腹の上に重石が乗せられているかのような寝苦しさから、翠は意識を覚醒させる。
まぶたを開け、ぼやけたピントが合うと──眼前に紅色があった。
「あら、おはよう。トレーナー」
「…………ぎゃっ!?」
「人の顔を見て『ぎゃっ』は酷いわね」
短く悲鳴を上げて、翠は身をよじって逃げようとする。しかし、ウマ乗りになっている少女──スピードホルダーがそうはさせない。
「……隣の部屋で寝てたんじゃないのか。あと鍵はどうやって開けた……?」
股がる彼女は何が楽しいのか左右に体を揺らして悩む素振りを見せると、鍵を出して見せた。
「このボロ寮、鍵が統一されてるみたいよ? 私の部屋の鍵で貴方の部屋の扉が開いたもの」
「いや、開けるなよ」
くつくつ、と喉を鳴らしてスピードホルダーはようやく翠の腹の上から降りる。
「トレーナー、朝ごはんはまだ?」
「……あー、冷凍庫に入ってるの適当に温めな。昼飯は食堂で良いだろうし」
──降りろ。という短い言葉に、ようやくベッドを降りた彼女は寝室と居間を隔てる扉を開けて出る。ひょこりと顔を覗かせてると一言。
「今日の模擬レース、頑張るわねっ」
「……ああ、頑張れ」
これから待ち受ける痛みに備えるように、翠は無意識に首筋を手のひらで押さえた。
──冷凍パスタをプラスチックのフォークで巻き取り、スピードホルダーは口へと運ぶ。目尻を緩め唇をソースで汚す彼女の眼前で、翠はチーズとハムを乗せたトーストをザクザクと噛む。
「スピードホルダー、お前は具体的にどれくらい拘束されていたんだ?」
「うーん……結構長いわよ。地下の廊下が長いのも、私の足が衰えないように走る為だし。あっ、でもね、ウイニングライブの練習とかもしてたし、週に一回はご飯がちょっと豪華なのよ?」
「意外と厚待遇だな……」
あくまでも罪人扱いではないという状況に苦笑をこぼし、残りを飲み込んでコーヒーで流し込む。その後はパジャマのワンピースから制服ではなくジャージに着替えるスピードホルダーに、翠が疑問から質問を投げ掛けた。
「なあ、教室には行かないのか?」
「地下に居たときに教科書全部読み終わったから、学ぶものは特に無いもの。模擬レースが始まるまでは、私がレース場を独り占めねっ」
ふっ、ふーん。と鼻歌を奏でて、スピードホルダーは容器とフォークを捨てる。
「スピードホルダー」
「なぁに?」
「いいか、もしまたレースで問題が起きたりしても、即座に殴りかかるんじゃなくて、まず俺を通すんだぞ。あいつが妨害した! とか、報告してくれるだけで諸々の問題が減るんだから」
「やあねぇ、もうしないわよ。多分」
「多分っつったか今」
オホホホホホ、とわざとらしい高笑いを披露して、彼女はそそくさと寮から出ていった。
残された翠は、トーストを乗せていた皿を流しに置いて遅れて部屋を出る。
レースが始まるのは午後から。
それまでに心の準備を終わらせるべく、深いため息が肺の奥から絞り出されていた。
──電光掲示板に映し出される順位を見て、翠は驚愕の目を向ける。スピードホルダー、速度保持者。その名に恥じぬ、2着と6バ身も突き放した圧倒的なゴール。
あの自信が実力に裏付けられた事実であるという事をこれでもかと見せつけられ、スピードホルダーの事を噂で知っていた者、このレースで初めて知る者、理事長室と生徒会室から眺めていた者。その全ての目線を釘付けにしていた。
そして、ウイニングライブの準備にとレース場から離れようとするスピードホルダーを何人かの記者とトレーナー、ウマ娘たちが取り囲むが──翠の目から見ても彼女の様子がおかしかった。
