びくりと身体が震えて天坂は飛び起きた。
起き上がった勢いがありすぎたのか、頭から血の気が引いて再びベッドに沈む。
冷や汗でスウェットが肌にはりついて気持ち悪い。
なにか、とんでもなく悪い夢を見ていた気がする。
ぐらぐらと思考がまとまらないせいで、わずかに残っていた夢の記憶が霧散していく。
とにかく喉が渇いて仕方がない。よたよたしながら冷蔵庫の扉を開け、水を一気にあおって噎せた。
八十八橋から帰還した天坂は二日ほど昏睡状態になったらしい。
そのせいなのか橋の下の結界に入ってからの記憶が曖昧だ。
虎杖と釘崎の黒閃を見るどころか、伏黒が領域展開をしたかさえよく覚えていない。
意識が戻ってからことの顛末を聞いて、それはもう落ち込んだ。
また二度とない展開を見逃している。しかも、形代が素材となった血塗にトドメをさしたのは虎杖だというじゃないか。
なぜこんなに都合の良いことが起こりつつも、その時に立ち会えていないのかと自分を殴りたい。邪なことばかり考えていることへの天罰だろうか。
天坂が今回得たものといえば怪我と記憶が混濁した脳ミソくらいだ。
そして、天坂はおかしな夢をよく見るようになった。
今までも形代の死に際の記憶が夢の中でフラッシュバックして飛び起きるなんてことは何度かあったが、今回のはそういった記憶由来のものとはまた別な気がする。
現実味のないくせに妙にリアリティがあり、目が覚めると詳細を思い出せない。
ただ、誰かのもとへ帰らなければという、胸を引っ掻くような焦燥感だけが残っている。
踏んだり蹴ったりだ。
時計を見ると午前5時少し前。
寝直そうにも眠気はすっかり消えてしまっている。しかたなく汗を拭き、制服に着替えて外に出た。
まだ日が上りきっておらず薄暗いなか、あてもなく高専の敷地内をフラフラ歩いて時間をつぶす。
残暑が厳しいが夜明け前は肌寒くなってきている。着実に季節は進み、10月31日が迫ってきていた。
天坂がこうして日常を過ごすのもあと少しだ。そう思うと少し寂しい気もする。
足を止めて朝もやが立ちこめる神社を見上げた。
期待はもちろんある。しかし、今回の一件で不安の方が大きくなった。現在進行形で自分の身に何が起こっているのか分からないうえに、形代の運用についても見直さざるを得なくなった。
ここまで来たら意地でも我を通したいところだ。が、現実がそう甘くないことも充分すぎるほどに分からされている。
「どうしたもんか……」
「なにが?」
後ろから聞こえてきた声に飛び上がりそうになった。
いつの間にか隣に虎杖が立っている。
朝のランニングをしていたのか半袖Tシャツにジャージというラフな恰好だ。汗をうっすらかいているものの息は全くあがっていない。
「びっ、くりした……。気配消すなよ」
「いや消してないけど。ビックリしたのはこっちだって。まだ暗いのに快里がフラフラしてんだもん」
「まあ、なんか寝れなくってな」
「身体は?」
「もう良くなった」
そう言いながら歩き出すと虎杖もついて来た。もうランニングは良いのかと思いつつも、特に何かを話すわけでもなく二人で散歩する。
そういえば八十八橋の一件以来、怪我で寝ていたこともあったが、あまり虎杖と一対一で話す機会がなかったような気がする。
ちらりと横目で虎杖を窺うと目が合った。
「どうした」
「……快里さ、小学校のときのこと覚えてる?給食の虫騒ぎ」
「あー、糸こんにゃく。あったなそんなこと」
空が白んできて、ぼんやりした明るさで照らされる石畳を進み、大きな鳥居をくぐる。
こうして正しい道順を辿るのにもずいぶん慣れた。
なんとなく虎杖の声が強張っているように感じたが、ここで突っ込むのも野暮かと思い話を続ける。
「遠足で山行ったときとか」
「ガチで毒虫出たやつか。新任の若い先生だったからすげー大騒ぎになって」
「石村先生、虫マジでダメだったらしい」
「なんなら一番叫んでたもんな」
「中学のときも山登りさせられた」
「校外学習なんだからもっと良いとこ連れて行ってほしかったよな。悠仁が他校の生徒と鉢合わせたときはヒヤッとしたぞ」
「べつにそん時は喧嘩しなかったぞ」
「でも当時はもう有名になってただろ。西中の虎」
「それマジやめて」
「中学といえば、悠仁はわりと女子との接点あったよな。荒れてたのに」
「言うほどあったっけ?」
「あっただろ小沢とか」
「同じクラスだったしそれなりに喋ることはあるだろ」
