星が煌めく夜だった。
桜が咲き誇っている季節に、サイレンススズカ引退の報が駆け巡った。テレビや新聞、ネットニュース。各媒体が速報を流すとSNSは彼女の話題で持ちきりとなった。
それからすぐ、各媒体は特集を組むなどして、彼女の功績を大いに称えた。彼女の知名度を物語る報道と熱狂。当の本人も照れ臭そうにインタビューに応じる場面もあった。だが、そこに涙はない。吹っ切れた表情が、これまで積み重ねてきた努力を肯定していた。
そして、異次元の逃亡者が迎えた引退レース。
最後の最後まで、猛追するウマ娘から逃げ切ってみせたのである。その勇姿を目に焼き付ける観客が印象的なレースであった。
「引退後は何も考えていません。少しゆっくりしてから、考えます」
その後の会見で、スズカはそう語った。
走ることだけを考えて、毎日を過ごしていた彼女。言い換えれば、走ること以外何も知らないということでもある。だから、この言葉は本心で、戸惑いを隠せない自身を表した都合の良い言葉なのだ。
スズカが引退した夜は、綺麗な満月だった。
その光に照らさせた丘の上の公園。一人の男が街の光を見下して、空の光を羨んでいた。
表裏一体の期待と不安で心揺らぐ。
グラグラと心臓を鷲掴みされているようで、気持ちが悪い。ベンチに座っていても、安定感が無いような。
ヨレヨレのスーツが、あまりにも星空に似合わない。その虚しさをかき消すようにスマートフォンに視線を落とす。視界には、サイレンススズカ引退のニュース。何度見ても、この虚無感を掻き消すには至らない。むしろ増していくだけなのだ。
彼女は彼にとって、生きる希望であった。
仕事に忙殺される日常において、サイレンススズカが風を切るあのレース。目を奪われる橙色の髪。そしてレース後、微かに上がる口角。
その瞬間だけは、日常から切り離されているような気がした。自分が自分じゃなくなるような。もちろん、良い意味で。男はただため息を吐いて、この空にやり場のないストレスを吐き出した。それは煙草の煙となって消えていく。
スズカの引退が嘘であってほしいと、叶わぬ願いとともに。何本目か分からない缶ビールを喉に流し込んだ。
「大丈夫、ですか?」
返答の代わりに、男は体をビクッと反応させた。誰も居ないと思っていたこの公園。もう夜中だ。この時間に話しかけられるなんて心の準備をしていないから、至極当然の反応である。
煙草もまだ半分も吸っていない。携帯灰皿に灰を捨てて、男は声のする方に視線を遣る。その優しくて聞き覚えのある声に、胸が軽くなる感覚を覚えながら。
「すっ――――」
それは、あまりにも突然だった。人間、驚きすぎると声を失うのである。男は視界に入ったソレに、腰が抜けそうになった。酔いが覚めそうになった。
月明かりに映える橙色の髪。細い体。今にも風を切り裂きそうな独特な雰囲気。声。そして、頭の上にある耳。そのどれもが、彼の知るサイレンススズカであった。
まさに今日、引退したばかりの彼女が目の前に居る。自分に声を掛けてきた。その事実が受け入れられず、とりあえず男は煙草の火を消した。
「さ、サイレンススズカ……さん?」
その問いかけに、彼女は少し考えて。
「そうです」
綺麗な微笑みに、彼の瞳が揺れる。
普段であれば、叫んでしまうぐらいにテンションが上がるであろう。だが今は違った。変に酒が入っていて、センチメンタル。夜桜と星、そして満月と、色々と考えさせられる環境が整いすぎていたのだ。
ウマ娘自体は、街で見かけることも多い。レースに出ていない未来のスター候補も街には沢山居る。彼もまた、ウマ娘を生で見たことはある人間だ。
とはいえ、スーパースターのサイレンススズカをこんなに近くで見たことなんてない。しかも夜の公園で二人きりだなんて。必然的に心臓の鼓動が早くなる。
そんな彼女が話しかけてきたのだ。何か用があるのだろうかと、男は勘繰る。
「な、何か用でも?」
「寂しそうな顔を、していたから」
「……そうですかね」
「はい。すごく」
酒に酔っていて、顔は紅潮しているのに。どうして彼女はそんなことを言ったのだろう。鈍くなった頭で考える。
