隣で大あくびする虎杖につられて天坂もあくびを漏らした。
「呪霊の呪の字も出ないじゃない……」
「だな……」
ぼやいた釘崎の目元にもクマが疲労として色濃く出ている。
寝不足の頭は霞がかかったようにぼんやりとしていて、短く言葉を返すのがやっとだった。
目を擦りながら周りを見るとようやく空が白んできているところだった。
だんだんと強くなる日の光で、夜の闇に沈んでいた周囲の光景が輪郭を取り戻していく。
鯉ノ口峡谷をまたがるその橋は朝日に照らされ、どす黒い谷底の不気味さは薄れて日常の一部へと戻っていく。
すでに八十八橋の呪殺は始まっている。このまま何事もなければ八十八橋の呪いと宿儺の指の共振、そして血塗、壊相との戦闘が待っている。
八十八橋は伏黒が領域展開を会得する重要なターニングポイントだ。
下手に干渉すると後々の渋谷で伏黒周辺の流れが大きく変わってしまう。それを避けるならば必然的に壊相・血塗との戦いに参加することになる。
虎杖と釘崎の黒閃が見られるかもしれないのだ。多少痛い目を見ても食らいつかなければ。
呪詛の残穢どころか気配すらない八十八橋から撤収し、補助監督の新田と方針を話し合いつつコンビニ飯でエネルギーを補給する。
ゼリー飲料を吸っても天坂の頭のもやが晴れないのは眠気のせいだけではない。
今なお天坂の形代は行方不明だ。
高専襲撃の騒ぎのあと、どれだけ探しても形代の足取りはなぜか掴めなかった。
いくら騒動があったとはいえ警戒態勢の高専を誰にも見られずに、人の足で出て行けるとは思えない。
どこかで死んだとしても、本体である天坂になにか影響があるはず。
念のため遺体があがっていないか伊地知に確認したが、ものすごく気まずそうな表情で「……頭のないご遺体でしたらお一人」と返されるだけだった。やつれた顔にさすがに申し訳なくなってそれ以上は聞かなかった。
そうなれば、いなくなった原因は『第三者に拐われた』と考えるのが自然だ。
あの日、高専に侵入したのは花御、組屋鞣造、重面春太、そして真人。
対面して戦った花御、捕まった組屋鞣造は除外。重面はわざわざ形代を生かしたまま連れて行く動機がない。
消去法ではあるが形代を生きたまま拘束しそうな愉快犯は真人くらいだ。
問題はその真人だ。
この先、真人は虎杖にちょっかいと言う名のえげつない精神攻撃をかけまくる。
渋谷の局面で下手に「ほーらオマエのお友達だよ~」なんてノリで改造人間版天坂を出してきたら、また何かしらの流れを変えそうだ。
取り返そうにも天坂には形代の位置を精密に察知するなんて便利な機能はなく、まだ生きているだろうなとぼんやり感じるくらいだ。
どうしたもんか、と空になったパックを行儀悪くペコペコへこませていると、伏黒の同級生と後輩がチャリに乗ってやって来た。
ひとまず形代のことは頭の隅に追いやる。
今は八十八橋を乗り切ることに集中しなくては。
順調に進んでいるはずだった。
単独で八十八橋の下へ向かった伏黒を追いかけて生得領域に侵入し、血塗が乱入してくるまでは問題なかったのだ。
問題は乱入してきた血塗だった。
見た瞬間に天坂の全身の毛が逆立つ。
緑色の体表に中途半端に人間の名残がある頭部。
絶えず血が流れ出ている目にはぽっかりと空洞が広がり、巨大な口から血塗れの舌と歯がのぞいている。
たしかにおぞましい姿ではある。
だがそこじゃない。
天坂自身にも説明ができない奇妙な違和感。
前世の記憶やらを抜きにして、目の前の存在を天坂は
鈍った思考にトドメをさすように、緑色の指が天坂を指す。
