たのしい宮永一家   作:コップの縁

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『微笑』の続きからです


憧憬

「ただいま」

 

 時計の針は間もなく七時へと差し掛かろうとしている。夕飯時にもかかわらず私が今いる玄関以外の照明は全て落とされているらしく、それどころか人の気配すら全く感じられなかった。訝しみながら靴を脱いで玄関の横木に上がり、明かりも付けず廊下へと向かう。一歩、二歩、三歩――何も聞こえない闇の中を進む度に、心臓の鼓動が大きくなっていくような気がした。まさか空き巣に入られたのだろうか、京ちゃんと淡はいないのか、私だけで何とかなるだろうか、警察を呼んだほうがいいんだろうか………しかし、リビングの照明に手をかけた途端に、そうした心配は杞憂であることがわかった。

 京ちゃんと淡が机に突っ伏して静かな寝息を立てていたのだ。さらに食卓の半分を累々たる酒の空き缶が占め、つまみらしき菓子類の袋がそこらうち中に散乱していた。

 

「京ちゃん、起きて。ねえ」

「……………」

「……淡、起きてってば」

 

 肩を叩くと、淡はその頭をいかにも重そうにしながらゆっくりと上げた。

 

「あれ、テルー………うぅぅ、いててて」

「これはどういうこと?」

「えーっと……キョータローと二人で飲んでて、それで………!」

 

 アルコールが回って真っ赤になっていた淡の顔から一気に血の気が引く。しばらく土気色になったそれを左右に振ったり何か唸ったりしていたが、ようやく口を開いたと思うと、

 

「あー、飲みすぎて覚えてないです。ハイ」

「…そう。それより京ちゃんを起こさないと」

「き、キョータローは起こさなくていいんじゃないかな」

「なんで?」

「なんでも!」

 

などと張って譲らないのである。何度か探りを入れてみようとしたのだが、この妙に強情な態度は変わらないようだった。まあ、大方は酒の勢いで何か恥ずかしいことでもしてしまったのだろう。淡は昔からアルコールに強い方ではないし。

 それから頭が痛いだなんだと垂れながら、淡は二階へと続く階段をヨロヨロと昇って部屋へと引っ込んでいった。リビングにはどうすれば良いかも分からず呆然とするだけの私が取り残された。

 差し当たっての重要事項は夕食だろうか。昼食を程々に済ませた胃袋は既に空腹を訴えていたが、朝方には昨晩の出費が痛いから今晩は自分が作るのだと言っていた男は目の前でいびきをかきながら眠り続けている。それを横目に残っているもので何とか済ませられないものかと冷蔵庫を漁っていると、少し遠くから鍵が開く音がした。

 

「ただいまー」

「明、おかえり」

「うわっ、何これ」

「淡とずっと飲んでたんだって」

「お父さんったらこんなになるまで飲んで、何処にお酒隠してたんだろ。買い置きすると飲みすぎるからダメだって言ったのに」

「それに晩ごはんの準備も何もできてないみたい。ご飯も炊いてないし」

「うーん、お米切れちゃってるから買ってきてってお父さんに頼んであったんだけどなぁ……仕方ないか。スパゲッティでもいい?」

「私は食べられるなら何でもいいけど」

「ならこれから作るからちょっと待っててね」

「部活で疲れてるでしょ。私がやるよ」

「お姉ちゃんだってお仕事だったじゃない。すぐ出来るから、その辺に座ってテレビでも観てて」

 

 椅子の背に下げてあったエプロンをセーラー服の上から掛けると、明は台所に立って鍋に火をかけ始めた。勧めに従ってソファに座りながら、忙しなく動くその様子をぼんやりと眺める。後ろ姿が咲に重なった。

 お父さんがあの体たらくだったせいか咲の料理スキルは中々のものだった。高校生活最後の冬、帰省したあの時もこうして手料理を振る舞ってくれたのだ。そして今ではあの頃の彼女と同じ背格好の子供が私に夕飯を作ってくれている。だのに一方の私はもう高校生ではないし、寧ろ世間的にはおばさんと呼ばれるような年齢になってしまっていて、それが私を一瞬だけ時が遡ったかのような不思議な感覚に陥れた。

