水をすくった手から零れるようだ。

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森の奥にて

 気が付くと私は人生の途上で深い森に迷い込んでいた。歩いてきた道も今歩いている道も何らの違いも感じられず、同じ風景のように見える。味気なく鬱蒼とした森は息苦しかった。囀る鳥の声も私を嗤っているように感じる。けれど、進む以外には選択肢もなく自分の思った方向の先へ先へと一歩ずつ、下を向いて足元を確かめながら歩いて行った。

 ふと、金木犀の匂いが鼻腔をくすぐった。匂いの元を探ろうと顔を上げた。ずっと下を向いていた首が凝り固まっていて石像を無理を動かすような悲鳴を立てた。それはすぐに見つかった。夏の真っ盛りにも関わらず季節外れの金木犀は満開で、その金色の花は緑の背景によく映えた。地面に咲く主張の強い元気のいい艶やかな色の花と違い、控えめな様子の金木犀の花が私の心に滲みた。金木犀の木の下には木製の椅子が置かれていて、そこには栗色の髪を三つ編みにした少女が座って本を読んでいた。何年も木に寄り添ってそうしていたかのように風景に馴染んでいた。本を捲る音が自然音の中で際立って私の耳に届いた。つい見入ってしまう。

 こちらの目線に気付いたのか彼女は本から私の方へ視線を移した。眼鏡がとてもよく似合っていた。目が合ってしまい照れて目を背けた。

「あの、どうかされましたか」

 彼女は少し驚いた様子ながらも見た目通りの温かみのある声で言った。なんとなく安心する。私は迷ってしまったことを伝えた。

「取り敢えず、お疲れでしょうからお茶でも如何ですか。美味しい紅茶があるんです」

 金木犀の裏側には古風な洋館があった。私は彼女の案内で中に入った。室内は薄暗く天井までそびえる本棚が所狭しとあった。奥へと進むと本棚に囲まれたちょっと開けた場所に出た。そこにある机に私を座らせると、彼女は物置きへと向かった。しばらくして、紅茶とお茶菓子を持って帰ってきた。建物の前にあった金木犀を思わせる含みのある匂いをした紅茶だった。お茶菓子も紅茶によく合う優しい甘さで口の中でほろほろと崩れた。一息ついてほっとしたところで彼女からここは図書館であると告げられ、この場所は何かきっかけになる出来事がないと来れないはずだから、それが分かればこの森を出られるのではないかと言われた。

 私はこの森に入った理由を思い返した。私はそれとなく順調に人生を歩いてきたはずだった。そう、何も悪いことはないはずだった。中堅の高校、中堅の大学を出て、いわゆる大手と言われる会社に就職した。でも、この年になってこの平凡な繰り返しの毎日に面白味がないと思うようになった。別に自分じゃない人が私と同じ立場にいても上手くやれるようなそんな予感が唐突に降ってきた。このまま自分らしさも分からずに人生を終えることに急に不安を感じた。作家や画家の同級生を羨ましく思った。この年でするような悩みでないことも分かっている。だから誰にも相談できなかった。溜まる一方の懸念の憂さ晴らしをしたくて言える相手が欲しくて沈んでいった。そんな時ある一曲と出会った。静かな曲だったが力強さに裏打ちされていた。その曲を歌っている人のことをもっと知りたかった。知ったら変われるような、そんな気がした。その曲はこの図書館から流れていると人伝てに聞いた。ぁあそうだった。こんな大事なことを忘れるくらい長く迷っていたんだな。

 彼女は私の話をただ聞いていた。言い終えた私はどこかすっきりした。聞いてくれる人がいるだけでこんなにも満たされるものなのか。彼女は飲んでいた紅茶を置いた。

「人は一人で生きているのではありませんよ。私はこの物置きで一人でいますが、孤独も寂しいものではありません。あの曲も色々な人の助けでできました。皆私の出会った方々です。あなたもたくさんの人に影響され影響を与えていますよ。今の人脈はあなたの人柄です」

 彼女の正論めいた一般論がとてもありがたかった。

 その後は、彼女の案内で森の出口へと導いてもらった。その途中様々な話をした。あの鳥は毎朝鳴いているとか、この花は白い花がとても綺麗だとかそんな内容だった。お互い名前も知らない動植物だったが、そんなことは関係なかった。

「またいつでもいらしてください」

 別れ際に彼女はそう言った。私はお礼を言い、また来ますと返した。


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