夢を叶える努力貯金 作:ほお袋
トレーナーとして、あまりにも重い失態だった。
彼がやらなければならないことは、特定のウマ娘に担当を勝たせることでは無い。レースに勝たせることこそが、トレーナーの責務なのだ。
クラシックで有マ記念の二着。更にはあのハルウララを抜き去った。世間はきっと、新しいシニア世代に、大きな期待と希望を寄せることだろう。
だからどうしたというのか。
世間体を気にするな、とは言わない。だが、判断を誤って勝てたかもしれないレースを落とすなど、あってはならない。
重バ場にならないことを想定して勝率を上げる。二兎を追う者は一兎をも得ず、とそんなことわざを実践したつもりになって、結果がこれである。
怠らず、重バ場のトレーニングにも比重をおいたのであれば。
「勝てていた」
敗因は、スタミナ切れだ。重バ場に予想以上にスタミナを消費させられたことが原因だ。ミホノブルボンが坂を上り終えた後、前傾姿勢を取らなかったことこそ、スタミナ切れの証拠である。
そして驚嘆するべきは、ライスシャワーの異常な飲み込みの早さだ。
彼は、手元のスマホを弄って動画をもう一度見返した。既に三桁に迫ろうという再生回数。それでも、このレースを考える、語るには見返すことが必要だった。
ライスシャワーは終盤まで、ミホノブルボンというペースメーカーに追従し続けた。その圧力、眼光とくれば、背骨をスッとなぞられるような、不気味なプレッシャーを感じさせるほどだ。動画でこれということは、それを直に受けていたミホノブルボンは一体、どれだけの圧力になっていたことか。
「ここだ」
ライスシャワーは一度目の上り坂において、ミホノブルボンに追従しきれなかった。そこで2バ身の差をつけた。
つまり、一度目の上り坂においてはミホノブルボンに軍配が上がった。
「盗まれた」
肝要なのはそこじゃない。
ライスシャワーは、ミホノブルボンから決して視線を離さなかった。追従する相手、ミホノブルボンに異常な執着を見せていた、と言えるかもしれないが、彼の考えは「そうではない」と結論がついている。
次に注目するべきは、そのすぐ後のコーナリングだった。
「一緒だ」
ミホノブルボンの、流水の如き美しいコーナリング。
ライスシャワーの、流水の如く自然なコーナリング。
偶然では無い。
ライスシャワーは、ミホノブルボンのコーナリングに追従して、それを自分の物にしてみせた。
スポンジというよりも、乾いた砂とでも言うべきだろう。吸収したものを決して逃しはしない砂という名の可能性の塊。
ライスシャワーというウマ娘は、大器晩成の傑物であった。
そして最終コーナーの時。
ライスシャワーは、ハルウララに抜かれた。
「違う。わざと抜かれたんだ」
ライスシャワーの視線が、この時だけはハルウララに集中した。彼女が咆哮をあげたのは、ライスシャワーからの重圧から逃れるためか。それともただの気まぐれか。
ハルウララの最終フォームは、極限まで加速力を追及した走り方だ。スタミナと脚への負担を度外視に、とにかく足回りを早く、何度も素早く地面を蹴り付け、歩幅は短く走る方法。「ピッチ走法」を突き詰めた走法こそが、ハルウララにだけ許された走りであった。
その歩数差は、通常のウマ娘の2倍に近い。ストライド走法相手には、2倍では収まらない歩数が刻まれている。
ウマ娘という、時速70キロを繰り出せる生物がその脚力を持って、通常の2倍以上の歩数を同じ時間に刻むことの、如何に恐ろしいことか。
ハルウララと同じ走りをしたウマ娘は故障する。それが議論の果てに出された結論であり、だからこそ、埒外に……週一回どころか、数日に一回の気の狂ったペースでレースに出走してもけろりとしているほど頑丈なハルウララでなければ、この走りは成立しないのだ。
それを、ライスシャワーは最後の数秒だけ。まさしく、魔法を掛けられたシンデレラのように短い時の中。
ライスシャワーは、ハルウララの走法を再現してみせた。
「抜かれたのは、ハルウララから走りを盗む……いや、ハルウララの走りをより完璧に再現するため!」
レースで見た時には目を疑った。
