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サイレンススズカと別れ、一人。ハルマはいつもの場所へやって来た。
見慣れていたはずなのに。目の前に広がる街明かりが暗い。楽しかったデートを記憶から切り離してしまうような、寂れた光景に見えた。
あんな人混みを駆け抜けたのは、いつぶりだろう。毎日満員電車に揺られ慣れた彼だったが、誰かと二人肩を並べて歩いたこと自体、久しくなかった。
だから、普段より余計に疲れたのも事実だ。誘っておいてそう思うのも理不尽な話だが。
この公園も、昼間は色々な人で賑わったのだろう。でもこの時間。夜になれば彼の一人舞台になる。この星空を独占出来る。
デートだなんて、よく言えたものだ。ただ二人で映画を見て、駄弁って、晩御飯を済ませただけ。しかも、彼女の反応が見たくて東京レース場前を待ち合わせにするぐらいだ。
相手の心の中を覗きたくての行為だと、彼自身理解している。でも、そうしたくなるだけの関係性だと彼は自負していた。
あのサイレンススズカと、夜な夜な肩を並べて星空を見る男なんて、世界でたった一人に違いない。それを特別感と呼ぶか、優越感と呼ぶか。全てはハルマ次第。でも彼は、その二つに当てはまらない感情を抱いていた。
彼女を救いたい。苦しんでいるこの状況から、救い出してあげたい。
使命感、とでも言うべきか。
これまで人々を感動させるレースを見せてきたサイレンススズカが、どうして今苦しむ必要があるのだろうか。
ハルマ自身、引退したウマ娘の行方を気にしたこともなかった。どこで何をしても、ウマ娘自身の自由だと思いこんでいたから。
確かにそうだ。そうなのだ。現に、かつて活躍したウマ娘として、テレビや雑誌に登場するウマ娘も多い。だから、気づかなかった。
彼女のように、苦しんでいるウマ娘も居るということを。レース場では、人々から注目を浴びて、夢をあげる存在であるのに。その役目を終えた途端、影に落ちる。
「―――帰らなかったんですね」
ついさっきまで聞いていた声。聞くはずもなかったあの声。でも、心のどこかでは予想していたから、彼は驚かなかった。
「スズカ。どうして?」
「それを言ったら、ハルマ君こそ」
花柄のワンピース姿。それはこの夜空にもよく合った。不思議だ。スズカであれば、何でも似合うのではないかと思わせるほど。
ハルマの隣に腰掛ける彼女からは、いつも通りの甘い香りがした。でもさっきとは少し違う。香水を変えたのだろうかと、彼は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「今日も星が綺麗ですね」
「うん。すごく」
不思議だ。それはあまりにも、夢を見ているかのように。先ほどまで、寂れて見えた街明かりが、今はしっかり輝いている。
ハルマの隣に座る夜の太陽は、何も言わずに星を見たり、街明かりを見たり。視線を上下に揺らすだけで、どこか落ち着いている。いや、吹っ切れているようにも見えた。
「良いことでもあった?」
だから彼は問いかけた。あからさますぎると後悔したが、別に失うものもない。さっきまでデートしていたのだから、これぐらいは。なんて。
「ど、どうしてですか……?」
「なんか、嬉しそうだったから」
「……そうでしょうか」
「気のせい?」
その聞き方はズルいと、スズカの心が言う。気のせいか気のせいじゃないか、と聞かれたら、答えはノー。気のせいではない。ずっと霧がかっていた心の世界に、ようやく一筋の光。
「さっきまでデートしてたし。それが理由だったりして」
「……もうっ」
彼女は否定も肯定もしなかった。
でもその言い方は、誰が見ても「肯定」そのもの。言った本人も分かっていたから、自ずと続く言葉を探していた。
