「──『人の口に戸は立てられない』……いや、違うな。『駄目と言われたことはやりたがる』のが人の
理事長室の机を隔てて高級素材の椅子に腰掛けた少女が、我が物顔で机に寝転がる猫を撫でながら、翠とシンボリルドルフを見て言った。
トレセン学園の低学年に似た年代の、お世辞にも理事長には見えない少女の眼差しは、翠の隣に立つ【皇帝】にすら冷や汗を流させる。
「……秋川理事長。スピードホルダーに親が居ないという話を本人から聞いてしまった以上、俺には全てを知る権利があります」
「そうだな。ああそうだ。君には権利がある。
──
理事長──秋川やよいはそう言って、帽子のつばで遮られた目元から眼光を覗かせた。
「知らずにいる……というと」
「人の業、ウマ娘の本能。その何もかもが、スピードホルダーという少女を呪ってしまっている。綾瀬トレーナー、君に覚悟がなければ、この話は無かったことにした方がいいだろう」
「──少なくとも俺は、あいつの担当です。そのうえで言いますが……今さらですよ」
翠は脳裏にスピードホルダーのだらけたアホ面を思い浮かべ、呆れたように笑う。
隣のシンボリルドルフも分かりきっていた返答に微笑を浮かべて、やよいを見る。
「理事長、私にも隠していたということは……よほど
「……うむ。ここは防音設備も完備で万が一にも盗み聞きされるような事はならない。この話をするならこれ以上なく適当だ」
咳払いを一つに、やよいは先ずと語り出す。
「君たちは、『試験管ベビー』という言葉に聞き覚えはあるか?」
「……いわゆる体外受精ですよね」
眉をひそめて、翠が答える。唐突な医療技術の話題に疑問が浮かぶが、やよいは続けた。
「……ウマ娘という生物は謎が多い。何故ウマ娘の子供が必ずウマ娘になるとは限らないのか、という疑問については『絶対数が決まっている説』や『必ず人間の数を上回らないようになっている説』などがあるが……」
「──つまり?」
「──スピードホルダーは、研究者が十数年前に作り出した人造ウマ娘だ。
この研究は、協力者だったウマ娘の卵子を利用した体外受精を繰り返し、
やよいの含みがある言葉に、二人はふと疑問を思い浮かべる。スピードホルダーの前に受精した子供は、どうなったのか──
それを聞こうとした二人の目が悲痛に表情を歪めたやよいの、静かに首を振る動きを見て、全てを悟って開きかけた口を閉じる。
「今も当時も私は若造だが……研究者の殆どが逮捕、残りが服毒で自害という凄惨な終わりで幕を閉じた中の唯一の被害者に、幸せになってほしかった。だから引き取り、生徒として育てようとしたのだが……まあ、問題もあった」
──やよい曰く、ウマ娘とは『走りたい』という本能があり、意図的に
「既にシンボリルドルフ会長から聞いているだろうが、スピードホルダーは妨害を行ったウマ娘に暴行を働き、過去に二人のトレーナーとの契約を破棄している」
「ああ……存じております。あいつは普通じゃない。今の話で、合点が行きました」
「妨害を行ったウマ娘の方は……残念だが以前から目立つ問題点も重なって退学となったが、トレーナー二人の方には、ぼかしつつも事情を説明して最悪は避けてある。
ついでに言うと、私は綾瀬トレーナーもすぐに契約を破棄すると思っていたのだ」
そう言われて、翠は無意識に首から肩にかけての噛み痕を触る。
「……あの、スピードホルダーは、URAが終わったらどうなるんですか?」
「それは彼女の判断によるだろう。学園に残るか、一人立ちするか、保護施設に戻るか……いや、それ以前の問題か」
「──それは、どういう……」
やよいが口をつぐみ、それから重く息を吐いてから、翠とシンボリルドルフを見た。
「研究者の産み出した人造ウマ娘、というだけの話ならそこで終わりだったが、そもそも奴等はなぜこんなにもおぞましい事をした?
それはな、ウマ娘の限界を突き詰め、ただただ速い生物を作りたかったからだ」
「…………」
「ふっ、よくもまあ、あんなことが出来たものだ。なにが『シンザンを超えろ』だ? ああ出来るだろうさ、思い付く限りの人道のことごとくを無視すればな……ッ!!」
憤怒に表情を歪めて、やよいの怒りが溢れ出す。机の上で寝ていた猫が驚き逃げるようにその場から離れ、それから表情を戻す。
「綾瀬トレーナー、スピードホルダーは今日は何をしている?」
「あいつは……今度の天皇賞秋と有マ記念に備えて無茶はさせられませんし、今は休ませています。本人もちゃんとわかってるかと」
「そうか……それなら良いんだ」
「理事長、スピードホルダーの体には、なにか問題があるのですか?」
心底ホッとしたようにため息をついたやよいに、シンボリルドルフが問い掛ける。
「…………、スピードホルダーは、研究者という人間の業にその生き様を歪められたウマ娘だ。それは性格や人生というだけでなく、体にも問題を抱えているということ。今までは大丈夫そうだったが、万が一がある」
綾瀬トレーナー、そう続けてやよいはスピードホルダーの問題点を告げる。
「もしかしたら、スピードホルダーは『速く走る為の人為的な調整』をされた弊害で、体に異常をきたす可能性が高い。次のレースが終わったら、一度病院で検査した方がいいだろう」
「……検査、ですか」
「うむ。レースを控えさせていたここ数年前まではともかく、今は激しいレースを繰り返している。普通のウマ娘とはそもそもの身体機能……発揮できるスペックが違うスピードホルダーの場合は、その負担が見えないところで蓄積されているのかもしれないからな」
そこまで言われてしまっては、と考えを改める翠。そんな折、ふと窓の外から、けたたましい救急車のサイレンが聞こえてきた。
「……なんだ、敷地内で事故か?」
「──む、連絡か。失礼……なにがあった」
デスクに置かれていた固定電話からの着信に、やよいは二人へ一言謝罪してから出る。
やよいが電話に出た間に窓の外を翠とシンボリルドルフが覗くと、校門近くで止まった救急車に誰かが運び込まれていた。
ざわざわと、翠は胸騒ぎを覚え──その予感は、やよいの怒号という形で的中する。
「──綾瀬トレーナー! スピードホルダーが模擬レースに出走したあと、喀血して倒れたとのことだ! ──病院にこれから搬送されるらしい、すぐに向かってくれ!」
「────え」
──何故、休んでいた筈、喀血、搬送。キーンと耳鳴りがうるさい頭の中で、単語が浮かんでは消えて、翠はただただ困惑している。
「会長、私が許可する。綾瀬トレーナーを連れて病院へ行け! 法定速度は守ること!」
「了解……っ!!」
「──ぬおぉおおおおっ!?」
即座に指示を飛ばしたやよいに言われた通りに、シンボリルドルフは翠を担ぎ上げ、扉を蹴破る勢いで理事長室から飛び出す。
ドップラー効果で遠退く翠の悲鳴を最後に、やよいは椅子に座ったまま天井を仰いだ。
「……どうして彼女だけがこんなにも苦しまなくてはならない。ただ走ることを良しとするウマ娘は、業を背負って生まれた存在は、幸せになってはいけないのか……?」
その問いに答えてくれる者は居ない。
仮にいたとしても、やよいが納得の行く答えは返ってこないだろう。
感情を何度も二転三転させるやよいを心配してか、個人で飼っている猫がすり寄ってくる。抱き上げたその背中に顔をうずめて、彼女は小さく、消え入りそうな大きさの嗚咽を漏らした。