動画を見返して正気を疑った。
そして現実を理解した時、やられた、と自分の思慮の浅さに嫌気が差した。
「たしかに、数秒なら。数秒だけなら、しっかりケアすれば故障もしない」
それを彼主導の元、ミホノブルボンで出来るかと言われれば、答えは否であるが。
しかし、ライスシャワーたちであれば確かに可能だろうと、現実味が伴ってくる。
「次は……春の天皇賞、か」
課題は山積みであった。
スピードとパワーを支えるだけのスタミナ強化。
最後まで逃げ切るための、爆発的な末脚の体得。
3200というG1最長距離のペース配分の見直し。
そして何よりも難しい問題は。
「どうやって、ライスシャワーと途中で差をつけるか」
コーナリングは真似された。
上り坂のコツまで体得し、ミホノブルボンに迫る勢いがあった。
直線で差をつけるためには過剰なスタミナが必須となる。
小手先の技術はもはや、ライスシャワーには通用しないだろう。よくてイーブンに持っていける程度。
それがわかっているなら、やることは一つしかなかった。
「……時間か」
ふと時計を見て、彼は立ち上がってトランクを引く。その手に伝わってくる重みは、やり残した課題のように後ろ手を引いてくるのであった。
「……」
どこか粘ついたような、息のしづらい沈黙が二人を包んでいる。
お互いに、無言ながらも気を遣っているのか、視線は行き来する。だが、視線がぶつかると途端に視線を逸らすのだ。まるでトランシーバーのような遣り取りを、二人はミホノブルボンの実家に着くまで続けていた。
田舎の清涼な空気、澄み渡るどころか喉に突き刺さるような鋭い寒気に当てられながら、とうとうミホノブルボンの実家に到着した。
居間に通され、そこで彼がお土産をミホノブルボンの両親に渡すまでが、どこか決まりきった遣り取りである。
そして、その後からが彼にとっての本番、仕掛け準備であった。
居住まいを正し、彼が口を開こうとしたところで。
「有マ記念、素晴らしいレースでした」
その言葉に、二人が肩を跳ねさせた。ミホノブルボンに至っては、尻尾がピンと天をついた。
「……彼女は、ミホノブルボンは確かに、素晴らしいレース展開を見せました」
絞り出すように、彼は何とか相槌のようにそう返してみせた。
そんな彼の心境を知ってか知らずか、ミホノブルボンの父は大きく頷いて「そして」と言葉を続ける。
「あなたのトレーナーとしての手腕には、昔トレーナーをやっていた身として。まさしく肝を抜かれるような思いでした」
「……勝てなかったのは、俺の……いえ、私の采配のミスです」
「ははは! 未来が視えるならそうでしょう。ですが、そうじゃない。あの雨、あの重バ場。そして真冬という季節。その環境下でも、『万年桜』と『黒のシンデレラ』と勝負させてみせた」
父は「私ならできない」とキッパリと断言した。それはもう、清々しいほどに潔く認めて頷いた。
「もしも晴れなら、勝っていたのは間違いなくブルボンです」
「……」
彼は沈黙を貫いた。
「きっと、あなたは複雑、という言葉では言い表せない胸中にあると思います。子煩悩の戯言、とでも思ってください」
彼の背中が柔らかく叩かれる。隣を見れば、ミホノブルボンが、ジッと視線だけで彼の方を見つめていた。
どこか責めるような視線から逃れるように前に戻すと、今度は彼女の父親の、父親然とした見守るような笑顔が目に入り、しかしそれから逸らすのも失礼だと思い。結局、視線を逃す場所はなく、優しい笑顔を受け止めるしかなかった。
「ありがとうございます。あなたであったからこそ、ブルボンはこれほど大きく成長しました。三冠達成も、私には危うげなく映りました。……ブルボンも、おめでとう」
「はい」
お互いに笑い合う親子の団欒を見て、彼の両肩が縮むように前に突き出る。その雰囲気にあたらないように、身体が縮こまっていた。
「ところで、この後の予定は決められていますか?」
「いえ。彼女に軽いトレーニングはさせるつもりですが、それも明日からです。今日はこのまま、ゆっくりとします」
