夢を叶える努力貯金 作:ほお袋
メタリックカラーのトランクの中身は、非常に簡素にまとまっていた。
必要最低限の衣服類に、ハンカチ六枚、ポケットティッシュが4束2セット。ハンドタオルが四枚。自前の歯ブラシに歯磨き粉。旅行先のマップが一冊。時刻表が一冊。念のための包帯が1ロールに、絆創膏が一箱。メモ帳一冊にペンが一本。折りたたみの傘が一本。10枚入りのビニール袋を1セット。あとは現金、携帯などの必需品。
カメラもなければ、オーディオプレイヤーなどの機械類は微塵もない。あって携帯の充電器程度だ。一目見れば、何がどこに入っているのかわかるほど物が少ない。
「……ミッション発令。留守を一任します」
そう言って、自室のベッドの上にうさぎの人形を座らせて、彼女は部屋を後にする……前に、振り返ってその姿を確認してから、今度こそ部屋を出る。
「権利執行。オペレーション『慰安旅行』、開始します」
ピコン、ピコンと耳を跳ねさせながら、彼女は寮を後にした。
新幹線に乗っている時、彼は膝下にメモと資料を広げながら、イヤホンをつけて携帯で動画を見ていた。
何かをメモしながら、何度も動画を見返して。切先のように鋭くなった瞳を、画面の中に落としている。
「……」
ミホノブルボンが横から覗き込むと、それは去年の有馬記念の映像だ。歴戦のウマ娘たちの中で、そのウマ娘は疲れ知らずに、爆速で駆け抜ける。まるで逃げウマのような立ち位置で、終盤には更なる加速を見せて……後ろから差し込むウマ娘から何とか逃げ切り、ハナ差で一着になった。
映像が終わったところで手元のメモに視線を落とすと、仕掛けるタイミングについての図解がされていた。想定された3人分の姿。誰がどこで仕掛けるのか、仕掛けたらどうなるか。それを彼はメモの中に落とし込んでいる。
「……」
ちょい、ちょい、とミホノブルボンは彼の袖を摘んで控えめに引く。彼は一度、ミホノブルボンに視線を向けると、片耳のイヤホンを外して「何かあった?」と口を開く。
「データの視聴許可を求めます」
「ん、わかっ……あ、うーん、あー……」
彼はミホノブルボンの要求に頷きかけたところで、彼女の方を見て、外したイヤホンを見て、もう一度彼女のことを見た。
「……ちょっと近くなるけど」
「構いません」
「耳を触るけど」
「問題ありません」
すっぱりと言い切られれば、彼も断る理由がない。彼はミホノブルボンの方に体を寄せ、ミホノブルボンもまた彼の方に体を寄せる。
肩と肩が触れ合う距離。彼は片方のイヤホンを手に、ミホノブルボンの耳に押し当てた。
その無表情と淡々と厳しすぎるトレーニングをこなす姿から、畏怖を込めてサイボーグなどと言われるミホノブルボンは、その呼び名に反して機械音痴である。
その程度は、ボタンを押すだけで自動販売機を壊すという、ある種ホラーの領域に足を踏み入れるほどのクラッシャーだ。本人もそれを自覚しており、自販機でものを買うときに誰かにお願いをしなければいけない程度に不自由している。
携帯を触れば通信障害が起こり。イヤホンに触れば音が聞こえなくなることは想像に難くない。
だから、スマホもイヤホンも彼が持つ必要がある。人間用のイヤホンは、ウマ娘には少し小さい。押さえていなければポロリと落ちる。
彼は右手に携帯を持ち、左手でミホノブルボンの耳にイヤホンを押し当てる。そこから手を離すことはできそうにない。
「……」
身を寄せ合って、二人は一つの携帯を共有する。同じ画面に視線を落とす。同じ音に耳を傾ける。
時折動く、ふわふわとしながら暖かい耳が、彼の手に当たる。当たるたびに、彼は少しだけ自分の手の位置を変えて……それでもまた、耳は当たって。
次の動画に移る頃には、彼の手には布団よりもずっと暖かく柔らかい耳がピタリとはりついた。彼もそれ以上は手を動かさず、ただ彼女の耳にイヤホンを固定することに注力する。
「……」
二人は口を開かない。
ただ、同じ時間を共有するのであった。
予約していた旅館の自室に荷物を置く。それだけ終えれば、彼とミホノブルボンはまた合流して、市街地へ繰り出した。
