――からくりサーカスよりジョージ・ラローシュ
「来てしまった……」
トレセン学園のトレーナールーム。
本来であれば一チームに対し与えられる個室であるそれは、現状一教官である味田教官には過ぎたるものであった。
しかし、今なら納得はできる。かつてG1ウマ娘を育成した実績を持つ彼ならば、今もトレーナー室を持っているのもその名残なのだろうと。
「……」
なんとなく、手が重い。
いつもであればなんてことない部屋でしかない。けれど、今の私にとってはトレーナーになってもらえるように口説かなければならない相手だ。
これもすべてシービーが悪い。そもそもあんな甘言に乗らなければ良かったと今更ながらに後悔する。
「どうしよう……」
「どうした、何か悩み事かな?」
「うひゃぁ――っ!!」
不意に背中から声を掛けられる。
あまりにも急なものだから、耳がピンッと跳ね、尻尾の毛が逆立つのを感じる。
「え、あ、その…、えっと……」
「? とりあえず、中に入らせてもらっていいだろうか?」
「あっ、はいっ! 勿論……!」
不思議そうに首をかしげながら、声の主であった味田教官は扉を開く。
「? 何を立ってるんだい?」
「えっ?」
「僕に用があるんじゃないのかな? ほら、早く入っていいんだよ」
ドアノブに手を掛けたまま、味田教官はそう言って振り返り、私を部屋の中に招き入れた。
濃いインクの匂いと共に、味田教官の部屋を見渡す。整頓の利いた部屋だが、その部屋には大量の書籍やDVDのディスクが棚に仕舞われ、机の上は大量の紙類や本、ディスク、映像機器が山の様に積み上げられ、この部屋では異常に浮いている乱雑さを見せていた。
「あー……コーヒーしかないけどいいかな? インスタントだけど」
「えっ、はい」
そう言うと味田教官はケトルに水を入れ沸騰させてる間に手早くインスタントコーヒーの準備をする。
インクの臭いに混じって香ばしいコーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。
「どうぞ、お茶菓子は……カ○リーメイトしかないけどいいかな?」
「チョイスおかしくないですか?」
そう言って私の前にはチョコやメープルなどの味付けがされた栄養調整食品群が渡される。
「軍人の食事かな?」
「参ったな、否定出来ない」
味田教官は眉間にしわを寄せながら、コーヒーにミルクをひとつ加えて口に運んだ。
私は砂糖を二つ入れて良く溶けるようにコーヒーをかき混ぜる。
「……苦い」
「そりゃあ、コーヒーは苦いものだからね」
旨くもなければ不味くもない。至って普通のインスタントコーヒー。
それでもいつもとは別の空間。別の場所で飲むといつもとは違う味がするような気がする。
「コーヒー、お好きなんですか?」
「全然。苦いし、美味しくないし、特段好きな理由はないかな」
好きでもないものを振る舞うのか。たまげたなぁ。
そんな私の困惑を読み取ったのか、味田教官は静かにカップを置き、窓辺に移動する。
「年を取ると、嫌なことばかり増えてくる。レースには持ってこれない。持ってきてはいけないいろんなことが……」
鍵のかかっていた窓を開くと、ふわりと芝の匂いの混じった爽やかな風が入り込み、陰鬱なインクの匂いを吹き飛ばしていった。
「眠るとね。そんな嫌なことばかり見てしまう。心の底に溜まった、僕の弱い考えをこれでもかとぶつけてくる。コーヒーはその安定剤かな。飲んでるときは嫌でも眠ることが出来なくなるから……」
味田教官が窓辺に腰を掛けると油で少しテカった教官の長髪が風で靡く。
視線は遠く、ターフを見つめていた。
「教官は……」
言葉を選ばなければならないと思った。
教官は意識的か無意識的かは知らないが、自分の心の奥底に止めているものを見せてくれた。普通だったら生徒には見せることのないそれを見せてくれた。
「教官は、どうして。トレーナーを為さらないのですか?」
味田教官がそれなりにできる人だというのは昔から思ってた。シービーの後押しは私にとってその推察の根拠付け程度でしかない。
シービーは味田教官の指導に納得していた。
これまでもこれからも、シービーは味田教官の言うことにはひとつとして反発することがなかった。異常なほどに。
シービーには多数のトレーナーから返事を待つ身だ。味田教官が嫌ならばすぐにでも別のトレーナーの元で指導を受けるし、シービーほどの実力ならトレーナーの指導に口を挟み、圧力をかけることだってできる。
選ぶものと選ばれるもの。力の関係は選ぶものの方が強くなるのは自明の利なのだから。
味田教官にはなにかがある。むしろこれでなにもない方が不自然だ。
「明白だよ……。僕は夢を見るのをやめた人だからさ」
そう呟いた味田教官の瞳は泥のように暗く沈んでいた。
「夢、ですか……」
「――ウマ娘は何を背負って走ると思う?」
ウマ娘が走る理由。そんなのは個人によって別々なんじゃないんだろうか?