日焼けしたような感覚が残る顔まわり。額がベタついて、綺麗に整えられた前髪が張り付くような気持ち悪さ。それを振り払ってくれる、この夜の風。そして、彼。高鳴る胸は嘘じゃない。
「今日はありがとうございました。その……すごく楽しかったです」
「ううん。こちらこそ」
頭を巡るさっきまでの記憶。
ハルマとスズカ。二人並んで歩いたあの道。東京レース場から、映画館までの喧騒。全身を駆け巡った、夢と希望を抱いていたあの頃。
こうやって夜空を眺めるしか出来ない今と違って、明日が来るのが楽しみだった数年前までの自分。それを、思い出すには十分すぎるデートだった。
「……今日は、ごめん」
「えっ?」
唐突な謝罪に、スズカは声を出した。あまりにも急で、予想もしていなかった彼の発言。横顔は、本当に申し訳なさそうで。
「ほら。レース場を待ち合わせにしちゃって」
「別に気にしてませんよ。謝るようなことでは」
「違うんだ」
ハッキリと言い切ったその声。夜によく響く。スズカは何も言わず、ただ彼の言葉の続きを待った。
「あの時、君が言った通りだよ。今のスズカが、レース場に来て何を思うのか、知りたかったんだ」
そうだと思いました、とは出てこなかった。心のどこかでは分かっていたのに、的中したのに、彼を責めるような言葉は思いつかない。
きっと、ハルマなりの優しさなのだ。二人でこうして夜を過ごしていれば、否が応でも相手の嫌な部分が見えてくる。
彼は、嫌な人間じゃない。世間的にはどうか知らない。嫌われる人だとしても、スズカから見てこの男は、弱くて、脆くて。でも、必死に生きようとしている優しい男。それだけは事実だった。
「どうしてそれを、今?」
「考えたんだ。一人で、君のことを」
色んな意味を含んだ言い方になってしまったが、ここで慌てふためくと逆に疑われる。毅然とした態度で、スズカに向き合う。
「やっぱり君は、未練があるんだろ?」
いつの日かのような。核心を突いてきたのに、いきなり心臓を掴む乱暴さはない。
むしろ、優しくて。暖かくて。後ろから抱きしめられているような。心を見透かした彼の優しさが全身に流れ込んでくる。
未練。サイレンススズカにとっての未練は、たった一つ。走ること。未練が残ったまま、引退を決意した。
それは何故か。
彼女もまた、一人で考えたのである。
「ずっと、先頭の景色は誰にも譲りたくなくて、レースに臨んでいました」
「うん。俺が知ってるサイレンススズカはそう」
「でも骨折して、復帰して。勝つことが出来ても、怪我前のスピード感を取り戻すのは難しくて。そういう意味では、怪我する寸前が一番のピークだったんだって、分かってたんです」
今になって、この感情を隠す理由が見つからなかった。
これまで必死になって存在意義を探してきた彼女にとって、この想いを告げてしまえば。それは、ここに来る理由を無くすことになる。だから言いたくなかった。
でも、今この瞬間。不思議な想いに包み込まれた。彼の暖かさが流れ込んできた。これを知ってしまったら、ここまで隠し通してきた意味が無くなるというのに。
―――すごく、嬉しかったのだ。
「それからは走るたびに、痛感したんです。脚や体力の衰えを。これまでだったら勝てたレースも、勝てなくなって。正直、走るのが怖くて」
それが「宿命」だと言うのは簡単だ。
ウマ娘に課せられた定め。盛者必衰と言うが、その一言で片付けるには、あまりにも。ハルマは、スズカのことを知りすぎた。
彼女がこれまで言えなかった苦しみも、悩みも。それを誤魔化すためにここに来ていたことも。ハルマなりに知っていた。でも、何も言えなかった。出来なかった。
無駄に詮索をするべきではないと思ったから。どうせ途切れる関係。深く踏み入れる必要なんて無いと思っていたのに。ハルマは気付かないうちに、サイレンススズカの魅力に溺れていたのである。
「でも、引退レースは」
「はい。勝てました。コンディションは悪くて、正直勝てる見込みは無くて」
