もうすぐ渋谷事変がアニメで始めってしまう……。
教室に入ってきた五条が開口一番に言った。
「混ざってんね」
視線は怪我も完全に治ってようやく授業に復帰した天坂に向いている。
五条の言葉に虎杖、伏黒、釘崎の視線がいっせいに天坂に集まる。
「なにがですか」
「快里のとは違う呪力が。悠仁みたいに明確に混ざってるっていうより途中って感じ?インスタントコーヒーにお湯入れて混ぜないでダマになってる、みたいな。マジで影響出てないの?」
「いまのところは無いですけど」
「念のため家入さんのとこに行かせたけど、とりあえず問題なしって言われてたっす」
虎杖の補足に「ふーん」と納得したのかしてないのか分からない返事をする五条の表情は目隠しのせいで読めない。
「本体はもう死んでるから残りかすって感じかな。でも悠仁と違って快里は耐性があるわけじゃないし、自分の意識を手放さないようにね。意識を乗っ取られる可能性もゼロじゃないから」
「それって俺が寝てるときにもあり得るんですか」
「さすがにただ寝てるだけなら無いけど、意識が薄くなってるときに影響が表出してくることはあるかもね。なんにせよ自我を強く保つこと」
「自我ですか……」
「自我ですか、じゃないわよ。急に乗っ取られたりしたらマジ問答無用で殺すわよ」
「前回は役立たずで申し訳ない」
釘崎に詰められている天坂を横目に伏黒が軽く挙手する。
「そんなあやふやな対策以外に何かないんですか、五条先生」
「そう言われてもね。こればかりは本人の問題もあるし」
そうだなあ、と首をかしげて腕を組む。
「もし精神が生得領域に引きずり込まれたら、何としてでも出てくること。下手したらそのまま取り込まれるかもしれないからね」
「本体は死んでるのに生得領域があるんですか」
「宿儺だって本人は死んでるよ。ま、さすがに呪物としての格が違うけど、警戒に越したことはないし」
影響の表出、と天坂は頭のなかだけで繰り返す。
たしか虎杖は少年院で一度死んだときに宿儺の生得領域に入っていたはず。
つまり、そのレベルで意識が無くなれば生得領域に入れるのだろうか。
五条が授業の開始を告げる声をどこか遠くに聞きながらそんなことを考えた。
また、血塗は夢を見ていた。
兄弟たちとの穏やかな理想。変わらず末席には男が俯いている。
じっと見ていて気がついた。男に顔ができている。
ぐちゃぐちゃでのっぺりしていた顔面は、かき集めて固めた絵具で凹凸ができている。
動かなかった男が突然頭だけをぐりんと血塗へ向けた。
「ああ、やっと会えた。寝てるだけじゃどうにもならなかったからな。ちょっと無理して良かった」
色彩が混ざりひび割れた唇が言葉を発する。
とっさに隣の兄へ手を伸ばすが、指は空を切るばかり。
いつの間にか兄弟たちの姿は消え、男と血塗だけがこの空間にとり残されている。
「そんな反応するなよ。俺たちは今や兄弟より近い仲なんだし」
青緑の目蓋を歪ませて男が笑う。
眼球があるはずの空間は血塗と同じで空洞だった。
『なんだ、オマエ』
「先に俺を知ってるって言ったのはそっちの方だろ、血塗」
安穏とした夢に溶けていた思考がだんだんと戻ってくる。
あのとき。壊相と『お遣い』に行ったあのときに、血塗は死んだはずだ。
今にも泣き出しそうな顔の人間の振り下ろした拳と黒い火花が視界を奪い、そこで記憶が途切れた。
さらに記憶を遡る。
母の胎で死んでから呪いとなり、兄の存在を寄る辺に過ごした150年。
そして、目の前の男を魂ごと上塗りして血塗は再び生まれた。
『俺の身体になった奴』
「今はオマエが間借りしてる魂の持ち主だよ」
『俺は生きてんの?』
「生きてはいない。俺の形代が死んだときに混ざった記憶と一緒について来たんだろうな。今の血塗は記憶の残滓と強い呪いが合わさってできた人格もどきみたいなモンだろ。さすが特級呪物」
『俺を消しに来たのか』
「いや、ただ間借りさせとくのもと思ってな。賃料を取り立てに来た」
意味が分からず血塗は首をかしげる。
目の前の男、天坂快里は右手を差し出す。
「俺と手を組もう、血塗。俺に協力してくれたら、オマエのもう一人の兄ちゃんに会わせてやる」
ぽかんと口を開けてしまった。
仮にも取り殺された相手にこんな平然と取引を持ちかけてくる人間がいるのか。
『なに企んでる』
「俺はさあ、前は頭が何も考えらんない状態でただ無意味に、無感情に線路に落っこちたんだ。だから、二回目は最後まで好きなことだけ考えながら必死に一番いい終わり方を目指して最善を尽くしたいわけなんだよ」
血塗は天坂の言いたいことが分からず首をかしげる。
天坂は朗々と語りながら歪で粘着質な笑顔を浮かべる。ニチャっという擬音がしそうなそれは、おおよそ人間が浮かべる笑顔とはかけ離れていた。
「俺は虎杖悠仁に、消えない傷を残して死にたいんだ」
理解ができない、というか意味不明だった。この天坂と言う男が狂人であるということしか分からない。
こんな人間と手を組むのは抵抗がありすぎるが、しかし血塗の脳裏には長兄である脹相の顔が浮かぶ。
自分は兄を二人とも置いて逝ってしまった。三人で一つだと手を重ねたのに、自分が一番早くその手を離してしまった。