 

 鞄から文庫本を取り出す。栞の挟まったページを開くと、そういった考えも台所の物音も気にならなくなった。

 


 

 

『長野県高等学校麻雀連盟 冬季選手権大会』

 

 翌朝、清澄からハンドルを握ること一時間半、城下町の面影を残す町並みの外れは繁華街の喧騒から少し離れたあたりに会場はあった。ごく薄く積もった雪の上でスタットレスタイヤの動きを停めて車のドアを開けて外に出ると、まだ朝早いというのに観戦に来たらしい老若男女様々な人たちが周囲を埋め尽くしていた。

 大きく看板の立ったホールの中は着ているコートが暑苦しいほどの暖かさである。暖房が強いせいかもしれないし、ここに集まる人々の熱気のせいかもしれない。やっとの思いで辿り着いた観戦室も同じような人の入りで、一番端の方にようやく空席を見つけるのがやっとなくらいだ。

 

 

南一局一本場

 

龍門渕(龍門渕)56900

宮永(清澄)18300

岡田(裾花)6700

滝沢(今宮女子)18100

 

南家:宮永(清澄) 一巡目

ドラ:{②}

{一四七③④⑧⑨15東東南發} ツモ:{1}

 

「おいおい…こりゃまたエラいことになってんな」

「リューモンブチって、あのコロモと同じ?」

「厳密にはその親戚筋って話だけど」

 

 本来であれば積極的に和了りに行きたい局ではあるが、愚形の多い四向聴の明にとってはそれすらもかなり厳しいように思える。

 龍門渕は既に圧倒的な地位を確立していた。二着の明とも遥か38600差、余程の不注意で大物手に放銃しない限りは揺るぎようのない一着である。一般的なリーグ戦であれば他の選手にとってここから一着を狙うのは相当難しいし、二着を確保する方向へ舵を切るのがセオリー通りの打ち方と言えるだろう。しかしこの大会はトーナメントであり、次の試合に駒を進めることができるのは一人だけ。明は残りの数局でこれだけの差を埋めなければならないわけだ。

 

 そんな彼女が不可解な行動を見せたのは十一巡目、捨て牌が三段目に差し掛かる直前だった。

 

『カン』

 

{東東東横東}

 

「大明槓!?どうしてこんなタイミングで……」

 

 淡が思わず悲鳴に近い声を上げた。数巡前にリーチが――しかも断ラスの西家から掛かっている。ただでさえ高打点である疑いが高い以上、無闇に打点を上げかねない明槓は確かに不可解だ。なら嶺上開花狙い?そんなはずはない。そもそも彼女の手牌はまだ二向聴であって未だ聴牌すらしていないのだ。

 王牌の前に座る北家の指がゆっくりと槓ドラをめくり、新たに{2}が顔を出す。

 

『……』

 

東家:龍門渕(龍門渕) 十一巡目

ドラ:{②3}

{四五六七八①③⑤7788中} ツモ:{西}

 

 西家の河は断么模様、至って普通の捨て牌だった。既に二枚切れの{西}が止まるはずもなく………

 

『ロン』

 

西家:岡田(裾花) 十一巡目

ドラ:{②3}

{一一②②⑦⑦⑧⑧3366西} ロン:{西}

 

裏ドラ:{一⑧}

 

『――24000は24300』

『ぐっ………はい』

 

龍門渕(龍門渕)56900 - 24300

宮永(清澄)18300

岡田(裾花)6700 + 24300

滝沢(今宮女子)18100

 

 

南四局

 

龍門渕(龍門渕)19700

宮永(清澄)27900

岡田(裾花)29700

滝沢(今宮女子)22700

 

 