珍しいものは多い。一風変わった街並み、などと他所者特有の単純な感想が彼の頭に浮かぶ。
物見遊山に視線を泳がせるよりも、視線は度々隣に向いた。ミホノブルボンは観光名所の説明を、記録された館内アナウンスの如く淡々と口にする。よく勉強してきたのか、耳を尖らせながら彼女の口はよく回る。
そんな専用ガイドに相槌を打てば視線が交わる。その度に、ミホノブルボンは満足そうに頷き風を扇ぐ。
「次に、この建物は――」
時折、彼が生徒になった気持ちで聞いてみれば、彼女はその瞳の奥にきらりと星を宿して、説明口調がよく回る。風もよく吹き、彼の方によく耳を傾け忙しない。
そんな姿を目の当たりにすると、『社会性』とは何だろうか、と彼は思わず首を傾げる。そんな彼に気付けば、補足とばかりにミホノブルボンがよく喋る。口数が増えるほど、他の動きもよく増えて、風もより強くなる。
それがどうにもおかしくて、彼は笑いを堪えながら、ミホノブルボンの説明に耳を傾けるのであった。
観光が一通り終わって旅館に戻ると、各々の自由時間が始まった。外に繰り出すのも良し。風呂に入るのも良し。その折に、彼は改めて外に出る。ミホノブルボンにメッセージで連絡は入れて、観光地向けの露店や、その土地特有のお土産品を見て回る。付き合いのお土産に目星をつけると、彼はまた別の目的でするりと店を闊歩する。
そんな静かで、間延びした時間を彼はよく好んでいた。時間にして一時間ほど、ちょうど夕食時に彼が旅館の自室に戻った時。
「マスター、おかえりなさい。そろそろ夕食時とのことで、女将さんに案内を受けました」
彼の部屋の中には、既にミホノブルボンが待機していた。男女ということもあり、部屋は別でとっていたが、食事だけは同じ部屋で、と旅館側に注文をつけたことを思い出す。
ミホノブルボンは、風呂上がりなのだろう。頬やその肌は健康的に上気し、腰には届かない長髪はまだ少し湿っている。備え付けの部屋着か、椿の柄をあしらった空色の着物は、彼女の物静かな様子とよく似合っている。肌寒いのか、その上から若草色の羽織りを着ている。
「あぁ、ただいま。着物は自分で着たの?」
「否定。自前の部屋着を用意していましたが、女将さんのご厚意によって着付けをしていただきました」
「……そっか。じゃあ、ちょっと待ってて」
買ってきたものを荷物の近くに置きながら。彼は荷物の中からドライヤーを取り出し、木製の机の前で正座しているミホノブルボンの隣に移動する。
「風邪ひくから。髪触っても大丈夫?」
「はい」
ミホノブルボンはドライヤーという機械を手に持てない。
だから、今回は彼が代わりにやる必要がある。ドライヤー片手に、もう片方の手はその指を櫛のように使い、髪を乾かしていく。ゴオオ、とドライヤーの駆動音が部屋の中によく響く。それ以外の音は、夜の帳でも降りたように聞こえない。
普段から手入れは完璧なのだろう。髪に引っかかるようなところはなく、するすると指が通っていく。絹よりも柔らかく、肌触りの良い髪からふわりと、暖かくもスッと肺まで透き通るような匂いが鼻孔をくすぐる。
「熱くない?」
「問題ありません」
まるで人形の手入れでもしているような光景だ。微動だにせず、凛然と座る彼女の世話をする彼は、さながら召使いか。
そうして髪を乾かし終われば、彼はドライヤーをおさめて、先ほど買ったばかりの包みを二つ、ミホノブルボンに手渡した。
「ちょうどいいかな。本当は旅行が終わった後に渡そうと思ってたけど。君にこれを」
「……」
ミホノブルボンはそれを手にすると、いつもの調子で、しかし瞬きを忘れた様子で固まった。再起動したのはパチクリ、と二回の現状確認を終えてのことだ。
「ありがとう、ございます。すぐに拝見してもよろしいでしょうか」
「うん。今すぐに役に立つと思う」
彼女は包みが破れないように丁重に取り払うと、一度呼吸を置いてから、その箱を開けてみせた。
「……、『つげ櫛』、でしょうか」
「うん」
メトロノームのように、パタ、パタ、とリズムが刻まれる。ミホノブルボンはその『つげ櫛』にジッと視線を落として、しばらくの間、口をつぐんだ。