だがいずれにしても、たったそれだけの理由で、見知らぬ男に話しかけたのだ。男は素直に驚いていた。あのサイレンススズカが、こんな理由で動くような子だったなんて。
何も言わず、彼女は男の隣に腰掛ける。彼は直視できなかった。テレビの向こうの人。浮世離れ感が彼を襲う。ふわふわとしていて、思考がまとまらない。これはきっと、酒のせいじゃない。
「……ビックリしました?」
「え、えぇ。ものすごく」
「ふふっ。そうですか」
揶揄っているような、陽気な声だ。
人から弄られるのはあまり好きじゃない彼。でもこの瞬間だけは何も言えなかった。不思議と、彼女の方が上の立場だと理解していたから。
夜桜が鳴く。風に吹かれて、その命を燃やしている。春を彩っている。
サイレンススズカには、それがよく似合う。花のような美しさ。彼女に対する抽象的な印象が、彼を突き動かす。
「……あの」
「はい」
「よくここに来るんですか?」
「えぇ。だから私は、あなたのことを知ってます」
「えっ」あまりにも間抜けな声だ。喜びと驚きが混じったような、不純な声。それでもスズカは、そんな顔が面白くてクスクスと微笑む。
「いつもここに座ってますよね」
「そう……ですね」
「お気に入りの場所、とか」
「ここは、色々と忘れられるんです」
春の夜風は、まだ少し冷たい。スーツのジャケットを着ていてちょうど良いぐらいの気温。でも少し体が熱を帯びていて、男はネクタイを緩めた。
人間とは不思議なモノで、知っていると言われると一気に親近感が増す。自分が知らずとも、相手が知ってくれている。弱さを曝け出しても、悪くないなんて。そんな気がしてならない。
「現実から目を背けて、違う世界に浸っているような。あまりにも、今は生きづらいから」
ビュッと風が舞った。ウマ娘に対して何を言っているのだろうと、男は我に返る。
「す、すみません! 変なこと言って……」
「ふふっ。いいえ」
スズカは、男が思っていた以上に微笑んでくれる子だった。
レース中はもちろん、終わった後もそこまでの笑顔を見せることは少ない。プライベートの彼女のことを知らないと言えばそれまでだが、そのギャップに、男は見惚れてしまう。
「辛い時は、泣いても良いと思います」
渇いた空気。それが彼女の声を響かせる。
「スズカさんは、俺にとって希望だったんです」
あまりにもズルい発言だと、男は分かっていた。引退のショックを彼女本人にぶつけるのは、卑怯だって。
彼にとって、それは涙と同義。スズカが泣いても良いなんて言ったからだ。人のせいにする自分が腹立たしくもあり、その判断を尊重するもう一人の自分も居た。
「引退して、これから何を」
酒が回ってきたようで、男は言葉を選ぶ余裕がなくなっていた。おそらく、今日何度も聞かれたであろう言葉を彼女にぶつけてしまう。
でも、スズカはそれに怒ることもない。夜空を見上げながら、考えている。その横顔はあまりにも綺麗で。男はつい固唾を飲んでしまう。
「会見では『これから考える』なんて言いました」
「……本当は違うんですか」
「違うようで、正しいんです」
首を傾げる彼に、スズカは笑う。
自分でも言っている言葉の意味がよく分からなかったからだ。
「走ることしか知らない私が、走ることを止めるということは、どういうことか」
「……それは」
「存在意義が、よく分からないんです」
ウマ娘というのは、レースに出て観客に感動を与える。選ばれた存在だ。そこに存在意義なんてモノは存在しない。彼女たちだけでなく、日本国民がその存在を受け入れているからだ。
引退してからの人生は自由だ。後進の育成に力を入れるウマ娘も居れば、タレントとして活動する子も居る。家庭に入るウマ娘だって少なくない。その自由さが、スズカを悩ませていた。
人混みが苦手で、風の音と心臓の鼓動だけが聞こえる静かな世界。ただ走ることに執着して。
常に先頭を走り、開けた景色を愛していた彼女は、振り返ることを知らなかった。これまでも、これからも。
「存在意義はありますよ」
「えっ……?」
「今こうして、俺に話しかけてくれたじゃないですか」
彼の言う言葉。その意味が分からなくて、彼女は少し戸惑った。大層なことを言っているにも関わらず、その意味が伝わっていないことに男はつい視線を逸らした。
