虎杖は天坂の血を吐くような本音を複雑な気持ちで聞いていた。
長い付き合いから天坂がどんな子が好きそうかは知っていたし、クラスの女子でどの子が好みかなんて話もしたことがある。だが、まさかこんなに具体的な話が出てくるとは思ってもみなかった。
これは完全に特定の人物を指している口ぶりだ。
親友に訪れた春を喜ぶ気持ち半分と、自分にはなにも言ってくれなかったじゃんという拗ねる気持ちがもう半分。
「その人のためなら一緒に地獄くらい落ちてやる!」
なんか話の流れが怪しくなってきた。
ちょっと、いやだいぶわりと怖いくらいに熱烈すぎやしないか。
こんなにも取り乱している天坂はなかなか珍しい。普段の落ち着いた態度がここまで崩れるとなると、相手への気持ちは虎杖の想像以上に大きいものだろう。だが、そんなに分かりやすく天坂が好意を示していた人が今までいただろうか。
仙台にいたときにはそれっぽい女子はいなかったように思う。本人も彼女はいないと言っていたし。ということは高専に来てからだろう。しかし、そもそも面識のある異性の数が片手で数えられるほどしかいない高専生で天坂の言葉に当てはまりそうな人なんて。
そこで虎杖の頭にある可能性が閃いた。
いや、いるわ。けっこう当てはまりそうな人。他人のために命を張ることができて、傷ついても立ち上がることができる同期の紅一点が。
思えば天坂は最初から釘崎に対して好意的であったし、交流会前のミーティングの時だって以前よりもかなり距離が縮まっていたように思う。普段の口の悪さとチンピラっぽさで分かりにくいが、釘崎はかなり可愛らしい女子だ。廃ビルで子供を救出したときに見た釘崎の笑顔は間違いなく可愛かった。
考えれば考えるほど思い当たる節がありすぎる。
最初に東堂に絡まれたときにはその場に釘崎もいたはずだ。そりゃ本人を前に素直に言えるはずがない。
マジか。自分が離脱している間にそんなことになってたのか。
あとで根掘り葉掘り聞いて、それでもって全力で応援しよう、と虎杖は心に決めた。
熟考していたせいで言い合いの後半は完全に聞き流していた。
突如、遠くから聞こえた轟音。その場にいた全員がそれに意識を向けたとき、空が暗幕で覆われた。
花御は戦闘に割り込んできた闖入者を見やる。
宿儺の器、よく分からない
東堂は抱えた真希をパンダに引き渡し、伏黒と共に帳の外へ出るように指示する。天坂に支えられ咳き込む伏黒の口元から血が伝う。
「クソッ、なんで止めねぇんだよ天坂」
「つってもなぁ。五条先生が来れない以上なんとかするしかないだろ」
「いくら東堂さんがいたとしても俺たちでどうこうできる相手じゃ」
「伏黒」
虎杖が振り返る。その目に迷いはない。
「大丈夫」
伏黒の頭に少年院での出来事がよぎる。あの時と似た状況。だが、虎杖の笑顔にあるのは捨て身の悲愴な懇願ではない。
「……次死んだら殺す!…天坂」
「ん?」
「頼んだ」
「おう」
パンダに抱えられる伏黒に短く返して、運ばれていくのを見送る。
「さて虎杖、俺はオマエが己の力を
「押忍!」
「天坂、オマエも手を出すことは許さん。今は
やだここ体育会系のノリの人しかいない。
ちらりと虎杖を見るが、晴れやかな顔で笑みを返されてしまった。
天坂は肩をすくめて東堂の隣まで下がる。
「死ぬなよ」
「ん。分かってる」
虎杖は再び花御に向き直る。
深く息を吐く。真人との戦いでは怒り任せに怪我にかまわずがむしゃらに突っ込みすぎて、結果として逃がしてしまった。
だから、今回は同じ轍は踏まない。黒く光った打撃を真人へ打ち込んだとき、たしかに何かを掴んだのだ。頭を支配しそうになる怒りを腹の奥底に深く沈め、呪力へ変換することを意識する。