次に、彼女は恐る恐る、といった様子で慎重に、コマ送りのようにゆっくりと両手で櫛を持ち上げる。親指で手触りを確かめ、櫛の歯を指の腹で確かめて。
ミホノブルボンは、確かにその口元をほころばせた。
「ありがとうございます」
「うん。でも、まだもう一つ残ってるよ」
「……」
もう一つ。細長い箱が綺麗な包装紙にくるまっている。
ミホノブルボンは何度か、その箱と櫛へ交互に視線を向けた。それが何周目かしたところで、彼女の耳が天をついた。
「権利執行を求めます」
「……え、ここで?」
目を白黒させる彼と対照的に、ミホノブルボンは「はい」と落ち着いた様子で頷きながら、よく風とリズムを刻んでいる。
「この『つげ櫛』を使用し、私の髪を梳いてください」
「……えっと。やったことないし、きっと下手だよ」
「先ほどの手櫛の手腕から、問題ないと判断しました。よって、私の意思は変わりません」
どうしたものか、とミホノブルボンを見るも、その瞳は固く揺れ動かない。それを見ただけで、彼はおどけるように両手を挙げて頷いて見せた。
「わかった。ご指導の方、よろしく」
「はい」
『つげ櫛』を受け取ると、彼はミホノブルボンのすぐ後ろに陣取り、倣うように正座で落ち着く。その膝の上に、すかさず彼女の尻尾が落ち着いた。まるで定位置だ、といわんばかりの早業に、彼は苦笑をこぼすしかない。
そして、すっ、と『つげ櫛』が彼女の髪を梳き通る。地肌に当てず、左手で髪を掬って右手の櫛を通していく。規則的に、心地の良い櫛と髪の擦れる音が、部屋の中を支配する。
しばらくの間、少女はそんな時間に身をゆだねた。目を閉じ、耳を折り、髪の毛に通っていく指と櫛の感触をよく確かめる。
ふと、目を閉じていたことを自覚したミホノブルボンは、まだ指と櫛の感触が伝わってくるのを確認すると、思い出したようにもう一つの箱に視線を向けた。
そして、『つげ櫛』が入っていた箱と同じように、包装紙を破らないように取り外す。箱のふたに手をかけて、壊れモノでも扱うように慎重に持ち上げると――
「……」
ミホノブルボンは、その中身を見てフリーズした。
ふたをとった体勢のまま、しばらくが経つ。髪を梳くので手一杯なのか、彼がそのことに気付いている様子はない。
箱の中身は――
六花をあしらったとんぼ玉が先についた、簡素なもの。値段もきっと、高すぎるものでもないだろう。
とんぼ玉には、冬の世界が広がっている。
雪原を思わせるような、澄み渡った青と白の色合いが、とても美しい。騒がしさはなく、ただ静かで美しい世界が、そこに描かれている。
「……」
それを、ミホノブルボンは手に取れなかった。冬の景色に霜がつくのを躊躇ったためだ。その思い出に、綺麗なままでいてほしいと、どこか心の隅でストッパーが働いた。
「……マスター」
「ん、どうしたの」
箱のふたを机の上に。彼女の視線は、冬の景色に集まった。
「私は年末、実家への帰省を予定しています。幼い頃からの夢を叶えたことを直接、両親に報告しようと。……もし、都合がつくのであれば」
息を吸う。耳が斜めに立ち上がる。
冬の景色。そこに、家族の絵を浮かべたミホノブルボンは、喉に詰まったその言葉を口にする。
「マスターにも、同行していただきたいと。そう、考えています」
言い切った。そのことに、知らずと上がっていた肩が下がっていくのを感じる。
「そうだね。行こうか」
そんなミホノブルボンの気持ちを知ってか知らずか、彼はあまりにもあっさりと、頷いて口にした。
驚きに、尻尾が思わず跳ねて彼の腹部を撫でた。
「俺も、君のご両親には挨拶を、と思っていたから。ちょうどいいかな」
「……12月30日に出発を予定しています」
「有馬記念の後だし、それで行こうか」
「はい」
すっ、と梳かれる音が。
静けさに包まれる部屋の中へ、顔をのぞかせるように響いた。
彼のすぐ目の前にいる少女は、雪景色に想いをはせる。
とんぼ玉の中に映った六花は、雪解けを告げるように、新しい花を咲かせた。