「やっぱりあの三倍満で流れが変わったんだろうな」

「キョータローってオカルトとか信じるんだ。そーゆーの嫌いだと思ってた」

「そりゃ人並みには信じるさ。それ頼りに自分が打つことは絶対にないけどな」

 

 実際に彼女は既に4着まで沈められていた。一方の明はトップの今宮女子とはたったの1800点差。1000の直撃かツモで捲れる条件が出来ている。

 

西家:宮永(清澄) 七巡目

ドラ:{③}

{一一二三三四①②12349} ツモ:{9}

 

→打:{四}

 

 河も二段目に差し掛かったところで一向聴に取れたが、三色がほぼ確定している現状なら{4}を切るのが形的にも点数的にも一番丸いはずだ。あるいは{一}から外すのも良いかもしれないが、ここで{四}切りというのは普通なら考えられない。両面を捨てて純チャン一盃口の嵌張固定。宮永明だからこそできる打牌だ。

 しかし、そう簡単に事が運ぶはずもなかった。

 

南家:龍門渕(龍門渕) 九巡目

ドラ:{③}

{三四五五五⑤⑥⑦⑧345赤5} ツモ:{④}

 

 南家のツモ番で平和赤、高目断么三色の聴牌。三筒ならツモでもロンでも二回戦進出だが、それ以外では僅かに足りない。となれば……

 

『リーチですわ!』

 

→打:{5}

 

「うわっ、ド高目の三筒って全山かよ」

「六筒二枚、九筒三枚……全部で九枚残りか。これは厳しいかもね」

 

 上手くオリることができたとしても南家が自力でツモるのは時間の問題だ。そう考えれば、既に役牌と嵌張を鳴いている親に何とか和了らせて連荘を狙うのが今の明にとっては得策。少なくとも明の視点にはそう映るはずなのだけれど、彼女はそうは思わなかったらしい。

 

西家:宮永(清澄) 九巡目

ドラ:{③}

{一一二三三①②123499} ツモ:{南}

 

→打:{9}

 

「九索!?スジすら通ってねえじゃねーか」

「この南を止めた……やるね、メイ」

 

東家:岡田(裾花) 九巡目

ドラ:{③}

{五五赤五④赤⑤⑥南} {東横東東} {横435}

 

 東・赤赤の南単騎、符ハネして7700。これの直撃を喰らえば一気に逆転して親がトップに浮上し、その時点で試合は終わっていた。

 親の河には高打点の気配は全くしないが、確かに万が一ということはあり得る。しかしそうであったとしてもオリるのであればわざわざ{9}を切る必要はなく、既に他家へ通っている{①②}から落としていけば良いのだ。つまり彼女は和了るつもりなのだ。その上で南を押さずに手元へ残し、九索から回していく選択を取ったのだろう。

 

 明にしては冴えすぎなくらいの場読みだった。

 

『ツモ』

 

西家:宮永明(清澄) 十六巡目

ドラ:{③}

{一一二二三三①②123南南} ツモ:{③}

 

『3000-6000です』

 

 

<終局>

 

龍門渕(龍門渕)16700

宮永(清澄)39900

岡田(裾花)26700

滝沢(今宮女子)16700

 


 

 明による海底直前の跳満ツモが一回戦へ終わりを告げた。どよめいていた人々もやがて落ち着くと次々に席を立ち、その流れに従って私達もおもむろに腰を上げて出口へと向かう。

 

「次の試合は三十分後。二回戦B卓だから……あっちの部屋だな」

「その後の予定は?」

「昼休憩挟んで一時半から三回戦、そこから準決勝決勝と順調にいけば六時に終わる予定です」

「五試合ってことは六十人くらいか。参加者、結構少ないんだね」

「先週あたりに予選があったらしいですよ」

「そうだったんだ」

 

 だが、それ以上に気になるのは淡が静かなことだ。試合が終わってから淡はずっと思案顔を浮かべ、観戦室を出て以来何も言わず私達の少し後を俯きながら歩いていた。京ちゃんはしばらくパンフレットの小さな文字と格闘していたが、そんな彼女の様子に気がついたのか声をかけた。