「そうですか。古臭く、何もない家ではありますが。実家のように寛いでください」
さて、それじゃあ私は部屋に、と立ち上がって話を切り上げようとしたところで。
彼は「すみません」と断りを入れて引き留める。また座ろうとする父に「あぁいえ」と手で制して、すぐに終わると意思を示す。
「この後、もしよろしければお時間をいただければ。ご両親には、お話ししなければいけないことがあります」
真っ直ぐ、鋭く、彼の視線が父を射抜く。父はそれに目を一回、とてもゆっくり瞬かせた後、同じように余裕を持って頷いた。
「えぇ。それでは、夕飯の後に」
「わかりました」
今度こそ、父は居間を後にして、残ったのは二人だけとなった。ミホノブルボンの母は夕飯の準備をしているのか、ずっと調理場の方に居る。
「父と母には、密に手紙を送って近況を報告しています」
幾分か。親という緩衝材があったおかげか。ミホノブルボンの方から彼に声をかけた。二度手間になるかもしれない、というその意味に、彼は首を横に振って答える。
「ご両親には、直接話さないといけないからね。君の選手生命を、俺はずっと握ってきてたんだから」
「……」
彼の左腕に、しゅるりと尻尾が巻きついた。添えられるような、あるいはマフラーのように緩く。触れるか、触れないかの絶妙な距離で。手を抜こうと思えば、何の苦労もなく出来るだろう。
「私はマスターに全幅の信頼を置いています」
「……うん」
それはきっと、心の距離だったのかもしれない。ミホノブルボンは、鉄面皮の裏側に真実を隠しているのかもしれない。
「難しいんだ。すごく」
息を大きく吸って、彼はそれを長く吐き出した。
そしてぽつりと。
「俺は、許されない失敗を二回もしてる」
ひとりごちるように、誰に向けるでもない言葉がこぼれる。
「だから。俺はもう、二度と信じられない」
ないまぜの言葉だった。苦しく捻り出すようなそれに、しかしミホノブルボンは毅然と返した。
「私はマスターを信じています」
「……」
彼はこれに答えない。ただ、何事もなかったかのように、ぼーっと宙を見つめた。
「ごめん」
そんな中、唐突にぽつりとこぼされる。
それを聞いたからか、それとも頃合いだからか。
ミホノブルボンは席から立ち上がると、「母の手伝いをしてきます」と言い残して調理場に向かった。その途中、彼の手の甲を尻尾の毛先がくすぐったのは、偶然か。
「……難しい」
ウマ娘を勝たせることだけがトレーナーとして正しいのであれば、ハルウララはまさしく、トレーナーとしての正しさの証明であった。
だが、それを打ち破って自ら間違いだと否定したのもまた、彼らであった。
常勝無敗のウマ娘を育て上げるだけでは、トレーナーとして失格であった。そこに間違いはないと、彼も確信している。
ならば、ミホノブルボンが有マ記念に負けたのが正しかったかと言われれば、それはない、とも断言できる。
ミホノブルボンの目標は達成した。
彼がやりたかったことも、成し遂げた。
ならば、ミホノブルボンが次に向かうべき場所はどこなのか。
春秋天皇賞への勝利。秋シニアの三冠。URAファイナルズ決勝での勝利。
春の天皇賞では、ライスシャワーだけでなく、メジロマックイーンが立ちはだかることだろう。
秋の天皇賞では、復帰したトウカイテイオーが参戦するかもしれない。ライスシャワーは……わからない。そもそもライスシャワーにとって、2000という距離は短すぎる。
有マ記念での雪辱を晴らすならば、最短で春の天皇賞に勝利しなくてはならない。相手の土俵たる長距離、G1最長距離で挑む必要がある。
「……挑む、か」
絶対王者から、挑戦者になる。
そんなミホノブルボンに彼から教えられることは、一体何か。
「……」
携帯を取り出しイヤホンを耳につけて、ノートをテーブルの上に置いて、ペンを片手に動画を再生する。
やれることは思いの外少ない。ならば、その幅を広げるためにも、やれることはやり切らなければいけない。
分析と考察を叩き出す。そこから対策を考える。そして、勝つために何が必要かを導き出す。
動画を見つめる彼は物静かに、しかし空気をピンと張りつめさせるほど真剣に、目の前の課題に向き合った。
