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今回は少し短めです。
星が見えない夜だった。
梅雨真っ只中で、空気は重い。鉛のような匂いを醸し出しているような気がして、ハルマは気分が落ち着かない。
夜空は雲に覆われていて、今にも涙を流してしまいそう。彼自身の心を映し出しているようで、見上げるのを躊躇った。
久しく会っていないサイレンススズカのことを考えながら、煙草をふかす。紙煙草独特の強い匂い。彼女には毒だと知っていても、やめられそうにない。
口と指に染み込んだソレは、ストレスを上塗りする。でも時間が経てば、すぐに剥がれ落ちてしまう。だから何度も、彼は煙草に手を伸ばすのだ。
生ぬるい風。煙草の煙は天に届くことなく、風に吹かれて消えていく。自分の人生を表しているような光景。彼は鼻で自嘲した。
携帯用灰皿に押し潰しても、どうせまたすぐ使うことになる。ポケットにしまうことなく、ベンチに投げ置いた。
あんな約束をしてしまったせいか、彼はこの場所に来ることを躊躇うようになった。
辛くなったら、の前置きが妙に恥ずかしくなったのだ。事実、これまではそうしていた。でもそれは、彼女に伝える必要のないモノ。自分の中だけで完結していたから、スズカの顔色を伺う必要なんて無かった。
でも、これからはきっと違う。
彼女は彼女なりに、彼の話を聞いてくれるだろう。必死に言葉を投げかけてくれるだろう。ソレは全て、サイレンススズカの優しさ、思いやりなのだ。
重いわけはない。嬉しいのだ。ハルマ自身、そう思う自分とは裏腹に、どうしても自分を卑下する感情を捨てられなかった。
自分なんかがサイレンススズカの隣にいるなんて。どうせこんな自分なんか。
普通に大学を卒業して、中小企業に就職したハルマにとって、彼女はあまりにも眩しすぎるのだ。人間とウマ娘の違いを差し置いても、生きてきた世界が違う。
誰よりも速く、誰よりも前へ。
サイレンススズカは、常に誰も居ない景色を眺めていた。そして、きっと引退した今でも。
彼の人生は、正反対だ。
常に誰かの背中を追いかけて、つまずいて、転んで、起き上がって、また転んで。その繰り返し。もう、起き上がる気力すら無くなっていた。
「………………辛いなぁ」
つぶやく。この感情を、こんな言葉でしか紡げない自分が情けなかった。
本当は、もっと言いたいことがある。それは彼自身が一番よく理解している。だからこそ、攻撃的な言葉じゃないコレが出てきたのが分からなくて。
二十代も終わりかけの彼にとって、一番難しいタイミングでもあった。
人並みに恋愛もして、人並みに失恋もして。仕事では成功も失敗も経験した。残ったのは、自分という存在だけ。家と職場の往復になってしまった。プライベートの時間なんてのは、ほとんどない。
職場が好きで入社しただけで、職場の人間なんてのはどうでもいい。だがそれで上手くいくほどこの世界は単純でもないのだ。
人間関係は、人が死ぬまで解決することのできない課題である。人付き合いで体調を崩すほど悩む人だって大勢いる。嫌だからやりたくない、では人間生きていけない。
生まれたくてこの世に生を受けた人間は、まずいないだろう。生まれた瞬間から死に向かって歩みを進めている中で、人は生きる意味を見出していく。でも、見出して死んでいく人はどれだけいるか。まだ若いハルマには見当もつかないのが現実である。
ストレスに被せたケムリの膜が剥がれそうだ。吸ったばかりだというのに、彼は再び煙草に火を付ける。いつもより強く吸ってみると、それだけ気持ちが楽になったような錯覚を受けた。
「……………スズカ」
明日は、数少ない休みだ。今日ぐらいはのんびり出来るだろうと、真っ先に浮かんだこの公園。約束のことがあっても、今日だけはここに来ないといけない気がしたのだ。
案の定、彼女は居なかった。居なくて良かった。そう思ったのは一瞬で、居てほしかったと思うようになった心に、彼は背を向けた。
ただハルマとしては、毎日居る方が気が引ける。しっかりと約束を守っているようで、安心したのも事実である。
「……………スズカ……」
ハルマの近くに頼れる人間は居なかった。
ずっと一人だった。両親とはしばらく会っていない。大学だって新聞奨学生で入学したから、友達と呼べる人間も居ない。