もう一度兄のもとへ帰るチャンスがあるなら断る理由がない。
迷うことなく右手をとれば、天坂は楽しそうに肩を揺らした。
『そんで俺はどうすれば良いんだぁ?』
「まず俺と記憶の共有ってできたりする?」
『できるっていうか俺が取り込まれた時点で共有されてんじゃないの?』
「オマエに受肉されたうえに死んだショックで全部飛んでるわ。こちとら普通の人間だぞ」
『普通の人間は記憶だけじゃなくて命も飛ぶんじゃねぇかな』
「別に全部共有しなくていい。具体的に言うと血塗の死に際あたりだけで充分。な、な、頼む」
すごいグイグイくる。あまりの必死さに、さすがの血塗も若干引いた。
共有といってもどうすればいいか分からず、とりあえず具体的に何があったか思い起こしてみる。痛かったし兄を置いて逝ってしまった記憶だから本当は思い出したくはないのだが。
『どう?』
天坂は目を閉じてなにも言わずにスッと親指を立てた。
よく分からないが上手くいったらしい。
『で、具体的に俺はこれからどうすれば……。聞いてるかぁ?』
「ちょっと待ってくれ。あと五回はこの記憶を反芻したい」
『なんで?』
「趣味、というか生き甲斐」
人間って案外呪いと大差ないのかもしれない。
恍惚とした顔で両拳を天へ突き上げている天坂を眺めながら血塗は思った。
しばらく天坂の奇行を眺めていると、満足したのか深く息を吐いて空虚の広がる目を血塗へ向ける。
「で、ここからが本題なんだが」
『長かったな』
「とりあえず、俺が知るこれからのことを全部血塗に話す。10月31日の渋谷で誰がどう動いて何が起こるのか。その上で俺たちはどうするべきか詰めていこう」
『質問』
「はい、血塗くん」
『オマエ、なんでこれから起こること知ってんだぁ?』
「本題には関係ないから却下」
『もう一個聞きたいんだけどさぁ』
「なんだ」
『オマエの目的がかなったら、俺はどうなる』
兄に会うだけで終わるつもりなんて毛頭無い。
あわよくばそのまま主導権を奪って脹相とどこかへ逃げてしまえばいい。
「ああ、そのへんについてもちょっと考えはある」
『本当かあ?』
「多少人格とか混じるかもしれないけど、まあなんとかなるだろ」
『オマエはそれでいいのか』
「いいよ。俺はこの願いのために生きてきたんだから」
空洞のはずの天坂の目が輝いているように見えた。
人気のない森の中でパチリと天坂は目を開けた。酷い頭痛とともに目の前がチカチカと点滅する。
深く息を吐き、苦しいほどの動悸をしずめようとする。
これでいまやるべきことはやった。あとは血塗が自分の術式とうまくなじんでくれるかどうか。
冷や汗が引いてきたところで、周囲で何かが動いた気がした。
ここは自殺スポットとして有名だ。万が一交渉が失敗したとき形代を処分するためにこんな所まで来たが、あまり長時間じっとしていると呪いが寄ってくるだろう。さっさと帰った方が良さそうだ。
足元に転がる形代を揺り起こす。ちゃんと起きてくれるだろうか。
必要とはいえ、そうとう強い力でぶん殴ってしまった。それこそ一回死ぬくらいには。
心配とは裏腹に形代は何でもないように起き上がった。
形代の頭からはおびただしい血が流れているが、それが見る見るうちに塞がっていく。
起き上がった形代の目からどろりと血が流れだす。
それを手鏡にしまい込んでからその場を離れた。
2018年10月31日。時刻は19時。
突如として渋谷駅を中心とした半径400メートルに帳が降ろされた。
一般人のみを閉じ込める帳のなか、散り散りに逃げ惑う人々は結界の壁を叩き口々に同じ言葉を叫ぶ。
「五条悟を連れてこい」と。
天坂は日下部、パンダと共に帳の外の渋谷駅新南口で待機していた。
広範囲に高度な結界を張ったことにくわえ、五条悟ピンポイントでの指名。
主犯は交流会の襲撃者と同一だと日下部は語る。
「お上は被害を最小限に抑えるために五条単独での平定を決定。俺を含め動ける一級術師は五条のおこぼれを拾うってわけだ」
「一般人の被害は計算に入ってないのかよ」
「去年の『百鬼夜行』と違ってもう
「形代が見てる限りでは、一般人がパニクってますけどそこまで大きな変化は今のところ無いです」
「あれ?オマエ形代のことは感知できないんじゃなかったか?」
「さすがに痛い目に遭ったのでちょっと工夫しました」
「ほーん」
天坂の左目は充血したように赤くなっている。
左目は形代と交換したものだ。
形代とリアルタイムでの情報共有なんてそもそも必要がなく、やり方すら考えようとしてこなかったから突貫で試行錯誤した。
形代は自分とは別の個体として成立している。だから血塗の力も借りて無理やり縁を作るしかなかった。
瞬きをすると左目の視界は帳内から目の前に戻ってきた。
腕時計で時間を確認する。時刻は20時14分。
五条現着まで約15分。そして、五条封印が通達されるまであと1時間ほど。
背筋を伸ばす。
さて、死に物狂いでいこう。
帳内にいる
入るのはまだ早い。副都心方面へ降りるのは五条悟が封印されてからだ。
「待ってろ、兄者」
ポツリと呟かれた言葉に応えるものはいない。