「スズカさんは俺の希望です。引退してもそれは変わりません」
「……でも私はもう走らないです」
「違うんです」
男は頭を強めに掻きながら、咳払いする。今からすごく恥ずかしいことを言おうとする、男の決意みたいなモノである。
「純粋に可愛いんです。綺麗なんです。見ているだけで幸せになれるんです」
「………………私が、ですか」
あまりにも長すぎる静寂に、男は後悔しかけた。スズカは心底、彼の言葉が自分に向けられているとは理解していないようだ。
「そうです。俺以外にも、スズカさんを好きな人は沢山居ます。だから、存在意義とか難しいことを考えないでください」
「難しく、考えない」
「好きなことをやって、楽しく生きていてくれれば、俺はもう満足ですから」
彼がこう言うのにも、理由があった。
数年前の秋の天皇賞。サイレンススズカの爆発的なスピードに、脚が耐えられず骨折という重傷を負った。競走中止になり、スペシャルウィークのファインプレーが無ければ命に関わるような事故。それを彼は目の前で見ていた。
「生きてくれているだけで、良いんです」
「……」
「沈黙の日曜日なんて言わせない。戻ってきてくれて、俺は本当に嬉しかったんですよ」
再起不能とまで言われた重傷から、舞い戻ってきた。まさに奇跡なのだ。その彼女が、こうして無事引退レースを走破してくれたことが、彼にとっての幸せでもあった。
スズカは、彼の言葉を聞いて何も言わなかった。ずっと夜空を見上げていて、星の数を数えているよう。
やがて、視界がぼやける。星が何重にもなって見える。とめどなく、感情が溢れる。
雨が降る。彼女の心の中に。でもそれは、暖かくて濡れない雨。頬を伝う。
誰にも打ち明けていなかったこの感情。たった一人のファンの言葉が、ここまで心に染み渡るなんて。一番驚いていたのは、間違いなくサイレンススズカ本人だ。
いや、違う。たった一人のファンではない。きっとこの人は、本当に自身のことを好きで居てくれたのだ。生きる希望を見出してくれていた。それだけで、自身の存在意義を認めてくれたような気がして。
「ごめんなさい……私が泣いてしまうなんて……」
「良いんですよ」
彼女は、彼のことを知っている。
と言っても、このベンチに座る後ろ姿を見たぐらいで、これまで話したことも無ければ彼の名前も知らない。特に気になる存在でも無い。
でも、スズカがここに来ると百パーセントに近い確率で彼が居た。いつもそう。スーツを着て、寂しそうな後ろ姿をしていて。
「あなたも、生きてください」
「……変なことを言うんですね。スズカさんも」
そう、言いたくなった。
彼が死のうなんて思っているようには見えない。ただ生きることに疲れているだけで。でも、スズカは自分のことをここまで見てくれているファンに、初めて出会ったのだ。
キザで、煙草とお酒の匂いに塗れたスーツの男。自分とは違う世界を生きてきた彼が、今何を思って自身と向き合ってくれているのか。変な興味みたいなモノが芽生える。
「ねぇ、スズカさん」
「はい」
「僕と結婚しませんか」
十五夜の月の下で言う冗談。
にしては、あまりにも。
「酔ってプロポーズだなんて」
「良いじゃない」
「女性に嫌われますよ」
付き合っているわけでもない。何なら、今日がある意味初対面だ。それなのに、彼のプロポーズ。少しだけスズカの胸が高鳴った。ほんの少しだけ。
すっかりアルコールに毒された彼。正論を言ったところでその先には何も無いだろう。
かと言って、適当に返すのも気が引けた。スズカは少し考える。この人に出会って、気持ちが軽くなったのも事実なのだから。
「ほら、月が綺麗ですよ」
それは、アイラブユーには程遠い。
分かっていたのに、胸が高鳴って高鳴って、彼の視界には、月を指さすサイレンススズカの横顔だけ。
これ以上見ていたら、きっと戻れない。初めて会う、話す、この子を離したくなくなる。
「月が綺麗だね」
それは、アイラブユーには程遠い。
言い聞かせて、星を見る。
夜桜が舞う。二人だけの世界で。
日曜日の不思議な夜だった。
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