「さて、お話がある、ということでしたが」
「はい。重要なことです」
一室。さっぱりとした和室の中で、ニス塗りの木製テーブルを挟んで、父と彼は向き合っている。お互いの前には湯気をあげるお茶があり、中央には菓子折りの入った木の器が置かれている。
彼は出された品々に手をつけず、一拍置いてから、それを口にした。
「俺は笹針師です。ミホノブルボンにも、笹針の治療を施しています」
父はそれを聞いて一度、目を見開いた。次いでどこか納得したように、なるほど、なるほど、と何度も頷いた。
「あの子のスタミナ。快調な様子。あのスピード。支えていたのは、あなたの腕によるものでしたか」
「故障の排除については概ね。しかしあの能力は、ミホノブルボンの努力が生み出した力です」
「なるほど。あなたの針は、ウマ娘を守るための針である、と」
「そんなわけあるもん……いえ、そんな上等なものではありません」
力強く、拒絶するように彼は首を横に振った。
「
「ふむ……私には、笹針のことは何とも。それが多いのか、少ないのかさえ分かりかねます」
「私がかつて担当したウマ娘には、週3回のペースで施術を行いました。……彼女は特別頑強であり、施術の必要があったため行いましたが。普通のウマ娘であっても、月に三度は施術を行うでしょう」
加えて、と彼は付け足すように。
「私は菊花賞が終わった後の施術以降、一度もミホノブルボンに施術を行っていません」
「……それは、何かブルボンに不調が見られた、といったことですか?」
「いいえ。むしろ、元の調子に戻している、と言った方が正しいです。乱刺手術を行ったウマ娘はそれが無くなった時、引き際が手遅れになる」
「……なるほど」
重く、重く父は頷いた。
意図を理解されたところで、彼は居住まいを正して、ジッと父の方を見つめた。
そんな彼の様子に、父は見つめ返すものの、どこか余裕を持った様子でそれを受け止める。
「本題、よろしいでしょうか」
「……妻を呼びます。それから、しっかりと聞きましょう」
その中で、彼女の両親と交わされた密約。
笹針師という難儀な免許を持ったトレーナーの苦悩と重圧。それを一息に降ろした彼は、どこか憑き物が落ちたような顔で、父に礼を言い残し、その部屋を後にしたのであった。
その夜空には小さな星さえ美しく輝いていた。
闇世の中に溶け込むわけでもなく、他の光に隠れるわけでもなく。それぞれが綺麗に輝いている。
「マスター」
場所はミホノブルボンの実家の、玄関の前だった。肌寒さに鋭く刺されるのにも構わず空を見上げていた彼は、玄関を開けてこちらを見つめるミホノブルボンに微笑むと、また空を見上げた。
「現在、外気は氷点下8℃となっています。外に長居しては、体調へのリスクが増大します」
「気を遣わせたかな」
「……疑問。夜空に特別な変調はないように思われます」
ミホノブルボンは玄関の戸を閉めると、彼の横に並び立った。厚手のブルーのパジャマの上から、紺色の半纏を纏っている。
「君は寒くないのかい」
「体温調節は完璧です。つまり、問題ありません」
「そっか」
彼はほんの少し間を開けた後、ぽつりとこぼすように口を開いた。
「こんな星空の下で、誓い合った男たちが居たんだ」
「……」
「どんなウマ娘だって輝くものは持っている。どんな小さな星だって輝けるように。俺たちは、そんな星を一等星に出来るんだ、って息巻いてた」
彼は、どこか星空とは別に遠い場所を見つめながら語る。
「だから、走っているウマ娘を貶す奴らだけは、何があっても許せなかった」
結託した、と彼は語る。
「証明して見せたさ。どんなウマ娘だろうと、一等星になれるんだ、って。才能も、気質も、脚質も、適性も、経歴も、実績も関係ない。ただ、トレーナーとウマ娘が最高に噛み合った時、そのウマ娘は『主人公』になれる、って証明したかった」
彼は口元に笑みを浮かべた。
その瞳には、夜空のレース場が映っている。
「走るのが誰よりも好きな子だった。誰よりも頑丈な子だった。レースの女神に愛されたウマ娘だった。……代わりに、才能が欠片もなかった」
