【完結】そのウマ娘、狂犬につき   作:兼六園

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終活

 まるで新居のような室内で、綾瀬 翠は辺りを見回していた。僅かによれたベッドのシーツや、稼働している冷蔵庫の音が、辛うじて生活感を演出しているが──私物らしい私物が無い。

 

 ──スピードホルダーの部屋には、最低限の着替えを残して、何もなかった。

 

「…………まるで終活だな」

 

 翠は呟く。殺風景でがらんどうな部屋にはおおよそ暖かさなど無く、彼がシーツの波を正せば、初めて入ってきた時と何ら変わりない殺風景な雰囲気となってしまう。

 

 次がスピードホルダーの()()のレースかもしれないというのに、不思議と──翠の心は、シーツのように平坦で、波打つ様子も無かった。

 

 

 

 

 

 ──なんだかんだ長い付き合いになったな、と内心で独りごちた翠は、研究室の一角を当然のように占領しているウマ娘と顔を合わせる。

 

「──ン。やあ、トレーナー君」

「暫くぶりだな、タキオン」

 

 そっと差し出されたビーカーに入った紅茶を一口啜り、机に置いて傍らの椅子に座る。

 ふと、彼女の手元に新聞紙が広がっているのを発見して、それとなく問いかけた。

 

「なにか気になることでも?」

「うん? ああ、いやなに、いつぞやの記者会見が大変愉快だったものでねぇ……」

「…………これか」

 

 口角を歪めて愉快そうな笑みを作るタキオンから渡された新聞には、記者会見をするスピードホルダーの写真が載せられており──『最速のウマ娘、スピードホルダーが体調不良を隠してレースに出走!?』と書かれていた。

 

「……人の口に戸は立てられない、か」

「まあ、スピードホルダーが倒れるところは何人も見ているからねえ。私もあれから色々とレースを見返してみたが──見たまえ」

 

 開いたノートPCのキーボードを叩くタキオンが、おもむろに画面を見せてくる。

 

「スピードホルダーが倒れる前のレースだが、スパートをかける時の動きをよく見るんだ」

「これは……大きく呼吸している……?」

 

 翠の目に映るスピードホルダーは、ムービーの編集でスロー再生されている。その中で、彼女は大きく、大量に酸素を吸い込んでいた。

 

「──酸素を多量に取り込み血流を早めて心肺機能を高める……聞こえは良いが言ってしまえば自爆技だ。喀血したのを見ればわかるが、血管はもとより肺への負担が大きすぎる」

「……別に箝口令は敷かれてないから話すが、あいつは研究で生まれた人工物だそうだ」

「ふぅン、なるほど……()()()()()()なのか。どうやら自爆技も比喩ではないらしい」

 

 パソコンを閉じるタキオンは、それで──と続けて翠に問いかける。

 

「どうするんだい、次のレースで最悪の場合スピードホルダーは死ぬが」

「わかってる。……わかっては、いる」

「ふぅン、答えは出ているわけだ。死んでほしくないならやめさせればいいじゃないか」

「簡単に言うなよ」

 

 ビーカーの紅茶を口に含んで喉を潤し、それから一息ついて翠はタキオンに返す。

 

「俺はあのウマ娘……いや狂犬の決意に賛同した。俺には、あいつの自殺(レース)に付き合う義務がある」

「それで実際に死なれるのは嫌だろう。本気で心配ならば言えばいい。『レースに出ないでくれ』、『もう走らないでくれ』、とね」

 

 何故か研究室に常備されている瓶詰めの砂糖をドバドバと自分の紅茶に入れながら、タキオンはあっけらかんとそう答える。訝しげに眉を動かす翠は、彼女の手元を見て引きながら口を開く。

 

「言って聞くと思うか?」

「さぁねぇ。そんなの私には関係ないからねえ。ただ、他の誰でもない君の言うことなら聞くんじゃないかな? 何を言うかより、誰が言うか。重要なのはそこさ」

 

 ──もっともらしいことを、と内心で毒づく。

 

「それじゃあ、あいつが死なないことを祈っててくれ。どちらにせよ、俺はあいつがどうなっても、今回でトレーナーを辞めるからな」

「…………なんだって?」

「スピードホルダーの行いを黙認する駄目トレーナーだ、けじめはつけないと。だろ?」

「──書類を偽造して君が私の担当ということにしてるから辞められると困るのだけど」

「────、いや、知るか」

「え──っ」

 

 最後の最後でとんでもない爆弾発言をしたタキオンをよそに、呆れながらも翠は紅茶を飲み干して、研究室をあとにするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ──という数日前の出来事をまどろみながら夢のように思い返していた翠は、首筋に走るピリッとした痛みに意識を覚醒させる。

 

「……ぁが、起きたの?」

「……レース前に噛むな」

 

 控え室の椅子に座る翠の膝の上に向き合うように座る純白のウマ娘──スピードホルダーが、口許をべったりと赤くしながら笑った。

 翠は慣れた動きで懐からガーゼとテープを取り出して首筋の噛み跡に蓋をするように貼り付けて留め、除菌シートを彼女の顔に押し付ける。

 

「うべ」

「拭け。もうレース始まるぞ」

 

 口許の赤色を拭い、綺麗にしてから、翠は彼女を膝から下ろす。立っているスピードホルダーの服装は、白髪が異様に目立つように設計された、漆黒の喪服をベースにした勝負服だった。

 

「なあ、スピードホルダー」

「──なぁに?」

「……レースに出るのはやめないか。俺はやっぱり、お前に死んでほしくない」

 

 翠の言葉にスピードホルダーはキョトンとした顔をし──それから噴き出すように笑って、目尻と口角を緩めながら言った。

 

「ンッフフ、バカね。死ぬかもしれない体はしてるけれど、死ぬつもりはないわよ。私に出来るのは、『全力でレースを走ること』だけ」

 

 不安そうにする翠の手を掴み、手のひらを自分の頬に寄せて、彼女は続ける。

 

「私だって、もっと貴方の隣に居たいもの。だけどね、私が死んでも……自分のせいでこうなったなんて思わないでちょうだい」

 

 するりと手をほどいて、控え室の外に繋がる扉に歩き、一拍置いて更に言った。

 

「この体に生まれたことを後悔したことなんてない。下手したら死ぬ? そんな運命は捩じ伏せるわよ。私が怖いのは肺と体の痛みじゃなくて、死を恐れて走るのを辞めることなんだから」

 

 だから──、そう言ってスピードホルダーは、ルビーのような深紅の瞳を翠に向け、ふにゃりと歯を見せて笑いかけて言葉を紡いだ。

 

「──私がぶっちぎりで勝つところを見ていてちょうだい、トレーナー」

 

「……ああ、わかった」

 

 翠は言葉を返して、その背中を見送った。扉が閉まり、数分置いてその場をあとにした翠が観客席に移動して、ついにというべきか、とうとうというべきか、始まってしまった最後のレース。

 

 そこで、スピードホルダーは風に溶けてしまったかのような流れる走りを見せて────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──全てが終わったあと、少しして、綾瀬 翠は理事長室にてバッジを外していた。




次回、最終回
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