レース場へと出てきたカブラヤオーの姿を見たたづなはその姿に少しだけ驚いていた。
(思った以上に肩の力が抜けてる?)
それは彼女のトレーナーになったからこそ分かった事だが、カブラヤオーは臆病な性格なうえにかなりの緊張しやすい質だった。
今日も控え室で確認を行ったが、ガチガチにとは言わないが、気負ってるといえるレベルでの緊張があった。
だというのに、どういうわけか今目の前にいる彼女にはその緊張が全く見えない。
(何か吹っ切れるようなことがあった?けどたった数分の短い時間で?)
分からない、その原因は分からないが確実に言えるのは、あの姿のカブラヤオーは間違いなく強いということだけだ。それは彼女のトレーナーとして、誰よりも練習に付き合ってきたたづな本人が一番分かる。
「これは、本格的に話を詰める必要がありそうですね……」
そう言ってたづなはどこか鋭い眼差しでレースの全てを逃さんとばかりに見守るのだった。
(これでカブラヤオーさんの緊張が解けてくれて僥幸ですね)
グリーングラスはターフにて準備運動をするカブラヤオーを眺めながらにこやかに笑っていた。なぜならば
(さて、久しぶりに吐いた
カブラヤオーへ話した内容、そのほぼ全てが質の悪い出任せ、大嘘、ペテンだったのだ。
実際のとこグリーングラスの家族ととトキノミノルこと駿川たづなの仲は間違っても悪くないうえに、グリーングラス自身、昔はたづなにベッタリなついていた仲である。
現にトレセン学園入学前にはたづなとグリーングラス及びその親類で一緒に遊びに出掛けた写真がスマホの中には大量に保存されているうえ、過去5年ぐらいのたづなとの関係が収められた写真がスマホの中に眠っている。
本当だったのはたづなが後継に自分ではなくカブラヤオーをとしたことに対する嫉妬と、カブラヤオーに勝ちたいという本音だけ。
名家のお嬢様らしいというかなんというかな腹芸だが、ではなぜそんなことをカブラヤオーに対してやったのか。
(私、面白そうな相手を虐めるのが大好きなんです)
ただ単にドSだというだけだった。いや最早ドSと単純に言えるレベルを超えていたが。
そしてグリーングラスは笑みを消してゆっくりとゲートへと進入していくカブラヤオーを見て鋭く睨む。
(カブラヤオーさん、貴女は理路整然と道筋を考えてレースをするタイプ。ですが、レースは瞬間の出来事)
グリーングラスは気づいていたのだ。彼女の走りが予め相手がこうするという理詰めで、かつそのうえで自分がどう走れば良いのか事前に考えて走るタイプだと。
それ自体は悪くない。理詰め型のウマ娘というのも少なくないが存在する。だが、同時に
(カブラヤオーさん、貴女の本質はそんな薄氷並みの作戦では力を縛るだけ、寧ろ貴女は直感で走るべきウマ娘です)
会って数週間と経ってないが、それでも間違いなく分かる。そう言えるほどの自信と観察眼を持ってして、果たしてグリーングラス自身に得があるのか。
(損得もスカウトの人達もどうでもいい、私は叔母様が認めたウマ娘の本気の全力と真っ向から戦いたいだけ)
そう、彼女はただそれだけの理由のために、わざと挑発して相手に塩を送った。あとはそれにカブラヤオー自身が気づくだけだが、果たして……
レース開始前となり9人のウマ娘達がそれぞれゲートへと入っていく。
「屋根谷、ちゃんと動画を撮ってるな」
「勿論ですけど、写真じゃダメなんすか」
「ダメだな。それじゃ後で見返せねえからな。それに動画にしとけば後で好きなところを切り取れるだろう」
そんなもんすか、と答える屋根谷に何も言わず、亀谷は目の前で始まるレースに集中し、そして
ガタンッ!!