でも、と彼は力強く言葉を続ける。
「才能なんてものは、超えられる壁だ。ウマ娘だけじゃ無理かもしれない。トレーナーがどれだけ頑張っても難しい。……でも、ウマ娘とトレーナーが最高に噛み合った時。トレーナーは壁の上で手を差し伸べて、ウマ娘がその手をとった時には、その壁を超えることができる」
その壁の上に。ウマ娘が至る到達点を疑わず、待ち続けることが、一体どれだけ難しいことか。
ウマ娘がトレーナーを信じて、できると信じて、その壁を登り続けることが、どれだけ難しいことか。
「壁を越えたら、待っているのはレース場だった。トレーナーは完璧じゃない。荒れたターフを引くこともあれば、重バ場のダートのような道だって引いてしまう。そんな先の先、ゴールラインで、トレーナーは一足先に待っている。ウマ娘が走りきってくれることを信じて、待つしかないんだ」
そして彼はぽつりと。
あまりにも空虚に聞こえて、耳に入った途端にもたれるような重々しい言葉を、こぼした。
「俺は道を引くだけ引いて、ゴールじゃなくて観客席にいた」
彼は上を向いたまま、言葉を続けた。
「観客席で俯いていた。それなのに、あの子は走るんだ。どれだけ転んでも、泣きそうになっても、信じて走り続けてくれたんだ」
そして、と彼はミホノブルボンの方を見て、また空に顔を上げた。
「君が来た。紹介された時の俺、ひどい顔してただろう?」
「……不眠症、鬱病、その他の心理的合併症の発症が推測できました」
「実際、短いけど休職状態だった。そんな時に、あの夢物語のような提案をされて、火がついた」
「……ウララさんの打倒。私を三冠ウマ娘にすることと引き換えに、マスターが私に求めた契約」
「……俺たちには責任があった。『勝てない』と言わしめるウマ娘に、勝つことができることを証明しなきゃいけなかった」
両翼で飛ぶ鳥に対して、片翼の蛇たちは地を這ってそれを追いかけた。
「常勝無敗っていうのは、常に誰かの夢を奪い続けるってことなんだ」
「しかし、それがレースです」
「そうだ。ウララがG1ウマ娘ならそれでよかった。でも、彼女はG3にG2含む、113の重賞タイトルを掻っ攫った」
ハルウララと同世代のウマ娘からすれば、たまったものではない。彼女が走っていないレースの方が少ないなんて、いったい何の冗談か。
それでも追いかけてくるウマ娘は確かに居た。後一歩まで追い詰めた猛者がいた。ハルウララが居なければ、あの七冠のシンボリルドルフに並ぶか、それ以上になる逸材が居た。
その才能全てを埋めてしまったのが、ハルウララというウマ娘だった。
「全ての距離を網羅させた。全ての脚質に適合させた。芝もダートも走らせた。その上で1日に何レースだって走れる丈夫さを持っていた」
でも、と彼は首を横に振った。
「ウララはレースに愛されてはいたが、『最強』じゃなかった」
「……名実共に、『最強』であったことに間違いはないと思われます」
「違う。ウララは才能に欠けていた。レースにおける第六感は身についた。スタミナはなかったけど、大好きなレースに打ち込む集中力と適切な処置で誤魔化せた。だけど、スピードと加速力は頭打ちだった」
だからこその、超ロングスパート。
そしてスピードと加速力を無理やり補う、あまりにも間隔の短いピッチ走法。小柄で、パワーに恵まれなかったハルウララに持たせることのできる、勝利を掴める走り。
「ウララに勝つ方法は単純だ。大差をキープしたまま逃げ切るか、ウララと並んだまま自分のラストスパートを遺憾無く発揮する」
「……後者は、ライスシャワーさんの走りに酷似しています」
「そうだ。そして前者は、君の走りだ」
「単純です。しかし私の記憶領域には、それに該当するウマ娘は二名しか居ません」
「俺はそれに加えて後三人思いつく。春秋天皇賞に、ジャパンカップで必ず戦うことになるはずだ」
そして、と彼はひとつ息をつくと。
ようやく空を見上げるのをやめて、ミホノブルボンに向き合った。
「来年の有マ記念は、埋没したハルウララ世代の猛者が集まる」
埋没の世代。
