夢を叶える努力貯金 作:ほお袋
計画を組み立て、物事がうまく噛み合い結果を残したとき。喜びを一層深く感じる者もいれば、できて当然だと冷める者も居る。
これは計画の構築能力の有無に関わらず、本人の気質によるところが大きい。人は乗り越えるべき壁が高ければ高いほど、比例して達成感も大きくなるものである。これにプラスされる感慨というものは、努力や思い出といった達成までの過程が関わってくるが、その影響力は個人差が大きいので置いておく。
一方、計画を組み立てイレギュラーが発生した場合。計画通りといかずとも、たしかに結果を残せたとき。あるいは、思いがけず転んでしまったとき。
何を思うのか。それは、直面した本人にしか知り得ない。
三冠ウマ娘になること。
それは、ミホノブルボンにとって大切な夢であり、叶えたい目標である。
もともと、ミホノブルボンは短距離で強い、とデビュー前にトレーナー間で評価されていた。
事実、当初のミホノブルボンはとても中距離でさえ走りきるのが難しいほど、スタミナに欠陥を抱えていた。3000の菊花賞など、夢のまた夢。結果を残すならマイルまでだと、そう言われ続けた。
三冠を目標に、夢物語と言われながら、ミホノブルボンは決して折れなかった。手に余る、とトレーナーたちが次々と手を引く中、あるトレーナーが、ミホノブルボンにこう提案した。
『俺じゃ君を三冠で勝たせられない。だけど、それを実現できるヤツなら知ってる』
そうして紹介されたトレーナーが、現ミホノブルボンのトレーナー、彼であった。
「調子は?」
「心拍数、呼吸、ともに安定しています。非常に『落ち着いた』状態です」
与えられた待機室の中で、二人は最後の打ち合わせ……とは名ばかりの、会話に洒落込んでいた。
「君の夢は目の前だ。すぐそこだ。これに勝てば、夢が叶う。……そう思うと、俺は気持ちが昂って来る」
「……」
ミホノブルボンは天井を見つめる。そうしてしばらくの沈黙の後、彼女はゆっくりと目を閉じて……大きく息を吐くことなく、至って平静に口を開いた。
「体温にも変化はありません。至って平常です」
「そうか」
トレーナーは長く、長く息を吐いた。ミホノブルボンの代わりに、と言わんばかりに長い間。
そして風を切るように鋭く空気を吸い込むと、彼はそんな勢いが嘘のように。しなる柳のように掴みどころなく口にした。
「君の予定は未定だ。結果が出たら決定だ」
「……? 発言の意味がわかりません」
瞳が揺らいでいる。無機質に見えて、早々揺れることのない彼女の瞳は、彼をジッと見つめている。
「……つまり、レースっていうのは結局。蓋を開けて中身を見るまで、誰にもわからない。そういうことだよ」
「……マスターには、何か懸念事項がある、という意図を感じます」
「……そうだね。単刀直入に言うよ」
――全力を出せ、と。
恐ろしく静かに、刀の切先の如き言葉がミホノブルボンをさした。
「……マスター?」
「10バ身以上の差をつけて圧勝しろ。その心づもりで挑め。クラシックに、君のカタログスペックを超えた子は存在しない。この三冠目で、ミホノブルボンというウマ娘の真価を示せ」
雷が鳴り響いたような衝撃に、ミホノブルボンは耳を尖らせ尻尾の毛が総毛立つ。つま先から頭のてっぺんまで、ぶるりと震え上がり、その瞳を動かせなくなった。
「行ってこい。俺が今日できることは、ここまでだ」
彼はそう言って背中を見せた。
ミホノブルボンは、思わず視線を上げた。ほんの少しして、天井を見つめていることに気づいた彼女は。
「オーダー受理」
しっかりと頷いて誓いを紡ぐ。それは、彼が控室の扉を開けるのと同時であった。
「ミホノブルボン」
そこで一度、言葉に詰まる。
いつもなら「始動します」などと言っていた。しかし、それをこの場で言うのは「違う」気がした。
だから、彼女はふと、その言葉を選んだ。
「――飛翔します」
無敗の二冠ウマ娘、三冠目を手にすることはできるか――そんな文句を気にすることなく、ミホノブルボンはゲートの中から、ただ真っ直ぐに前を見つめた。
整地された芝のコース。不備は当然見受けられず、空は快晴。絶好の良バ場だ。前日に雨が降った、ということもなく、内側のぬかるみも気にする必要はないだろう。
(状態は『良好』。過去データから算出して、マスターからのオーダーは達成可能範囲ーー)
そこで一度、ミホノブルボンは首を横に振り、 深く、深く息を吸って吐いた。
(『不要』。私はただ、『最高の走り』をマスターに届けるだけ)
決意を固めたところで、出走直前の合図。同時に、ミホノブルボンは踏み込み、スタートの態勢を取る。
