことだ。呪術師界きっての『まともな大人』の七海が、任務を任されていないはずの学生が勝手に呪霊がいるであろう現場について行った上に常人が見ればSAN値が消し飛びそうな死に方をしたとなったら、それが本体でなかったとしても黙っているはずがない。
「そうです。七海さんですよね、はじめま…」
「挨拶は結構です。どうして呼び出されたかは分かっていますか」
めちゃくちゃ怒ってるじゃん。
湯気のように立ち昇る怒気が隠せていない。率直に言って半端じゃなく怖い。なんなら夜蛾学長より怖いかもしれない。
説教に耐えようとしていた心が早くも折れそうだ。
「勝手に悠仁について行ったからですか」
「半分正解です」
腕を組み、眉間に皺を寄せる七海の姿はインテリヤクザにしか見えない。
人格的な意味でも曇らせ的な意味でも天坂は七海という人物がけっこう好きだ。人としての在り方や過去、虎杖に呪いを残す死に方も含めて満点である。しかし、そんな呑気な考えはあくまで紙面で見ていたからの話だ。実際に前にするとプレッシャーで縮こまるしかない。
「分かりませんか」
低く掠れた声がより威圧感を強める。素直に頷けば、七海は深くため息を吐いた。
「一番の問題は君が虎杖くんを止めなかったことです」
言いながら、七海はサングラスのブリッジを押し上げる。
力なく遺体に寄り添う虎杖の姿が、同級生の死を前にただ座り込むしかなかったかつての無力な自分に重なった。
呪術師である以上、死はすぐ隣にある。時には他人のために命を投げ出すことを仲間に強要しなくてはならない。七海の同期もそんなクソみたいな覚悟を押し付けられて若い命を散らした。
こんな仕事をしている以上、仕方のないことだと分かってはいる。それでも自分と同じ絶望を味わう人間は少ないほうがいい。ただでさえ虎杖は人より多くを背負ってしまっているのだから。
「君の術式のことは五条さんから聞いてます。友人が心配なのも分かる。しかし、虎杖くんを大切に思うなら君は一緒に行くべきではなかった」
「…悠仁がそれを望まなくてもですか」
「そうです。常に共にあることが正解とは限らない」
平和な環境で切磋琢磨できるならばそれに越したことはない。だが、呪術師という道において自分の存在が相手の弱みになることも、足枷になることも死に直結する。
昔の七海がそうだったように。
「虎杖君を殺したくないなら、忘れないように」
「……分かりました」
「では、お説教はこのへんで」
肩を落とす天坂を一瞥して、七海は部屋を出る。本当ならこういったことは担任である五条の役目なのだろう。だが、他ならぬその五条に天坂を叱るように頼まれた。曰く、天坂相手には怒りにくいのだとか。
後ろから扉が開く音が聞こえる。七海の背中に天坂の声が投げかけられる。
「七海さん、俺強くなります。悠仁を殺さないためだけじゃない。少しでも隣にいることが正解だと思えるように」
七海は足を止めて振り返る。若く、真っ直ぐな意志を宿した瞳は、年を重ねた七海には少々眩しすぎる。
「頑張りなさい」
自分でもらしくない言葉が出たと思う。五条が叱りにくいわけだ。
今度こそ七海は振り返らずその場を後にした。
「五条先生」
虎杖の顔はひどく憔悴していた。七海から事のあらましは聞いていたがここまでとは。
「なに?」
「……快里、生きてるよね?」
「勿論。今頃二年生たちにしごかれてるんじゃない?」
「会えたりできないかな」
「…今?」
「うん」
天坂は虎杖の生存を知っている。もうすぐ交流会もあるため、多少なら会わせること自体に問題はない。しかし、こそこそ天坂だけ呼び出すのが周りの目にどう写るか。
虎杖に待つように言ってからスマホを取り出す。2コール目であっさり通じた。
「あ、快里?今大丈夫?」
「大丈夫ですけど、どうしたんですか急に」
「いやー、悠仁が会いたいって言ってるんだけどこっそり抜けて来れる?」
「……形代残しておけば大丈夫だと思います」