ハルウララとデビュー世代を同じくしたウマ娘たちは、いつしかそう呼ばれるようになった。
二着に、三着に。ハルウララの影に沈んできたウマ娘は、しかし言い換えれば、そんなハルウララと張り合うだけの闘争心に燃え、諦めず走り続けてきた、ほんの少し天秤が傾けばハルウララに勝っていた不屈の猛者たちだ。
敗北を知り、辛酸を舐め続け、それでも尚立ち上がり、勝負し続けた。正真正銘のレースウマ娘であり、どの世代のどんなウマ娘よりも負けず嫌いの集まった戦火の時代。
ハルウララこそが勝者の基準であり、そこに向けて血の滲む努力をし続けてきた、勝利に飢えた獣たちの集い。
抑圧され続けた獣が、その渇望を解放した時。一体、どれだけの力を発揮するのか。
「春秋天皇賞。ジャパンカップ。そして、有マ記念だ」
彼は力強く宣言した。
「三冠じゃ止まらない。七冠ウマ娘になって、URAファイナルズで、トゥインクルシリーズ最後の冠を飾ろう」
彼はミホノブルボンに手を差し伸べて、その癖どこか緊張した面持ちで。
「その努力で、最強のステイヤーに至ろう。君の真摯な積み重ねと、俺の引いた道さえあれば、必ずゴールできる。やろう、ブルボン」
彼はそんな誘い文句を言い切った。
どこか早口で、声が震えていて、拙さの残る声だった。まるで、新人トレーナーのスカウトのようだ。
「もう一声、不足しています」
彼女はにべもなく突っぱねた。これに彼は目を丸くして、差し出した手をグッパと開閉を繰り返して、視線は空とミホノブルボンを行き来した。
「……言わないとダメ?」
「マスターに、その覚悟があるのであれば」
「その言い方はちょっと卑怯だなぁ」
彼は一度、目を瞑って大きく呼吸する。
大きく吸って、そして吐き切った後に。
緩慢に、しかしあまりにも鋭く、据わった覚悟の瞳をミホノブルボンに向けた。
「改めて言おう。俺の人生を君に捧げる。代わりに、君の命を俺に委ねてほしい。俺は君のことを信じるし、君が信じてくれる俺のことを信じよう。だから代わりに、君は俺のことを信じて、俺が信じた君自身を信じてくれ」
「……マスター」
一世一代、とも呼べる熱烈なスカウト。人生を賭けたスカウトに対して。
ミホノブルボンは大きくため息をついて、じっとりと、どこか呆れを伴った視線で彼のことを射抜いた。
「私はこれまで、マスターのことも、マスターが信じた私自身のことも、疑ったことは一度もありません」
「……え」
いや、そこは綺麗に手を取って笑い合うところ、と意表をつかれて固まっている彼に向けて、ミホノブルボンの容赦のない言葉は続いた。
「そもそも、マスターは担当である私よりも、元担当のウララさんのことを信じている節が常々ありました」
「え、あ、いや。それは、仕方ないというか」
「言い訳は不要です」
ぴしゃり、と言い切られて彼も口をつぐむ。思わず一歩引くと、彼女はそれよりも大きな一歩で彼に詰め寄った。
「私は、ウララさんに勝てることに疑いなど初めからありませんでした」
「えぇ……?」
記者が聞いたら白目剥きそうなことを平気で、堂々と宣言する。彼も困惑気味に声を上げるも、名刀の切先のように鋭い視線を向けられて、とうとう閉口する。
「マスターの提言通り、ウララさんに勝つだけなら『大逃げ』こそ勝率の最も高い作戦です。しかし、『大逃げ』ではライスさんへの勝率はゼロに等しくなるでしょう」
「……だけど、ライスシャワーだって大逃げする君に終始張り付くなんて」
「できます。ライスさんなら、どこまでだって付いてくるでしょう。そしてライスさんであれば、100回先日のウララさんと競ったとして、99回は勝てます。そういう『走り』なのだと、気付きました」
「……よく見てるね」
「ライスさんに勝つのであれば、脚をためる必要があります。加速力はライスさんに軍配が上がりましたが、最高スピードは私に分があります。追従する力に目を見張るものはありますが、ライスさんは終盤まで先頭は絶対にとれません」
菊花賞。そして有マ記念。
たった二つのレースで、分析と考察を繰り返した彼と同じ結論に辿り着いている。ライバルたちの明確な弱点を理解している。
