夢を叶える努力貯金 作:ほお袋
そのレースには、確かに彼女の好敵手たり得るウマ娘がいた。
悪鬼のごとく執念と欲望にその顔を歪め、誰よりも泥臭く戦った。星をその手におさめようと、肉体を超越した走りを見せた。
黒い鬼は、ピタリとミホノブルボンの後ろをついて離れなかった。最初のコーナーから、逃げる背中にはりついて、ペース配分を無視した、勝利するためだけの走りを見せた。
一着以外に興味はない。
絶対に勝つんだ。
一度落ちれば、あとは急転直下を見せるだろう。開始から1200を抜けた段階で、スタミナが残っている気配はない。肩で息をしている。その顔を真っ赤に染めている。
そんな状態で落ちれば、半分以上残ったレースの結果など決まっている。走りきれないか、最下位に落ちる。
まさしく、背水の陣というに相応しい執念が、あろうことか鍛え上げた努力の結晶たるミホノブルボンを捉えた。
客席にまで伝わってくるライスシャワーの気迫に、彼は息を呑んだ。その走りを注視して、目を見開いた。
ライスシャワーは、ミホノブルボンのフォームを真似ていた。もはやトレースといっても過言ではない。いや、専用にチューニングさえされている。無茶な力を、その心意気だけで維持している。
「……すごい」
純粋に、無意識に、彼の口からそんな言葉が漏れた。
上り坂を制したのはミホノブルボンだ。そこでライスシャワーを突き放し、下り坂を滑るように疾走した。
しかし、ライスシャワーは上り坂で加速しない。スピードを維持したまま、足をためて――下り坂で爆発させ、執念の残像を残した。
瞬きの間に、1バ身が縮んだ。
息を吐く間に、もう並び立った。
その熾烈なデッドヒートに入れば、会場は湧き上がった。もはや三冠など知ったことか、とライスシャワーにも強い声援がついて回る。変わらずミホノブルボンの無敗の三冠を願う者もいる。
彼は見ていた。ミホノブルボンの表情に、色がついたことを。必死に歯を食いしばり、前を睨みつけて、その耳を千切れんばかりに天に突き上げ、尻尾を総毛立たせて。
ミホノブルボンは燃え上がっている。隣に立つ彼女から延焼したように。今まで押さえつけていた燃料が、ごうごうと音を立てて燃え盛る。
「ライスシャワー」
一条の星に黒鬼迫る。
「このレース、君こそがヒーローだ」
彼の断言と同時に、決着がつく。
三着以降のウマ娘がゴールに到達するのに、7秒に近い時間を要した。10バ身なんてものではない。圧倒的な大差だ。
電光掲示板に照らされる結果。ハナ差の一着二着。
全てを見届けた彼は、その身を翻し、控室に戻っていった。
青空から照りつける太陽が、彼女たちを祝福するように輝いている。そのレースに興奮したように、秋とは思えない熱が会場に降り注ぐ。
いっそ蜃気楼さえ起きそうな熱に包まれて、未だに会場の興奮は冷めやらぬ。
(……オーダー、失敗)
青い空を見上げながら、ミホノブルボンは思い出したように現状を把握する。
10バ身差などつけられるはずもない接戦だった。もはや、オーダーなど忘れてしまうほどの熱があった。
(……抑制不能のエネルギーを感知)
思い出すのは、気迫を感じ取った瞬間からの戦いだ。
誰かと競い合ったのはいつ以来だろうか。少なくとも、彼がトレーナーとしてついてからは、競い合う、という感覚を久しく忘れていた。己との戦いに勝つことで、勝利が手に入っていた。
(これが……競争。誰かと競うということ)
勝つためには、そうするしかなかった。勝つために、練習してきた最善を捨てなければいけなかった。
その勝利を後押ししたのは、紛れもなく彼女の積み重ねた努力の賜物だった。しかし、そんなミホノブルボンに食らいついたのは、勝利への執念だった。
カタログスペックの圧倒的な優勢に、感情の手が届きかけた。いや、もしも既定路線を貫いたならば……ミホノブルボンもまた、勝利への渇望を発露していなければ。勝っていたのは……ライスシャワーだ。
ぶるり、と汗が冷えたのとは別の震えが全身に走る。
横目に黒鬼……ライスシャワーを見れば、瞳を大きく揺らしながら、それでも歯を食いしばって震えている。
「ライスさん」
「……え?」
ミホノブルボンは声をかける。逡巡も躊躇いもない。ただ一言。伝えたいと思ったから、口を開いた。
「再戦を希望します。……また、次のレースで」
ミホノブルボンはそれ以上を口にしない。伝えるべきことは伝えた、とライスシャワーに背を向けて、ウィナーズサークルに向かう。
「……あの!」
他でもないライスシャワーが、大きく声を上げた。振り向くと、まだ顔を青くしながら、肩で息をして。それでも、彼女はレースの時とは違う、毅然とした瞳でミホノブルボンを貫いた。
