虎杖のものではない低い声。体に浮かび上がる紋様。以前は気絶していたからこうしてちゃんと見るのは初めてだ。
両面宿儺。呪いの王。
天坂の全身から血の気が引くような底冷えする恐怖心が沸き上がる。ただ目の前にいるというだけでここまで死を予感させるのか。
虎杖と同一の顔なのに、抑えきれない邪悪さが滲み出ている。
二対の目が天坂に向けられる。
「さて、以前宣言した通りにオマエから殺してやろう」
「…そう言ってくれるのを待ってたよ」
そう、待っていた。
宿儺に殺害宣言をされた時から考えていた。天坂の理想は虎杖の前で死ぬこと。そして、それを簡単に叶えてくれる存在がすぐ近くにいるじゃないか。
次に目を開けた時、目の前にもう助けようのない親友がいたら。それが己の手で為されたことだと知ったら。
想像するだけでどうしようもなく心が湧きたってしまう。
呪霊に殺されてもよかったが、どうせなら虎杖の手で死にたい。
「あ?」
天坂の言葉に宿儺は眉を寄せる。
今まで宿儺に殺すと言われ、怯えなかった人間はいない。
ある者は泣きながら額を地に擦って命乞いをし、ある者は青い顔で宿儺を褒め称え見逃してもらおうと足掻き、またある者は恐怖から発狂して己の舌を嚙み千切った。
だというのに、何だこいつは。怯えているくせに声には隠しきれないほどの喜色が滲んでいる。
予想外すぎる反応に宿儺は微妙に困惑していた。
そんな宿儺を置き去りにして天坂は語り出す。
「まず顔は残しておいてほしいんだ。パッと見で俺って分かった方が絵面的により悲惨というか凄惨さがあるし。あ、でもそこの呪霊がやったみたいに辛うじて人間って分かるけど原型ほぼないくらいの方が尊厳破壊っぽくて良いかもしれない。燃えカスだけになるのはなぁ、生きてるか死んでるか分かりにくいからやっぱり多少なりとも体は残しておいてほしいな。こう、首だけ残ってるとかでも良いんだけど…。あ、それだと遺言残せないな。やっぱやるなら四肢を捥ぐくらいで」
「キッッッショ」
宿儺の心からの言葉だった。
マジでなんなんだこいつ。ここまで己の死に様について嬉々としながら注文を付けてくる奴を千年生きてきて初めて見た。図々しいにも程があるだろう。
宿儺の後ろにいる特級呪霊も、先ほどまであんなにも真剣な面持ちで交戦していた相手の豹変に戸惑っている。
「あ、あとギリギリ俺が死んでないくらいで悠仁と代わってほしいんだけど」
「まだ言うか」
「一等惨く殺すって言ったのはそっちだろ」
「誰も希望の死に方をさせてやるなど言ってないわ。貴様頭に蛆でも湧いているのか」
「失礼な。こっちは大真面目に言ってんだぞ」
真顔の天坂を見て宿儺は頭が痛くなってきた。ただのお人好しな有象無象かと思いきや、とんだ狂人を相手にしていたらしい。
「なぜそんなに死にたがる?ただ死にたいだけならさっさと飛び降りるなんなりすれば良かろう」
当然の疑問だった。先の戦闘でも抗わずに攻撃を受け入れれば済む話だ。死に方に固執するのもよく分からない。
「俺は別に理由もなく死にたい訳じゃない。悠仁の前で、悠仁に言葉を残して死にたいんだ」
「なぜそこまでしてこの小僧に拘る」
「そりゃ、だって」
天坂はどす黒く濁った瞳で、心から楽しそうに笑う。
「悠仁の苦しむ顔って最高だろ?」
呼吸を妨げる臓腑の激痛も折れた腕の痛みもかすむほどの期待に身を震わせる。
「俺は悠仁の
「……」
四つの赤い目が天坂を睥睨する。
この男は狂っている。
ひたすらに虎杖の心を削ることのために自身の存在を利用している。言葉も、行動も、心を通わせることですら、ただただ虎杖を苦しめるための布石にすぎないのだろう。
しかも、動機は憎しみでも殺意でもなく、ただの好意ときた。他者を憎み殺す呪霊よりもタチが悪い。
「もういい、止めだ」
「あ、おい。どこ行くんだよ」
「
命をかけて足掻く姿があってこそ殺戮は面白いのだ。自分からはいどうぞと身を差し出してくる人間を手にかけたところで、さしたるうま味もない。
なにより殺してしまったら天坂の思惑通りの行動になってしまうのが最高に気に食わない。
「それに、オマエはまだその段階にすら立っていない」
この男を殺せば虎杖は悩み苦しむだろう。だが、時間はかかるだろうがいずれ立ち直る。
しかし、この先その全てを失い、支えが天坂だけになるときが来たならば。その瞬間にはわずかだが興味が湧く。
「次に俺がこの体の支配権を得たとき。もし、まだお前が生きていたならば」
赤い目が愉悦に歪む。
「その時は、お前の望むように殺してやろう」
