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星が笑う夜だった。
サイレンススズカは、それによく似合う。風景画に溶け込むように、空を見上げる。
今にも落ちてきそうな満天の夜空が、彼女を暖かく包み込んだ。視界に広がる遠い宇宙で燃える星たち。今何を思って、この地球を照らしているのだろうか。
いつも彼が座るベンチ。隣にハルマは居ない。独りぼっちだと、色々と思考が纏まりやすくて、彼女はこの環境が好きだった。
もうすぐすれば、春は終わりを告げる。梅雨になり、夏になり、秋になり、雪に包まれる。そうして、この世界は回っている。スズカもそのサイクルにはすっかり慣れて、この過ごしやすい季節の終わりが寂しくもあった。
彼女の友達には、あの日以来会えていない。連絡先を交換しても、メッセージのやり取りはない。形式上、友達になっただけなのだろうか。
よく分からない感情を、スズカは飲み込むしかなかった。
ただ一つ言えるのは、もう一度彼に会いたい。そのために、今日ここに来たのだから。
約束を交わしたわけではない。一年後の夜桜を見ること以外に、彼とは何もない。
それは寂しくもあり、当然でもあった。一年後の話なんて、覚えていられるかどうかも分からないというのに。
酒に酔ったハルマの咄嗟に出た発言。それを信じている自分が可笑しくて。今に始まったことではないから、スズカも心の中で笑うしかなかった。
この公園は、本当に穴場だった。
都会の喧騒から切り離された世界。丘の上にあるから、街の明かりが美しく空に伸びる。
見上げたら、雲一つない夜空に星が笑う。天体観測にはもってこいの環境。それなのに、今の時間はスズカ一人だけ。それもそのはず。夜といっても、深夜なのだから。
「―――こんな時間に、お一人ですか」
とくん、と静かな世界に響く鼓動。
低い男の声だったから、驚いたのも事実。でもそれは、ほんの一瞬のこと。その鼓動は、希望の鼓動だった。
「あなたこそ」
「お隣、良いですか?」
「はい」
彼の持つビニール袋の中には、何か飲み物が入っていた。
「お酒ですか?」
「いいや。ジュース」
「……珍しいですね」
「まぁ」スズカの隣に腰掛けた彼は、照れ臭そうに人差し指で頬を掻く。
珍しいというほど、会っていない。でも出てきた言葉を否定するほどの材料も彼女は持ち合わせていなかった。
何か特別な理由でもあるのだろうか。彼女の頭の上に浮かぶクエスチョンマークは、無言の圧となって彼に届く。
「今日は、会える気がしたから」
その言葉の意味を、スズカは理解することが出来なかった。会える気がしただけで、どうしてお酒を飲まないのだろう。ここで、煙草を吸いながらお酒を飲むことが、彼の楽しみなのではないか。
スズカの思考は、そこで止まってしまう。
彼としては、一度酒を飲まず、彼女と話をしたかったのだ。アルコールを入れれば、気軽に声かけすることは容易い。でも、三度目の彼女にはソレをする必要がない。不思議と、何度も何度も会っているような感覚がしたのだ。
「たまには、こういう日があったって」
言葉の真意を説明するのが恥ずかしくて、ハルマはそう誤魔化してみせた。
休肝日は必要だよね、なんて付け足してもお酒を飲まないスズカの共感を得るのは難しかったようで。むすっとした顔を彼にぶつけて見せた。
「誤魔化してませんか?」
「まさか。そんなわけないですよ」
「……知りませんっ」
彼から顔を背けて、拗ねたような彼女。
今日は風が鳴かない。まるで眠りについているような静かさで、二人の声が世界によく響いている。
紙パックのオレンジジュースは、驚くほど甘くてハルマの口には合わなかった。このまま煙草を吸ったところで、あまり気持ち良くなれないのは目に見えていた。せっかく一箱買ったのに、と心の中で毒を吐く。
「……いつもこんな時間に一人で」
「まぁ。静かだから、ちょうど良いんですよ」
「寂しくはないのですか」
問いかけた言葉はあまり良い意味じゃない。失礼だったかもしれないと、彼女は彼を見る。
ストローから喉に流れるオレンジ。その度に喉仏がゴクリと動いて、スズカは見惚れてしまう。やがてすぐ、視線を逸らした。
「寂しくないよ」
