久々に踏みしめたターフは、あの頃よりも硬く感じられた。まるで自身の心情を映し出しているかのよう。風に乗って芝生の香りが鼻を抜ける。懐かしくて胸が痛む。
久々とは言っても、この日を迎えるにあたってトレーニングを重ねてきた。少しだけ。だからこの場所も、この景色も、全然久しぶりなんかじゃない。なのに、彼女の胸は躍った。この感情は、レース前特有のモノだと実感したから。
トレセン学園のグラウンド。ここでサイレンススズカの最後のレースが行われる。観衆もなく、声援もない。あるのはこの為に引かれたスタートラインと、彼女を見守るいくつかの視線だけ。
たった一人のレースだ。それをレースと呼ぶべきかどうか、当の本人すら分かっていない。でも最後なのだから。一生、ここで走ることもない。別れを言うには少し短すぎる距離である。ただそんな野暮なことを言う者は誰一人として居なかった。
芝。一六〇〇メートル。良バ場。どこまでも広がる青空の下、たった一人の舞台に固唾を飲む。主にチームスピカの面々である。
少し離れた観客席で、ジッとターフを見つめる者。夏の終わりが近づいているとは思えないこの熱気に、頬を赤く染めていた。ハルマは、彼女との約束を守った。首にぶら下げられた関係者証が時折風に煽られる。気持ちを落ち着かせるように、ギュッと手で押さえつける。
(スズカ)
呼び掛けても、きっと返事は返ってこないだろう。目の前に居るのは、ハルマが知っている彼女ではない。知らない者は居ないあのサイレンススズカである。
それでも、G1レース用の勝負服が浮ついているように見えた。大勢の観衆の中を駆ける印象が根付いていたせいで、この光景が異様なモノであると心が笑う。だが決して表情には出てこなかった。
スタート用のゲートも無い。だから、走るタイミングも彼女次第。一回きりの勝負だと笑って話していた数時間前の表情を、彼は思い出していた。
チームスピカの面々は、彼に怪奇的な視線を送っていた。大切な仲間であるサイレンススズカの
それは彼も理解していたけれど、わざわざ深く関わることもないと割り切った。今日、ハルマは彼女だけを見届けに来たのだから。
トントンと、つま先で芝生を叩く。靴裏に装着された蹄鉄も良い塩梅。装備に不具合は無い。
純粋に、自身の脚だけ。言い訳もなし。やり直しもなし。一発勝負。自分自身との戦いへ、スタートラインの前に立つ。
目の前にゲートがあるように見えた。サイレンススズカの意識は、ただ前だけに集中していく。
僅かに息を吸って、吐く。温まった脚の筋肉が躍動する。まるでゲートが開いたかのように駆け出した。
直線から第一コーナーに差し掛かる。普段のレースであれば、サイレンススズカは、この時点で既に先頭に立つのが定石。目の前に誰も居ないこの景色を守るため、ひたすら逃げる。逃げて逃げて、誰にも前を走らせない。
どこまで行っても逃げてやる! そんな声が聞こえてきそうな風の切り方である。
曲線のままに体を傾け、第二コーナーを曲がり切る。それからの直線。逆風が体に吹き付けたものの、全くと言っていいほど気にならなかった。客観的に見ても、彼女の脚色は衰えていない。チームスピカの面々はその様子を息を呑んで見守っていた。
だが、サイレンススズカ自身は違った。脚色が衰えていないのは
「はぁ……はぁ……」
もう、肺が潰れそうだ。このままでは、第三コーナーを回る前に先頭が入れ替わるペースである。彼女の全盛を知っている面々だからこそ、思わず目を背けたくなる走りだった。
それでも――彼女たちは見つめていた。大逃げのサイレンススズカ。逃亡者の異名を持つ彼女はもう居ない。その現実を突きつけられてもなお、チームスピカの面々は現実から逃げない。やがて声を上げる。スズカの名を呼ぶ。叫ぶ。それは確かに、彼女の耳に届いていた。
第三コーナー。曲線に合わせて体を傾ける。忌まわしき記憶が蘇ってくる。一人きりだからこそ、周囲のペースを考える必要が無いからこそ。
あの怪我さえ無ければ、今もまだ全盛を維持したまま走れていたかもしれない。そんなことを考えた。
たらればを言っても仕方がないと分かっていても、過去に縋りたい気持ちが膨らんでいく。逃げ出したい。最後に走ると決めたのに、この状況を脱したい。あの数秒もすれば、自然とスピードが緩まっていくだろう。ソレぐらいに、彼女の心は折れかけていた。
「――スズカー!!!」
真っ暗になりかけていた視界が、途端に広がった。覚醒していく体。意識。風を切っていても、視線の先にある一人の男。すごく遠くにいるのに、小さくしか見えないのに。