「……それは約束か?」
「いや、ただの気まぐれだ」
「そうか。それで充分だ」
欠けていた虎杖の指先が再生する。動けずにいた特級呪霊を呼びつける。
「行くぞ、ついて来い」
だが、特級呪霊は宿儺の背中へと呪力の塊をうち放つ。盛大な舌打ちと共に宿儺が左腕を振るった。欠損していた腕が再生し、人間が受ければまず助からない威力のそれを膂力だけであっさりと弾き飛ばす。
「おい、オマエの目玉は節穴か?それとも今の俺の機嫌を察することもできないほどに愚鈍なのか?」
宿儺の体から圧し潰されそうなほどの威圧感が発せられる。煌々と光る赤い目には一切の温度が感じられない。
瞬きの間に宿儺は特級呪霊の前へと移動する。
「ならここで死ね」
呪霊の体が地面に叩きつけられた。更に振り下ろされた足が呪霊ごとコンクリの橋を踏み割り、宿儺は呪霊と一緒に領域の底へと落ちていった。
「いや、置いてけぼりかよ」
天坂のツッコミだけが虚しく響いた。
伏黒が虎杖を助けたことに明確な理屈などない。
この世界では不平等な理不尽だけが全ての人間に平等に与えられる。伏黒の姉も虎杖もそんな理不尽を押し付けられた側だ。他者の幸福を心から願える人がどうして呪われなくてはならない。他者を守るために命を張れる善人がどうして死ななくてはならない。
そんなこと、納得できるわけがない。
だからこそ、伏黒は不平等に人を助ける。
少しでも多くの善人が幸せを享受できるように。少しでも理不尽から遠ざけることができるように。
虎杖を生かすことに迷いはあった。それでも伏黒は己の選択を後悔していない。
「俺は
構えを解いて、目の前にいる虎杖から目を離さずに言葉を紡ぐ。きっとこれが最期の対話になる。
「…そっか」
寂しそうに、けれど満足そうに笑う虎杖の体から紋様が消えた。
虎杖は自分の考え方を間違いだとは思わない。例え偽善と言われようと、他人を救いたいという気持ちに偽りはない。だが、伏黒の思いにも間違いはないのだろう。
「あー、悪い。そろそろだわ」
心臓を失った空の胸腔から血が滴る。
「五条先生…は心配いらねぇか。伏黒も釘崎も、長生きしろよ」
死ぬ前に伏黒の本音が聞けた。それでいい。
いや、少しだけ嘘をついた。脳裏に浮かんだのは小学生の時から変わらない笑顔。虎杖にとって絶対の味方で、これからも隣に居られるはずだった存在。
せめて死ぬ前に一目親友の顔を見たかった。
「快里のこと、頼む」
目から一筋の涙が伝う。ゆっくりと、虎杖の体が地に伏した。
天坂は全力疾走していた。
正確には損傷した内臓とその他諸々の怪我の痛みのせいで全力どころか普段の半分もスピードが出せていないのだが。今出せる全力で足を動かした。
宿儺とのやりとりの後、せっかくだから伏魔御廚子でも拝ませてもらおうかと思ったが、下手に覗き見して逆鱗に触れたら即三枚おろしだと容易に想像できたので止めておいた。
虎杖の
呪霊が死んだことで生得領域が閉じ、建物から出ること自体は簡単だった。しかし。
「どこまで飛んでってんだよ伏黒ぉ!」
宿儺の強大な呪力を追えばどこにいるかは大体わかるが、いかんせん少年院からかなり離れた所まで吹き飛ばされていた。紙面では想像するしかなかった距離感がここまでとは。慢心していた過去の自分を殴りたい。
このままでは虎杖の遺言シーンに間に合わない。
「あのシーン、めっちゃ、好きなのに!」
息を切らせながら、なんならちょっと吐血しながら走った。
見覚えのあるマンションが見えてきた。記憶に間違いがなければあそこのはず。
中庭に立ち尽くす伏黒と倒れた虎杖の姿が見えた。
「悠仁!」
間に合わなかった。これ完璧に一通り終わっちゃってるじゃん。自分のオタクとしての不甲斐無さに泣きそうだった。
伏黒が悲しみに揺れる瞳でこちらを向く。あ、その表情はちょっと元気が出るかもしれない。
「天坂、その怪我…」
「俺のことは良いんだ。悠仁は」
痛みで膝が折れかけたところを伏黒に支えられる。
「虎杖にオマエのことを頼まれた」
肩を貸しながら震える声で呟いた。つまり、天坂のことを遺言で言及していたということだろうか。
なにそれめっちゃ聞きたかった。なんでそんな貴重な場面を見逃してるんだ。こんなことなら伏黒に同行させた形代への縛りを『伏黒の身の安全が確保されるまで』とかにしておけば良かった。
あまりの後悔についに涙が出た。肩に置かれた伏黒の手に力がこもる。痛い。
「帰るぞ」
「……ああ」
あまりの悔しさに短くそう答える事しかできなかった。