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東京都府中市。東京レース場には、今日もウマ娘のレースを見ようと大勢の人が集まっていた。入り口付近では、胸の高鳴りを抑えきれない老若男女が夢を語り合う。まさか近くにあのウマ娘が居るなんて思ってもいないようだ。
ハルマとの約束のため、サイレンススズカは木の陰で一人。その存在感は消えない。だが、その虚な瞳が人々の認識から切り離している。
ドクン、ドクンと心臓が跳ねる。思い出すあの歓声、あの熱狂。この行き交う人々が皆、自身のために声を上げてくれたあの日。蘇ってくるあの快感は、今のこの体には重い。
「ごめん! 待った?」
「いえ。私が早く来すぎただけです。ハルマ君だって、約束より早いですよ?」
「待たせるわけにはいかないから。先越されたけどね」
ハルマは、フォーマルとカジュアルの中間のような、上品な格好をしていた。無地のグレーTシャツに、夏用の薄いジャケットを羽織っている。花火をした夜とは違って、まさにデート用のお洒落だ。
デートなんて言われると、意識しなくても胸が高鳴ってしまう。下手な格好はできないから、スズカだって気を遣って。花柄のワンピースなんて着て見せた。
「似合うね。そのワンピース」
「そ、そうでしょうか……」
それを褒められれば、高鳴る胸は止まらない。ワンピースの下から風が吹くような気がして、無意識にキュッと抑える。
「行こうか」彼はそんなスズカを促すように前を歩き始めた。こんなにも自分はドキドキしているのに、普段と変わらない彼の姿。話し方。声のトーン。
慣れている。女の人と一緒に歩くことに。
不思議な不快感が彼女の胸を覆う。ワンピースを抑える手に力が込められる。
「賑やかなのは、苦手?」
「えっ……?」
「顔に出てるよ」
スズカは、一歩前を歩く彼に必死に付いていく。ごちゃごちゃした空気は好きじゃない。誰かが前に居る景色は美しくない。
それなのに、ハルマの背中を見るだけで安心する自分が居たのだ。そして、それを言い当てた嬉しさで微笑む彼がまた。
「ごめんね。なんとなくそんな気がしてたんだけど」
夏の太陽はこんなにも暑いのかと、彼女は額に浮かんだ汗を優しく拭う。思えば、夜以外に彼と会うのはこれが初めて。土曜日の昼間ということもあり、街中は賑やかだった。
人混みに溶け込むのは容易い。ここから浮き上がるのは難しい。だから人は楽な方を選ぶ。この人混みを切り裂くようなマネはせず、ただ素直に流れに乗っていく。
「あ、あの……」
「どうした?」
「これからどこに?」
「映画でもどうかなって」
映画館なら、府中駅のすぐ近くにある。わざわざ東京レース場に集まるよりも、駅集合にした方が効率的だった。
その時点で、彼が何を考えているのかが分からない。何の意図を持って、あの場所に。レースを見るならまだしも、場内に足を踏み入れることすらしない。
不信感とまではいかないが、何か隠し事をされているようで、スズカは立ち止まった。偶然にも、人混みを抜けた後だった。
「どうだった? 久々のレース場の雰囲気は」
「……それを聞くためですか。たったそれだけのために、あの場所に」
「たったそれだけ、じゃないよ」
胸を針で突かれたような、違和感。
ハルマの発言はまさに、彼女が背き続けた感情を肯定するもの。レッテルを強く剥がそうとする、事実のツルギ。喉元に突き出されている気がして、息苦しい。
「あの場所に居る人はみんな、夢を見ているんだよ」
「夢……ですか」
「ウマ娘たちが織りなす夢。俺だって、そうだったんだから」
筋書きのないストーリーに、人々は想いを馳せたのだ。サイレンススズカだって、再起不能かと言われた骨折から蘇ったこともある。
その時は、ウマ娘仲間だけでない。人々の叫び声に近い歓声を全身に浴びた。魂が震え上がるような熱い咆哮。実戦から離れたあの時間の苦しみが吹き飛ぶような強風を、全身で受け止めた。
神様が存在するのなら、あまりにも酷なことをする。もう走れないというのに、あの感覚を思い出してしまったら。心の奥底に眠っていた本能を呼び覚ましてしまう。