自分の呪力の流れに集中しろ。思考を止めるな。戦いのなかで自分ができる最善を模索しろ。
一瞬、場を静寂が支配する。
痛いほどに張り詰めた空気の中で、虎杖の指先が川の水面を叩き大きな水しぶきを起こした。
虎杖を迎撃しながら、花御は虎杖への評価を改める。
人間離れした瞬発力に加え、変則的な打撃。術師としては未成熟と聞いていたが、なるほど真人が苦戦したのも道理だろう。しかし、不規則な攻撃も何度か受ければ癖が読めてくる。頑強な花御にとって虎杖の攻撃はそれほど脅威ではない。
次に来るだろう威力重視の打撃は腕だけで防御し、背後の根でカウンターを狙う。
そして、それに気がつかない虎杖ではない。
接触の瞬間に感じる違和感。想像より軽い威力に疑問を持つ前に、遅れてきた衝撃によって花御の腕が弾かれた。
『黒閃』を狙って出せる術師はいない。だが、『黒閃』を経験しているか否かによって呪力の核心への距離に天と地ほどの差がある。
そして、虎杖はすでに真人との戦いでそれを経験している。
無防備になった花御の腹に黒い火花をまとった拳が突き刺さった。
「パーフェクトだ、
満足げに笑う東堂の横で天坂は変な汗が滲むのを感じていた。
想像より強すぎないか。
原作ではここが黒閃初経験だったはずだが、なんだこの
推しのカッコよすぎる戦闘で上がっていたテンションが急速にしぼんでいく。耐久自慢の花御を祓うなんてことはさすがに無いにしても、やはり原作からの差異は確実に生じつつあるようだ。
かといって下手な立ち回りをすればサクッと殺されるのは自分なわけで。
花御のタフさを信じ、自分もできることをやるのが現状の最適解だろう。
「怒りは術師にとって重要な起爆剤だが、感情の揺れを制御できなければ呪力の出力は安定しない。よくぞ収めた」
「でもまだ掴み切れてねぇわ。集中して溜めないと切り替えられん」
「言ったはずだぞ、虎杖。思考することが重要だ。一度経験さえすればあとは身体がついて来るようになる」
「おう!サンキュー、
二人の会話に微妙な表情をしながらポケットから手鏡を引っ張り出す。
「東堂さん、
「ほう、その心は」
「入れ替えに選択できる対象が一対一なら、本体との見分けが付かない以上やっても東堂さんの負担が増えるだけですから。それに、ちょっとやってみたいことがあるんで」
「いいだろう。
「それほんとに解釈違いなんでやめてください」
「解釈違いって?」
「頼むからそこツッコまないでくれ」
すでに回復をし終えた花御の様子に虎杖と東堂も臨戦態勢に入る。
鏡から這い出した
人間が負の感情を噴出させる状況は様々だろう。場所への恐怖、他者への憎悪、理不尽への悲嘆など感情の振れ幅や大きさも人の数だけある。
では、より強力で手っ取り早い負の感情の捻出方法はなんだろうか。
生き物なら何であっても逃れられない人生最大の負のイベント。
『死の瞬間』こそ、その最たるものだと考える。
天坂は推しが自分を要因として曇ってくれることにテンションが上がるだけであって、自分に加えられる痛みに興奮するドМではない。痛いものは普通に痛いし、推しへの気持ちの後押しがなければ死ぬのだって怖い。
逆に言えば、天坂という人間は
手をたたく音が響き渡る。
入れ替わりのたびに虎杖と東堂の二択に迫られるうえに、入れ替わるタイミングに合わせて二人の天坂が肉薄しより状況を攪乱していくことで花御は着実に削られていった。
東堂が天坂に対して術式を使ったのは先ほどが初めてだったが器用に息を合わせてくる。戦力としては決定打に欠けるため虎杖がいなければ成り立たないのだが動き自体は悪くない。