聞き慣れた低い声。ひどく心地が良くて、ふわりと体が浮く感覚に陥った。さっきまで苦しかった呼吸が楽になって、遠くの彼を見つめ返す。
(ハルマ……君……)
ハルマは笑っている。それなのに、瞳から流れ出る涙が光っていた。変な表情をしている。
苦しそうな彼女の想いが、心に響く。まるで一緒に走っている気分だ。だから、今サイレンススズカが苦しいことも十分に理解できていて。それが涙となって流れてしまった。笑いかけてあげるつもりだったのに。
最終コーナー。もう終わりかけていた心と脚。なのに、一同は目を疑った。
逃げのスズカにとって、一番苦しいタイミングだ。切れかけていたエンジンを掛け直したように、加速してみせた。
当の本人も、よく分かっていなかった。もう脚は限界。心臓だってこれでもかと暴れている。
限界を超えたと言うのは簡単だ。きっとこれはそんなんじゃない。最後だから。本当に最後のレースだから、彼が見ているから。彼の想いが胸いっぱいに広がったから。
最終直線。チームスピカの面々の前を走り去っていく。その姿は、誰もが知るサイレンススズカ。真っ直ぐ振る腕。地面を蹴り上げる脚。そしてそのスピード。誰も居ない。先頭の景色を見つめるその表情は、少しだけ穏やかで。
「すげえよ……スズカ……」
彼の呟きとともに、彼女はゴールラインを走り抜けた。スピードを徐々に落としていって、止まる。同時に駆け寄るチームスピカの面々。ハルマと同じように泣いていた。
最後の最後に見せた走り。満身創痍でありながらも、ほんの一瞬だけあの日の姿に戻った。これが本当のレースであれば、きっと負けていた。だとしても、いや、だからこそ。この走りには意義があった。
ひどく懐かしかった。彼女の走りに夢を見せてもらったあの頃を思い出して、また泣きそうになる。だから、彼女に背を向けてその場を去ろうと一歩踏み出す。
スマートフォンにメッセージが来ていた。時間は三十分前。送り主は、サイレンススズカだった。
『終わったら、チームスピカの部室前でお会いできませんか?』
添付された地図を見ながら、申し訳ない気持ちになる。返事を待たずしてレースを走ってくれたと思うと。かと言って、今から返事をするのも可笑しな話である。だから彼は、素直に地図に従った。
トレセン学園は彼が思っていた以上に広くて、地図が無ければ余裕で迷ってしまう。それに街でチラリと見かけるだけのウマ娘が集中していて、違和感が酷かった。
現に今も何人かのウマ娘とすれ違う。その都度怪奇的な視線を送られるが、関係者用のタグをぶら下げているからか、何かを言われるということは無い。とは言っても、一般人の男がこの場にいること自体が異常なのである。
五分ほど歩くと、彼が思っていた以上にこじんまりとした建物が視界に入った。地図と照らし合わせて、確認する。扉には「チームスピカ」の文字。ここで間違いないらしい。
走り終わってすぐ。まだしばらく来ないだろうと彼は近くの木に体を預けた。揺れる風。木々の音色が心地よくて、眠ってしまいそうになる。夢から醒めたはずなのに、まだ彼女の余韻から浮き上がることが出来ない。
「――ハルマ君」
体を震わせて反応すると、声の主はくすくすと笑った。振り返り、彼女と目が合う。サイレンススズカはどこか吹っ切れた顔をしていた。
「良い走りだったよ。ありがとう」
「お礼を言うのは私です」
「え?」
「ハルマ君の声で、体が軽くなったんです。一瞬だけ」
体を半身だけ振り返って、笑う。綺麗な顔だったのに、ハルマは少し寂しそうな表情をした。彼の前を通り過ぎて、部室のドアノブに手を掛けていた。
「着替えてきます」なんて言って、くるりと回してみせるが、ハルマの口から無意識に言葉が漏れた。
「一人で、泣くの?」
今にもドアを引こうとしていた彼女は、思わずその行為をやめてしまった。手を離して、ダラリと垂れる。決して彼の方を向こうとはしない。
「……いえ。ですから、着替えるだけで」
「必死に取り繕った顔をしているのに」
「そんなことは……」
「分かるよ。俺には君の心が」
ハルマの自信あり気な言葉は、サイレンススズカの体に染み込んでいく。無意識のうちにソレをすんなり受け入れた。だからこそ、今彼の顔を見ることは出来ない。
夕焼けに染まった風の色は、二人を暖かく包んで見せた。体に纏わりつく感覚は決して気持ち悪くなくて、むしろ胸の奥の奥。誰もが抱いている本音の部分を優しく包み込んでくれた。