「君の居場所は、あの夜じゃないよ」
振り返った彼の顔は、悲しそうだった。
そのくせ、どうして突き放すような言葉を投げたのだろう。スズカの揺れる瞳に、今の彼はすごく哀れで、憂鬱な夏の感情。
「どうしてそんなことを……言うんですか」
「君は、人に夢を与えることができるウマ娘だから」
「わたし……は」
「もっと、ウマ娘のために出来ることがあると思う。きっと」
スズカの実力とカリスマ性があれば、後進の育成に携わることも容易だ。ハルマがずっと抱いていた思い。ウマ娘としての生き方を全うしてほしいという、厚かましいほどの思い。
この夏の終わり。太陽の日差しを浴びながら、自身の胸元までしかない小さな彼女に向かって、ついに吐き出した。
でも、それは。
「ハルマ君は……どうなるんですか」
「……俺は」
「私が公園に行かなくなったら、また独りぼっちになるんですか」
「あはは。どうだろうね」
ハルマは笑う。軽く、他人事のように。
どうでも良いのだ。もう。自分のことなんてどうなっても良い。下手に振り切れすぎた彼の感情は、態度となってあからさまに出てくるようになっていた。
それだけ、追い詰められていた。日々の生活を送るだけで、そのストレスは溜まっていく一方。彼女と過ごすひとときが希望になっていても、その時だけ。
だから、スズカには受け流してほしかった。適当に笑っていてほしかった。何も言わず、心の中に足を踏み入れないでほしかった。
「誤魔化さないでくださいっ!!」
サイレンススズカに、それは出来なかった。
ちょうど車が二人の隣を走り去って。風とエンジン音が周囲を包んだというのに。彼女の声は、はっきりと、ハルマの耳に、頭に、心に響いた。
「スズ……カ?」
あのサイレンススズカが、声を荒げた。俯いたまま、左手を胸の前で握りしめたまま。その小さな肩が震えている。怯えている。心の中に灯っている小さな炎が消えそうになっている。
「どうして……。ねぇ、どうして?」
「……」
「笑っているのに、そんな悲しい顔をするの?」
真っ暗な景色。彼女の目の前には、悲しいくせに必死に笑う彼が居る。強がる彼に、スズカはそんなありきたりな言葉しか投げられなかった。
ハルマは、問いかけの意味を考えていた。
悲しい顔、そんなつもりは無かった。もっと笑顔で、優しくそう言うつもりだった。でも、悲しかった。寂しかった。離したくなかった。
太陽のようなサイレンススズカに出会って、心の中が照らされた。深い闇に居たあの夜に、光が差し込んだ。
でも、それじゃダメなのだ。
彼女のような存在は、自身と一緒に居るべきではない。もう、この世界に別れを告げようとしている男の側に居るべきではない。
もう少し生きてみる、なんて言っても人の心はそう簡単に変わらない。
感情には波がある。常に揺れ動き、目の前の出来事や記憶に触れることで高くなったり、穏やかになったり。
人もウマ娘も同じ。その時はそう思っていても、すぐに次の波がやってくる。ハルマの場合は、それが人よりも多くて揺れ幅が大きい。
「悲しくなんか無いんだ」
「嘘です……。本当のことを言ってください」
「嘘……なんかじゃない。君と花火だって出来たし、それにこれから映画だって観れる」
「それで、ハルマ君は明日も居ますか。明後日も、一週間後も、一ヶ月後も、一年後も、あの場所に居てくれますか」
言葉の弾丸に身を任せ、一歩、スズカは彼に近づく。
高い背、広い胸板。微かに残る煙草の匂い。それも全て彼だ。高鳴る胸が痛くて、下がりたくなる。だけど、彼女はもう一歩、彼に近づいてみせた。
手を伸ばせば、届く距離。彼は掴んでくれるだろうか。それが分からないから、ただジッと、ハルマの顔を見つめる。見上げる。
言葉の弾丸を受けた彼は、あからさまに狼狽えた。居る、という確信が無くて。そう言えば、彼女に嘘を吐くことになるから。
スズカは、彼が思っていた以上に小さい子だった。このまま強く抱きしめてしまえば、折れてしまうのではないかと思うほど。