「はー、そういうことじゃないんだよなー。これで本人はモテないって認識なんだもんなー。やってらんねー」
「そういえば快里って小沢とあんま仲良くなかったよな」
「仲良くないっていうか、避けられてたっていうか」
「なにしたんだよ」
「なんもしてないっつの」
とりとめの無い思い出話をしていると、固かった空気が少し緩んできた。
日が昇ってきて虎杖の横顔がオレンジ色の光に照らされる。
軽口を叩く虎杖はどこか安心したような表情で朝日に目を細めていた。
つい小さく笑うと虎杖が不思議そうな目で天坂を見る。
「いや、妙に緊張してる感じだったし、何言われんのかと思ったら昔話だとは思わなくて」
「あー……、そんな風に見えてたか」
「そりゃあんな不安そうな顔してたらな」
マジかー、と言いながら手の甲で顔を擦っている。
何かを言おうとしてはやめてを数回繰り返して、思い切ったように話を切り出した。
「家入さんに、もしかしたら人格とか記憶に障害が残るかもって聞いてたから」
「……それは俺も聞かされた」
「受肉って本来は魂含めて全身を呪物に乗っ取られるらしい。だから、呪物の記憶だったり魂だったりがどれだけ影響を与えるか分からないって。家入さんは今回のケースは特殊で受肉に関しては分からないこともあるから気にしすぎるなって言ってたけど、快里のクマひどくなってるし、寝れねぇって言ってるし。まあ、怖えじゃん」
だんだん言葉が尻すぼみになり、虎杖は居たたまれなさそうな顔で黙り込む。
そこでようやく唐突な思い出話が始まったことに合点がいった。つまりは天坂に記憶の欠落がないか確認していたのだろう。
じわじわと心の空白が埋まっていく感覚。
虎杖の言葉を咀嚼し、飲み込み、悪夢で冷えていた身体の末端が温度を取り戻していく。
虎杖にとって、他者への心遣いは当然のものだ。そんなことずっと前から知っている。
だが、それがこんなにも嬉しい。
「でも記憶に関しては全然平気そうだな」
「そりゃ俺が悠仁との思い出を忘れるわけないだろ」
「大げさだろ。茶化すなっつの」
「悠仁」
「んー?」
「俺、やっぱ悠仁と一緒に高専に来てよかったよ」
天坂は心から、本当にそう思う。
頭からモヤが晴れたような気分だ。この幸福を、前世で得られなかったこの上ない幸福を、永遠にするために立ち止まっている場合ではない。
早足で石段を駆け上がる。虎杖が笑いながらあっさりと追い抜いていくのを横目で見て、足に力を入れて階段を蹴る。
何をしてでもこの呪いを成就させてみせる。己の魂がどう変質しようと、ずっと願いは変わることはない。
ある日の任務終わり。
伏黒は伊地知の車で直帰。虎杖と天坂は映画までの暇つぶしに別行動。
釘崎はと言うとタピオカ片手に街をフラフラしていたら、見知らぬ同い年の女子に声をかけられた。
適当なファミレスに入り、事情を聞きつつ小沢優子と虎杖とのツーショット写真に視線を落とす。
これにピンとこないほど釘崎は鈍感ではない。
「つまり、
「はい。
これは協力しないわけにはいかない。情報源はまだこの辺のゲーセンにいるはずだ。
すぐさま天坂に連絡を取ろうとしたが、小沢に止められた。
「天坂くんは呼ばないでもらえますか」
「なんで?同中だし虎杖のこと一番知ってるのアイツでしょ」
「そうなんですけど」
小沢はとても言いにくそうに視線をテーブルに落とす。
「虎杖くんと天坂くんすごく仲が良いじゃないですか」
「そうね。ちょっとキモいくらいね」
「……虎杖くんを見てるときの天坂くん、怖いんです」
「怖い?へらへらしてて鬱陶しいなら分かるけど」
「私、よく虎杖くんを見てました。だから自然と天坂くんも目に入っていたんです。虎杖くんがふと目をそらしたときとか、誰か別の人と話してるときとか、その……」
「あ、私アイツがどう言われようと興味ないから気にしないで」
「えっと、なんていうか、笑ってるんです。ずっと。他の人なんて見えてないみたいに。その笑顔も友達に向けるものっていうよりは……。とにかく、面と向かって話しにくくて」
そこで小沢は口を閉ざしてしまった。
深刻そうな小沢の顔に釘崎は首を傾げる。
釘崎の知っている天坂は平凡というわけではないが、率先して他人を害するタイプでもない。
しかし、小沢の表情を見るによっぽど天坂を敬遠する何かしらがあったのだろう。
「分かったわ。とりあえず天坂は呼ばない。代わりに別の情報源呼ぶから」
天坂の名前の下にある伊地知の番号をタップする。まだ高専に着いてなければ伏黒を送り返して貰えるはずだ。