「一人が好きなのですか?」
「うん。それに今は―――」
風が鳴いた。共鳴するように、自然が揺れる。これまで静かに眠っていたのが嘘のような喧騒。でも人が生み出すソレとは違って、うるささはあまり感じない。
「スズカさんはどう?」
「えっ、さっきは何と……?」
「何も言ってないですよ」
嘘だ。彼女の直感がそう言った。
風は、サイレンススズカにとって生きる意味を感じられる存在なのだ。レース中だってそう。風を切り裂いて、誰よりも前へ、前へ。誰も居ない景色を見るのが、彼女の生きがい。
なのに、今だけは。その風が疎ましく思えた。ソレがなければ、きっと素直に彼の言葉を聞けただろうに。
「……一人は好きです」
「一緒ですね」
スズカは、戸惑っていた。
会話のペースを彼に握られていて、好きなタイミングで好きなことを聞けなくなっている。元々あまり口が上手くない彼女は、この状況を覆すだけのスキルは持ち合わせていない。
でも、心地良くもあった。ペースを握られているだけで、会話のリズムと速度は、彼女好みの落ち着いたモノ。声のトーンも夜中に相応で、このまま眠りについてしまいそうな。
「こんな夜中まで、お仕事をしていたんですか」
そもそもの話。スズカは思う。
もうすぐ日付が変わろうとしている時間帯。そこに、仕事着を来たままやってくる彼の行動が可笑しいのではないか。
レースを引退して時間のある自身とは違い、彼は明日も、明後日も、明明後日も、きっと仕事がある。働かないといけない。
なのに、どうしてこんな時間にここへ。普通なら、早く家に帰って一秒でも長く眠りたいはずなのに。
「無理、してませんか」
だから、彼の返答を待たずして言葉が出てきた。無意識だった。
体を壊してしまわないか、生きるのが億劫になっていないか。心配とまではいかない、気遣い。それが、言葉となって。
「あはは。大丈夫ですよ。ここに来れているので」
シワの強いワイシャツ。歪んだネクタイ。そんな姿で、どうして強がるのだろう。
それがこの、ハルマという男の性格なのか。それとも、男の人はこうなのか。自分が知らないだけで、嘘をついて強がることがカッコいいとでも思っているのか。
スズカの中で、彼への怒りに近い感情が紡がれていく。生まれて初めての感覚が気持ち悪い。でも、今その気持ちを抱いたことは正解な気がした。
「……すごく疲れた顔をしています」
「最近寝不足で」
「だったら早く帰って寝てください」
「それは嫌だなぁ」
「毎日が充実していないからですか」
彼の呼吸が、少しだけ早くなった。
どうして今、そんなことを言うのだろう。そんなこと、一番分かっているのに。彼の中で、日頃のストレスが心の外側に出ようとしていた。
仕事の家の往復だけになりたくないから、せめてもの抵抗。睡眠時間を削ることになっても、何かをしていないと廃人になってしまいそうだったから。
このままだと、彼女に八つ当たりしてしまう。咄嗟にオレンジジュースを流し込む。この甘さがストレスを溶かしてはくれないだろうか、なんて叶いもしない願い。
「ここに来たら、スズカさんに会えるから」
彼は後悔した。
せっかく誤魔化せたのに、こんな形でさっきの言葉を言い直すことになるなんて。
でも、その言葉に嘘は無い。百パーセントの本心である。だから、決して不快な感情にはならなかった。
スズカは後悔した。
怒りに身を任せて、下手に聞き出そうとしたことを。こんなことになるなんて、思いもしなかった。
そんな、真っ直ぐな言葉を言われると何を言い返せば分からなくなる。感謝でもない、否定でも無い、いい塩梅の言葉が見つからなくて、彼女は黙り込むしかなかった。
月が二人を見守っている。
すごく綺麗に光り輝いていて、この世界に安心感を与えてくれる。意識せずとも、たしかにあるその存在感は、二人にも十分に伝わっていた。
「生きるって、すごく疲れますよね」
そう、そうなのだ。
スズカが彼に声を掛けたのは、今にも死んでしまいそうな雰囲気と顔。それが放っておけなくて。
今まさに、彼はあの時のような顔をしている。寂しくて、生きることに絶望している顔を。酒を飲んでいた前回、前々回とは全然ちがう。まるで別人であった。
だから彼は、酒に逃げていたのだ。
