たのしい宮永一家   作:コップの縁

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じゃんけんに必勝法なんて存在しない

 六月というのは随分難儀な季節だ。ようやく花粉に怯える時期が終わったかと思えば梅雨の分厚い雲が空に陣取り、それも半ばまで過ぎ去った初夏。一方で最初は不慣れであった新生活に人々が順応し、心理的に余裕ができる時期でもある。私もその一人で、瞳に映るものすべてが物珍しく感じられた非日常も日常へと変貌し、既に退屈すら覚えていた。

 

「むむむむ………」

 

 

南四局

 

大星淡20900

加治木ゆみ35200

須賀京太郎21400

東横桃子22500

 

南家:大星 十三巡目

ドラ:{⑤}

{456④⑤⑤⑤⑥四六} {横南南南} ツモ:{三}

 

 崖っぷちラスから一気に一着も見えるテンパイ、ドラの{⑤}も三枚手の内にあって使い切れる形だ。問題は……

 

北家:須賀 十三巡目

ドラ:{⑤}

{東⑨一西中9}

{8六横⑧赤54}

 

 ……{三}(こいつ)が押せるかどうか。ここで現物の{六}を切ればラス回避は簡単にできそうだが、トップ条件の跳満ツモは消えてしまう。

 一方のキョータローは染め手やチャンタではないだろうし、三巡目の打{一}と既に四枚見えの{4}から123や234の三色というのも考えにくい。やはり本線はまだ見えていない{赤⑤}またぎの{③④⑥⑦}――打点を考えればタンピン系だろう。タンヤオチートイに当たるかもしれないが、逆転の目がなくなること損失に比べれば些細な可能性だ。どちらにせよ{三}を切ることに迷いはない。

 

「ロン!」

「げっ」

「裏は……うへぇ、たまには一枚くらい乗ってくれたっていいのに」

 

北家:須賀 十三巡目

ドラ:{⑤}

裏ドラ:{北}

{三三四四⑥⑦⑧⑨⑨⑨567} ロン:{三}

 

「1600」

「あんた、それ曲げるんだ」

「配牌見て『こりゃ逆転は無理だな』って思ったんだ。だから手なりで打ってそのままリーチした」

「…………ふーん」

「大星、和了は和了だ。ちゃんと払ってやれ」

 

 ゆみ先輩がそう言うから納得はいかないが点棒を払う。お釣りの百点棒を四本手元に戻したところで私の四着は確定した。

 

 新しい麻雀部の活動は高校時代のそれと比べれば遥かに温いものだった。「好きな時に来い」という程度の拘束力しかなく、その上行ったとしても指導や勉強会というような機会が設けられるわけでもない。そもそもインターカレッジは団体戦よりも寧ろ個人戦の方がメインで、部活なんて精々雀士が作る寄り合いくらいの存在だ。つまり組織全体で何かをしようという発想自体がそもそもないのである。あの頃の規律ある雰囲気や目的意識とかけ離れた環境にいくらかの戸惑いや不満を抱えつつも、私は講義が終わる度に足繁く部室へ通っていた。

 そんなこんなで書面上は十数名の部員を擁してはいるものの、実際のところ精力的に参加している人数はそう多くない。部長のゆみ先輩やいつもその脇にくっついているモモ、それから例のキョータロー。やけに長野出身の占める割合が高い。実は固定メンバーはもう一人いるのだが、今日はまだ来ていないようだ。

 

「あーあ、せっかくラス親だったのに何もできずに終わっちゃったっす」

「それ、焼き鳥だった私への当てつけ?」

「だとしたら性格悪すぎっすよ……」

「何だよ淡。あんまりカッカすんなって」

 

 どこか遠くの防災無線から『七つの子』が聞こえてきたのは、私がそれに噛み付こうとしたのと同時だった。アルミサッシが切り取る雨降りの風景は朝起きた時と同じような灰色のままで、時間の移り変わりを読み取ることは到底出来そうにない。こんな空が何週間も続いているのだから誰だって気分くらい滅入るだろう。背後の壁に掛けられた時計に振り向いたキョータローは席を立ち、傍らのリュックサックに手を掛けた。

 同じ面子で何度も卓を囲んでいれば実力差なんてものは嫌でも分かる。端的に言えば私が一番上でキョータローが一番下。しかしこの日に限ってはお約束通りに事は進まず、私は珍しく彼の後塵を拝していた。これがどうにも癪に触った。理由は簡単で、ゆみ先輩が「全局ダブリーではとても練習にならない」と言うのでここ最近はオカルトを使わないようにしているのだ。別にゆみ先輩やモモに負けたことはどうでもよかった。オカルトさえあれば彼女たちを負かすことなんていつでもできるのだから。だがキョータローに、オカルトなんてなくても勝てて当然だと思っていた相手にすら負けたとなれば話は別だ。