電話は数コールで繋がり、10分もしないうちに不機嫌そうな伏黒がファミレスに現れた。
「何なんだよ」
「伏黒、いま虎杖って彼女いないよな?」
「いやマジで何の話だ」
帰る途中で突然車がUターンして何事かと思えばこれだ、と伏黒のこめかみに血管が浮かぶ。
かくかく然々で事情を説明すれば伏黒は大人しく釘崎の横に座った。
「ないだろ」
「根拠は?」
「急に東京来るってなっても困ってなかった。それに部屋にグラビアアイドルのポスターが貼ってある。彼女いたら普通そういうの貼らないだろ」
釘崎はほっと胸を撫で下ろす。小沢も伏黒が断言したことで少し安心した顔になる。
伏黒がはっきり言い切ったのには他にも理由があった。
釘崎がいない場で、しばしば虎杖は天坂と好みの女子の話やら好きなグラビアアイドルの話をしているのだ。特定の相手がいるなら話題はそっちにいくだろう。
なぜ知っているかと言うと、その手の馬鹿な会話をするときは大体伏黒の部屋に来るのだ。同期の性癖事情なんぞ知りたくもないのに、馬鹿二人の会話に伏黒も巻き込まれた。
部屋でエロ本探しをしていた二人の頭をひっぱたいたのは記憶に新しい。
女子のいる手前、そういった下品極振りな事情は伏せる。
こっちまでとばっちりを食うのは御免だ。
「あの、ちなみに虎杖くんの好きなタイプとか」
「あー、背が高い子って言ってたな」
伏黒の言葉に女子二人の目が輝く。
すぐさま虎杖のアカウントの画面を開きファミレスのURLと「来い」の二文字を送信する。
「あ、たぶん天坂ついて来るかも。言っとく?」
「あ、いえ、そこまででは」
「そう?」
メッセージを送って数分もせずに虎杖は景品の紙袋を片手に現れた。釘崎の予想通り、その後ろに天坂もいた。
そこで釘崎は小沢の事情を虎杖に伝えそびれていたことに気がついた。
「あれ、伏黒もいんじゃん」
「オマエら二人とも煙草臭くないか」
「悠仁はパチ行ってたからな。俺はそんなでもなくない?いちおう分煙のゲーセンにいたんだけど」
ふい、と虎杖の視線が小沢へと向く。小沢は見せてもらった当時の写真よりもずいぶん痩せていて、おそらく一目では誰だか分からない。
「あーと、虎杖!この子は」
「あれ、小沢じゃん。なにしてんの?」
あまりにも事も無げに、虎杖は小沢に話しかけた。その声色は中学のときと何も変わっていなくて、小沢の瞳がわずかに潤む。
10点の札を上げる釘崎と伏黒の横で、天坂は無言で10の横に0を一つ付け足す。
小沢の頭に中学時代の記憶が浮かぶ。
べつにこの気持ちを伝えるつもりなんてなかった。それでも、淡い期待があったことも確かで。今の自分なら、と思ってしまった。
この尺度はかつて自分が嫌っていたもののはずだったのに、いつの間にか自分自身もその尺度で生きていた。
分かっていたはずだ。この気持ちは抱えていくものだって。
ファミレスを出た後、小沢を駅まで見送った。
手を振る虎杖に遠慮がちに手を上げ、その横にいる天坂に少し顔をこわばらせて小沢は改札の向こうに見えなくなっていった。
釘崎のジトっとした視線が天坂に向く。
「で、天坂。アンタ優子になにしたのよ」
「だから何もしてないって……」
既視感のあるやり取りに天坂はため息を吐いた。
真人は脹相が壊した人生ゲームの駒を指先で弾く。夏油に向かって飛んで行ったそれはあっさり避けられた。
「夏油さあ、なんでアイツを受肉体にしたワケ?絶対俺が改造人間にした方が面白かったじゃん」
「真人に聞いたときから考えていたんだ。同一存在を召喚するなんて聞いたことが無くてね。それで、今回彼と話してみて分かったんだ」
「なにが?」
「あの術式は召喚ではなく、魂の一時的な分割なんじゃないかな」
「……それ、人間ができる芸当?」
「さあね。あれもある種、逸脱した執着の成れの果てなのかもしれない。分割した魂の断片は肉体の死をもって本体へと還るのだとしたら、魂まで侵食する受肉はどんな影響をもたらすんだろうって気になってね」
失敗作に終わった受胎九相図。しかし、それを素材に新たな可能性を示すことはできる。
もし本体に還ることで人と呪物の魂が混ざるのなら、その対象をどのように変質させるのか。
呪霊と人との混血でもなく、だがしかし人でもない別の存在へと進化するのだろうか。
「気になったら、試さずにいられないだろう」
夏油は床に転がる駒を拾い上げる。
人を模していたがひび割れ、折れ曲がり、無残に変形した駒は夏油が軽く力を入れただけでへし折れた。