虎杖の黒閃ラッシュも確実にダメージとなって蓄積されている。
この調子なら仮に天坂を離脱させることになっても祓えるだろう、と虎杖は思っていた。
東堂の振るった游雲の強烈な一撃が花御の頭部を抉る。
畳みかけるように天坂が一気に花御との距離を詰めるために駆け出すが、ガクンと動きが止まる。いつの間にか地面から這い出した根に脚が拘束されていた。一瞬だけ足元へと引き付けられた視線を花御へ戻したときにはもう鼻先三寸に根の先端が迫っていた。
驚きと恐怖に歪んだ顔にほんのわずかな喜色が垣間見えたのは花御の見間違いだったのだろうか。
ひどく呆気なく、
虎杖の喉からひゅっと乾いた音が漏れる。
首を失った天坂の身体が地面に倒れ伏す。そこで花御は気が付いた。
視界には虎杖と東堂のみ。もう一人はどこへ行った。
「東堂さん!」
声と同時に手をたたく音。
死体と入れ替わり、本物の天坂が花御の眼前に現れる。
冥冥の鴉のように命を懸けさせるという縛りも可能だ。しかし、そもそも自身の戦闘能力が凡人の域を出ない天坂の場合、攻撃が当たらなかったときのデメリットがあまりにも大きい。
形代とは元来、自身の穢れを移して身代わりとするもの。
相手に殺されることで死という穢れを背負わせたと解釈し、当たる前に殺された場合の保険として自分の呪力に変換できないかと天坂は考えた。
自分と同一の存在を呼び出せる天坂だからこそできる芸当であり、
呪力に変換するために、死んだ形代の記憶は引き継がなければならなくなる。
脳に走る激痛。視界が極彩色に明滅する。だが、この程度で止まることは許されない。
砕けんばかりに歯を食いしばる。変換した呪力を全て乗せ、拳を振りぬく。
防御のため張られた根ごと花御の右肩が吹き飛んだ。
吹き飛んだ肩をおさえて花御が膝を折る。まさか凡百の術師が一時的にとはいえここまで呪力出力を急上昇させるとは予想外だった。頭に直撃していたら危うかったかもしれない。
東堂は呆れたようにため息をついた。
「『
「すぐに対応してもらえて助かりました。俺だけじゃさすがに当てられなかった」
花御の周囲にあった植物が枯れていく。植物の命を呪力へと変換し、天坂が飛ばした右腕が再生していた。肩の『供花』へ膨大な呪力が収束していく。
領域展開が発動する前に、帳が上がった。
遥か空中から、現代最強の術師が見下ろしていた。
衝撃が過ぎ去った後、削り取られて地層が剝き出しになった地面につい乾いた笑いが漏れる。
規格外とはよく言ったものだ。五条一人で日本国民を皆殺しにできるというのは誇張でも何でもないのだと身に染みて理解した。
何はともあれ、天坂の『苦肉の策』は特級に通じ、生き延びることには成功した。成果としては上々だろう。
身体から力が抜けたとき、虎杖の拳が天坂の右頬に入った。肉と骨に衝撃が響く。
なんとか踏みとどまった天坂の胸ぐらを虎杖が掴みあげる。
「悠……」
「二度とあんな戦い方すんな」
襟の布地を軋むほど強く握りしめる。
形代が倒れた瞬間、虎杖の脳裏にあの里桜高校での光景がフラッシュバックした。またこの手は届かないのか、と底冷えするような恐怖が蘇る。
「あれは俺じゃない、
「快里がなんと言おうと、俺にとっては全部オマエなんだよ」
宥めようとする天坂の言葉を跳ね除ける。ここは絶対に譲れない。
どれだけ守りたいと思っても、形代の犠牲ありきの戦い方をされてはたまらない。こっちはただでさえ本物と偽物の区別がつかないのだ。うっかり本体が死んでしまった、なんてことになったら取り返しがつかないのに平然と身を削ろうとするなら黙っていることなんてできなかった。