ずっと、ずっと一人だった。
それで良かった。それが普通だったから。そんな人生でも、ウマ娘のレースを見ては励まされるし、涙することだってある。
ウマ娘のおかげで、しっかり感情があるんだと実感することが出来ていた。
そんな彼に、大きな変化が訪れた。
一つは、サイレンススズカの引退。
一つは、サイレンススズカが友達。
ぶっちぎってレースを制す彼女が、純粋に好きだった。あの爽快感というのは、何物にも変え難い快感。当の本人もそうだが、最初から最後まで逃げ切ることができる彼女のスピードが、とにかく好きだった。
そんな彼女と、友達になってしまった。
スズカの引退はとにかくショックで、気力を失いかけていた彼にとって、また一つの衝撃。
ただ、嬉しさよりも戸惑いの方が大きい。あまりにも衝撃的すぎて、正しい感情が理解できないのが彼の本音だ。
でも、存在を知ってしまった。
その重要性を。誰かに弱音をぶつけることで、こんなにも胸が軽くなるものなのかと。
今、彼女が隣に居たら。何を言ってくれるだろうか。勝手に考えたところで、出てくるのは納得できないことばかり。
「……………連絡先」
交換しておいて良かった、とは続かず。
いつのまにか傷だらけになっていたスマートフォン。日常に溶け込みすぎて気づくことが無かった事実。買い換えないとなぁ、なんて笑ってみる。力なき。
連絡先には確かにサイレンススズカの名前。でもそれをタップして、電話を掛ける気にはなれない。メッセージを送ることすらも躊躇う。
もうこんな時間だ。彼女だってきっと眠っているに違いない。単純に迷惑な話でしかないのだから。
根元まで吸いすぎた煙草を灰皿に押し付ける。せっかく買った缶ビールだったが、不思議と飲む気にはなれなかった。
星も見えない。月も鉛のような雲に隠されてその輝きを失くしている。哀れで寂しい空。気分は晴れない。この公園に来て、はじめての感情だった。
サイレンススズカ
彼はスマートフォンのブラウザに名前を打ち込む。なんとなく、彼女のことをもっと知りたくなったらしく。
出てくるのは輝かしい功績たち。簡単なプロフィールはもちろん、過去に受けたインタビュー記事だって出てきた。
そもそも、どうして?
どうして、彼女は走ることを止めたのだろう。
考えもしなかった思考。酒を飲んでなくて良かったと実感した感情。スズカが引退した理由を、彼は知らなかった。
大手マスコミのインタビュー記事を読み返す。引退後の生活に触れているだけで、引退を決意した明確な理由には触れていない。
彼女のスピードに、脚が限界を迎えたとしたら、ハルマにも想像がつく。なおかつ、彼が一番納得できる理由でもある。
ただ、引退レースの快走を見る限りだと、まだまだ出来そうにも見えたのだ。
あぁ、よく分からない。考えれば考えるほどに。思考力が低下しているようで、ハルマのストレスが高まる。
もう一度、もう一度。煙草に手を伸ばすが、そんな彼を嘲笑うように、クシャッとした音だけが夜に響いた。さっきので最後だったようで、ハルマは分かりやすくため息。盛大な。
(……帰るか)
コンビニで煙草を買って、帰ろう。彼は立ち上がって、思い切り背伸びをする。
来た時と比べて、辛さというのは変わらないまま。むしろ気が重くなったような感覚すらあった。
一つ息を吐いて、俯きながら振り返る。一歩二歩、歩いたところで顔を上げた。
「あ………」
時が止まった。ピタリと風が止んで、彼と彼女の二人だけの世界に迷い込んだよう。
サイレンススズカは、帰ろうとする彼を見て驚いた顔をしている。何というタイミングだろうか。久々に見た彼女は、いつもより綺麗になっていた。
「スズカ……さん」
たまらず、ハルマは声をかけた。完全に油断していたせいか、声に覇気はない。探り探り。もっといい言葉があっただろうに、なんて自嘲する余裕はあった。
「よかった」
スズカは、泣きそうな顔で笑った。
この夜にはもったいないぐらい綺麗で、儚い微笑み。寂しさを隠すような、嘘。
あまりにもそれは、疲れ切った彼には似合わない。
新たに評価してくださった皆様(敬称略)
・bb-mutsu・Hey,sorry・izu・カプチェンコ・Mak
ありがとうございました。