 

「それじゃあ俺はそろそろ……」

「待ってよ。まさか勝ち逃げするつもり!?」

「予定があるんだから仕方ないだろ」

「あと一半荘!」

「バカ、んなことしてたら遅れちまうっての」

「いいじゃんそのくらい!ケチー!」

 

 そんな押し問答を何度も繰り返した末にキョータローは折れ、最後に一度だけ東風戦を打てることになった。だがその約束を取り付けたところでこのままでは私が彼を打ち倒すことができないのは明白だ。今日の私はツイてない。こういう日は運任せに何かをやっても絶対に上手くいかないものだ。

 だから運の要素を完全に排除する必要がある。一か八かの賭けなんて馬鹿馬鹿しいことはせずに淡々とやればいい。私にそれができるということは私自身がよく知っている。

 

「ゆみ先輩、いつもの使っちゃダメ?」

「………仕方ないな。この一回だけだぞ」

 


 

 大星淡の麻雀を初めて見た時、どことなく子供っぽいと思った。私のよく知る例では天江衣が最も近いだろうか。その実やっていることはえげつないし残酷とすら形容できるのだが、それを行使する彼女たち自身は無邪気ですらある。

 しかし二ヶ月前の彼女との邂逅は、私の抱いたそういった感覚に妙な違和感を生んだ。目の前にいる少女の右手があの打牌をしている。確かに彼女は一見純真無垢な少女のようではあるが、何となくその裏には影が潜んでいるようにも見えた。ともかく、このままの打ち方では彼女が危ない。

 本人が未だそれを理解していないというのなら今日はいい機会かもしれない。私がその役目に適うかどうかは置いておこう。

 

 

東一局

 

東横桃子25000

大星淡25000

須賀京太郎25000

加治木ゆみ25000

 

北家:加治木 配牌

ドラ:{⑨}

{②③④⑤⑥11789北中中}

 

 配牌一向聴{①④⑦1中}受け、ダブリーが打ててもおかしくない好配牌だ。しかし本来大星の支配が有効なのであればこんな手が入るはずはない。ひょっとして本調子が出ていないのか……私はそう考えた。彼女は最近オカルトを使っていなかった。寒い朝の自動車のように、冷間始動のためにはエンジンが暖まるまでの時間が必要なのだろうか。

 起家のモモがかなりの長考の後に{東}を切り出すと、大星は持ってきた{1}をツモ切って――

 

「リーチッ!」

 

 卓上に戦慄が走る。その第一打は確かに曲げられていた。

 どうやら私の推理は全くもって見当違いだったらしい。大星は既に、少なくとも彼女自身に対してはその支配力を十分に発揮している。

 

「全然分からん。こんなの当たったら事故だろ」

「だが、そんな姿勢のままではいつまで経っても大星に勝てないだろう」

 

 須賀の手牌から出た{西}に大星が反応しないのを確認して、牌山に指を伸ばす。

 

北家:加治木 一巡目

ドラ:{⑨}

{②③④⑤⑥11789北中中} ツモ:{中}

 

 聴牌。私は迷わず{1}を河に捨てた。

 こういう手は大抵良形から埋まる。もっとも仮に三面張から埋まったとしてもこの順目での{1中}待ち聴牌は非常に強力だし、私だってノータイムで{北}を曲げるだろう。十一枚の待ちより先に三枚しかないシャンポンが入ったとなれば尚更だ。だが、私たちが今相手にしているのは()()大星淡であるということを忘れてはいけない。普通の打ち方で勝てるような相手では全くないのだ。

 

「リーチっす」

 

 モモが彼女を追うようにリーチを掛ける。宣言牌の{北}が見えた瞬間、大星の口元は歪んだ。

 あぁ、そうか。これは罠だったんだ。

 

「ロン」

 

南家:大星 二巡目

ドラ:{⑨}

裏ドラ:{8}

{七八九⑨⑨⑨234666北} ロン:{北}

 

「ダブリー一発ドラ3。12000」

「……はい」

「ちょっと待ってくれ。モモ、手牌を見せてくれないか」

 

東家:東横 二巡目

ドラ:{⑨}

{二三四六七赤⑤⑥⑦赤55678}

 