 

「淡、具合でも悪いのか?」

「ううん、そんなことないんだけど…さっきの試合、やっぱり不思議だったなって思ってさ」

「何がだよ。女子の麻雀がブッ飛んでるのはいつものことだろ」

「そーゆー話じゃなくてメイのこと!南一局だって………」

 

「あら、照じゃない」

 

 そう呼ぶ声――つい最近聞いた声に三人とも思わず顔を上げると、ホワイエの空きスペースで十余名の生徒を引き連れて休憩をとる久の姿があった。見れば、学ランとセーラー服の海の中にはつい先程まで対局室に座っていたはずの明も既にいた。

 

「見に来てくれてたのね。しかもご一同勢揃いで」

「げっ、竹井先輩」

「『げっ』とは随分なご挨拶ねぇ、須賀くん?」

 

 露骨に嫌そうな物言いをする京ちゃんの脇腹を久が小突く。もっとも二人とも本当に嫌そうな素振りはなく、これが彼らなりの旧交の温め方なのだろう。そんな顧問の様子に気づいたらしく、後ろの方で生徒たちがこちらを伺っていた。

 

「ああ、紹介するわね。昨日も来てもらった宮永プロと、こっちは同じチームで活躍されてる大星プロ。それでこっちのチャラい金髪が明のお父さんよ」

「宮永さんのお父さん?」

「ちょ、ちょっと先生!やめてくださいよー!」

 

 顔を真っ赤にする明に周囲からどっと笑いが起こる。それから何人かの生徒がやって来て淡にサインをねだったりしているうちに、一人の女子生徒がおずおずとこちらへ歩いてきた。

 

「あの……すみません。明ちゃんのお父さんって、あの須賀プロですよね」

「今はプロじゃないけど、そういう時期もあったよ。『あの』かどうかは分からないけどな」

「二年生の丸山っていいます。須賀プロに一つどうしても頼みたいことがあって…………その、私と麻雀を打っていただけませんか?」

「えっ、俺と?」

「私、みんなと違ってオカルトとか全然ないんです。だからずっとデジタルで打ってきたんですけど、やっぱり中々結果が出なくて………誰か見本になるような人を探してる時に須賀プロを見つけて、それからずっと憧れてました」

「でも俺が打ってたのなんて、君がまだ小学生にもなってない頃だぜ。今の理論なんかはよく知らねえし、期待してるような助言なんかは出来ないと思う」

「助言なんて要りません。私は須賀プロの麻雀が好きなんです。だからこれは憧れの人と打ってみたいっていう、ただの私のわがままで………ごめんなさい、知り合いでもないのに急にこんな話。迷惑ですよね」

「………roof-topって雀荘あるだろ。今度の日曜は来れるか?」

「……!」

 

 ずっと萎縮していた少女の表情が綻んだ。それからいくらか言葉を交わすと、弾むような足取りで彼女は仲間たちの元に戻っていった。その様子はかなり周囲の注目を集めていたらしく、女子生徒は彼女を取り囲むと代わる代わる口早に何かを問い詰めている。

 一方の京ちゃんは如何にも小難しいことを考えているかのように眉間に皺を寄せているが、口元は全く喜びを隠しきれていない。

 

「言っておくけど、あっちから口説いてきたからって高校生に手なんて出したら犯罪だからね」

「出すわけないでしょうがっ!」

「あら、そうでもないんじゃないの?随分嬉しそうに見えるけど」

「先輩から指導料をいくら貰えるのか期待してるだけですよ」

「いやーん、須賀くんったら私より稼いでるくせにー」

「アンタの給料なんて知らねーよ」

 

 そう軽口を叩く表情はどこか満足げだ。




お久しぶりです。
実生活の方が随分忙しくなってまいりまして、今後は長い休みが取れたタイミングで一気に投下する具合になると思うのでよろしくお願いします。

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