雨が降っている日だった。
少年院にて特級相当とされる呪胎の目撃情報が入ったことで、高専一年生の四人に取り残された在院者の救助要請が回ってきた。
院内は既に生得領域と化していた。伏黒の玉犬の先導で見つけたのはあまりにも惨い死体。三人の内人の形を残していたのは一人だけだった。他二人は人体を無理やり折り曲げこねくり回したような球状になっていた。
虎杖が上半身のみになった死体に近づく。書かれていた名前は『岡崎正』。建物に入る前、母親らしき女性が涙を流しながら呼んでいた名前だ。
「持って帰る」
虎杖の提言を退けたのは伏黒だった。
事前に開示された情報によれば岡崎正は
「オマエは自分が助けた人間が将来人を殺したらどうする」
「じゃあ、なんで俺のことは助けたんだよ!」
虎杖の問いに伏黒は答えない。ただ無言で虎杖を睨みつけている。
「悠仁、やめろ」
「だって…」
「正直、俺も遺体を持っていくのには賛成できない。仮に特級呪霊と出くわした場合、重い死体を背負ったまま戦うなんて無理だ」
「そんなの俺なら…」
「ここにいるのは悠仁だけじゃない。俺たちが最優先にすべきは生存者を探すことと、ここから生きて出ることだ」
虎杖は唇をかみしめる。遺族は遺体を一目見る事も叶わないのか。
「おい、いつまでくっちゃべってんのよ。今は言い合いしてる場合じゃな」
釘崎の言葉が不自然に途切れる。音もなく彼女の体が地面に吸い込まれていった。玉犬は反応していないはずなのに。
周囲を見回すと首だけになった玉犬が壁にめり込んでいた。
「虎杖、天坂!逃げるぞ!釘崎を探すのは…」
最後まで言葉を続けられなかった。
視線。全身から冷や汗が吹き出すほどのプレッシャー。間違いなく観測された特級呪霊だ。
動けない。
虎杖の脳裏に祖父の遺言がよぎる。
「うあ゛あああ!!」
絶叫しながら屠坐魔を振りぬいた。はずだった。
虎杖の左手首から先が消失している。夥しい量の血液を滴らせる断面を呆然と見つめる。背後で屠坐魔の柄を握りしめたままの左手が転がった。
激痛が遅れてやってくる。脂汗が額から伝う。辛うじて悲鳴はかみ殺した。
呪霊はゆらゆらと体を揺らしながらこちらを見ている。
「協力しろ!宿儺!」
この窮地を乗り切る手札を虎杖は一つしか持っていなかった。
このまま虎杖が死ねば中にいる宿儺も諸共に消える。ここまで呪霊に近付かれた以上戦闘は避けられない。なら、もうこの体内の呪物に頼るしかない。
「断る」
裂けた頬に現れた口は素っ気ない返事をする。
「腹立たしいがこの体の支配者はオマエだ。代わりたければ代われ。だがその時はそこにいる呪霊より先に
「そんなことさせるわけねぇだろ」
「だろうな。しかし俺にばかり構っていると仲間が死ぬぞ」
嘲りを含んだ宿儺の声。
呪霊の口から吐き出された呪力がコンクリの地面を抉る。
「伏黒!快里!釘崎連れてここから逃げろ!」
「悠仁、何言ってんだよ」
「コイツずっと笑ってやがる。俺らのこと完全に舐めてんだよ。多分時間稼ぎくらいなら一人で何とかなる。出たら何でもいいから合図をくれ、そうしたら宿儺に代わる」
「駄目だ…!」
「伏黒!」
言葉を遮る。より多く生きて帰るにはこの方法しか思い浮かばなかった。
「頼む」
伏黒は悔しそうに歯噛みしている。
「カッコつけんな馬鹿」
軽く頭をはたかれた。天坂は手鏡を取り出し、形代を呼び出す。
「『伏黒と釘崎がここから出るまで』だ。いいな?」
「天坂…、なにを」
「俺の代わりにこいつを連れてってくれ。足手まといかもしれないけど、いざという時の盾くらいにはなる」
「快里…」
天坂は微笑む。自分たちと同様に恐怖に顔を強張らせながら、それでも安心させるように笑っている。
「一人で、なんて水臭いだろ」
そんな顔をされたら、「逃げてくれ」なんて言えなくなってしまう。
遠ざかっていく伏黒の足音を聞きながら特級呪霊に向き直る。気味悪くニヤニヤと嗤うそいつは自分たちの存在など歯牙にもかけていない。付け入る隙があるとしたらそこしかない。
「やるぞ、快里」
「おう」
天坂とともに、生きて帰る。
うまいこと死ねないものだろうか。
特級呪霊に虎杖と攻撃を続けながら天坂はそんなことを考えていた。
この呪霊が本気を出せば自分など一瞬で塵にできるだろう。それではだめだ。死に方としては悪くないが、即死してしまったら遺言どころか虎杖の顔を見る暇すらない。それじゃあここに残った意味がない。理想的なのは遺言を残しつつも目を閉じたらすぐ逝けるような、そんな良い感じの塩梅だ。
こう、なんとかして八分殺しくらいで留めてほしい。
呪霊が腕をクロスさせる。呪力のバリアのモーション。
天坂は咄嗟に両腕を突き出した。強烈な力に押される。腕に呪力を集中させるが中和が間に合わない。
手の皮が剥がれ、爪が吹き飛ばされていく。激痛に顔が歪む。
持ちこたえられたのは数秒だけだった。足が宙に浮く。