今ゲートが開いた。が、同時に亀谷は驚いた。
「カブラヤオーが……出遅れた!?」
前回のあの神速のような逃げウマ娘が、文字通り出遅れたのだ。これでは逃げの利点がまるでないうえに、予想通り両隣の選手が前をブロックし防いでくる。
こうなればカブラヤオーに打つ手は何もない、亀谷は唖然としたが、次の瞬間その出来事をひっくり返す出来事がターフで起こった。
なんとカブラヤオーは本来ならば内側へと進んでいくところを、逆に大外へと向かって走り出したのだ。
これには前をブロックしていたウマ娘達も驚くと同時に、内側へと行くと思われていたためにカブラヤオーの進行と逆方向へと進んでしまった。
これではブロックなんて既に瓦解してるのも同じ、たったその一瞬でカブラヤオーはブロックしていたウマ娘を抜き去り、カーブを垂直のように急カーブして一気に先頭へと躍り出る。
「は、はは……マジか」
なんだあの走りは、なんだあの無鉄砲は、レースのセオリーを完全に無視したうえに、それで出遅れをあっという間にカバーしたうえで逃げを開始した。
いや、もしかすればの話だが、カブラヤオーは
今はまだ最序盤だ、本来逃げで走るカブラヤオーは最初にスタミナを使って大きく突き放す戦術を取れるようにトレーニングしているはず、そしてそんな大逃げウマ娘が多少大外へずれて、かつ一気に抜きさって先頭へと出るのに、大してスタミナの消費は変わらない。大幅なリードこそ捨てるが、それでも先頭を走れることには大きな意味がある。
まだ第一コーナー過ぎてすぐだというのにここまで良い意味でふざけたレース運びだが、同時に亀谷はあることに気づいた。
(カブラヤオーのやつ、前回よりも早いペースでロングスパートをかけてきた!?)
カブラヤオーの武器の一つ、じわじわと加速する超ロングスパートによる他のウマ娘の体力を奪っていくその戦法を、まだ800mという段階でスタートしてきたのだ。
これには流石の亀谷は頬をひきつらせた。違う、まだそこでそれをする場面じゃないだろう、と。
亀谷は気づいていたのだ。このカブラヤオーの武器の弱点に。
1つはその戦術の都合上、他の逃げ方以上にスタミナの消費がとてつもなく激しいこと。
これは距離が長くなれば長くなるほど大変になり、短距離、マイル、良くて中距離程度のカブラヤオーがやるには、この長距離とも取れる2400ではかなり不利な戦法だ。いくら体力が余りあるカブラヤオーといえど、流石に終盤ではスタミナ切れが予想される。
そしてもう1つは、言ってしまえばこの戦術はいわゆる初見殺しということだ。
確かにこの戦術ははっきり言って初見ならば間違いなく成功する。が、この戦術に気づいてるウマ娘に対しては真逆で格好の餌……カブラヤオーのペースに付き合わず脚を溜めて最後に差し込めば勝てる可能性が高い。
最も後者に関してはそれができれば苦労しないという面もあるが、一流足りうるウマ娘にはそれができる。現に中盤を走るグリーングラスはカブラヤオーと少しずつ差がついてきてる。それだけ彼女が強いという証左だ。が、
(この勝負、グリーングラスが差し込められない距離を開けるか、それが勝負の分かれ目だな)
既にレースは第3コーナーへとさしかかり、カブラヤオーはこのレースの展開に歯噛みしていた。
(作戦自体は上手くいった筈なのに、全然スピードが上がらない!!)