(……コンセントレーション)
そしてゲートはその口を開き。
誰よりも先に、流星のごとく閃いたのはーーミホノブルボンだった。
『ミホノブルボン、これ以上ない好スタートだ! 他のウマ娘たちが揃ってスタートする中、ミホノブルボンだけは1バ身先を踏み抜いた!』
ミホノブルボンの走りは単純明快。誰よりも先を行き、己のタイムを刻みつける。そのタイムが誰よりも速く、結果的に一着がついて回る。
鍔迫り合い、と言われるような勝負はなかった。独走とは言わないが、ミホノブルボンは皐月賞、日本ダービーともに、第一コーナー以降に先頭を譲ったことは一度もない。
影すら踏ませぬ、常に誰よりも先の景色を見る彼女は、後ろを見たことがない。
だから、彼女は知らなかった。
極限までそぎ落とした身体に鬼が宿る。その段階を見逃した。
2週目の3コーナー手前。ちょうど、スタート地点を踏んだところで、ミホノブルボンは圧し潰されるような気迫に気がついた。
あまりにも静かに、ミホノブルボンの足音と息遣いに消えるほど静かに、鬼気迫る。
『ミホノブルボン、快調に飛ばしていく中、ライスシャワー! ライスシャワーが今も食らいつく! レースはもはや二人の独走状態! 後ろのウマ娘たちは差し返すことができるのか!?』
ライスシャワー。追いつき、食らいつく。執念にその身をやつす黒鬼が、ミホノブルボンのすぐ後ろにぴたりとついて離れない。
(ラップタイムの更なる上方修正――問題ありません。加速します)
まとわりつくような重圧から逃れるように、ミホノブルボンはその脚を爆発させる。すぐ前には坂がある。本来、下り坂に向けて脚をためるのだが。
ミホノブルボンの戦場は、まさにこの坂にある。
『ミホノブルボン! このタイミングで仕掛けてきた! ライスシャワーを突き放し、坂をのぼって、加速!? さらに、さらに加速する! 上り坂をものともしない! 坂路の申し子! 今、その脚でターフの上を独走――』
タン、と鋭い足音がミホノブルボンの耳を射抜く。
一瞬、ミホノブルボンの視線がその音に向く。そして、彼女はとうとうその姿を瞳におさめた。
「――勝つ」
髪を振り乱し、漆黒の闘気を具現化したように尾を引いて。覗く片目から幽鬼の如き怪しい灯を光らせて。
黒鬼は振り上げた鉄槌を下す。
『ら、ライスシャワー! 下り坂で風となった! 突き放された差を一息に埋めて、ミホノブルボンに追いついた!』
燃えている。隣に居るミホノブルボンさえ焼き尽くす熱を力に換えて、黒鬼が並ぶ。
ターフがダートのようにさえ思える。
黒鬼ライスシャワーの気迫に、ミホノブルボンは息を呑んだ。その末脚がどこに隠されていたのか。ほんの少し脚を緩めれば、もう二度と追い抜けない。そう確信させるプレッシャーに、ミホノブルボンの尻尾が総毛立つ。
このままでは負ける。数秒先の未来、ライスシャワーの背中が見えてしまう。設定したラップタイムに従えば、確実に負ける。
『最高の走り』とは何か。
設定したラップタイム通りの走行による一着? 自己ベストの更新? はたまたスタミナをちょうど使い切る爆走か。
ミホノブルボンは、それらの回答を否定しない。計算され尽くした勝利というものを、彼女は正しく尊重する。
だが、ミホノブルボンというウマ娘の答えは違う。
(『全身全霊』――リミッター解除)
ミホノブルボンは、枷を外す。
ラップタイムをかなぐり捨てる。残った力を振り絞る。計画を白紙に戻して、ただ今あるもので色をつける。
「ミホノブルボン、『飛翔』します」
その宣誓を皮切りに。
ターフという青空に、一条の星が駆け抜けた。
『ミホノブルボン! ミホノブルボンがさらに加速!? 残り800でデッドヒートが繰り広げられる! なんだこれは、いったい何が起こっている!? 後ろを置き去りに、ミホノブルボンとライスシャワーの一騎打ちが繰り広げられている!』
流星に黒鬼が迫る。黒鬼が追いつく。流星がまた加速して突き放す。黒鬼が一息に差を詰める。
一歩たりとも譲らない。逃げる星を鬼が追う。輝く星に鬼気迫る。
『残り200を通過! 依然、先頭はミホノブルボン! 流星のごとくターフを駆け抜ける! その星を掴めるかライスシャワー! 両者の差はほとんどない! 熾烈なデッドヒートを制するのは果たして!?』
そして。
ゴールラインに星の煌めき。鬼の一足。
後に残るのは大きな空白と、舞い踊る風だけだった。
日間一位、大変うれしく思います。
たくさんの評価、感想ありがとうございます。誤字報告に多大な感謝!
宇宙に輝く星のように、ミホノブルボンが輝いて見えれば幸いです。