「快里!」
虎杖に抱き止められたが勢いを殺しきれず一緒に壁に叩きつけられた。衝撃に呼吸が止まる。
視線を上げれば既に呪霊が目の前で拳を構えていた。避けることもできず、まともに腹に食らう。背後の壁を突き破り、虎杖と天坂は地面に転がった。
「あ゛、げほ」
天坂は今の一撃で内臓をやられたのか、体を折り曲げて血を吐いている。再び呪霊が腕をクロスさせる。すぐさま虎杖は立ち上がり先ほどの天坂がやったように両腕を前に出す。しかし、虎杖にはまだ呪力の操作などできない。
見る見るうちに指先が焼き切れ、削れていく。今まで経験したことのない痛みに涙が出る。
脳内を後悔が埋め尽くしていく。
あの時指なんて拾わなければ、食わなければ、こんなに痛くて辛い思いをすることもなかった。変わらず天坂と平穏な日々を過ごせていたはずだった。
辛い。怖い。痛い。
考えるなと自分に言い聞かせるほどに悔恨が募っていく。祖父の遺言が恐怖に塗りつぶされていく。
逃げたい。逃げられない。今立ち向かうことを辞めたら後ろにいる天坂は確実に死ぬ。そんなことできるわけがない。
例え逃げたとしてもここで天坂を見殺しにしたら、虎杖はきっと一生自分を許せない。
ここで死ぬのは『正しい死』ではない。
「あ゛あ゛あぁ!!」
吠えて己を奮い立たせる。それでも現実は無情だった。
衝撃波に押し負け、天坂を巻き込みながら吹き飛ばされた。
ああ、自分はこんなにも弱かったのか。
天坂は数秒意識が途切れていた。
体が痛みに軋む。呪霊のボディーブローで恐らく内臓を損傷している。激痛に耐えながら体を起こすと虎杖が血まみれで立っていた。
足が震えている。
「…悠仁」
「快里、俺自惚れてたんだ。自分の死に様くらい自分で選べると思ってた」
でも違った。
欠けた指が、腕が、逃れようもない己の弱さを突きつけてくる。無力感と絶望感から涙が溢れてくる。
何が強くなるだ。何が守るだ。今もこうして立っているだけでやっとのくせに。
それでも、天坂を守るにはここから踏み出さなくてはならない。その一歩が信じられないほどに重い。どうしようもなく恐ろしい。
死にたくない。
「死にたくないよな」
その言葉に体が震えた。ふらつきながら立ち上がった天坂が虎杖の肩を優しく叩く。
「いいよ。そんなの当然で、皆一緒だ」
口から血を流しながら天坂は虎杖に笑いかける。そのまま呪霊へと一歩を踏み出す。そこで虎杖は彼が何をしようとしているか理解した。顔から血の気が引く。引き止めたいのに足が動かない。
なぜ、そんなにも簡単に恐怖を踏み越えられるんだ。
「だめだ、快里。それはだめだ」
「正しい死じゃないからか?俺はそう思わない」
爪が剥がれ、肉が抉れた手で拳を握る。
「ここでお前のために死ねるなら、それは俺にとって正しいんだ」
迷いなく呪霊へと向かっていく。呪力を込めた攻撃は嘲笑と共に躱される。ケタケタと笑いながら呪霊は天坂の左腕を指で弾いた。音を立ててあらぬ方向に折れ曲がる。
天坂の口から悲鳴に似た呻きが漏れる。
やめろ、やめてくれ。
耳を塞ぎたかった。目を覆いたかった。どうして、そこまでして。
血にまみれながら、天坂が目だけをこちらに向ける。
「悠仁、生きろよ」
鼓膜を震わせる声。人生のほとんどをこの声に支えられてきた。
それなら、自分が動かない訳にはいかないじゃないか。
喪いたくないなら、恐怖を言い訳にするな。
足の震えは止まってない。それでも踏み出して地に崩れ落ちた天坂の前に立つ。真っすぐに呪霊を睨む。
「…俺は、ここで死ぬのが正しいとは思えない」
でも、それ以上にこのまま生き残る事が正しいと思えない。
この後悔も、恐怖も、怒りも全て拳に乗せる。
怯えた顔も恐怖に歪んだ表情もかなり堪能できた。でも、
天坂はほくそ笑む。背徳感が背筋を震わせる。
そうだ、お前なら立ち上がってくれると信じていた。だって、お前は『虎杖悠仁』だから。
自分が傷つくのは厭わないが、他者の犠牲をよしとしないことを知っている。だからこそ、天坂は前に出た。そうすれば必ず虎杖は己を鼓舞して進もうと藻掻く。
間違いなく美徳だ。賞賛されていい。
その崇高なまでの献身が、跡形もなくへし折れる瞬間が見られるなら何でもしよう。
虎杖と自分の力でこの特級呪霊を倒せるだなんて一ミリも思っていない。気持ちが高まることで強敵に勝てるなら誰も苦労しないだろう。
希望を抱いた時こそ、絶望はより色濃く影を落とす。今がまさにそれだ。
虎杖は腰を落として、呪力を込めた拳を放つ。
全身全霊を賭した一撃は、呪霊の体を傷つけることすら叶わずあっさりと受け止められた。
虎杖の顔が絶望に染まる。死力を尽くした攻撃ですら届かない。
これでいい。
後はこのまま惨く死ねれば尚いい。
そんな思考は聞こえてきた遠吠えによって中断される。
伏黒の合図だ。
「つくづく忌々しい小僧だ」