 もはや鶴賀学園の生徒でなくなった後も私は高校麻雀をよく観ていた。しかしそれは母校や後輩たちの勇姿を見届けるためであり、また高校麻雀界の大勢を知るためだ。強力なオカルトを使う雀士は他にもたくさんいたし、大星淡という選手に特別注目していたわけではない。だから見誤っていた。

 彼女のオカルトは確実に、私が知るより遥かに強力になっていた。

 

東四局

 

東横桃子3000

大星淡44800

須賀京太郎17200

加治木ゆみ16000

 

 たかが東風だというのにこうも酷い展開になるとは予想はできても想像はできなかった。ここまで須賀が一度3900を刈り取った以外は全て大星の跳満和了で局が進んでいる。放銃するわけにはいかないが、オリたところで結局は最後の角でツモられてしまうのだから無理はない。

 それにしても三着目のラス親というのは何時ぞやの一局を思い出させる。あの時対面に座っていたのは確か天江だったか。28800点という点差で私がすべきはとにかく連荘することだ………あるいは倍満ツモで一発逆転か。どちらにせよ先輩として少しくらいは意地を見せなければ。

 そう思いながら回したサイコロの出目は3。大星がカンをしてから二巡が勝負だ。

 

「……さて」

 

東家:加治木 一巡目

ドラ:{白}

{二四六①⑤⑨赤556白白發中西}

 

 やはり五向聴、この局も支配は盤石らしい。

 

「連荘できそう?」

「ははっ、中々手厳しいな」

 

 しかしこの配牌はただの五向聴ではない。ドラの{白}対子、赤含みのリャンメントイツ、それにリャンカンが一つとなれば勝機は十分にある。私の人差し指は、一番右の牌にかけられた。

 

「へぇ、やるつもりなんだ……関係ないけど。リーチ」

 

→打:{横⑤}

 

「………なるほど」

 

 須賀の手から打ち出されたのは{赤⑤}。彼からすればこの点差を捲るのは現実的ではないし、このまま二着を維持するのが一番良い選択である。それは分かっているのだが、どうせなら私が鳴けるようになるまで抱えていてほしかったものだ。

 その時、不意に金属が軋む音が対面のさらに向こうから聞こえた。古びた蝶番が悲鳴を上げ、誰かをこの部室に招き入れようとしている。

 

「なんだ、洋榎か」

「ご挨拶やなぁ。うちに会えんくて寂しかったんか?」

「今日の授業はどうして来なかったんだ」

「前からゆみに貸してもらっとるDVDあるやん?昨晩あれ観とったんやけど、結構おもろくて」

「まさか……今までずっと寝てたんじゃないだろうな」

「ぴんぽーん、大正解」

「……はぁ」

「おっ、淡は今日も絶好調みたいやな」

 

 愛宕洋榎、この部室のもう一人の住人だ。

 私が呆れてものも言えないでいると、洋榎は卓をぐるりと周って全員の手牌を見ながら「ほーん」とか「なるほどなぁ」とか、何に納得したのかは分からないがそんな声を出し、最後に須賀の後ろへ椅子を引っ張ってきて腰を下ろした。

 

 そしてその時はやってきた。最後の角に差し掛かるまで残り一巡、恐らく次のツモで大星は暗槓を仕掛けるだろう。モモは私の目をちらりと見ると生牌の{發}を切り出した。

 

「ポン」

 

 モモは最高のパートナーだ。この巡目、このタイミング、そしてこの牌。私の考えを全て分かった上で最も欲しい牌を切ってくれた。二人でフリー雀荘に行けばそこそこの金が稼げるんじゃないだろうか……いや、そんなことは神に誓ってしないが。閑話休題、ともかく大星の槓材はモモに流れた――はずだった。

 

「カン」

 

{裏③③裏}

 

「ざーんねん、嶺上開花ならず」

 

 王牌から持ってきた{②}が一切の淀みなくそのまま河に捨てられるのを見ながら、内心で悪態をつく。結局暗槓を阻止することはできなかったか。

 だがお陰でドラが乗った。發ドラ5聴牌!