「マスターに一つ、お聞きします」
その上で、ミホノブルボンは投げ掛けてくる。
「私は『万全な』ウララさんに勝てると思いますか?」
全て気づいているのだろう。
理解している上で、彼に聞いている。
彼はその問いに、長く、長く息を吐いた。
肩を落として脱力し、瞑目して凪に至ると、その刹那に瞬くような鋭い視線をミホノブルボンに向けて。
しっかりと、頷いて見せた。
「来年のURAファイナルズで勝つ。2500の無差別級。ただ、そこに出るのはウララだけじゃない。ライスシャワーも来る。埋没の世代が研ぎ続けた牙を剥く。あのシンボリルドルフが走る」
「……目標設定。つまり『最強のウマ娘になる』、と宣誓します」
「なら俺は、君を『最強のウマ娘に育て上げる』、と誓おう」
二人は改めて向き合うと、お互いに頷いて見せる。
星々のきらめきが降り注ぐ中。
彼とミホノブルボンは確かに、その手を交わした。
「契約」
「完了だ」
熱をはらんでいた。
その手は、まるでカイロでも握っているように暖かく、ともすれば温度が最高潮に達したときのように熱い。
頃合いか、と彼は手を放そうとふと力を抜くも、ミホノブルボンは彼の手を握ったまま離さない。
その真意を確かめようとミホノブルボンのことをよく観察しても、どこか満足そうに微笑んでいるだけで、答えは返ってこない。
「月、見えないね」
彼はミホノブルボンと肩を並べると、空を見上げて白い息と共にそんな言葉を吐き出した。
ミホノブルボンの耳がピン、と直立する。
「……走り抜けた先に、必ず見えてきます」
「うん? えっと……あぁ。『走り抜けた先には星飾る。一等星の光に月照らす』だっけ。三女神様の絵本に出てくるフレーズ」
「はい。このフレーズにおける『一等星』の意味を、マスターはご存知ですか」
「主人公であり、太陽。学問的に太陽の等級はマイナスなんだけど、児童向けだからね。一番輝いている星、っていう意味では間違ってないし……うん?」
ふと彼が横目を向けると、毛先が掛かる程度に、彼の腕に尻尾が預けられていた。
「『一等星』になるのは、この私です」
「……うん、なら」
きゅっと、繋いだ手を握る力が強くなる。
真冬に関わらず少し汗ばんでくるほど熱く、強く握り。
「100枚の約束は、満月の夜に果たそう」
「……はい」
ミホノブルボンは、月を見ていた。
ジッと、ない筈のそれを想起して。まるで雨月のように、心の中の名月を楽しんでいたのか。
あるいは、彼女の瞳には本当に、その名月は映っていたのだろうか。
「必ず、満月の夜に」
彼女は名月に誓う。
逃げる先は、いつだって前だった。後ろに逃げたことも、どこか見当違いな場所に蛇行したわけでもない。
逃げウマ娘は、どこまでだって前に行く。誰も届かないその先で、待っている誰かのもとに一番にたどり着くために。
努力の星。
あるいは、願いを叶える流れ星。
たどり着く場所は変わらない。
ミホノブルボンは、決して掛からない。
それは証明であった。
ハルウララが特別なんじゃない。トレーナーが特別なわけでもない。
ただ、ウマ娘とトレーナーが力を合わせた時に起きる奇跡の結果こそが、『最高のウマ娘』なのだ。
誰だって、絶対に『主人公』になれる。そのために、片翼であろうと立ち向かおう。泥にまみれて、ずっと埋もれて、それでも虎視眈々と狙い抜け。
「黒のシンデレラ」は今此処に。
――『Episode:ライスシャワー』――
馬鹿にされていたことが許せなかった。
彼女は確かに遅い。走りもへなちょこ。体力もない。才能だってなさそうだ。
だけど、そんなことが『嘲笑していい』理由に成りえるはずがない。
「見返そう」
「最強のウマ娘にしてみせる」
最弱のウマ娘。トレセン学園で最も遅く、体力がなく、才能さえ恵まれなかった彼女に、『一等星の冠』を。
「万年桜」とは即ち、一年中散らない桜。どこでだって、彼女は走る。
――『Episode:ハルウララ』――
とか、完結したらこの二人の視点も追加で投稿しようと考えています。
構想段階ではありますが、末永く見守っていただければ幸いです。