夢を叶える努力貯金 作:ほお袋
ミホノブルボンの武器は、サイボーグとまで言わしめるほど高い精度を誇る走りにある。
彼女が走れば、ラップタイムを0.1秒単位で厳守できるだけの精度をみせる。即ち、彼女は絶対に「掛からない」ウマ娘なのである。加えて、彼女の「逃げ」の走りも相まって、まさしくレース中の彼女は不可侵の領域に至ることができる。
それがどれだけ、ほかのウマ娘にとって恐ろしいことか。
高低差1.6メートルの上り坂を前にして、ミホノブルボンの脚色は衰えない。むしろ、それこそが真価とばかりに、加速までしている。
「えぇ……」
顔を青くするのは、練習の見学に来たライスシャワーだ。鋭利な瞳で坂を爆進するミホノブルボンの様子に、彼女は震えながらも見学している。何か盗めるものはないかと、懸命に、ともすれば睨みつけるように。
そんなライスシャワーの隣で、彼はカチッとラップタイムの計測に勤しむ。計測したそれを一瞬睨みつけると、また彼女の走りを注視する。
「……よくないな」
「えっ?」
ラップタイムを計測し終えれば、第一声はそれである。思わず横からそのタイムを覗いたライスシャワーは目を見開き、彼のことを見て、もう一度タイムを見て、彼を見る。
彼は苦虫を噛み潰したような顔で息を吐いている。
「マスター、評価は?」
「……精度は完璧だ」
戻ってきたミホノブルボンは開口一番に聞く。彼が嘘偽りなくそう口にすれば、ミホノブルボンもまた肩の力を抜いて息を吐き――
「マンネリだな」
ひゅっ、と鋭く呑み込んだ。
「先月とタイムが1秒も変わっていない。……菊花賞なら通用する。だが、この調子なら春の天皇賞さえ怪しい。今年の有馬記念ともなれば論外だ」
「……有馬記念の目標タイムは、2分32秒02と記憶しています」
「遅い。彼女は今年最後、レコードを叩き出す。勝負したいなら2分30秒を切れ」
「はい。目標修正。芝2500にて、2分29秒を目安に調整を開始します」
有馬記念。そこにおける2分30秒の壁は、過去どんなウマ娘も超えられなかった壁である。あのシンボリルドルフでさえ、2分32秒8なのだ。それを、2秒以上……ほぼ3秒縮めろということが、どれだけの難題か。
しかし、それを突きつけられても、ミホノブルボンの顔色は変わらない。淡々と、目標に向かって真っ直ぐ、進もうとしている。
「ライスシャワー。君も有馬記念を目指すなら、2分30秒は切るといい。そうでなければ、少なくともうちの子には絶対に勝てない」
「……っ!」
ライスシャワーは肩を跳ねさせ、続いて耳をペタンと畳み尻尾を垂れた。俯いて、表情までは見てとれない。
「……菊花賞が終わるまでには決めるといい。うちの子の好敵手になってくれることを期待している」
ライスシャワーの返事を待たず、彼は手を二度叩いて口を開く。
「まずは菊花賞だけど、やることは変わらない。坂でトドメをさして逃げ切る。上りも下りも加速して、そのままゴールまで突っ切る。減速は許さない。トップスピードに乗り切って、レースを決めるんだ」
「オペレーション、インプット。遂行のため、スタミナの強化が課題となります」
「体幹もだ。下りでこけたら選手生命どころか命に関わる。体幹を第一に、次点でスタミナだ。坂の勢いに体を乗せられれば、スタミナの消費も抑えられる。坂の往復をしながら、その二つを鍛えるんだ。2セット終えるごとに1セットレース形式で走るのも忘れるな。今日はこれを2セット後に15分休憩後、1セット行って終了だ」
「オーダー受理。いってきます、マスター」
「いってらっしゃい。何かあればすぐに指摘する」