喪う恐ろしさを身をもって知ったからこその感情だった。
思えば、こんなに真っ向から天坂に怒りをぶつけたのはこれが初めてかもしれない。
「だから、二度とすんな」
天坂は虚を突かれたような顔をして、くしゃりと表情を歪めた。
「……ごめん」
その声があまりにも悲痛に震えていて、つい手を放してしまった。支えを失った天坂はそのまましゃがみ込む。
「ごめん」
もう一度呟かれた言葉に小さく震える背に手を伸ばしかけた。それを東堂が制する。
「
そうだ、自分は今怒っている。ここで手を差し伸べたら今までと何も変わらない。反省して、天坂自身の命を顧みるようになってもらわなければ。
「……俺、先に行ってる。釘崎たちの安否も気になるし」
「ああ。こちらは任せておけ、
しゃがみ込んだ天坂は反省している訳ではなかった。
怒りに顔を歪めた虎杖に掴みかかられた時点でだいぶ限界が来ていた。そのうえあんな心底傷ついた顔をされては抑えられるものも抑えられない。危うく虎杖の前で気色悪い笑顔を晒すところだった。
込み上げる笑いに背中を震わせる。ここまで本気の怒りを虎杖からぶつけられたのは初めてな気がする。殴られたのはめちゃくちゃ痛かったが、それ以上に歯を食いしばりながらこちらを睨む表情に言いようのないほどに高揚した。
友愛からくる直情的な怒りを向けられるのがここまで心地よく感じるとは。開けてはならない新しい扉を開いてしまった気分だ。
「全部俺、か」
まさしく虎杖らしい、優しさにあふれた言葉だ。
たった一言でこんなにも心が満たされる。だからこそ、最期のときが待ち遠しい。
少なくとも天坂のいくつもの
今から未来に思いをはせるだけでゾワリと鳥肌が立つ。
そこまで考えて思考を打ち切った。さすがにこれ以上はよろしくない。
頭を切り替えるために短く息を吐き立ち上がる。
隣にいた東堂がなぜか満足気に頷く。
「なかなか良い顔つきになったな。愛は時にぶつかりながらも人を成長させるものだ」
「……なんの話?」
もう一人の
真希、伏黒と虎杖のところへ戻るときに呪霊討伐を任されたが、呪霊を見つける前に帳が下りてしまい早々に戦線を離脱せざるを得なかった。
今回は時間制限は設けていない代わりに『死なないこと』が縛りとして課せられている。
『形代流し』は死の穢れを形代に背負わせる代わりに、一時的に強力な呪力を得ることができる。ただし、記憶の引き継ぎも強制的に発生してしまうのがデメリットだ。
一人分ならまだしも二人分の記憶を、しかも予想できないタイミングで頭に流し込まれたら天坂の脳は処理落ちしてしまう。
命のやりとりの真っ最中に硬直なんてシャレにならない。
なので
花御が撤退したなら他の面々と合流すれば
時間制限がない今の
大人しく本部のある建物へと向かっていた時だった。
怪我をして血を流し、ふらつきながら歩く補助監督が目に入った。
「大丈夫ですか?」
「君は……、なぜここに一人でいるんだ。生徒は危険だから本部と合流するようにと」
「俺は分身みたいなものなんで平気です。本体は仲間とまだ森にいるはずで」
「へぇ、それは良かった」
補助監督の口が、人間の顎の可動域を超えて大きく開く。
深淵を思わせる喉の奥の闇。そこから飛び出したつぎはぎの腕が
「お使いついでにいいもんみーっけ」
振りほどく間もなく、意識が遠のいた。
年が明けたのに繫忙期が終わらない男!
いや本当に申し訳ないです。お気に入り、感想、評価ありがとうございます。本当に励みになってます。