「あ゛、オマエ、知ってるぞ」
血塗は巨大な口をニタリと歪める。それに合わせて人間の顔がいびつに残った頭部も笑う。
その頭部と浮かんだ仮説が結び付くまえに釘崎が暗闇に引きずり込まれた。
釘崎を抱えて、虎杖は夜の森を駆け抜ける。
壊相の『翅王』による血の猛攻が背中に迫る。地面を抉るほど強く蹴り、虎杖はさらに速度を上げた。
土から飛び出した根を飛び越え、行く手を遮る枝を掻い潜り、土煙を上げながら疾走する。
あまりのスピードに抱えられた釘崎は振り落とされないよう必死にしがみつくしかない。
足を動かしながら虎杖は思案する。
伏黒の姉、津美紀は八十八橋の呪いを受けたかもしれない。
その可能性に行きついた時点で伏黒は普段からは考えられないほど焦っていた。
虎杖に釘崎を追うように言ったときも、いつも通りに見えて内心の焦燥感は消えていないはずだ。
そして、もう一つの懸念は天坂だ。
生得領域に侵入してきた『別件』を見てから明らかに様子がおかしかった。
虎杖はたしかに聞いたのだ。
あの緑色の呪霊らしきものが天坂に「オマエを知っている」と言ったのを。
天坂とあの呪霊の間になにがあったのかは分からない。だが、なにか嫌な予感がして天坂には領域内に残るように言った。
森を一気に抜け、道路に出る。
追いかけて来ていた血の射程外であることを確認してから抱えていた釘崎を下ろした。
周囲の気配を探ってみるが、ひとまず追撃はなさそうだ。
「よくやった。褒めてつかわす」
「へいへい」
「ウソ。ありがと」
「おう。で、釘崎にちょっと聞きたいんだけど」
「何よ」
「アイツらってなんだと思う?」
なぜ天坂だけに反応したのか。
天坂の面食らった様子から、あの反応は本人にとっても想定外だったのだろう。
しかし、自分たちが知らない何かをおそらく天坂は知っている。
「天坂がアイツらと通じてるってこと?」
「いや、そこまでは言わんけど」
「んなこと言われたって、アンタが分からないなら私も分かんないわよ。判断材料が少なすぎ。なんとも言えないわ」
「だよなあ」
「ぶっちゃけあの変態ルックが人間なのか呪霊なのかさえ判断つかないわ。分かるのは確実に敵ってことよ」
呪いなのか、人なのか。
ふと、虎杖は思い付く。どちらでもない人と呪いの狭間の存在。
いまだ行方不明のまま『死んではいないらしい』天坂の形代。
もし、血塗の『知っている』のが
「最期のご歓談は終わりましたか?」
その声に釘崎が反応するより早く虎杖が動く。
すぐさま釘崎を背後にかばい防御姿勢をとる。鋭い血の刺突が虎杖の左の上腕に突き刺さった。
じゅう、と肉が焦げる嫌な臭いとともに虎杖の腕から血煙りが立ち上る。
「虎杖!」
虎杖の被弾に気を取られた釘崎は、背後の斜面を上ってきた血塗の吐き出した血しぶきをもろに浴びてしまった。
肌を伝う生温い液体とじくじくした痛みに顔を歪ませる。
「弟の血には私のような性質はありません。私の血だって全身に浴びでもしなければ死にはしませんよ。まあ、死ぬほど痛みますが」
ゆったりとした足取りで現れた壊相は片手で印を結ぶ。
血を浴びた箇所から咲き乱れるような薔薇の紋様が浮かび上がり、身体へと広がる。
蝕爛腐術「朽」。壊相、血塗のどちらかの血を取り込み、兄弟のどちらかが術式を発動することで血液の侵入部分から対象を腐食させる。
「あなたとそちらのお嬢さん、どちらも保ってあと10分と言ったところでしょうか。朝には骨しか残りませんよ」
宿儺の指を奪還するお遣いに想定外の邪魔が入ったが相対した呪術師たちは大したことはない。