「っ、すみません、ちょっと」
人混みを掻き分けてスピードホルダーの隣に立つと、翠は彼女の顔を覗き込む。
「──ふーっ、ふぅうぅぅっ……!」
レースでの興奮とは明らかに違う形相。俯き髪で隠れているが故に誰にも見られていないが、それはまるで、極限の
「……スピードホルダーは体調が優れないようです、ライブには間に合わせるので控え室に行かせてください。──そこを退いて!」
後ろから手を回して、肩を抱いて引っ張る。
焦る声にようやく道を開けた人たちには一瞥もくれず、翠は大慌てでターフとを繋ぐ通路を小走りで掛けて行く。誰もいない控え室に入ると、鍵を掛けた直後に翠はスピードホルダーに押されて壁に押し付けられた。
「スピードホルダー、落ち着け」
「ぅ────、ぅぅうぅう──」
唸るような、威嚇をするような、そんな声が混じり、思わず膝を曲げて身長を合わせた翠に顔を近づけ──爛々と輝く紅色と目が合った。
観念したかのように、翠はため息混じりにワイシャツのボタンを外しながら、首筋をはだけさせるとスピードホルダーに言う。
「……わかった、良いぞ」
「────」
──瞬間、首筋から熱が溢れたのではないかと錯覚する程の痛み。
遅れて鋭いものが突き刺さった異物感に、短く声を上げて体を強張らせた。
「ガッ──ぐ、づぅうっ……!!」
今まで味わったことなど当然として一度もない、噛まれたことで発生する熱い痛み。
ギチギチと、筋肉に到達しているのだろう感覚と痛みから、視界の端で星が散らばる。
「ふ──っ! ふぅううっ!!」
「……スピードホルダー……っ」
鼻息を荒くするスピードホルダーに翠は声をかけ続ける。明らかに普通ではない様子と、余計な抵抗をしたら首の肉を噛み千切られかねない状況から、淡々と落ち着かせることしか出来ない。
「……大丈夫、大丈夫だ。スピードホルダー、落ち着け……俺は何処にも行かない」
「……ふっ、ふうっ、ふう、ぅうっ」
背中を手のひらでさすり、もう片方の手で汗に濡れた髪を梳すように撫でる。
数分噛まれ続けた翠は、やがて彼女の鼻息が落ち着き、肩に刺さる異物感が──食い込んだスピードホルダーの歯が抜けるのを感じた。
「……っ」
その直後に、噛み傷にピリピリと痺れる痛みが走った。ぴちゃぴちゃと水気を帯びた音から、傷口を舐められていると察する。
消毒のつもりかはたまた、満足したのか顔を離した彼女が翠を見上げ────
「……とれー、なー」
口許にベッタリと塗りたくられた赤に、白い髪と肌。紅い瞳が僅かに揺れて、スピードホルダーは、翠の肩から垂れた血を勿体ないとばかりに目線で追う。そして、気まずそうにとりあえずと微笑む彼女に翠が告げた。
「……口ゆすいで、着替えて、ウイニングライブ踊ってこい。俺は肩を消毒してくる」
「──ねえ、トレーナー」
「俺は、お前の担当を辞めない」
「……!」
「それだけは……言っておく」
備え付けのティッシュを数枚取り出して患部に押し当て、着替えさせるべく部屋から出る翠は、背中越しにそう言って扉を閉める。
その隣の壁に背中を預けて座り込むと、ティッシュに染みた血が溢れてワイシャツを汚す様をまじまじと観察しながら、ポツリと呟く。
「……やっぱ、俺もどこかがおかしくなっちまってるんだな。ここまでされて、まだ担当を続けようだなんて……くそ、超いてぇ……」
──あれではもはや、ウマ娘ではない。吸血鬼だ。内心でそう独りごちる翠の口からは、ずっと、ため息しか出てこなかった。