 

東家:加治木 十四巡目

ドラ:{白5}

{二三四⑨⑨⑨赤55白白} {發發横發}

 

 大星の待ちは恐らく{369}のスジ。{西}もまだ通っていないが、どちらにせよこの順目では多くて三枚残りくらいか?彼女はそれでもツモるんだろうが、それなら尚更私が掴まされる心配はしなくてもよい。というか、心配している余裕はない。白を持ってくることができれば私の勝ち。例え{5}でも彼女が掴めばやはり私の勝ちだ。

 須賀が無筋の{9}を切る。背後の洋榎が僅かに笑った。

 

北家:須賀 十四巡目

{赤⑤②②2⑤④}

{六2北5六1}

{9}

 

「………!」

 

東家:加治木 十四巡目

ドラ:{白5}

{二三四⑨⑨⑨赤55白白} {發發横發} ツモ:{⑨}

 

 普通であればツモは一回でも増やしたいところだし、ここで「カン」と言うことは容易い。嶺上がつけば{5}でも倍満――いや、そう上手くはいかないか。私は彼女たちとは違う側の人間なのだから。私はこの対局が始まる前に考えていたことを再び思い返していた。この{⑨}を暗槓してしまえば大星の思う壺であるというなら、私がすべきことは一つしかない。彼女にはいい薬になるはずだ。

 

 彼の手牌は、ゆっくりと倒された。

 

{一九①19東南西北白發中中}

 

「ロン。32000です」

 

 

<終局>

 

東横桃子3000

大星淡44800

須賀京太郎49200

加治木ゆみ-16000

 

 

 

「先輩!これどういうこと!?」

「見れば分かるだろう。須賀の国士に差し込んだ」

「なんでそんなことしたのかって話だよ!カンすればよかったじゃん!」

 

 大星が激しい剣幕でまくし立てる。彼女の言う通り、ここでは暗槓時の搶槓は成立しない。そんなことは百も承知だ。

 

「私が暗槓したところで嶺上でツモれるとは思えないからな。それに大星、君なら恐らく次のツモで和了っただろう。だから確実に君を一位から引きずり下ろせる方を選んだんだ」

「そんな……なんでわざわざ」

「インハイやインカレではそういう場面は少ないが、リーグ戦では着順操作が必要になることもある。特にウマやオカがあるルールでは自分の点数が減ったとしてもライバルを蹴落とす方が有利になることも珍しくない。君だって将来はプロを目指しているのであれば、そういった点数計算は出来て当然だ」

 

 この場合は三着から四着に転落しているから、役満を放銃しなかった場合と比べればウマ含めておよそ▲52.0の失点となる。それによって大星から削ることができた順位点はせいぜい40.0と実際はむしろ損をしているのだが、この場ではあえて言わないことにした。

 

「さっきのオーラスだって一巡目に私の西を鳴いて三索を切っておけば四筒五筒の二種七枚だ。あの場面ではポンテンで1000点の和了りを取りに行ったほうがいいことくらい少し考えれば小学生だって分かるはずだが、それすら分からずに打っているようではインハイチャンプの名が聞いて呆れる」

「ぐっ…!」

 

 インターハイの団体戦ルールは特殊だ。順位点もなく五人で点数を引き継ぐという仕組みの中では局収支を最大にすることが最も有効な戦略となる。そういった意味では大星の戦い方は理にかなってはいるが、土俵が変われば戦略も変わって然り。もっともそれは彼女が先程のオーラスでトップだったからだ。もし二着以下で一位との点差が更に開いているのであれば当然――

 

「ゆみ、後輩いびりはそんくらいにしといた方がええんとちゃうか」

「ん?」

「…………」

 

 彼女の目尻には水滴が浮かんでいた。やってしまった。

 

「あーその、なんだ。要は点棒とか他家の聴牌気配とか、場況をもっとよく読んだほうがいい。必ずしもダブリーが最善手とは限らないんだ。だからオカルトに頼りすぎないよう訓練したほうが良いと思って……」

「だって………そんなの分かるわけないもん……今までみんな、私のことすごいって褒めてくれたし……スミレ先輩だって……」

「ちょ、ちょっと待ってくれ!大星、強く言ってしまって済まなかった。少し熱が入ってしまったんだ」

「……もういじめない?」

「別にいじめたわけじゃ――やっぱりなんでもない、もういじめないよ。だから泣かないでくれ、大星」

「淡って呼んで。大星じゃなくて」

「え?……あ、あぁ。淡、少しだけ聞いてほしい」

「……うん」

「いいか淡、今まで頼ってきたものに縋るなと言われて混乱する気持ちは分かる。しかし君が思っている以上にインカレは険しい。寧ろ君のようなタイプの雀士だからこそ厳しいかもしれない」

「うん」

「だから少しずつずつでいいから一緒に頑張っていこう、な?」

「………うん。頑張る」

 