逃げる、という表現が正しいとは限らない。酒を摂取することで、自我を保っていた。ある意味、彼も必死に生きている。生きようとしている。その証拠に、ここに来ていたのではないか。
仮説にすぎない。スズカだけのもしもの話。彼女としては、それが本当であって欲しくなかった。そんな悲しい人生を送って欲しくない。このハルマという男は、スズカにそう思わせるだけの魅力があった。
「―――ち」
「えっ?」
「お友達……! 私たちは、お友達、ですよね?」
突然何を言い出すのだろう。驚いて間抜け顔になりながらも、彼はうなずく。
「だったら、もっと、もっと……!」
それは、あまりにも不思議な感情だった。
彼女が必死に言葉を紡ごうとしている。その姿を見るだけで、疲れが抜けていく。
走馬灯のように、これまでの彼女のレースが頭をよぎる。誰よりも速くて、風を切ったサイレンススズカ。
そんな彼女が、今目の前で。自身に向けて言葉を放とうとしている。ハルマは、目を潤ませながら自身の目を見つめてくる彼女から目を逸らせなかった。
「私を、頼ってください」
走ることしか知らない自身に、何が出来るのか。たかが知れていた。それでも、そう言いたくなった。彼に言ってあげたかった。
もう彼をレースで励ますことは出来ない。だから、言葉を投げかけることしかない。ウマ娘としてではなく、サイレンススズカとして何が出来るかを。
震える肩、唇、声。
こんなことを他のウマ娘に言ったことがあっただろうか。まして、男の人になんて。
言い切った後で良かったと思ったのは一瞬で、彼に何と言われるか怖くて怖くて。震えが止まらなかったのである。
「―――優しいですね」
「か、揶揄ってます……?」
「そんなんじゃありません」
彼は憑き物が取れたように、スッキリとした顔をしていた。スズカは少しだけ安心する。
「ありがとう」
言い切れたことに、ハルマは安堵した。
心臓が痛くて痛くてたまらない。たった一言。何度も何度も何度も、生きてきて言い慣れた言葉なのに。
スズカに向けて言うこの瞬間だけは、喉が閉まろうと必死になって。全身の血液が沸騰しているように熱い。夏はまだなのに、背中は汗ばんでいて気色が悪かった。
「約束を、しませんか」
「約束、ですか」
彼女の突飛な提案。ハルマは少し考える。
自身も彼女に花見をしようなんて言ったばかりに、断るのも気が引けたようだ。うなずいて、スズカの言葉を待った。
「辛くなったら、この場所に来てください」
「………居てくれるんですか」
「はい。きっと、ハルマ君が辛い時は、私が居ます」
二人は連絡先を交換している。メッセージでやり取りすればここじゃなくてもいい。
しかし、スズカとハルマにとって、この場所は特別だった。ここで、二人で話すことに意味がある。それを彼女は理解していたから、そう言ったのだ。
「……だったら俺も一つ。約束してください」
「はい」
「毎日、待つことだけはやめてください。俺が来ない日もありますから」
「……………はい」
「まさか、そのつもりでした?」
バツが悪そうに顔を背ける彼女。その行動力というのは悪い意味で突飛。ハルマも、釘を刺しておいて良かったと安堵した。
でもそれは、タイミングが合わないと彼女には会えないという意味でもある。
彼は、それで良かった。国民的なスーパースターのサイレンススズカとこうして話せただけで奇跡なのだから。分かっていたから、彼女の言ったことを受け入れた。彼女に釘を刺した。
そうじゃないと、きっと。
「約束したのに、会う日が分からないって、なんか可笑しいですよね」
「ふふっ。そうですね」
空を見上げる。
二人して、星に願う。二人の時はいつも星が綺麗な日。月が綺麗な日。すごく美しくて、浮世離れしている日。
「こういうのを、こう言うんですよね」
「えっ?」
「運命、だって」
彼の右手に力が込められた。ギュッと何かを潰してしまったような感覚。
紙パックのオレンジジュース。ストローが刺さったまま、握ったまま。
飲み干しておいて良かった。
なんて、彼は笑った。
新たに評価してくださった皆様(敬称略)
・Sobek ・紅朱雀 ・オトゥール・水凛
ありがとうございました。
今後も定期的にご紹介させていただきます。