そんな考えを浮かべると味田教官はまるでそんな考えすら見透かしたかのように口を開く。
「大抵は想いだとか、願いだとか、希望だとか言う人は多い。でも行ってしまえばすべてエゴだよ。自分の願い、チームの希望。見知らぬ誰かの想い。全部引っくるめれて夢といった方が座りがいいからね」
「教官も誰かに夢を持ってたのですか?」
「……あぁ。夢のために努力して、夢のために戦って……夢のために誰かの夢を壊した」
勝利の栄光を獲られるのはひとつのレースでたった一人。
「一年に生まれてくるウマ娘は数千、数万といる。そこからレースを志すのは何千人。国内最高峰のトゥインクル・シリーズを志すウマ娘は数百人。その中で活躍できるウマ娘は数十人。そして八大競走で優勝できるのはたった一人。何千分の一の確率だ」
何千分の一。
改めて言葉にされるとその凄さがわかる。同時に中央のトレセン学園という場所にいることすら奇跡であることも否応なしに理解してしまう。
「もっともレースに出るのは運試しの確率で決まる訳じゃない。生まれながらにしての素質や環境、ウマ娘自身の努力や目的意識が左右される」
「厳しい世界ですね」
「そうだね、とても厳しい世界だ。だからこそ、そんな世界だからこそ人の心をどうしようもなく震わせることができる世界だ」
味田教官の言う通りだ。
みんながみんな本気で走る。みんな血を吐きながら戦っている。
努力することが前提の世界だ。勝ちたい気持ちをもって命がけで戦っていることが前提の世界だ。スポーツマンとしての表面上の顔の裏に、他人を蹴落としていく残酷な現実がある世界だ。
そりゃあ、疲れるだろう。
心がどうしようもなく擦りきれてしまうだろう。
だから、これは仕か――「仕方がないことだと、諦めることは簡単だよ」
そんな私の弱い考えを断ち切るかのように、味田教官は口を開いた。
「現実を見て、諦めて、実現可能な世界に身を置いて。相応な幸せを掴む。――利口な道だ。僕はそれを否定しない。寧ろ推奨する」
いつもと変わらない、泥のように沈んだ瞳。威圧感の強い顎髭に眼光。
でもその瞳の奥には優しさがあった。少なくとも私はそう感じた。
「でも、君は。まだスタートにすら立ってないじゃないか」
「――っ!」
「カツラギエース。君はなんのためにトゥインクル・シリーズに出ようと思ったんだい?」
「わ、たしは――」
スカウトされたから? いいや違う。トゥインクル・シリーズに行かない選択肢だってあったはずだ。
走ることそのものに価値を感じていた? いいや違う。確かに走ってトップを取ることは快感だった。けど、一番になりたいならそれこそ中央じゃなくてもいい。地元の、地方で無双してればいいだけの話だ。
……みんなの期待に応えたかった? いいや、きっと違う。確かに中央トレセン学園にスカウトされたときみんな我がことのように喜んでくれた。すごかったと誉めてくれたし、学友からは羨望の眼差しで見られた。
けれど、これも少し違う気がする。もっと汚いものだ。もっと自己中心的な考えだった筈だ。
「私は――ちやほやされたかったんだと思います……。みんなが、私をすごいウマ娘だと言ってくれるのが……気持ちが良くて、心地良くて。……皆から偉い存在だと。そんな風になりたかったんです」
「そうか……」
浅ましいと、笑われるんじゃないか。みんなもっと真剣なんだと怒られるんじゃないか。
自分でも理解してる。私の夢は、私の戦う
「良く話してくれたね。僕は君の夢を笑わない」
味田教官は不器用そうに微笑んだ。
始めて見た。この人ってこんな風に笑えるんだと、そして理解した。いままでのは理解したつもりだったんだと。
この人も人間なんだと理解した。近寄りがたり怪物でも怖いひとでも何でもない。人の心に寄り添える人なんだと。
諦める理由を探していた。プライドがへし折られ、辛くてたまらなかった。いつしか、自分自身が何をしたかったのかすらわからなくなって、ぐちゃぐちゃになって……。
「走る理由に高尚も下劣も差なんてないよ。懸命で戦うことに、行動することに意味がある。自分の大切なものは自分だけが知ってればいい。よかったねカツラギエース。君はひとつ、自分が何をしたいのか明白になった」
「……」
けれど、なんでかは分からない。
――ただ、もう一度走りたくなった。諦めたくなくなった。
シービーがなぜ、味田教官に入れ込むのか。何となく分かった。彼は――。
「君は皆からすごいと言われるウマ娘になる。それは君の立派な夢じゃないか」
彼は――トレーナーに成るべき人間だ。
味田トレーナーの眼球がどれぐらいかっぴらいているか想像できない人は逃げ上手の若君の小笠原貞宗やFateのジルドレで検索してください。大体あんな感じです。