「おっけー。じゃあなる早でよろしく」
通話を切る。固唾を飲んでこちらを見ていた虎杖に親指を立てる。
「すぐ来るって。座って待ってなよ」
その言葉にほんの少しだけ安堵した表情を浮かべているが、まだ顔が強ばっている。
無理もないのだろう。名前で呼ぶほどに仲を深めた相手と本物ではないとはいえ親友を目の前で呪霊に殺害された。
監視対象だった吉野は人型呪霊の術によって体を改造され、天坂に至っては体が粉々に砕かれて見る影もなかったと報告にあった。
そして、さらに不幸なのは吉野が一般生徒を殺害していたことで、彼の死に正当性が出てしまったことだろう。
まだ十代の若者が背負うには重すぎる。
五条にできることは今にも首を吊りそうな顔をしている生徒の願いを叶えてやることだ。
顔を見るまで安心ができなかった。
あの光景が瞼に焼き付いて離れない。つぎはぎの手が触れる瞬間、天坂は確かに自分を見ていた。
『ゆうじ』。
声は聞こえなかったけれど唇の動きだけで何を言っているか分かった。分かってしまった。
気を緩めたらこのまま動けなくなりそうだ。
早く顔が見たい。天坂が生きていると実感したい。震える両手を組んで祈る。
「悠仁」
弾かれたように顔を上げる。聞き間違えるはずがない声。
ジャージ姿の天坂が扉の前に立っていた。
喉が震える。嗚咽混じりの吐息を吐き出した。目の前がみるみるうちに歪んでいく。
「悠仁?」
「か、いり。おれ…」
「落ち着け、俺はここにいるから」
隣に座って背をさすってくれる手が温かい。生きている。
「お、お゛れ、順平を、たすけらんなかった。順平の母ちゃんも、快里の、ことも」
堰を切ったように涙がこぼれ落ちていく。しゃくりあげているせいで上手く言葉が出てこない。縋りつくように天坂の服を掴む。
背中にある手の平が虎杖の呼吸を落ち着かせようとゆっくりと上下する。
「おれなら、助けられた、のに。とどいてたのに」
「…いや、俺のせいでもある。ついて行くとか言っといて結局なにもできなかった」
違う。自分の認識が甘かった。
心のどこかで宿儺がいればなんとかなると慢心していた。呪いはどれだけ言葉が通じようとも人間とは相容れないのだと、ちゃんと理解できていなかった。
それが吉野の死という結果を招いた。一歩間違えれば天坂さえ喪っていたかもしれない。
あの瞬間を何度も夢に見ては飛び起きた。眠ることが怖かった。
「悠仁、一人で背負わないでいい」
変わらない優しさが向けられる。これすら手からこぼれ落ちてしまっていたら、きっと虎杖は立ち上がれなかった。
「俺も一緒に背負うから」
なら、前に進むしかないじゃないか。
もう何が『正しい死』なのか分からない。それでも、この後悔も殺意も引きずって生きていくしかない。
『正しい死』が何なのか分かるまで、あの呪霊を殺すまで。
もう、負けられない。
虎杖の震える背中を見下ろしながら天坂は笑っていた。
まさか自分の死がここまで虎杖にダメージを与えるとは思っていなかった。
泣き腫らした顔でこちらを見たときはうっかり「大丈夫?もう一回無為転変いっとく?」とか口走りそうだった。
これは俄然楽しみになってきた。
虎杖が天坂を精神の大部分の支えにしているのはこれで分かった。その支柱が折れた時、虎杖の心はどこまで壊れるのか。
こうなれば是が非でも渋谷事変まで生き残りたくなる。もし、あの宿儺による虐殺の果てに見る更地の一部に
それなら一層強くならなくては。七海の言う通り、虎杖を生かすために。最後の最後まで隣にいられるように。
自分よりも筋肉質な背を撫でながら天坂は願う。
もっと喪いたくないと思ってくれ、手放したくないと願ってくれ。
親愛の積み重ねの果てに待つ最期の時は、きっと天坂にとっても忘れられない瞬間になるだろう。
最終話までに天坂の本性は虎杖に
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