 淡は小さく頷いた。この頃には彼女の目から溢れていた大きな涙も少しずつ収まり、なんとか落ち着きを取り戻したようだった。鼻は垂らしているが。

 見かねた須賀はポケットからティッシュを取り出すと、何枚か淡に渡した。

 

「ひっでぇ顔だな。洗ってこいよ」

「うっさい!」

「元気があって結構なこった」

「私が一緒にトイレまで付いていこうか?」

「ううん、大学100年生だから大丈夫」

「そうか、いってらっしゃい」

「いってきます」

 

「…うち、心配やし一応様子見てくるわ」

「頼んだ」

 

 須賀が立ち上がり、戸棚からお茶っ葉を出す。ケトルに水を汲む音だけが部室に響き渡る。

 

「少し言い過ぎてしまったか、私は」

「大丈夫でしょう。あいつバカだし、帰ってくる頃にはケロッとしてますって」

「だと良いんだが……それにしても、なんだか彼女の以外な一面を見てしまったような気がするよ」

「そうですか?イメージ通りな気もしますけど。良くも悪くも歳不相応に純粋というか、子供っぽいというか」

「小学生がそのまま大学生になったような人っすよね」

「素直に捉えるならな。でも、本当にそうなんだろうかと私は斜に構えていた」

 

 三年間も清澄と鎬を削り続け、一時代を築き上げた高校麻雀界のツートップ。その白糸台高校のエースだった人物だ。彼女ほど麻雀の世界に揉まれていれば否応なしに酸いも甘いも少なからず噛んできただろう。だからこそ淡の本来の性格はもっと達観したところにあって、それを誤魔化すためにわざとおちゃらけてるんじゃないかと思えてしまうのだ。自信屋で不遜な態度もふわふわした雰囲気も、全部猫かぶりではないか、と。

 

「しかし須賀、さっきの泣き顔まで作り顔に見えたか?」

「いや。俺には全く」

「私だってあれこそが淡の本性だと思うし、それに私が彼女に説教じみたことを言った時の態度もそうだった。実際問題として淡はうちで一番強い雀士だ――それこそ洋榎以上の。今回は偶然勝てたが、普段ならこの三人が束になってもトップを阻止するのは難しいだろう。負けん気も強いし、格下からの助言なんて聞く耳を持たないだろうと思っていたよ。寧ろ嫌味混じりに言い返されるかとすらね」

 

 でも今日の淡はそうしなかった。素直に私の言うことに耳を傾け、そして心を動かしてくれたのだ。負けたという事実がそうさせたのか、あるいは私に対する気遣いなのか。これこそ淡の持つ純粋さ、優しさの証拠であるように思えてならない。

 

「加治木先輩、淡のこと気に入ってるんですね」

「確かにそうかもしれない。ああいうのって私たちくらいの年齢になると貴重じゃないか。辛いことがあっても真っ直ぐ歩いてきた人間だよ、淡は」

「そういう人がタイプですか」

「タイプというと少し違うが、見守ってあげたいとは思うさ。どう言えばいいんだろうか……こう、庇護欲を掻き立てられるというか」

「………」

「なんだよモモ、不貞腐れるようなことでもあったのか?」

「別に不貞腐れてなんかないっすよ」

「は?……あぁ、そういうことね」

「もしかして、これも私が悪かったりするのかな」

 


 

「おーっす」

「ただいまー!ジュース買ってきたよ!」

「うちの奢りやけどな」

 

 アルミ缶をいくつか両腕に抱えた私が再び部室の扉を開けた瞬間、三人は目を点にしてお互いの顔を見合わせた。それからいかにも面白おかしそうな口ぶりで、

 

「須賀さんの言う通りだったっすね」

「えっ、なになに?」

「大した話じゃねえよ。それより元気出たか?」

「もう大丈夫!淡ちゃんは100年生だからこのくらいじゃへこたれないよ!」

「良い心がけじゃないか」

 

 どこかからスイッチが切り替わるような音がすると、一番端に立っていたキョータローは部屋の片隅で湯気をあげていた電気ケトルを持ち上げてその中身を急須へと注ぎ始めた。ケトルを戻した彼の腕が今度は急須へ伸び、机の上に置かれた湯呑みの上を何度も忙しなく行き来させる。

 