それが、彼の本心でもあった。でも、抱きしめてしまえば、きっともう。突き放すことは出来ない。心を鬼にして、彼女から視線を逸らす。
「私が居ると、迷惑ですか」
「……迷惑、だなんてそんな」
彼は、すぐに否定した。
スズカのため、自身のため。それを考えたら、嘘を吐くべきだと分かっていたのに。彼女の綺麗な顔、綺麗な髪、綺麗な服。そして、安心する彼女の匂い。
この独特の空気。夏の終わりを忘れさせるような二人だけの世界。ハルマに彼女を突き放すことなんて、出来るわけがなかった。
雲が太陽を隠す。ハルマが本心を隠そうとするように。青く広がり、世界を包み込むこの空は、二人の心を覗き込んでいるように眩しく光る。
「君は希望だよ。引退した今でも、それは変わらない」
出会った時にも、同じことを言った。
でも、その時より意味が重くなっていることに、彼は心のどこかで気付いていた。
「私は、あなたを照らしていたい」
いつの日か、同じことを言った。
でも、その時より意味が深くなっていることに、彼女は心のどこかで気付いていた。
風が吹く。強く二人の体を包む。
互いの匂いが届く。服に染み込んだ煙草の煙と、彼には甘すぎる彼女の香り。
太陽を隠していた雲が晴れて、また二人を照らす。熱っぽさ。暑いのに、スズカの視線から目を逸らさない不思議な魅力がハルマの心を侵していく。
「……映画、時間になっちゃうから」
「あ、ハルマ君……!」
彼女から逃げるように、彼は背を向けて歩き出す。咄嗟に彼女は、それを食い止める。
「す、スズカ?」
彼の手首を掴む彼女の小さな手。でもそこには必死の力が込められていて、ハルマが振り払う気力を無くすような、不思議な力が働いていた。
スズカの手は冷たかった。こんなに暑いのに、先の見えない胸中を表しているようで。彼の暖かすぎる手は敏感に反応する。
「命を捨てようとするお友達のことを、守りたいと思うのは、不自然ですか」
「……」
「生きていて欲しいと思うのは、いけないことですか」
冷たい手から流れ込む暖かさ。
血流が良くなったように、それは全身に広がる。熱っぽさは無くて、ふわふわと宙に浮いているような感覚だった。
「それに、約束したじゃないですか」
「約束……?」
「夜桜を見ようって」
つい数ヶ月前なのに、遠い遠い昔のことのようだった。言われるまで、記憶の谷間に落ちていたなんて、彼は言えずに目を逸らす。
でも、言ったことは覚えていた。酒に酔って、来年こそは二人で花見をしようなんて。今なら言えるだろうか。酒を飲まずに。
「……言った」
「約束を破るんですか」
「破ったらどうなる……?」
「思い切り蹴っちゃうかもしれません」
「目が本気だよ……」
ウマ娘に本気で蹴られたら、人は死んでしまうだろう。それを平気で言う彼女が少し可笑しくて、込み上げてくる微笑みを堪えることが出来なかった。
「手、離さなくていいの? このまま歩く?」
「こ、これはその! そういうわけじゃなくて……!」
「あはは。慌てすぎだよ」
「は、ハルマ君が変なことを言うから……!」
サイレンススズカは、まさに太陽であった。心を照らし、暖かな気持ちにしてくれる存在。だからこそ、彼女の側に居るわけにはいかない。手放したくなくなるから。
太陽だからこそ、すべての生き物を照らすのだ。彼が特別だから、なんていうのは無くて。ただただ放っておけない。それだけだと、スズカは言い聞かせる。
「辛くなったら、私に言ってください」
「スズカ」
「私も、ハルマ君に助けられてますから」
「それこそ嘘だ。何もしてないよ」
「いいえ。してるんです」
もしも。彼女が隣に居てくれたら。
これから先も、ずっと隣で、歩いてくれたら。胸が痛い。心臓が跳ねて、脈打つ。
スズカは何を思っているのだろう。今この瞬間、どんな景色を見ながら隣に居てくれるのだろう。
「逃げても、いいのかな」
あまりにも弱い言葉は、スズカの耳に届かない。
でも、彼の心の中で何かが変わったのも確かだった。
新たに評価してくださった皆様(敬称略)
・Laupe・なつなつ・バタ水・橘菘・プリモルーチェ・いのり・神無月真那・同志アラーリン
ありがとうございました。