術式開示の効果が上乗せされることで実際にはもっと早くに死が訪れるだろう、と壊相は内心でほくそ笑む。
腐食の痛みに蝕まれながらも虎杖は冷静に術式を解除させる方法を考える。
狙うなら目の前の壊相より背後の血塗だろう。
吐きかけてくる血は警戒すべきだ。しかし八十八橋の結界内で戦った手応えとして、虎杖が後れを取る相手ではないだろう。
なにより虎杖の体内にはすでに猛毒である宿儺の指がある。腐食による分解の痛みはあれど、それだけでは虎杖を止められない。
釘崎の肩越しに血塗を確認する。
それと同時に雲がはれ、月光が周囲の輪郭を明瞭なものにする。
「あ」
声を上げたのは釘崎と虎杖どちらだったか。
さきほどまで暗がりで判然としなかった血塗の『顔』が月明かりに照らされる。
呪物が受肉体となる過程で、その容姿は元となった人間の呪物への耐性によって左右される。虎杖のような容姿も自我も失わない例はきわめて稀である。
御三家の汚点、加茂憲倫の手で残された受胎九相図。呪霊の子を孕む特異体質の娘を使い、九度の懐妊と堕胎を繰り返したことで生み落とされた赤子の亡骸は特級呪物に指定された。その呪力の強さから元となった人間の面影はほぼ残らない。
しかし、血塗は他の兄弟より呪物としての力が弱く、それゆえに素材にされた人間の面影を頭部に残している。
「なんで」
虎杖が絞り出すように呻く。
空の眼窩。血を滴らせる口。あまりにも変わり果てている。それでも否定できないほどに、その顔には見覚えがあった。
「なんで、こうなる……!」
天坂快里の顔がそこにあった。
腹の底が冷えていく感覚とともに、血塗を見たときの天坂の態度に合点がいく。
天坂の術式は自分という存在を複製する。受肉体となったとしても本体である天坂自身が血塗の
「虎杖」
声を落とした釘崎が虎杖にだけ聞こえる声量で囁く。
「迷ってる場合じゃねえぞ。ここでやらなきゃ私らが殺される」
「分かってるけど」
形代は『死んでいない』と天坂は言っていた。つまり受肉体となっても本体とのつながりは継続されているということになる。
受肉体が死んだ場合、血塗という呪物の記憶や人格が混ざったまま本体に還る。
それは、疑似的に呪物を飲み込むのと同義ではないだろうか。肉体的には死なずとも間違いなく人格と記憶に何かしらの影響が出る。
そんなことは釘崎にもわかっていた。
「私だって死なせるつもりないわよ。ま、殺すつもりでやるけど」
そう言うや否や、釘崎は薔薇の紋様が咲き乱れる腕に容赦なく五寸釘を突き立てた。
心臓に直接杭を穿たれたかのような激痛が壊相と血塗の動きを確実に止める。
腐食と毒の影響で額に脂汗をびっしり浮かべながら、しかし釘崎は好戦的な笑みを崩さない。
「当たれば勝ちの術式、お前ら強いな。でも残念。私との相性最悪だよ!」
芻霊呪法「共鳴り」は術式対象の一部があれば人形を通して呪力を打ち込める。
さきほど吹きかけられた血液を媒介に、与えたダメージは蝕爛腐術の発動で強くつながりあっている二人に共有される。
これは賭けでもある。
芻霊呪法において血液に高い価値はない。
術式が血液に依存するものなら、直接的に蝕爛腐術の術式のつながりがない天坂にまで強力なダメージは届かないだろうと踏んだ。
あくまで仮定の話だ。いまごろ痛みに悶えて転げまわっていてもおかしくはない。
文字通り死ぬほど痛いだろう。
術式を解かれるのが先か、自分たちとここにいないもう一人がくたばるのが先か。
「我慢比べ、しよっか」