「ライス、次は! 負けません!」
続けるように。
その光景を見たミホノブルボンは、目を見開いた。
「絶対! ブルボンさんに……勝ちましゅ!」
ライスシャワーの両の瞳に、鬼火が宿った……かのように見えた次の瞬間。彼女はセリフを噛んで、気迫をぱひゅん、と間抜けな音を立てるように霧散させた。
幽鬼を思わせるそれから一転、可愛らしい少女の顔が転げ出る。疲れとは別に顔を染めて、はうぅ、と弱々しい声を漏らして俯いた。
ピコン、とミホノブルボンの耳が立つ。尻尾が揺れる。
対照的に、ライスシャワーの耳が萎れる。尻尾が垂れる。
「……」
もふ、もふ、と。
ミホノブルボンは、ライスシャワーの頭に手を置いていた。恐る恐る、ゆっくりと、それでいて慰めるように。彼女の長い髪をそっと梳く。
「……ふえ?」
吹けば飛びそうなほど弱々しい声で、彼女はそっと顔をあげて……すぐに顔をさらに赤く染めて、一歩引いた。
「……」
ミホノブルボンの手が、空中で虚しく止まる。
ライスシャワーは咄嗟のことに混乱して、目を回して、えっと、その、などと口が回らなくなっている。
「……謝罪を。先程の私の行動は、あまりに不躾なものでした。申し訳ありません」
「あ、えっと、ちがって。その、ライス。今、汗かいてるし。突然で、驚いて。えっと、その……ご、ごめんなさい」
そう言いながら、ライスシャワーは頭をそっと押さえて涙目になっている。ミホノブルボンはその様子を見て、彼女と同じように耳と尻尾を垂らした。
「謝罪は不要です。これは、私の失敗です。ライスさんは悪くありません」
失礼しました、と。今度こそ、ミホノブルボンはウィナーズサークルに向かう。彼女だけの特等席で、その栄光をついに手にするだろう。
ライスシャワーは、その背中を見送った。
見送る中、その瞳に灯火が宿る。
「次は絶対に、ライスが勝つんだ」
誰にも聞こえない声で、強く宣言するのであった。
『菊花賞の大接戦! 流星ミホノブルボンに黒鬼ライスシャワーの一騎打ち!』
後に、そんな記事が世に出回り、彼女たちの知名度は瞬く間に広まっていく。
だからこそ、後のその舞台で再戦が決まるのは必然であった。
無敗の三冠ウマ娘ミホノブルボン。
彼女が次に目指す場所は、もう決まっていたのであった。
ミホノブルボンが控室に戻った時、彼はスポーツドリンクとタオルを片手にそこに居た。汗を拭かせて、水分補給をさせて。それが終わってから、彼は先手必勝とばかりに口を開いた。
「どうだった? 率直に聞かせてほしい。今回のレースのことを」
ミホノブルボンは一度、俯いて考える。
しかし、彼女は思いの外すぐに顔を上げて、まっすぐ彼の目を見て言った。
「非常に実益の伴うレースでした」
「それは、無敗の三冠ウマ娘になれたからか?」
「否定」
バッサリと、驚くほど素早くミホノブルボンは否定する。
「彼女は、いうなれば『好敵手』と呼ばれる存在と認識。しのぎを削り、その実力を高め合うライバルを得ました」
思えば、とミホノブルボンは言葉を続ける。
「私は、競うという感覚に乏しいことが判明しました。自己ベストの更新で事足りた今までの状態は、『井の中の蛙』を体現するものでした」
思い出すように、ミホノブルボンは虚空に視線を向ける。そこに、彼女はレース中の映像を見ていた。
「スペックにおいて、私は驕りなく『最高』の状態であったことに間違いありません。事前の情報と照らし合わせ、何度計算したところで、計画に則れば勝利は確実でした」
ですが、と。
ミホノブルボンは強く、確信を持ったように、彼のことを強く見つめて。
「レースに絶対はあり得ない」
そう、強く宣言した。
本当の意味で、ミホノブルボンがその言葉を理解した証左であった。
「肉体機能では説明のつかない強さを知りました。私もまた、計画を捨て去り、そんな『熱』に身を委ねて走りました。結果、計画よりも『2.31秒』早くゴールに至りました」
尻尾が揺れる。
瞳は真っ直ぐ力強い。
「ライスさんが並び立った時、私の胸の内から『抑制不能のエネルギー』が湧き上がるのを感知しました。このエネルギーが、私に実力以上の力をもたらしました」
そこまで言ったところで。
ミホノブルボンは腰を深々と折り、頭を下げた。
「オーダーの失敗、申し訳ありませんでした」
そこからは、彼の番だった。
ミホノブルボンの言い分は聞き終えた。あとは、彼が決断を下すだけ。
彼はミホノブルボンを見る。その天に立った耳と、さわさわと横に揺れる尻尾を見た。
「……君の言い分はよくわかった。その上で、俺はこう言わなきゃいけない」