最初の大外からの加速でできた後ろへの差はたった2バ身程。出遅れこそ直前まで考えすぎたが故の事故だったが、それでもそれを利用して先頭へと出る策を事前に考えておいて良かったとは思った。
そして少し早いが800mという三分の一地点で長めにロングスパートをかけたわけだが、どういうわけかスピードが乗らない。いつもならもっと速く走れる筈なのに、それができない。
カブラヤオーは気づいてないが、このコースは第2コーナーから第3コーナーにかけては緩やかな上り坂、だがカブラヤオーは大外から抜けるように先頭へと出るために、坂を走るためのピッチ走法ではなく、通常時と同じ走り方をしてしまったのだ。
それによって本来使われるはずのないスタミナを消費してしまい、結果として速度が出ないという事態に陥ってしまった。
だが普段のカブラヤオーならば踏み込みの感覚でそれを気づけたはずだが、それを妨害するかのようにグリーングラスの刺客の視線が背筋を襲う。
ゆえに攻められない、逃げるスタミナを生かす場面だというのに生かせない。
これが少しでも実践経験があれば別だったのだろうが、カブラヤオーの実戦はまだ二回目、チーム結成時のレース含めても三回だけだ。明らかに他のウマ娘に比べて実戦勘というものが足りなかった。
そして最終コーナー手前、カブラヤオーは下り坂に入ったことを察知し、ここで勝負を賭けると最終加速体勢である超低空飛行を開始する。高い下り坂を加速のために使い一気に加速しようと駆けるが、それに並ぼうとするウマ娘が一人、まるで見計らったように進出を開始する。
それは黒鹿毛の刺客、グリーングラスだった。
(!?いったいどこから!!)
カブラヤオーは驚いた。確かに視線は感じていた。だが、それでもグリーングラスとの差は大きいと思っていた筈なのに、彼女は既にカブラヤオーを差せる射程圏内へと近づいていた。
(刺客は気付かれずに差すから刺客と呼ばれるんですよ)
グリーングラスがやったのは単純明快、第3コーナー直前まで他のウマ娘の真後ろについてスリップストリームでスタミナを溜め、最終コーナーで一気に空いた隙間から、まるで黒子のように自然と突入してきたのだ。
(私、気配を消すのは得意なんです)
既に直線に入った二人のウマ娘、残り600mで二人の差はたった1.5バ身。どちらが勝っても不自然ではない。
だが二人には圧倒的な差があった。カブラヤオーは確かに加速している。だが、最後までカブラヤオーのペースに付き合わずスタミナを溜めてきたグリーングラスの末脚がある。
徐々に徐々に差は詰まり、のこり400mでほぼ並びかけてきた。
(カブラヤオーさん、この勝負―――)
貰った、グリーングラスがそう思った次の瞬間、目の前のカブラヤオーから異様な圧力を感じた。
なんだこれは、そう思った次の瞬間、カブラヤオーの走りがさらに変わった。いや、変わりすぎた。
(―――私は、まだ)
カブラヤオーはその時、走馬灯のように昔を思い出した。それはカブラヤオーがクラブをやめてがむしゃらにトレーニングメニューを考えていたとき、妹から言われたのだ。
『お姉ちゃんは難しく考えすぎて頭でっかちになってるよ』
『頭でっかちって、これぐらい考えないと私は強くなれないから』
『そんなこと言っても、お姉ちゃんは難しいこと考えるのは苦手なんだから、直感で走れば良いんだよ!!』
そんな当たり障りの無い子供の頃の会話、なんでこんなことを思い出したのか、私にはまったく分からない。分からないが、思い出したことに意味があるというのなら、
(今だけは、私の
スタミナはもうほとんど無い、スピードだって平均的、これ以上の走りは絶対に不可能、
踏み込んだ脚が地面を抉り、怪物の足跡を生み出しながら最後の直線を駆け抜ける。
鍛え上げた脚力をフルに、それこそ普通のウマ娘が同じことをすれば一瞬で壊れかねない程のフルパワーで突撃する。
それによってグリーングラスとの差はぐんぐん、ぐんぐんと開いていく。まるで影を踏ませないとはこの事か。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
(あぁ、この姿は……)
その姿を間近で見た彼女はその後ろ姿に、自分が一番敬愛し、追いかけ、越したいと思ったウマ娘の姿を幻視した。
彼女は
「これは……勝てませんわね」
目の前で先にゴール板を駆け抜けていく漆黒の韋駄天に、緑の刺客は静かに自らの敗北を認めた。
その後自らが発した嘘をカブラヤオーへとバラし、二人だけのレースを行うことになったのは、まだ誰も知らない物語だ。