「どうぞ」

「ありがとう」

「えー、ジュースは?」

「後で飲むから置いとけ」

「ん?……茶葉を変えたのか。いつもより美味しい気がする」

「結構高かったんですよ」

「相変わらず変な趣味やなぁ…あちっ」

「さすが清澄の雑用担当っすね」

「うっさいやい」

「じゃあキョータローったら、ずっと小間使いばっかりやってたんだ」

「んなこたねぇよ!俺だってちゃんと練習してたし、大会だって出てたっつーの……まぁ、鳴かず飛ばずだったのは認めるけど」

 

 そう自嘲気味に声を低く潜めると、決まりの悪そうな顔で湯呑みをぐいっと煽った。

 

「だが、去年は個人で県予選通過までいったそうじゃないか」

「全国では予選で負けちゃいましたけどね」

「よっわーい」

「インハイチャンプ様からすりゃあ雑魚も良い所に決まってるだろ」

「気にせんでもええやろ。そもそも淡と比べたら麻雀歴自体短いやろし、普通こんなもんとちゃう?」

「あぁ。私だって始めたのは高校に入学してからだったから、三年でこれほど成長するのがどれだけ大変かはよく知ってるよ。君は自分の実力にもう少し自信を持ってもいい」

「そう……なんですかね。全く実感が湧きません」

「そもそもこの環境が異常だと思わないか?こんな麻雀で有名というわけでもない私大の部活に女子インハイの最上位選手が二人も居るんだ。大丈夫、本番ではちゃんと結果が出るさ」

 

 ゆみ先輩は不思議な人だ。インカレが個人主義的な風土を持つ以上、大学の麻雀部で先輩が後輩に指導をするというのはあまりない話である。強くなりたければ自分で何とかしろ――実際この三ヶ月でも、洋榎先輩からはちょっとしたアドバイスを受けたことすら指折り数えるくらいのことだった。だがこの人はそうじゃない。後輩に真正面から向き合って、『先輩らしいこと』をしようとしているのだ。彼女の右手が数度、慰めるようにキョータローの肩を叩いた。

 

「本番……来週やなぁ。東京予選」

「ゆみ先輩と洋榎先輩は今年が最後なんだっけ」

「そうなるな。来年は卒研と就活でそれどころではないだろうし、これが私の競技麻雀人生最後の大会だよ。洋榎はきっと平気な顔で本戦準決勝くらいまで上り詰めるんだろうが、私はそうもいかない」

「またまたーご謙遜をー」

「茶化さないでくれ、洋榎」

「加治木先輩はプロにはならないんですか?」

「『なりたいか』と聞かれれば首を縦に振れるんだがな……多分ならないだろう。私は所詮凡人だ。洋榎のように天性の才能があるわけでも、ましてや淡のように牌に愛されているわけでもない。例えそうであっても私なりに戦えるところを見せてやろうと思い、今まで続けてきたつもりだった」

 

 洋榎先輩は近くの椅子に座ってゆみ先輩の方をじっと見つめていた。キョータローは戸惑うように目線を左右させ、モモはただ深く下を向いていた。

 

「凡人が戦える世界じゃないよ、プロは。それくらい分かってるつもりだ」

 

 何も言えなかった。彼女に対して言葉を持ち合わせていなかった私は、すごすごと肩を縮めて湯呑みを手の中で廻した。淹れたてのお茶の温もり以外の全てが私を冷たく突き放す。

 いつの間にか窓の外は暗くなっていて、地面を打ち付ける雨降りの音だけが外の天気を知らせていた。

 

「……ところで、君は用事があるんじゃなかったのか」

「あぁーっ!!」

「もう七時前っすよ……」

「クソッ、あいつに大目玉喰らっちまう」

 

 キョータローは湯呑みにもう一杯お茶をつぐと一気に飲み干した。それからリュックサックを背負うと差してあった傘を手に取り、

 

「わりぃ淡!ジュースは勝手に飲んどいてくれ!」

「う、うん」

「じゃあお先に失礼します!」

 

「行ってしまったな」

「野暮用って何なんだろ」

「さぁ。『あいつ』って言ってたし、友達と遊びにでも行くんじゃないっすか?」

「しかし、最後の対局で随分くたびれたな。これからどうしようか」

「今日はもう良いんじゃないっすか?結構打ったし疲れたっす」

「なら、私たちもそろそろ帰るか」

「うん……そうだね」

「それマジで言うとる?うちさっき来たばっかなんやけど」

「寝坊した洋榎が悪い。明日は朝からちゃんと来てくれよ」

 

 荷物をまとめ、他愛もない話をしながら三人で肩を並べて正門まで歩く。そこにキョータローの声はなかった。


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