ミホノブルボンが走り、彼が緩みを見つけて指摘する。まさしく、二人三脚の如き呼吸を見せる二人。
ライスシャワーは、目と耳を片時も離さず、その様子を観察し続けた。
笹針師、と呼ばれる職がある。
針師とは通常、針治療などを行う人間のことだが、この笹針師はウマ娘専用の針師、とでも言えばわかりやすいだろう。
歩様に異常をきたしている状態の『跛行』。筋炎や筋肉痛の俗称『コズミ』。これらは血液の循環が悪くなり、うっ血を起こすと呈することがある。
笹針師はウマ娘に笹針と呼ばれる特殊な針を使用してこのうっ血をとり、症状の改善を図ることを生業にしている。効果のほどは針師の腕前によるが、成功事例として治療後に爆発的な身体能力の向上、あるいは急速な体力回復。超一流ともなれば、そのウマ娘の脚質をほぐし無意識的に効率的な走り方を伝授する……などという眉唾な話まで存在する。
一方、失敗した時のリスクは悲劇そのものだ。調子が狂うならまだいい方で、練習に身が入らなくなることはザラ。とても直近のレースで勝てるような状態ではない。最悪、身体能力の大幅な低下さえ起こり得る。
トレーナーの中でも、この
効果の代償に、責任はウマ娘の将来としてのしかかって来る。
治療する側も、される側も。特別、職人魂や覚悟がなければ嫌に決まっている。
笹針師とはどうにも、難儀な職人なのである。
あれだけ外で走りながら、その脚は瑞々しい肌色のまま光を反射する。よく鍛えられている証拠に、彼女が少し力めばしなやかな筋肉が肌を張り、努力によって手に入れた美しい曲線を描き出す。
気を抜けば指が滑りそうになるほどきめ細かい肌に、傷はおろかシミ一つない。眩しい健脚の調子を、彼は硬く厚い皮膚に覆われた指で確かめる。
指を少し沈め、両手で脚を覆い張りを確かめ、時折彼女の顔色を伺いながら。
「左脚、ハムストリングに刺激を確認」
「わかった。他には?」
言いながら、彼が右足首を触ったところで、ピン、と尻尾の毛がわずかに逆立った。
「右足首か」
「……2セット目の下り時、体勢を崩したことが原因と思われます」
「後からきたかぁ……幸い、走るのに問題なくてよかった。念のため、明日はオフにしよう」
保健室のベッドでうつ伏せに寝転ぶ体操服姿のミホノブルボンに、ベッドに腰掛けてその健脚を直接触る彼。
この場面だけを見れば、とんだ勘違いを生み出すことは請負だ。加えて、これからやろうとしていることは、彼にとっても内密にしたい事である。ベッドを仕切るカーテンを引いていることで、余計に怪しさが増しているのは仕方のないことだった。
「……日に日に逞しくなってる。普通の子なら、脚全体が痛くなる」
「マスターのご指導の賜物です。この脚を生み出したのは、マスターです」
「いや、これは君の努力の結晶だ。俺たちは君たちに少し幅広い選択肢を提示しながら、ほんの少し手を引くことしかできない。……これだけ見事な脚は、他でもない君だけのものだ」
「……同じ練習量を継続した場合、故障率は92.1%と算出されます」
「なら、君はもしかしたら7.9%を踏む力があったかもしれない」
「マスターの献身と貢献の恩恵は、私の身体と脚に、確かな記録として刻み込まれています」
「……それ、外で言わないように。勘違いされかねない」
「……? 問題点がわかりません」
「その言い方は、俺が君のことを所有物のように扱っていると思われかねない。含みも少しある。弁明のために答弁するうちに、この治療のことまで話さなければならないかもしれない」
ピコン、とミホノブルボンの耳が直立する。連動するように、尻尾が彼の鼻先を掠めて揺れた。
「つまり、『秘密の共有』のため必要な措置だと?」