降りかかる重い言葉。どんな叱責が待っているのか。そんな未来を想起して尚、ミホノブルボンの毅然とした姿勢は揺るがない。耳が垂れるが、尻尾はピンと立たせて振舞った。
「――よくやった」
耳が立つ。
尻尾が天をつく。
ミホノブルボンの頭に乗った手のひらから、温もりが染み渡るように伝わってくる。
「白状しよう。今回、俺に君を勝たせることは無理だと、確信していた」
「……」
首を横に振ろうとするも、落ち着けるように手のひらが頭の上を優しく跳ねて抑制される。それを合図に、ミホノブルボンは聞きに徹する。
「ライスシャワーだ。彼女は、君のスペックを超えてくる。その精神が肉体を超越し、必ずやこのままの君を食い破る。そこまでは確信していた」
彼は頭から手のひらを引くと、膝を折り、ミホノブルボンと視線を合わせる。
「俺には、君を説得する術がなかった。俺がそういう風に育ててしまって。示せるデータは根拠に乏しかった」
そして何より、と。
彼は青空のような瞳を見つめて、真摯に答えた。
「君自身が気づくことが、このレースの鍵だった。自分で気づかなきゃ、意味がない」
そして彼は、
「どんな罵倒も受け入れる。頬を張られようが、蹴られようが、構わない。君との秘密にすると約束する。こんな俺に失望したのなら、契約を打ち切られるのも、仕方ない。どんなことも受け入れる。でも、これだけは言わせてほしい」
――非力なトレーナーで、ごめんなさい。
拳を握り、震えながら、彼は絞り上げるようなかすれ声になって、そう口にした。
「……」
ぶん、ぶん、と空気が唸る。
ミホノブルボンは彼の頭頂部を見つめてしばらく、固まっていた。
ぶおん、ぶおん、とウチワで扇いだような風が巻き起こる。
「……顔を上げてください」
静かに、彼は顔を上げてミホノブルボンの目を真っ直ぐ見た。
――風が更なる唸りを上げる。
「今の私があるのは、マスターの手腕によるものです。マスターによって鍛え上げられた基礎スペックがなければ、ライスさんと『競争』にさえ成りえなかった。その土台の構築は、他ならぬマスターの的確な指導があればこその賜物です」
いつもの無機質な瞳が、今は一段と冷たく映る。
「マスターの選択は『最善』であったと判断します。その選択に、私は『応えました』。つまり、メインオーダー『バグの消去』を達成した、ということです」
ミホノブルボンはそこまで言ったところで、立ってください、と彼に促した。
静かに立ち上がると、今度はミホノブルボンが彼を見上げる形だ。
風を切る音が、よく聞こえる。
「私は、私の目標『三冠ウマ娘』になることを達成しました」
そして唐突に、そんなことを言ってのける。
突然のことに困惑した彼に、ミホノブルボンは言葉を重ねる。
「加えて、私はマスターからのメインオーダーを達成しました」
結果を口にする。それに、彼はしっかりと頷く。事実であると首肯する。
「……」
しばらくの沈黙の後、また風が唸る。
「私は無敗の『三冠ウマ娘』になりました」
夢が、現実になった。
その言葉を改めて聞いて呆けるほど、彼も鈍くはなかった。
「……ミホノブルボン」
「はい、マスター」
あまりにもあっさりとした皐月賞。
計画通りの日本ダービー。
そして、大番狂わせ、死力を尽くした菊花賞。
間違いなく、ミホノブルボンはウマ娘の歴史に名を刻む存在となるだろう。
そんな功績に掛ける言葉は、一つしかない。
「おめでとう。君は、最高のウマ娘だ」
「はい。そして、最高のウマ娘たる私を育て上げたのはマスターです。つまり、マスターは私にとって『最高のトレーナー』であることに、間違いはありません」
「……!」
その言葉に、ジンと鼻の奥を熱が突く。
彼は拳を握り、目力を入れたつもりになった。下がったまなじり、瞳は垂れて、口は一文字に結ぶ。それもすぐに、何とか切り替えようとして、口を開く。
「何でも言ってくれ。君の結果に、俺は報いたい」
「それでは、これからもより一層厳しく、ご指導とご鞭撻のほどをよろしくお願いします」
「……それは、こっちからお願いしたいくらいだから。個人的なお願いでもいいんだ」
「……リクエスト承認。しかし、こちらからのレスポンスには時間を要します。期日は未定。つまり、『個人的なお願いの権利』の執行は『保留』となります」
「そうか。うん、わかった」
彼はミホノブルボンに手を差し出した。
ミホノブルボンはその手を見て、彼を見た後、しっかりと彼の手を掴んで交わした。
「これからもよろしく」
「よろしくお願いします、マスター」
パタ、パタと音を響かせながら。
二人は大一番を超えて、新たな舞台へ向けてスタートを切るのであった。