ハルマの脳裏に焼き付いている、彼女の引退レース。衰えを隠せなかったサイレンススズカが、全盛期のごとく。大逃げを果たして有終の美を飾ったのだ。
でも、当の本人の言葉を聞くとそれは理解できない結果でもある。まさに正反対。
「なら、どうして勝てたの?」
彼は素朴な疑問を投げかけた。
スズカは、神妙な面持ちだった。
「最後のコーナーに差し掛かった時、いきなり体が軽くなったんです」
「ど、どうして?」
「……奇跡としか言いようがありません。最後の最後に、神様からのプレゼントだったのかもしれません」
なら、どうしてそんな顔をするのだろう。
苦しんで苦しんで、その中でも最後に勝てて。はいバンザイではないのか。
スズカにとって、それは逆だったのだ。
「最後なのに。あんな勝ち方をしてしまったら……また走りたくなるじゃないですか」
「……」
「もうあんな奇跡起きないのに、信じちゃうじゃないですか……」
神様が本当に居るのなら。
本当に、酷なことをする。どうしてあのタイミングだったのか。他にもっと良い時期があったはずだろう。それなのに、どうして後ろ髪を引かせるようなことをする。
まるで、彼女に死ぬ運命を課しているような厳しさじゃないか。きっとこのままなら、一人で考えて考えて、自身と同じような決断をしても可笑しくない。
引退レースのはずなのに、実力以上の結果が出てしまった故の、苦しさ。
きっとそれは、日頃から真剣に練習していたスズカだからこそ、感じてしまうのだ。自分と向き合い、体を知ることで、誰よりも自分のコンディションに詳しくなってしまった結果が。
本当に、この世界は理不尽だ。
ハルマの中で紡がれていく感情。やり場のない怒りとストレス。そして気づいた、彼女の本当の苦しみ。スズカの心は、彼が思っていた以上にボロボロだった。そして、未練なんて言葉で片付けてしまった自身の愚かさ。悔いても悔いても悔いきれない。
彼は隣にいる彼女に、掛ける言葉を探している。でも、見つかりそうにない。弱々しくて、小さな肩が震えているのに。抱き寄せることすら出来ない弱い男。
「スズカ……」
「未練があるのに、走るのは怖いんです。だから、今こうしてあなたの隣に居ます」
彼女が前に進めない理由は、レースへの未練にある。それを断ち切らないことには、何も出来ないのが現実だった。
それを断ち切る手段は、限られる。
一つは、未練そのものを忘れられるようなモノを見つけること。
一つは、もう一度レースに出ること。現実をぶつけること。奇跡なんて起きない、ありのままのサイレンススズカのレースをすること。
今のこの状況で、現実的なのは。
明らかに―――。
「……もう一度だけ」
「えっ?」
「もう一回、走ったら……どう?」
ハルマは、勇気を振り絞って問いかけた。
引退したウマ娘が、もう一度レースに出るなんてことはまず無い。前代未聞だ。
だが、不可能ではない。公式戦は難しくても、トレセン学園内であれば模擬レースが出来る。その可能性がスズカの頭の中に浮かんだ時点で、本心は決まったようなモノだった。
「―――すか」
「えっ?」
「見に来て……くれますか」
照れ臭そうにそう言う彼女。それが可笑しくて、ハルマは思い切り笑った。この重い空気を振り払うように、大きな声で、優しく笑った。
「もちろん。君の側で見届ける」
「……よかった。ありがとう、ございます」
彼女の笑顔は、この夜空には眩しすぎる。
分かっていても、目を離すことが出来ない。
見届けると言ったハルマは、いつも以上に真剣な横顔をしていた。友達としてではない。
一人の男として、彼女のことを守りたいのだ。救うのではなく、あらゆるモノから守りたい。サイレンススズカが傷つかないように、自らが出来ることを探して。
彼はイラついていた。昼間の自分に。
何を言ってるんだ。これを、恋と呼ばずして、何と呼ぶ。
物語も終盤です。最後までお付き合いいただければ幸いです。