「そういうこと。強請られたって、君とあの子以外にはしたくない」
ふさ、ふさ、と尻尾が遊ぶように左右で揺れる。まるで猫じゃらしのごとく。時折鼻先を掠めていくそれに一瞬目を奪われながら、彼は努めて彼女の脚の方を注視する。
「……追加トレーニングはなしだよ?」
「……? 発言の意図が理解できません」
「あぁ、いや。すごい機嫌良さそうだったからね」
「たしかに、『高揚』のステータスは感知しています。しかし、マスターの指示に背く理由にはなりません」
「ならいいけど。……よし、じゃあ始めるね」
「お願いします。……状態『脱力』に移行」
ぺたん、と今まで揺れていた尻尾は彼の膝の上に垂れ、耳は綺麗に折り畳まれる。瞼は閉じられ、心なしかベッドにさらに深く沈み込んだように見える。
彼女の脚から手を離した彼は、ベッドの横。椅子の上に置いていたポーチから、『笹』――笹のように膨らんだ針を正確に通すための補助器――と非常に細い治療針を取り出す。『笹』のネジをしめて空洞の広さを調節すると、彼はそれをミホノブルボンの柔肌に押し当てた。
治療後の彼の手は赤黒い色を残していることが多い。
うっ血をとるためには、当然出血が伴うということ。悪くなった血流や血そのものを外に流すために、注射針ほどの針を用いることもある。その際に、彼は流れ出た血を指で掬い、粘度や質を確かめる。更に治療が必要か、それほどの症状でもないか、というのを彼は「血」から判断するのだ。
「止血まで終わったよ。もう動いても大丈夫」
赤黒く、ほんの少し猟奇的ともとれる色をウェットティッシュで拭い取りながら、彼は治療が終わったことを宣言する。
ミホノブルボンは「ありがとうございました」と口にした後、後始末に勤しんでいる彼のことを横目からジッと見つめる。
相変わらずの手際というべきか、ベッドのシーツにはシミひとつ落とさない。脚の調子は確かに快調で、今すぐに走り出せば自己ベストを更新出来るような、ある種の全能感に包み込まれる。その感覚が、治療の成功をありありと証明している。
彼は嫌な顔一つせず、ミホノブルボンが流した血を、針についた血を拭い取っていく。いっそ清々しいほど真剣に、彼は赤黒い色と向き合っている。
耳がピクピクとわずかに動く。尻尾が置き心地でも確かめるように、彼の膝上で上下に揺れる。
「こんなになるまで、よく頑張ってくれた」
そう言いながら、後始末を終えた彼は、財布の中から虹の蹄鉄コインを一枚取り出し、ミホノブルボンの顔横に置いた。
「……20枚目の取得を確認」
「あぁ、おめでとう。ようやく序盤を切り抜けた、ってところかな」
「『権利』の取得を確認。マスター同伴の『湯治』と『治療』を希望します」
「え、うーん……それ、今すぐには無理だけど。あと、治療は今日やったからしばらくはやらないよ」
「はい。時期は『菊花賞』後を目安に希望します」
「……ピックアップはしておくけど、宿が取れなかったら勘弁してね」
「はい。よろしくお願いします」
パタパタ、と尻尾がはたきのように彼の膝を叩く。耳はピンと天をつき、枕に埋もれた口元までは見えない。しかし、目元はほんの少し柔らかく、緩んでいる。
「お風呂は明日の朝からね。体を拭くだけにとどめること」
「はい」
そう言って彼が立ち上がろうとするも、ミホノブルボンの尻尾が彼の膝上を占拠して押しとどめる。
「……菊花賞のことだけど」
腰を落ち着けた彼の膝上に、尻尾が居座った。揺れることはなく、座り込むように預けられ。
二人の会話は、もう少しだけ続いたのであった。
有馬記念は漢字だったな、と思ってたけどよく見たらウマ娘世界特有の造語だったので「馬」→「マ」とカタカナ表記に変更