「……やめて、ください」
「やめない。だから言わせてほしい」
「え……」
「本当に、お疲れ様」
ここでようやく。サイレンススズカは半身だけ振り返った。最初の時とは違う。その表情はどこか恐る恐る。でも、ハルマの顔を見て頬の筋肉が緩んだような気がした。
このままだと、すぐに気が抜けてしまう。必死に必死に堪えてきたのに。彼の顔を見ただけで感情が溢れようとするから、彼女は少し目線を落とした。
風が地面を叩いたような気がした。儚くて、ジッと見つめるのはどこか気が引ける。
ハルマは笑った。口角が上がるのを我慢することなく、彼女を見つめた。目を合わせようとしない行動すら可愛くて、愛おしくて。手を伸ばすと、すぐ掴めそうな距離に居るサイレンススズカの心を覗き込む。
「一人で泣くのは寂しいだろ?」
誰も泣くなんて言っていない。その言葉はサイレンススズカの口から出てこない。言っていないからこそ、喉が閉まったのだ。
分かったような口を利く彼の声は、低くて優しくて。全てを包み込んでくれる。まるで雲の海に浸かっているような心地良さ。
体が震える。唇に力が入らなくなってきた。やがて強張っていた全身が、徐々に緩んでいく。せっかく
全部彼のせいだ。彼が居なかったら、こんな恥ずかしい姿を見せる相手も無かったのに。――いや彼が居なかったら、こんな清々しい感情を抱くことも無かった。
右目から。綺麗な一筋の。瞳を上げて、今日初めて彼と目を合わせた。揺れてハッキリと見えない。視界が潤っているせいで、彼が今どんな顔をしているのかすら分からない。
分からないけれど、目を擦ることはしなかった。止めどなく溢れてくる感情から目を背けたわけではない。ただ、自分に素直になったと。
「スズカ――」
潤んだ瞳でもよく分かる。彼が自身の目の前に立っていて、その高い背が包み込んでくれたことを。
初めてだった。嬉しくて、止まらない。止めたいのに止まってくれない。その滴は彼の胸に沁みていく。
「本当に、泣いていいんだ」
それは後悔に近い何かだった。彼女はふと気付いた。「もう走ることがない」という事実が胸の中を飲み込んでいることに。あのレースはその為のもの。分かっていても、終わりというのは儚く居座り続ける。
彼の腕が、サイレンススズカの背中に回った。思っていた以上に細くて、力を入れたら折れてしまうのではないかと思う。それでも彼は、力いっぱいに彼女を抱きしめた。
彼女は泣いた。声を出して泣いた。叫ぶように泣いた。彼の胸に想いを吐き続けた。幼子のようになった少女を、彼はひたすらに包み込んだ。
その涙の意味は、本人もよく分かっていない。色々な感情が混ざり合っているせいで、言葉にするのが難しいのだ。
息が苦しくなっても、涙は止まらない。それどころか、彼の腕の力は強くなっていく。でも妙に心地が良くて――。
熱くなった胸を冷やしてくれる。「終わり」という事実を優しく受け止めてくれる。この感情に名前を付けるのなら何なのだろうと、彼女は考えた。それは彼も同じであった。
――よく分からない。耳を彼の胸に当てると、こんな状況なのに鼓動は落ち着いている。私はこんなにもドキドキしているのに、と。
涙が止まりかけた頃、彼の腕の力がまた強くなった。苦しいのに、苦しくない。大切な存在を手放したくないから。だからこその心理。心の奥底に眠る想い。
「ハルマ……君」
「スズカ」
あの頃の自分。未来に絶望していたあの頃は、決して間違いではない。絶望していたからこそ、互いに出会えることが出来た。
そっと、彼女の腕が彼の背中に回った。しがみつくように抱きしめ返す。それが何なのか。恋心と呼べるものであれば、それでいい。二人してこの夕焼けに埋もれてしまう。
未来がどうなるのか分からない。
ただ今は――。
君の為に。あなたの為に。
――生きたい。
〜新たに評価してくださった皆様(敬称略)〜
・william・白い未栄・黒屋・ちょれぃ!・静刃・バイローフー・murakumo5641・レン零・なめりん・K2W/TAKUTO・御共 子雀・ませう・閑人02・小説大介
ありがとうございました。
【お知らせ】
ハーメルンで「「Umar EATS」の配達員から、トレセン学園にスカウトされたウマ娘の話」を投稿されているayks様主催の『ウマ娘短編企画』に参加させていただくことになりました。
総勢21名の方の作品が8月1日(日)から毎日21時に投稿されます。
ちなみに私の作品は「8月9日(月)」に投稿されますので、是非ご覧ください。